(3)活動指令 ファイルⅠ:あなた探し ①
活動指令 ファイルⅠ:あなた探し
命を救う。そのために最も大切なことは、狙いを定めた相手のことをよく知ることである。モンドとサブは管理官の発案どおりに、移民局の時間コントロールマシンを使って、つい先ほど机上のモニターで垣間見た現在よりも数カ月だけ過去のこの世に戻ってきた。どんな経緯があってうら若き娘が今日という日を迎えたのか、それをこの目で見るために。
住まいは決まっていない。どんな暮らしをしようとも、風邪をひくことがなければ、疲れを溜めて体を壊すこともない。今日は九段の武道館、明日は都庁の展望室と、勝手気ままに泊まり歩いた。
昨日までの記録破りの猛暑が嘘のように、吹き付ける朝の雨が冷たくさえ感じられる。七時のニュースが、「これからは日に日に気温が下がって、駆け足で秋の彩りを深めてゆくでしょう」と伝えていた。
東京は皇居の御堀端からも程近い、千代田区三番町のオフィスビル。降りしきる雨粒にも乱れることのない足取りで、レインコートの襟を立てたうら若き女性がやって来る。現代版、小股の切れ上がったいい女といったところか。水沢百合である。
『モンドのアニキ、やってきやしたぜ』
濡れたジャケットの肩にとまった雨の滴を、ピンと伸ばした中指の腹で撫でるように払いながら、「秋かあ。実りの秋に読書の秋、そして食欲の秋・・・。これで、長かった汗みどろの夏ともやっと手が切れるわ。こんちくしょう、ずいぶん待たせやがって。それにしても、もう少し穏やかに季節って変われないものなのかしら。ああ、やだやだ」と、思うがままを口にしている。
開き続けていたエントランスホールのガラス扉が、呑み込んだ人の流れが途切れると、誰の手も添えられていないというのに両側から閉じられた。潜み入る空気の流れが絞り込まれてヒュ~ッと、笛というには余りにも苦しげな音をたてた。
「まるで、死ぬ間際の断末魔のようだわ」と、実際には耳にしたこともない音に準えて、百合が風の行く先に目を走らせる。
モンドもサブを従えて、閉まりきる直前の隙を突いて、ビルの中にもぐり込んだ。
危うく閉め出されそうになったサブが、「不思議なこともあるものだ」と目をパチクリさせては、人の動きに合わせて開閉を繰り返す大きなガラス扉を見詰めている。舗道に弾ける水しぶきの音も、最早ここまでは届かない。程なく、人が列をなしていた目の前の壁が、これもまた音もなく左右に分かれた。ひと固まりの人の群れが、その先の小さな小部屋に吸い込まれてゆく。
「何と、これがこの時代のリフトですか」
モンドは気取ったつもりで言ってみたのだが、サブにさえ「何すかそれ」と言われる始末。湧き起こる興奮は、隠しきれない。さすがのモンドも目を丸くしていた。既に、浅草の凌雲閣でも乗ることができたとは聞いていた。その後、中央の銀行などにも設置されたということも知っている。見るだけならと行ってみたこともあるが、ガチャガチャ、ズーンとやかましさに腰が引けて、とても乗る気にはなれなかった。それに、何処も故障が絶えず、動いていることの方が稀だった。それが、この時代には大小の違いはあれど殆どのビルに取り付けられているというのだから、驚くばかり。時代の華とさえ言われたエレベーターガール モンドは、今でもリフトガールと呼べばよいのにと思っているのだが の姿は、近頃では百貨店でさえ見ることが珍しくなったとか。そんなことも、管理官に渡された資料で知った。
乗り込もうとする人の流れの横で、警備員室のテレビが、中国地方で発生した土石流の凄まじい被害の様子を伝えていた。
「また、沢山の人が死んじゃったのかしら」
手櫛を当てて、髪を左右に振り分ける。こうなると、最早恵みの雨などと言って浮かれてもいられなかった。同じ雨によって与えられる恩と仇。この時代でも、人は自然の前には無力だった。モンドは、延々と続くあの天の行列を、案じないではいられなかった。
「それにしても、このよそよそしさは何でしょう」
「誰も口をききゃしない。これじゃ、葬式よりひでえや」
そんなふたりの声も、もちろん、周りの人間にまでは届かない。
雨に洗われる街の様子に気をとられて、サブが僅かに出遅れた。気が付いたときには、目の前の人の姿さえなくなっていた。この時代の人の動きに、まったくついていけていない。何故かは知らず、誰もがスタスタと急ぎ足だ。慌ただしいというのとは違って、いつでもどこでも機敏な身のこなしで人の間を擦り抜けるように歩く。それも、騒ぐことなく。
慌てて、サブもドアの隙間に身を滑らせた。が・・・、少しばかり遅すぎた。両側から音もなく迫り来る内側の扉に、挟まれた。それでも、実体のないサブはセンサーに感知されない。エレベーターは、そのまま上昇を開始した。
中は、間接照明が深いグレーの壁に穏やかなグラデーションを浮き上がらせる、二畳ほどの窓のない小さな部屋になっていた。モンドが鼻の上で下がりかかった丸眼鏡を中指の先で押し上げながら、「最近のリフトは随分あっさりとした造りになってるのですね。日本橋白木屋さんのものなどは、磨き込まれた真鍮の格子戸が、有り難そうな雰囲気を醸し出していたものですが」と、難癖とも取られかねないひと言を口にした。
百合が、エレベーターの動きを示す数字の点滅を見上げている。最初にドアが開いた四階で降りた。左側の事務所へと続く通路を進む。モンドは、追おうとしたがサブの姿が見当たらないことに気がついた。何やら、床のカーペットが波打つように揺れている。見れば、両側から扉に挟まれていたサブの体が、皺の寄った昆布のように横たわっている。その上を、何人ものサラリーマンが通り過ぎて行った。
「なんとまあ、無礼な人たちなのでしょう」
今では朝夕何処でも繰り広げられているラッシュアワーというものを経験したことがないモンドには、まるで気違い沙汰のように思えるのだった。右手の指先でツイードのスーツの胸ポケットの辺りを二度ほど軽く払って、声をかけた。
「さあ、いい加減にして、立ち上がったらどうです。次のが来たら、また踏まれてしまいますよ」と、手をサブに差し伸べる。
「なんだか、人の心が通わない時代になっちまったようで、寂しいよなぁ」
サブは、ゆらゆらと揺れるように立ち上がり、頼りない足取りでモンドと並んでオフィスの中に入っていった。
「たしかに、わたくしたちの頃とは随分と違うようです」
モンドもサブも、これから始まる仕事は一筋縄ではいかないかも知れないと、感じはじめていた。
(一)
壁際に並ぶ、ベージュのスチール製キャビネット。モンドとサブは、その上に腰掛けた。
幾何学模様にパーティションで区切られたオフィスの中は、明るくて見晴らしが良かった。誰もが何も言わずに、デスクの上に置かれた四角い画面を見つめている。聞こえるのは、長方形の板の上に並ぶアルファベットや数字が記されたボタンを叩くカタカタいう音だけだった。
「これが、管理官が言っていたオフィス・コンピュータ・ネットワークというやつですね」
感心しながらモニターに浮かぶ文字や画像を目で追っているモンドの横で、サブが人には聞こえぬ声で百合に話しかけていた。
「よう姉ちゃん、これから宜しくな。ところで、あんた何をそんなにイラついてるんだよ。もっと楽しくやろうぜ」
モンドの目にも、吊り上がった百合の目は恐ろしく見えた。
「バカ者どもが」
いい大人が、朝から子供のように菓子パンをかじりながらコンピュータのモニターに釘付けとなっているのが、許せないようだった。
「そういえば、あの管理官も言っていましたね。この時代の若者は、大人になっても戯画や自動双六なんかに現を抜かしているって。おそらく、これもその内の一つなのでしょう」
見れば、飽きもせずに極彩色が弾け飛ぶ対戦ゲームに打ち興じている。その姿は、モンドの目にも異常というより情け無いものにしか見えなかった。どうにか弾丸が飛び交う音や奇妙な叫び声だけは聞こえないようにしているが、その分カタカタとキーボードをたたく乾いた音が耳につく。
「どうしてあたしを社長にしてくれないのかしら。そうすれば、全員クビにしてやるのに」
睨み付ける目に、容赦はなかった。
「仕事で文字を打ち込む時にはつっかえつっかえにしか動かない指先が、こういう時には目にも止まらぬ速さで踊りだすんだから」と、攻撃の手を緩めない。
きっと、毎日のようにそんな姿をさらしている彼らのことを、他人には同じ会社の仲間と言わなければならないことが、百合には我慢ならなかったのだろう。だから、どうせなら聞こえてくれないものかと、非難のことばも声に出すことをためらわないのだ。それに、この中には、自分以上の高給取りもいる。
「救いようのないイカレポンチ」と、絞り出すように口にした言葉を、その背中へと投げつけた。百合は、速歩で壁際の通路を抜けた。扉の上に『喫煙ルーム』と表示された部屋が、行き先だった。そういえば、自分の席でタバコを吸っている者などひとりもいない。道すがら、くわえタバコを目にすることもなかった。
「なるほど、そういうことですか」
どういう理由でか、そしていつからはじまったことかは知らないが、公共の場所でタバコを吸ってはいけないということになっているようだ。どうやら、会社に限らず駅や食堂、都心では道路上までもが禁煙に定められているようだった。
「それでも、ここでしか吸えないからという理由だけで、この姉ちゃん、この部屋にやって来たってわけじゃなさそうでやんすよね」
「サブ、さすがですね。おまえもそう思いますか」
そのたばこ部屋では、いつか波止場で目にしたスクリューにも似たものが、年がら年中低くこもったような音を立てて回っている。閉所恐怖症に限らず、窓の無いこの部屋の居心地がよいはずはなかった。それでも、来ないではいられないわけがある。モンドにも、百合の気持ちがよくわかった。サブも、「あんなじゃ、姉ちゃんとしてもやってられないわなあ」と、頷いている。
もちろん、会社でたばこを吸うのが百合ひとりだけ、というわけではない。それでも始業前のこの時間、喫煙ルームに入ってくる者は百合以外にいなかった。それなのに、おかしなもので九時のチャイムが鳴ると、それを合図にこの部屋を出て仕事を始める百合と入れ替わりに、何人かの喫煙社員が入ってくる。たった今までコンピュータゲームに取り憑かれたように目を剥いていたあの連中が、である。会社を何だと思っているのか。百合は、「仕事をしろ」と、眉をひそめて彼らの背中を見送った。
「ここのところ、毎朝ですな」
百合の一本気を象徴するような、グレーの細いストライプが入った真っ白なシャツブラウス。その背中へ向けて発せられたことばであることは間違いなかった。笑い声に交じって、「タバコ好きの女っていうのも、何だかなあ」という声まで聞こえる。これには、さすがの百合も我慢ができなかったのだろう。絞り出すように、「ホントは、たばこなんか好きじゃないんだよ。それでも毎朝吸わずにいられないのはどうしてだか、考えてみろ。このボケが」と捨て台詞のようなひとことを吐いて、席に着いた。聞こえたって構わない。そんな覚悟の込められた声だった。握った拳が、ブルブルと震えている。
モンドは、手元のファイルを広げて、百合のこれまでのキャリアを再確認してみることにした。
どうやらここは、百合にとって二つ目の会社のようだった。いわゆる転職先というやつだ。まだ、移って来てから四カ月と日が浅い。
それまでは、国産自動車メーカーで商品企画を担当していた。とはいえ、元々自動車が好きだったから、というわけではない。
出身校は、私立とはいえそれなりに名の通った大学だった。どうせ行くなら一流企業に、と人一倍プライドの高いゼミの教授に勧められた会社の中のひとつだったから、というのが就職先として選択した本当の理由である。給料も悪くない。だから、他にやりたいことがあるというわけでもない百合に、不満など有ろうはずがなかった。それに本社は銀座、これ以上に何を望めばいいというのか。勿論、面接でそんなことは言わなかった。資料を開くモンドの頭の中では、「日本の基幹産業ともいえる自動車業界の中でも、御社は技術開発力から販売力にいたるまで、常にトップで・・・」と、形通りの志望理由を口にする百合のその声までもが、再現されていた。
この資料は、百合の頭の中に刻まれた記憶を辿るときにも、何ともわかりやすく様々の情報を提供してくれる。目には、情熱の炎を赤々と燃え上がらせて・・・いるように見えるが、何かが違う。なんとも素晴らしい演技力だった。これも、毎日繰り返し行なってきた仮想面接トレーニングの成果なのだろう。
そんなわけで、入社直後は車のことがよくわからなくて苦労をしたようだ。それでも、この娘は負けなかった。機会を見つけては、研究所や工場によく足を運んでいた。わからないことをそのままにしておかない。百合は、学生時代からそれを信条にして頑張ってきた。だから、どこへ行っても質問に費やす時間が誰よりも長かった。それが結果として、百合の血となり肉となった。お陰で、いつの間にか油臭い話にはじまって、苦手な電気、そして今や頭脳にも代わる働きを司る電子によって制御された自動車の細密なメカニズムに至るまで、メーカーで生きていくのに必要な程度の知識を身につけることができた。仕事を通して付き合ってきた自動車評論家や雑誌社の編集者からも、最新の市場動向や他メーカーの新車情報などについて訊いてきた。そんな毎日の努力が、百合をして自信に満ちた優秀な担当者へと変えていったのだ。
資料が教えてくれる彼女のキャリアストーリー。それによれば、ユーザー調査や競合モデルとの比較データをベースに、次期型車のスペックやエクイップメントからプライシングまでの案を検討して、社内調整を行うことが、この国産メーカーを辞める直前まで百合に任された仕事だった。そして、その幾つもの局面で発揮したのが、積極性と主体性。どうやら、言われた仕事をこなすだけというのが自分の仕事だとは割り切らないで、気になることにはいちいち口を出す、そんな姿勢を堅持してきたようである。それが、時として波紋を呼ぶこともあったらしい。相手からしてみれば、「水沢、せっかくここまで来たのに、お前が余計なことを言いだすから仕事が振り出しに戻っちゃったじゃないか」と、いうことなのだろう。それでも、優秀な人間が多かったから、相手にしても、お前なんかに言われたくらいで負けていられるかと、意地の張り合いのように最後の力を振り絞って仕事の壁を乗り越えていった。凄い会社には凄い人間が、(何人かにひとりくらいは)必ずいるものだ。だから百合も挑戦のハードルをさらに高くすることができたのだ。いつのまにか「若いのに喧嘩腰で仕事をするんだね」と、言われるようになっていた。女だてらに、の枕詞が付いてはいたが、かえってそんな評価が百合には嬉しくも感じられて、頑張ることがいよいよ当たり前になっていった。
こんな具合に、天の管理官が持たせてくれた資料は、様々な出来事の全貌を単なる情報という域に留めることなく、まるで見てきたかのように、或いはその場で一緒に感じているかのように、モンドの頭脳に刻み込むのだった。
その中に、ひとつの具体的な出来事が記されていた。当時の百合を語る上で、忘れてはならないエピソードである。
バブルの終焉とともに、原価低減が叫ばれはじめた頃のことだった。会社全体が、どこでコストを一円下げるかを必死に探っていた。そんなときにもかかわらず、百合は、既に検討除外装備とされていた高価な四輪操舵システムを敢えてスポーツモデルに復活させて差別化を図るべきだと、提案した。当然のように、上司のヒンシュクを買った。ただでさえ、エンスーと呼ばれる一部の顧客層にしか好まれないこの手の車は、販売台数に繋がらない。限定された市場への新車投入は見合わせるべきではないか。幾度となく、そんな議論が繰り返された。高度成長期の落とし児ともいうべきモデルだ。無理は禁物、失敗は命取りにもなりかねない、と賛成の声は聞こえてこなかった。それでも百合は引こうとしなかった。
商品力の高い高級車を世に送り出すことにより得られる〝イメージの向上〟と〝収益性の拡大〟というメリットの方が、競合他車を凌駕する低価格を実現することによってもたらされる〝販売機会の増大〟というメリットよりも大きいと主張した。価格競争は麻薬のようなもの。一度手を出したら、二度と元に戻ることはできない。
「あのクルマも、昔は最高だったんだけどな・・・」と言われては消えてゆく、過去の名車の仲間入りということだけはさせたくなかった。百合の狙いは、イメージリーダーとなるこの車が引き上げるであろうブランド力を手に入れることにあった。だから、目先の利益に目を奪われる営業部隊の猛反対をモノともせず、開発に携わる多くのスタッフや幾つもの部署の責任者、ときには造形部のデザイナーといった専門職の人間とも議論を重ねてきたのだ。そして、彼らの強力なバックアップを勝ち取った。メディアや自動車評論家を対象に実施した発売前の試乗会でも、その評価は予想以上に高かった。
ついに百合の信念が最終案となって、役員提案の舞台に上げられることになった。いきなり、「失敗したら、誰が責任をとるんだ」と詰め寄られた。思わず、「私がとります」と口走っていた。思い切り、笑われた。そんな時だった、信じられないようなことが起こった。
「ここまでの検討内容を見る限り、そのようなことにはならないと確信します。我々がじっくり仕上げますので、やらせてください」と、実験部のテストドライバー達が、声を揃えて訴えてくれた。現場の声が、経営の中枢を動かした。
蓋を開けてみれば、販売も好調。その年の自動車賞を総なめにして、車のみならず会社の評判はいやが上にも高まった。ブランドの表看板がひと回りもふた回りも大きくなっていく実感を、社員なら誰もが味わったというほどに。
それにより、売り上げ高から利益率に至るまで、中期事業計画が上方修正された。この会社の歴史の中でも、これほどの成功事例は、稀だった。年度末には、同期で初めての社長賞に輝いた。一般社員にとって、この賞以上に栄誉ある賞は、他になかった。これで百合の将来は安泰だと、誰もが羨んだ。
「どうです。みんなの拍手を一身に浴びて、嬉しそうな顔をしているではないですか。この女性は、優秀ですがそれだけではありません。こうと思えば、信念を貫く実行力も兼ね備えているのですね。大したものです」
何だか、外側からでは見えない百合の真の姿を垣間見たようで、モンドは人ごととは思えないほどに嬉しさを感じていた。そんな百合がステージの袖から、続いて行われた会長賞の受賞者の背中に熱い視線を注いでいる。こちらは管理職が対象という。さぞや優秀な男なのだろう。
それなのに、サブの反応は鈍い。というよりも、別のことを感じているようだった。
「そういやあ、姐さんも芸事とはいえ組合の表彰を受けたことがあったっけなあ。それなのに、姐さんったらこれっぽっちも浮かれることなく、凛とした振舞いでお祝いのことばさえ受け流していたっけ。おいら、この娘が壇上で表彰状を受け取る姿を見ていたら、あん時の姐さんの立ち姿を思い出さずにはいられなかった」
モンドは、何を突然言い出すのかと呆れて、サブを見た。こいつは何事も感情で受け止める。サブは単純で、わかりやすい。一時目を潤ませていたサブだったが、どうやら、ややこしい現代の仕事の話についていけないに違いない。また、眠そうな目を瞬かせはじめていた。
百合にとって、それがこの会社での最初で最後の大勝負だった。資料の中に記されたその後の記憶を辿ってみても、見るべきものは何ひとつとしてなかった。時代が、百合からエネルギーを吸い取っていった。予想だにしなかった海外メーカーとの提携。それにより、大きな変化が社内に生まれた。外人社長が割り切った采配をふるう会社へと姿を変えたのである。
英語に加えてフランス語も人並み以上に堪能だった百合にとって、決して居づらい会社になったというわけではなかったはずだ。それでも周りの雰囲気が変わっていった。新たな組織編成で、どういうわけか百合だけが東京の本社に残された。車が好きで、独自性を追い求めることに喜びを感じる、そんなタイプの人間がどんどん周りから姿を消していった。その代りに幅を利かせてきたのが、数字を巧みに操って、自分の成果を表やグラフでアピールしながら昇進の階段を駆け足で上がってゆく、そんな人間たちだった。ことばを変えるなら、要領よく外人の上司に取り入ることだけに血道を上げるクールな連中だ。
「勘違いも甚だしいったらないわ」
百合のことばが、乾いた風となってモンドの心の内に吹き渡った。
それは、あっと言う間のことだった。合理化による高い効率の追求が、会社が掲げる目標の全てとなっていった。たしかに、さすがに誰も安全性といった品質を蔑にしてよいとは言わない。その代りに、「当然、その過程の中で」のことばを巧みに操って、オブラートに包み込んでは、少しだけ横に置いた。同様のことが、あらゆる部署で行われるようになっていった。情熱や心意気に、生きる道は残されていなかった。目と目を見合わせ、声の色艶で思いの強さや真剣度合いを推し量りつつ駆け引きを楽しんだ会話も、ほとんどが、魂の抜けたことばをキーボードに打ち込んで送受信するだけの作業に取って代えられた。
「自分にとっての仕事って、こんなものではなかったはずだわ」
ひとり、辛さを募らせていたに違いない。次第に、不満を胸に抱くようになっていった。百合が新天地を求めて会社を辞めたのは、梅雨もすぐ目の前に迫る六月初めのことだった。
あとひと月ほども我慢をすれば、手にすることができたはずの夏季の賞与。それさえも自ら棒に振ったのは、裏切られたようにしか思えない会社に対する、百合の最後の抵抗だった。合理的とはとても言えない、悲しさが染み出るような意地、だった。
「この娘は、一度こうと思ったら譲るってことをしねえんだ。可愛げがねえよなあ、ああ、もったいねえ」
目を擦りながらも必死で眠気を抑えるサブが、横から資料を覗き込んでは肩をすくめた。モンドは、「女と見れば誰にでも尻尾を振るのかと思ったら、この男にも好みがあったのですね」と嬉しくなって、というよりも可笑しくて、つい吹き出しそうになっていた。
「しかし、ただの我儘というだけではなさそうですよ。どうしてだか説明はつきませんが、この娘の方が正しい。わたくしにはそう思えて仕方がないのです」
とは言いながら、何かが気になる。ぼんやりとではあるが、モンドの胸の内に、心配とは言わないまでも、引っかかるものがあった。
「この潔さには血湧き肉躍らされますが、ちょっと・・・」
それが何なのか、わからない。それなのに、気になってしかたがない。それというのも、リアルにその時々の様子まで頭の中に甦らせるこの不思議な資料のせいだった。お蔭で、モンドはすっかり百合と同じ気持になって、いやに興奮したり気落ちしたりすることがよくあった。そんな自分がいることにふと気づかされて、不安を覚えたりもした。
「もしかすると感情移入が強すぎるために、わたくしは現実を冷静に見据える眼を失っているのかも知れません」
しかし、今はまだ一歩引いて全体を見回せるほどにこの現代社会に慣れてはいない。俯瞰するなど、できるはずがなかった。
「いつかそれも可能になるでしょう」
モンドは気を取り直して、資料の先を読み続けた。
モンドの頭の中で、百合はその会社の最後の一日を寂しく過ごしていた。何年も勤めてきた会社だというのに、特別なことは何ひとつ起こらなかった。今でも、机を並べ、協力し合ってひとつのテーマに取り組む同僚の社員は何人もいる。それなのに、どう見ても、そこに込めた思いまでをもひとつにするような仲間と呼べる人間は、もうひとりもいなかった。
夕方になって帰り支度をはじめた頃に、デスクの電話が電子音を響かせた。今は神奈川県の郊外に新設された技術開発センターで勤務する、同期の小川幸子からだった。
「百合、あんたならどこでもやっていけるよ、頑張ってね」
仲間は皆、水沢の名字を外して、百合と呼んでくれていた。
「うん、有り難う。何だか、最近力が出てこなくなっちゃってさ。気力っていうのかな、死んじゃったみたいだよ。そんなあたしが、このままいても仕方ないじゃない、それでさ」
「わかるよ、言ってる意味。みんな百合の気持と同じだよ。こんなになっちゃうなんて、誰も思ってなかったよね。特にここ、田舎じゃない。朝夕の電車の中は社員がほとんどでさ、みんなすっとぼけたような顔して窓の外を見てるか寝たふりしてる。嫌んなっちゃうよ、ほんと」
「でも、あなたはしばらくそっちにいなね」
「うん、みんなでそう言ってる。東京にいたらこんなもんじゃないだろうって」
「そうだよ、いい人はみんなどこかに行っちゃったし。あんたんとこ、いま誰がいるんだっけ」
百合は、知らないふりを気付かれないように、サラッと聞いた。
「同期では、白井さんや大山くん」
目を閉じたモンドの頭の中に、水沢百合の心の内が浮き上がる。記憶ばかりか、その刹那の思いまでもが色鮮やかに。
予期していたこととはいえ、その名前を聞けば、胸に刺さった針が今も錆びて朽ち去ることなく残されていることを思い知らされる。他の同期はくん付けが普通なのに、白井だけは、誰もがさん付けで呼んでいた。東大出のくせにスポーツマンで、短めに揃えられた真ん中分けの髪の毛が、爽やかさと育ちの良さを感じさせた。同期に限らず、女の子たちに人気が高かった。仕事はできたし、付き合いも良かった。だから、同性からの受けも悪くないようだった。
みんなが慕ったり褒めたりする人だから、気軽に「あたしも白井さんのことは大好きよ」ということばを口にすることができた。それでも、腰に当てた左手の指先が微かに震えた。でも、顔には出さなかった。自分の「好き」は他の人たちの言う「好き」とは違う特別なもの。今は、それを知っているのは自分だけだが、いつの日にか、それをみんなが知る。百合は勝手に自分の歩む道を白井のそれに沿わせて、夢を見た。そのふたつの道がいつ重なってひとつとなるのか、胸を焦がした。
「聞いたかよ、白井が結婚するらしいぜ」
もう一年以上も前になる、築地で持たれた同期会。予約時間前に着いた何人かで、たわいのない話に花を咲かせていた時のことだった。突然、耳に飛び込んできたその声が、固く尖った針となって胸の奥深いところに突き刺さった。
社内では浮いた話のひとつも立てぬ間に、白井はしっかり身を固める準備をしていた。結婚式には同期から三名ずつの男女が招待されたようだった。百合は、その序列からも外れていたという厳粛な事実に、自分の抱いた夢が如何にバカげたものであったかということを気付かされた。聞けば、高校の頃からの彼女で、噂によると二歳年上の人らしい。
「それから、石黒課長や部長の中村さんでしょ・・・。でも、あんた営業説明会や広報のテストドライブなんかにも必ず顔を出してたから、知ってるっていうレベルなら他にもウジャウジャいるんじゃない」
「そうかぁ。そっちにはみんないるんだよね。電話でなんか聞いてたらきりがないか」
色々な人に世話になった。その中でも石黒課長には、いろいろ教えてもらった。もしも課長が本社に残ってくれていたらと、何度百合は思ったか知れない。
「自分の好みで車の開発をやっているわけじゃない。客観的な判断をベースに進めている。それでも商品企画って仕事は、俺たちの提案内容が役員あたりに否定されるところから始まるといっても過言ではない。社内での闘いはついて回る。言ってみれば、これが最初の醍醐味ってやつで、如何にそこを突破するかっていうことに面白みを感じるようじゃないと、こんな仕事やってられないだろうな。他の車種との部品の共用だデバイスの流用だと会社の都合も考えない訳にはいかないが、車で食ってる以上、お客さんに喜んでもらえる車をつくっていかないといけない」と、いつも上手にスタッフのやる気を引き出す。意志のしっかりした、とてもいい人だと、誰もが信頼を寄せる人物だ。
「サッコ」
親しみを込めた呼び名で語りかけた。そんなことでさえ、今日はいつになく嬉しく感じられる。
「石黒課長に付いて行きなね。あの人がいる限り、あんたんとこは大丈夫だよ」
そして、やっぱり「白井さん」と、百合は声にならない名前を頭の中で呼んでいた。石黒課長の片腕、というよりも時にはそれ以上の役割を果たす信念の人。石黒課長が社内で暴れられるのも、陰に彼がいるからだと百合はいつも思っていた。奥さん持ちに手を出すつもりはない。けれど、一緒にいると心が躍る。百合にとって白井康人とは、そんな存在だったのだ。
百合がCVTと呼ばれる無段変速機をコンパクトカーに採用してはと検討していた時のことだった。白井が「サプライヤーが、今後の市場成長性を見越して生産量を上げるってさ。だからコスト的にも大幅に導入しやすくなるはずだ」とそっと耳打ちしてくれた。いずれ正式に社内に流される情報とはいえ、役員提案の日程が迫っている中で余裕を失っていた百合にとっては、大きな助けとなった。コスト超過という難題解決の糸口が、これで掴めた。だから、「あなたには助けてもらったから、心ばかりのお礼をあげる。ちょっと目をつぶっててね」と、会議室の後片付けを手伝ってくれた白井に声を掛けた。言われるままに目を閉じる彼の横顔を、百合は可愛いと思った。そして、「おい、どうしたんだよ、もう目を開けていいのか」と戸惑う白井の頬に、口づけた。
モンドは、いい年をして赤面を禁じ得なかった。幾ら資料に目を通しているだけだと自分自身に言い聞かせても、そのリアリティの高さには勝てなかった。
「わたくしにも、こんな頃がありました」
つい、口を開いたままに見つめてしまった。どれだけ間抜けな顔をしていたことだろう。隣のサブに見られてはいないかとそっと目を向けたが、キャビネットの上という危なっかしい場所にもかかわらず、幸い転がり落ちもせずにサブは船を漕いでいた。ホッと安心して、資料の先に目を走らせた。
「お返しは、気持ちだけもらっておくわ」と言葉を残して走り去る百合の背中に、白井の「ああ、そうしといてくれ。まいったな」という言葉が追ってきた。そんな出来事が、よい思い出となっている。
「百合、大丈夫?」
途切れた会話に、幸子が気を揉んでいた。
「あっ、うん、たぶん」
「この機会に、実家にでも帰って頭を休めた方がいいんじゃないの」
「そうだね。せっかくだから、そうしようかな」
とはいうものの、そうもしてはいられなかった。次の会社を探さなければならない。普通なら、それを先に済ませて会社に別れを告げるものだが、そんなことで無為に時を過ごすつもりにはなれなかった。百合は、ここでふたつ目の意地を張ったのであった。
「また会おうね」
「うん。必ず生き返って、こっちから声をかけるよ」
こんなことで終わってたまるもんですか。絶対にあの頃のわたしに戻って見せる。百合は、固い誓いを自分自身に立てた。
「じゃ」と、百合と幸子はふたりの言葉が重なったのを合図に、受話器を置いた。
百合が、誰にも挨拶をせずに会社を出ていく。最近のこの会社では、こんなことが当たり前のことになっていた。私物を詰め込んだ会社のマークが入った手提げ袋が重い。唇をきつく結び、振り向くものかと決めた百合の前で、背丈の二倍ほどもある自動ドアが音もなく開いた。いつもなら従業員用の通用口を抜けるのだが、せめてこの日くらいはと、ショールームの中央に設けられた正面玄関を通ってビルを出た。
「さようなら」
やはり、振り向かないではいられなかった。ガラス張りの壁いっぱいに跳ね返るオレンジの夕日。刺すような眩しさが、不覚にも浮かべてしまった涙の中で歪められ、今日の思いを明日につなげないようにと溶けてゆく。別れの言葉を投げかけることができたのが、せめてもの慰めだった。
「泣くのは今日でおしまい」
百合は、心の中で決意を固めた。今日だけは、いつもの地下鉄をやめて、高架を走るJRで帰ることにしていた。こんなに遠かったかと、駅までの道を歩いた。
暮れなずむ東の空から、叢雲過ぎる満月が、百合の背中をひとり静かに見おろしていた。
「石黒課長と白井さん、ですか」と、見たこともないふたりの名前を口ずさんで、モンドは資料のファイルを閉じた。疲れた目をぎゅっとつぶって、「この会社に転職してきてからのことは、またの日にしましょう。そうそう先を急ぐこともないでしょう」と立ち上がり、眠り込んでしまったサブを起こして、キャビネットの上から飛び降りた。日は傾きはじめているが、百合に帰るそぶりは窺えない。何かの手引きだろうか、広げた冊子にかかりっきりになっている。一日中コンピュータを前にして、体はめったに動かさない。それなのに、目が回ったような顔をしているとはどういうことだろうと、頭を捻るがモンドに理解できるはずはなかった。
「何に追われて忙しがっているのやら、わたくしにはさっぱりわかりません。おまえもすることがなさそうですから、今日はここらで店仕舞いとしましょう」
寝ぼけ眼でついてくるサブを従え、モンドは非常階段を下った。
(二)
救急救命チームとしての仕事に取りかかる前に、モンドはこの国の〝現在〟をもっと知っておきたいと思った。あまりにも、自分たちの時代と違っていたからだ。それに、間もなく死に直面することになる百合を守るためにも、この娘がどんな現実を生き、何を考えているのかを知る必要があった。まずは、自分の足を使ってこの時代を肌で感じるより他に手はない。そのために、今日の一日を当てることにした。
曙光の中に、建ち並ぶビルのシルエットが浮かび上がる。早起きの新聞配達を避けながら、未だ夢の中といった足取りのサブを連れて表通りを歩いた。
最初の立ち寄り先として選んだのが、神楽坂の路地裏通り。
モンドから細かな指示を仰ぐまでもなく、サブはトコトコと坂を上り下りしてゆく。右に折れ、左に回ってと、勝手知ったる我が家の庭を行く足取りだ。と思ったところで、足を止めた。
「おいらにゃ、さっぱりわからねえ」
「何だ、ここまでは当てずっぽうだったのですか」
何本もの白線で仕切られた舗装道路。その上を、所狭しと走りまわる車。そのスピードについていけない。迂闊に横断しようものなら、脳天を揺さぶる排気音に驚かされることになる。どうにかここまで来てはみたものの、すっかり方向を失っていた。
「たしか、この辺りに姐さんちがあったはずなんだが・・・」
目で、「えーと、フジマキ、藤巻」と表札を探すが、どこにも見当たらない。それでも、この時代ではすっかり見なくなった石畳が今でも敷き詰められており、僅かばかりとはいえ懐かしさを感じさせる。
「そんなに間違っちゃいねえと思うんだが」
独り言は尽きない。それにモンドが、「空襲があったといいますからね、焼かれてしまったということなのかもしれません」と、哀しい予想を口にして返した。
道を隔てた向かいには、格子窓の料亭と、一階に洒落たヘア・パーラーを持つビルが、肩を並べて建っている。和洋折衷どころの話ではない。路地は狭く、家々は影を寄り添う佇まいではあるものの、辺り一帯、昔の面影は残されていなかった。時の長さは年季とならずに、新しい姿に取って代わられていた。入り組んだ隘路。直線と直角だらけの直方体の箱たち。それなのに、微妙な秩序を感じさせる。空は思いのほか広く、撫でるように流れる風が心地好い。敢えて昔風を装った生垣も、枠にはめ込まれたような余所余所しさまでは感じさせなかった。ふたりは、足の向くままに歩き回った。眠たげな眼を向ける通りすがりのトラ猫が、昔のよしみで迎えてくれた、ように思った。
喉元に上ってくる苦いものを呑み下しながら、モンドはそっと頭を垂れた。
まさか本人が出て来るわけはないと知りながらも、心の騒めきを抑えることができなかった。サブも合わせる顔がないと思っているのだろう、モンドの背中に身を隠している。
「今でも、姐さん・・・、まさかなあ」と口にしたところでことばに詰まり、指を折っては過ぎ去った年数を数えているようだった。
「もしかして、血のつながった子か孫が、この辺りに住んでるんじゃねえかなあ。ってったって、オイラには姐さんが嫁いだ上に子を産むなんて、考えられねえんだけどさ」
「たしかに」と、神妙に顔を曇らせるモンド。
「とっくに、他人の手に渡っているということも考えられます」
見つからない答を挟んで、ふたりは見つめ合った。懐かしさより後ろめたさが勝る。
ことばもなく、坂を下った。そこに、建物の裏手に当たる細い路地から、ひとつの人影が飛び出してきた。ぼうっとしていたサブを踏みつけても、気付かない。可笑しさを堪えきれずに吹き出すモンドが、「ああ、家庭で出たゴミでも捨てに来たのでしょう」と、覚えたてのこの時代の習慣に触れ、顎をしゃくるようにして奥の集積箱を指した。
後姿から、それが洋装の女だということが見て取れる。踵の動きに合わせて揺れるギャザーのスカートが、射し込む朝日を優しく受け止める。L字に折った右腕に、カーディガンだろうか、薄手のニットが掛けられている。上下に揺れる柔らかなシルエットのブラウスが時折膨らんで、「まるで、ビルの隙間を縫うように舞う天女の羽衣です」と、モンドをして簡単の声を上げさせた。
苦笑いを浮かべて、サブが立ち上がる。女は気を留める様子も見せずに、小走りで先を急ぐ。ぶつかった大通りを右に折れると、人の流れの中に姿を消した。
「何を、そんなに急いでるんだか知らねえが、気を付けろってんだ、まったく」
「気を付けろと言っても、向こうにはこの姿が見えないのではなかったですかね」
「違えねえや」
今になって気付くサブは、頭を掻くよりなかった。そうこうしているうちに、行き交う人の数も増えてきた。
ふたりが次に向かった先は、銀座の裏通り。言うまでもなく、最後のひと時を過ごしたあのビルヂングである。しかし、何故かというか、やはりというべきか、見当たらなかった。陽も届かないビルとビルの隙間。影を慕ってたむろする数羽の烏。はたして見えているのか、目が合っても、物怖じしない。胸を張り、通してやるとでも言わんばかりの威勢の良さだ。信号が赤から緑に変わる瞬間を見計らって、交差点の上を渡っていった。
こんな時間帯にもかかわらず、既に人の流れは絶えなかった。
「風情も何もあったものではないですね」
自分ひとりが置いてけ堀を食ったようで、モンドは寂しかった。隣を見れば、サブも浮かない顔をしている。
「まあ、仕方ない、そう気を落としなさんな」と、励ますことばをかけてやる。ところが、「そうでさあね」のひとことが返ってこない。腕を組み、首を傾げては「たしか、この辺りだったんだがなあ」と、ブツブツ呟いている。
「サブ、どうしたというのです」
訊けば、サブも若かりし日の思い出を一所懸命に追っていたのだという。
「新しい時代がやって来たんだって、おいらすっかり浮き足立っちまってさ、そりゃ毎日のようにアイスクリームを舐めまくったさ」
たしかに、日が高くなるにつれ、気温も上昇しはじめていた。それで、あの資生堂薬局のソーダファウンテンが「今もありゃしないか」と探していたらしい。それなのに、この変わり様ではどの辺りだったのかさえ見当もつかない。見回せど、同じようなガラスの壁が続くばかりで、この街に景色はなかった。
改めて、「まあ、仕方ない、そう気を落としなさんな」と同じことばで肩を叩けば、やっとのことで、いつもの「そうでさあね」を返してくる。
気を取り直して、表通りを歩くことにした。どこも、人で溢れている。
何が変わったって、人の姿ほどに変わったものはないかもしれない。腿も露わに尻を振り振り歩く女性の姿に、目が眩むようだった。
「アニキ、アニキ。ちょいとあれを見ておくんなさいよ」とサブがはしゃぐ。
「な、何ですかあれは」
モンドは、広げた両手で目を覆わずにはいられなかった。それでも、つい指の間から覗き見る。薄い黄色や桃色の肌着のような布一枚、それも襟ぐりを大きく開いて、若い娘が町中を歩いて行く。思わず「おっぱい丸出しじゃないですか」と、声に出していた。
「それにしても、どうしてこんなに外人が多いのですかねえ。まるで、よその国に乗っ取られたみたいです」
金髪は言うに及ばず、見たこともない色合いの赤毛や緑毛といった人種もいて、モンドにはこの現実をどう受け入れればよいのかがわからなくなっていた。
「失礼ですが、どちらのお国の方ですか」と問いかけた。しかし、昼間から幽霊の声は聞こえない。それでも、気配だけは感じたのか、「ヤダー。誰か、なんか言った?超ウザイんだけどぉ」と呆れられる始末。
その奇妙な日本語に触れて、はじめて「どうやら外人さんではないようです」と気が付いた。しかし、モンドには俄に信じることができなかった。いくら見廻しても、坊主頭や結い上げられた烏の濡羽色といった古来の姿を目にすることができないのだ。これには開いた口が塞がらず、声も出なかった。
一方、はじめこそ楽しげに見回していたサブだったが、今では「うわあー、こりゃ見ちゃいられねえ。ババアまで紫色の髪をなびかせて大笑いしていやがる」と、すっかり毒気に当てられて、「それにあのジジイはいったいどうしちまったんだ、ガキの半ズボンなんか履きやがってよう」、「うわっ、こっちは鼻に輪っかをぶら下げた土人の群れじゃねえか」と、叫び続けているのだった。
老若男女入り乱れての、お祭り騒ぎ。モンドにとって、それは悲しいことだった。つい、「いくら町並みが綺麗に整備されて、ゴミひとつ見つからないようになったとはいっても、それを喜んでばかりもいられません。日本はやはり日本のままであってほしかった」と、愚痴のことばを口にした。
サブも、いつものように「そうでさあね」とうなずき返す。その顔を見て、なぜかモンドが薄笑いを浮かべた。何か、気になることでもあったのか、言い辛そうに「ただな、サブ」と言いかけて、また口を閉じてしまった。サブとしては、続くことばが気になってしかたない。とりあえず「へえ」とだけ言ってはみたものの、「いや、何でもないんだ」と、モンドはことばを濁すばかりで、それ以上触れようとはしなかった。よほど言いにくいことに違いない。こういうときに、先を急かせて事が動いた例はない。ここは、気になどしていない風を装って、ただ待つしかなかった。いずれ、モンドの方が痺れを切らせて、必ず話し出す。それは、いつものことだ。
案の定、五分も経たぬうちに、その時がやって来た。
「わたくしは、おまえを見ていて、とんでもないことに気が付いてしまったのです」
ここは、すかさず合の手を入れる。
「おっと、そりゃ大変だ」
このリズム。これで、御膳立ては整った。
「この時代の東京には、この奇妙な現代人の方が、おまえなんかよりよっぽど馴染んでいるのですねえ」
しみじみと語ることばに、憐れみが滲んでいる。それがサブには、気に入らなかった。しかし、ショー・ウィンドーに写った自分の姿が、全てを語る。潔く「まあ、そう言われれば確かに」と認めざるを得なかった。ここは照れ笑いでごまかそう、とモンドに目を向けたところで、「おや?」と気が付いた。
「なんだ、おいらよりよっぽど問題なおヒトが、ここにひとりいらっしゃるじゃありゃしませんか」
そのひとことは、常に時代の真ん中を歩いてきたモンドにとって、聞き捨てならないものだった。思わず、ガラスに映った自分の姿に目を留めた。たしかに、そう言われてみれば・・・。とはいえ、それをサブごときに指摘される覚えはない。
「何を小癪な」と切って捨てようとすれば、「本当は、自分でもわかってたんでやんしょ」と、返り討ちの刃を振るわせる。
東京の魔力に絡め取られ、ふたりでひとつの仁義もどこへやら、時を忘れて言い争うモンドとサブであった。
満艦飾のビルボードを掲げて、蛍光色の光を内から放つビルが建ち並ぶ。空が様々な形に切り取られている。
世界を照らし続けたお天道様でさえ、今ではガラスの壁面を渡り歩くただの旅人に成り下がっていた。
清々しく漂い浮かぶ白い雲たちの姿は、それこそ絵画や映像の中でしか見ることができなくなっていた。
満天の星たちも、プラネタリウムとかいうビルヂングの屋上に設えられた天蓋の中へと住処を移してしまった。
それでも、人の心に語りかけ、命に豊かな力を与える役割を、放棄したわけではないはずだ。
モンドは、どうすればこの時代に心和むそよ風を吹き巡らせることができるだろうかと、考ないではいられなかった。
しかし、ここで逡巡している暇はなかった。宮城だ歌舞伎座だと、見ておきたい場所はいくらでもある。ふたりは先を急いだ。
一日歩き回って疲れたか、サブが三越のライオンの背に跨ったまま、居眠りを始めた。モンドは、「風邪などひかないでくださいよ」とひと声かけて、台座の端に腰を下ろした。おもむろに、天で渡された資料を開く。水沢百合のその後が気になっていた。
転職してきたこの会社も、やはり自動車会社だった。とはいえ、海外メーカー百パーセント出資の子会社である。生産工場を国内に持つ日本の大企業メーカーとは違う。輸入した車を傘下のディーラーで販売するだけの、いわゆるインポーターと呼ばれる従業員五十名ほどの小さな会社だ。それも、世界をリードしてきた欧米のメーカーというならいざ知らず、成長著しいとは業界内だけの限られた評価で、世間ではいったいこんな車に誰が乗るんだと揶揄される隣国のメーカーだった。百合は、できることならもっと優秀な人材で満ちた大きな会社に行きたかった。きっとそこなら、厳しい競争や明確な目的意識の熱い流れが、抜け殻のようになってしまった自分の内側に新たな命を吹き込んでくれるに違いないと思っていたからだ。しかし、希望はなかなか叶えられない。時間ばかりが過ぎていった。仕方なく、そんな会社への扉が開かれるまでのここは腰掛けと、割り切って働くことを決断した。それなのに、状況が好転することはなかった。
百合に与えられたのは、商品企画の課長代理という役職だった。商品企画といえば聞こえは良いが、本社で生産されるラインナップの中から日本市場にマッチしたモデルを選び出し、法規に照らして一部仕様変更を加えたうえで適正価格を設定するのが主な仕事となっている。すこしでも車の世界を知っていれば、誰にでもできる簡単な仕事といえた。マーケティング部に所属し、テンポラリーのアシスタントがいるだけの小さな課を任されている。同じ部内には、もうひとり男性の課長代理がいる。販売促進を担当しているとは聞いていたが、具体的に何をしようとしているのか、いくら様子を探ってもわからなかった。それほどに、覇気を感じさせない男だった。だから相手にもしなかった。上司は、広告宣伝、販売促進、広報、そして百合が任された商品企画を統括するマーケティングの部長で、その上は社長というポジションである。
若い頃からいろいろな上司の下で仕事をしてきた。そんな百合から見ても、二川敏文というこの部長は、ちょっと変わっていた。
販売実績の責任は営業部にある。とはいえ、日本に参入してきた最初のアジアのメーカーだ、知名度は無いに等しかった。百万円を超える商品がそう簡単に売れるはずもなかった。そうなると、どうなるか。販売がうまくいかないのもブランド力がないからと、広告から広報までを受け持つマーケティング部のせいにされる。それが、弱小インポーターに起こりがちな話だった。
売れていれば自分の手柄と肩で風切る営業マンも、うまくいかない時には自分に責任があると認めたがらない。それも、弁が立つ連中の手にかかっては、自分は悪くないというだけの話では済まされず、「マーケに足を引っ張られた」の決めゼリフを浴びせられるのも珍しいことではなかった。けっして楽な仕事ではないはずなのに、二川はいつも飄々としていた。
「営業の役割とは、いったい何ですか。これでは、詐欺師と変わらないではありませんか」
まだ一ページ目がはじまったばかりだというのに、百合を取り巻く環境の酷さを見せられて、早くもモンドは苛立ちを隠せなくなっていた。
「どうやら、歴史の浅い外資系企業には、この手の輩が蔓延っているということらしい。まったく、行く末が案じられます」
そんなことにもまだ気付かずにいる百合を、部長の二川は面倒臭がることもなく、具体的な話を織り交ぜながらわかりやすく指導した。
「やることをやっていれば、必ず結果はついて来るから、目的を見失わずに自信を持って自分たちの仕事をやっていこう。何事にもマジックはない。販売もマーケも一緒だ、わかるね」
「でも、大丈夫ですか、すぐ売りにつながる施策とかを打った方がよくないですか」
「まずは、うちのことを正しく知ってもらうこと。そこからだ」
「でも、営業はマーケが何もしてくれないから、売れるものも売れやしないって言ってますよ。黙らせるためにも早いところ何か手を打たないと」
人並み以上に負けず嫌いな百合。しかし、部長の二川は、そんなことで考えを変えるような男ではなかった。
「やっと発売にこぎつけたニューモデルじゃないか、初めが肝心だ。ここでフラフラしたらお客さんはついてきてくれなくなる。それは間違いない。そのためにあれだけの検討を重ねてきたんだ。我々の目指すところが何処にあるのか、そのことを忘れてはいけないよ。そして、社内の連中なんかより、よっぽどお客さんの方が厳しい目を持っているということも、覚えておかないとな。自信の無さほど伝わりやすいものはないからね。ここは迷わずにしっかりとやり遂げよう」
「それはそうですけど・・・」
「それから、今の内に言っておくけど、こういう会社には自分だけうまい事をやって一旗揚げてやろうと目論んでいるような連中が何人もいる。自分のモノは自分のモノ。人のモノも自分のモノってね。みんなで上げた実績を、さも自分ひとりの功績であるかのように見せかけては、もっと給料の高い会社に自分を売り込もうっていう魂胆なのさ。そのことを忘れてはいけない。罠にはめるとか人を落とし入れるとかいうことを、何の躊躇いもなくやる連中だ。あなたのように一流大学から一流企業と純粋培養で育った人にはわからないかもしれないが、気を付けるに越したことはない」
「何ですか、純粋培養って」
「学問をして、立派な会社でもまともな教育を受けて育ってきた、そういう人の目には見えない危険がいっぱいあるっていうことだ。ここは、今までの会社とは違うんだ。バイ菌が襲いかかってくることも珍しいことではない」
「営業部はバイ菌、ということですか」
「はっはっは。それはそうとして、もしかして水沢さんは今回のキャンペーンの目的が間違っていると思ってるんじゃないのかな。だったら聞くよ、何でも言いなさい」
「そうじゃないんです、でも」
「でも、何だね。まずいところがあるんだったら、すぐに修正するさ。そんなことを躊躇っている暇はない。でも、慌てちゃいけない。計算通りにいったとしても、ターゲットとなる市場、つまり購買層だ、それが思い通りに動くとは限らないからね。人を動かすことは、そんなに容易なことではないんだ」
ことばを噛み締めるようにして、百合が頷く。二川は話し続けた。
「そのための、メディアミックスだクロスメディアだと言われているが、漏れなく打つのに幾らかかると思う。とどのつまりは金の力、というのも情けない話だが、この会社にそんな余裕はない。それで、彼らの行動パターンに合わせて今度のニューモデルの魅力やその販促策をホームページやSNSを駆使して広く知らしめるところからはじめることにした。そして、関心が喚起されたところを見計らって、それにリンクさせた新聞や雑誌の広告で追い打ちをかける。この取り組みがうまく機能さえすれば、市場の中に購買に繋がる行動が生まれてくる。要は、積極的な情報収集をしはじめる、ということだ。ニュースや記事を求めて、という形でね。その行き先は、書店の自動車雑誌コーナーであったり、関連サイトを紹介するコンピュータのモニター上であったり。環境や立場などによって人それぞれだが、間違いなく動く。だから、それまでの間に、期待や要望に応えるための準備をどれだけ着実に進めておくか、それが重要になるというわけさ。覚えているよね、水沢さんにも出てもらった、本社のテストコースで行なった試乗会。そう、発表に先行してメディアを対象に実施した、あれだ。そのインプレッション記事が各誌のページやインターネットの関連サイトに掲載されるのも、丁度この期間中ということになる。輸入車ユーザーに影響力を持つ有名評論家が気の利いたコメントでも語ってくれれば、もうこっちのものだ。必ず読者の気持ちは揺さぶられる。それを見越しての新車導入プランだよ。まあ、慌てないことだ」
それに合わせたタイミングで、実際の販売現場となる全国のディーラー店頭に新車を展示して、発売イベントを展開する。それも、一度だけではなく、九月の上半期末の拡販キャンペーンへとつなげるために二度三度と。だから心配するなと、二川は百合を諭した。
「たしかに。でも、まず最初にいい記事が載れば、っていうことですよね」
百合も素人ではない。予測が全てうまく実現するわけではないということを知っている。しかし、部長の二川も負けてはいなかった。
「私はこの道三十年だよ。そうなるように仕掛けを組むことくらい、朝飯前だ」
「たしかに、この車の特性を引き出すには申し分のないコースレイアウトにアレンジしてあったし・・・。でも」
「何だ、まだ営業の言うことが引っかかっているのかな」
二川は、冷静だった。
「連中が言うやり方でも、一定の成果はあがるだろうね。目先の人参には誰でも飛び付きたがる。しかしそんなもの、その時限りの打ち上げ花火みたいなもんだろう。これもありますあれもありますって、値引きだ、低金利ローンだ、付属品のサービスだと、幾つ並べたところでお客様は満足なんてしてくれやしないのさ。もっともっとと、要求は切りがなくなる。それが我々の将来にどう繋がるっていうんだ。金をかけた上に、せっかくの新商品だというのに、自信がないから安売りに走ったって言われるのが落ちさ。たとえ、やれば瞬間的にプラスの効果を見込めることだとしても、敢えてやらないことにこそ意味があるっていうことも、覚えておいてほしいんだ。それに・・・」と、一息入れて話し続ける。
「さっきも言ったように、この会社の予算では、あれもこれもと手を出すことはとてもできない。単純に言って、施策をひとつ加えればその分予算が食われて広告の出稿ボリュームに影響を及ぼす。露出が減ってもいいのかっていうことだ。その上、新しい施策を案内するスペースも確保しなければならない、そんな手品みたいなこと、いくら私でもできるはずがないだろう。しかし、そう言えば言ったで連中は、そうじゃなくて、ひとつの広告の中にその施策も全部潜り込ませて掲載したらいいんじゃないかって言ってくるのさ。まったく分かったようなことを言うのは簡単だが、考えてもみたまえ。スポットで投入する十五秒のTVコマーシャルで、どれだけの内容を伝えようというつもりかね。新聞広告にしたところで、うちが掲載できるのはせいぜい全三段か半五段がいいところだ。残念ながら、僅かばかりのスペースだ。いくら二月八月の広告料が安いとはいえ」
手元に広げた新聞原稿の校正刷は、写真や文字と周囲の余白とのバランスが絶妙だった。
「目いっぱい詰め込んだら、メインの新車は影を潜め、訴求内容はインパクトを失う。メリハリに欠けた小さな文字の羅列では、読む気も起きないだろう。結果的に、お客さんの頭と心の中には何も残りませんでした、っていうことにもなりかねない。我々はプロだ。そんな危なっかしい冒険なんか、していちゃいけない。私はそう思うんだよ」
「おっしゃるとおりですね」
メーカー出身者同士とはいえ、開発や製造に近い部署で育った自分とは違うところに意地を張る二川、百合は面白い人だと思った。信じた道を突き進もうとするその腰の座り具合に、頼もしささえ感じていた。
脳裏を過ぎるのは、石黒課長の顔だった。懐かしい日々が蘇る。もしかすると、ここでも闘いながら仕事ができるかもしれない。百合は期待を募らせた。それができれば、生き返ることができるに違いない。
「闘いは、どこにでもあるということなのですね」
会社勤めをしたことがないモンドに、二川や百合が言う全てのことが理解できたわけではない。それでも、いつの時代のどの世界も同じで、勝ち残るのは並大抵のことではないと、改めて思い知らされるのだった。
モンドは、「男の世界は、厳しいものです」と口にしたところで、はたと気が付いた。
「ああーっ、水沢百合は女ではないですか。どうなっているのですか、今の世の中は」
それからの日々は、まさに戦争だった。それでも、新車の評判は良く、ここのところ苦戦を強いられていた販売も、上向きに転じ始めた。相変わらず、アフターセールスを担当するサービス部あたりは初期不良や心無いクレームの対応に日々追われていたが、それも売れればこそのことだった。
資料の中はまだ八月の夏真っ盛りだが、現実のこの世は九月も終盤に差し掛かっていた。陽が傾くと、暑さの中にも涼しさが感じられるようになってきた。資料から目を外して見上げると、寝汗にまみれたサブが、ライオンの背から墜ちそうになっている。慌てて手で支え、「ケガをしてはいけません。さあ、そろそろ目を覚ましなさい、帰るとしましょう」と、耳元に呼びかけた。はたして、自分たちがケガをするものなのかどうかもわからずに。
サブはサブで、「おおっと、知らない間に眠っちまった。アニキに声をかけてもらわなかったら、風邪をひくところだったぜ」と、似たようなことを言っている。
染み入るように甍を燃やすのが、夕日に与えられた役割だと思っていた。それがどうだ。 まるでよそ者は入り込むなとばかりに立ちはだかる壁に、なす術もなく跳ね返されている。
「味気ないとは、こういうことを言うのですね」
「えっ、何ですかい」
「いや、何でもない」
モンドは、サブの頭で揺れる一握りの髪を憐れみながら思った。詮無いことを言うのは、もうやめだ。それより、今ならではの良いところを探すとしよう。辺りを見回し、天を仰ぐモンド。欠伸を噛み殺し、目を瞬かせるサブ。百合は一日どうしていたのだろうか。ふたりは、人ごみの中に紛れた。
朝に見かけた烏が舞い降りてきて、ふたりの背中に向けて「カアー」と鳴いた。
翌朝のこと。とはいっても、未だ東の空にさえ陽が昇る気配はない。
「恐らくは、草木も眠るという丑三つ時。今のわたくしにとって、これ以上に相応しいシチュエーションはありません」
年代物の懐中時計が、果して正確な時を刻んでいるのか、自信はなかった。それでも確信があった。町に動きが感じられない。それに止まらず、全てがこの一時を何ごともなくやりすごそうと、静まりかえっている。起き上がって、窓の外を見下ろした。街灯に浮き上がる丸い地面さえ、瞬きを忘れた瞼のように微動だにしなかった。
「いったい、どうしたというのでしょう」
頭が冴えて、眠れない。隣のサブは高鼾をかいているというのに。
どうやら、読み進めてきた資料のせいだと気が付いた。これには、相手の立場になって、喜んだり怒ったり、時には悲しんだり楽しんだりさせる不思議な力がある。興奮が募り、頭の芯まで覚醒させられる。そんな感覚が尾を引いていた。歩き回った疲れのおかげで、一度は眠りについたものの、何かの加減で目が覚めてしまうともう寝付けない。
「これをどうにかしないと、これからも寝不足に悩まされ続けることになるでしょう」
自分のことにもかかわらず、予言めいたことばを口にしては、憂いていた。
「こうなっては、仕方ありません。たしか、残りはあとわずかだったはず。一気に読み終えてしまった方が、身のためというものです」と起き上がり、モンドはバインダーを開いて昨日の続きを読みはじめた。うまくすれば、水沢百合が会社に顔を出す時刻までには、読み終えられるかもしれない。
資料の中の百合は、その日も怒ったような顔で黙々と仕事をしていた。来年の春には、また次の新車が導入される予定になっている。
「やっと終わったと思ったら、その日が次の仕事のはじまりだった、とは。うちみたいな新参のメーカーに、休んで様子を見ている暇なんてないのよね。次から次と新車を投入して、世間を驚かせ続ける。それしかないんだわ、って自分で言うのも情けないけど」
しかし、それが現実だった。
「さて、開示するのは、いつが最善かしら」と、具体的な導入方法を考えはじめた。
実は、百合は頭を悩ませていた。何故なら、本国では既にその車は発売され、国中の道を走りはじめていたからだ。カー雑誌あたりから日本での発売予定は?にはじまって、質問攻めに合うのは時間の問題と思われた。
写真やデータを見る限り、品質や性能は格段と上がり、スタイルも良い。人気を呼ぶことが、期待された。ところが、うかうかしていると勝手な思惑でスクープ記事にされ、出鼻をくじかれることにもなりかねない。それでは、導入を果たした頃にはすっかり新鮮味が失われて、誰にも見向きされなくなってしまう。輸入車には、まんざら無い話ではなかった。これでは、売れるはずがない。であれば、噂にもなっていないこの時期に、『近々、日本に導入予定』としてお披露目した方が、注目を浴びて宣伝にもなるのではないか。とはいえ、唐突に口を開いたところで、誰も聞いてはくれない。そこには、何らかのギミックが必要となる。
「そうだ。この秋の東京モーターショーはどうだろう」
百合の目が輝くのを、モンドは見逃さなかった。
「まさに、絶好の機会じゃない」と、手を叩かんばかりの喜びようだ。それなのに、「でも・・・」と呟いたかと思うと、肩を落として天を扇ぎはじめた。
「もう三か月しかないんだったわ。間に合わせられるのかしら」
どうにかして、実際に日本で販売する仕様に近い参考出品車両を工場で造らせることはできないだろうか。展示車が無くては、いくら絶好の機会と浮かれたところで、話にならない。
百合は、二川の席に歩み寄った。今度は、二川が困惑の色に包まれる番だった。
「しかし、現存しない仕様の一台を、ラインを通して完成させるというのは至難の業だぞ」
百合は、この時ほど右ハンドルを恨めしく思ったことはなかった。それさえなければ、本国、或いは先行する欧米用に生産された類似の仕様でごまかすことが、いくらでもできる。
「それに、稟議さえ切ってないんだろう、日本仕様のスペックと装備の内容だって、まだ営業の承認をもらっていないし」
二川の言うことはもっともだった。取り敢えず、「すぐやります」としか言えなかった。それでも、「本社工場に生産依頼を出したところで、通常の生産に影響を及ぼしかねない特別要請だからな、そう簡単に受け入れてもらえるとは限らないぞ。ここは、私が本社に飛んで、頭を下げて回るしかないな」と、二川は前向きに取り組むことを約束してくれた。
「専用船の定期便では間に合いませんから、空輸するしかないと思います。早速、追加予算の申請書を書きます。社長と交渉していただけないでしょうか」
「わかった」
誰が見ても、綱渡りのような仕事である。それでも百合は、二川の助けを借りて、やり切るつもりだ。
たとえ、車両が日本に到着したとしても、それで終わりというわけではない。仕様のチェックに加えて、多くの人目にさらされる展示車だけに、普段なら手を入れることのないフェンダー裏の清掃やフロア・アンダーパネルの再塗装といった最終仕上げを行う必要がある。手間と、それにかかる時間を考えただけで、頭の痛くなる仕事だった。しかし、それだけのことをする意味があった。
段取りの良し悪しが、全てを決する。ここが正念場、と百合は手を抜かなかった。ひとつのミスが誤解を呼び、嘘をついてユーザーを裏切ったなどと言われては、かなわない。それも、事情を知った社内の人間からというのでは、泣くに泣けない。往々にして、営業あたりはお客様の立場に立ってとの名目を盾に、必要以上に騒ぎ出す。百合は、国産メーカーでさえそれに近いことがあったのだから、ここはそれ以上だろうと緊張の糸を緩めることをしなかった。
そんな状況であるにもかかわらず、隣の島では、電子音が止むことはなかった。
「こいつらったら、この忙しい時に。あんたらみたいなろくでなしに、足元をすくわれるわけにはいかないのよ」
声帯を震わせるわけにはいかない。それでも、唇の隙間からこぼれる、舌と上あごが弾くことばを止めることはしなかった。百合は、机に着くなり、戦闘モードを全開にした。
ついイライラを隠しきれずに、たばこをしまう二段目の引出しを力任せに閉めていた。その音に驚いて、二川部長と相変わらず何をやっているのかわからないもうひとりの課長代理、桑田誠一が顔を上げた。アシスタントの金山智子は今日も遅刻だ。
「びっくりするから静かに閉めなさい」と二川部長に注意された。
「すみません、ちょっと頭にきてしまったものですから」と、首をすくめた。それを見た営業の若林次長が、百合の顔を覗き込むようにしながら、近づいてきた。
「仕事がうまくいかないからって、自棄を起こさないの」
「知ったことか、アホが」とは流石に言い返せなかったが、気持ちは収まらない。百合はその勢いで、部長の二川の目を見詰めた。そして、続くひと言で怒りの大きさを表した。
「部長、話があるんですけど」
「そうか、会議室で待っていてくれ、すぐに行く」
「おやおや、またおふたりでしけこんじゃうんですか」と、若林がちゃちゃを入れてくる。
「バカか」
危うく声になりそうなことばを喉の奥に押し込んで、百合は席を立った。それでも、「気が強いのは、母親似かな、それとも父親似?」と追い打ちをかけてくる。百合が堪えきれずに、「大はずれ。曾お婆ちゃん似でした」と言い返した。これにはモンドも、「なかなか生きのいい血筋のようですね」と呆れた。そんなことばにも、サブは返事ができずにいた。まるで不思議なものにでも出会ったといった眼差しで、百合の背中を追っていた。
普段ならおとなしく聞き流すだけの百合が取った態度に、若林は驚きを隠せなかった。
「なんだ、隔世遺伝どころの話じゃない」と言いながら、見開いた目で百合を睨んだ。
「くだらんこと言ってないで、車売って下さいよ。引き取りの進んでいないディーラーや、車両代が入金されていないところが幾つもあるって聞きましたよ」との二川部長のことばにも、この男はひるまない。
「珍しく新車の評判がいいからって、全部マーケの手柄と思ったら大間違いですよ。ディーラーをその気にさせたのは、こっちなんだから」
相変わらずの減らず口だが、それを聞いた百合は、心臓が縮まる思いだったに違いない。この男は、どこで新車の話を聞きつけたの?評判がいいって、いったい誰の意見なの?マーケが、手柄を独り占めにしようとしているですって?いくつもの疑問が、頭の中を走りまわった。
それで、思わず「ディーラーに、何を話したんですか」と、声を荒げた。さすがの若林も、その勢いにのけ反った。それでもそこは営業部の責任者、「何を言ってるんだ、だからこんなに売れてるんじゃないか」と、精一杯に胸を張ることを忘れない。
そのことばで、百合は気が付いた。若林次長が言う新車とは、すでに八月から販売が開始されたモデルのことなのだ。百合は、慌てて口に手を当てた。次の新車の準備に取り掛かっている百合の、思い違いだった。こんな混乱は、常に先を見据えて仕事に取り組むマーケの中では、珍しいことではなかった。それでも百合は、失礼を詫びることをしない。それどころか、「売れてるって言っても、販売目標には遠く及ばない実績しか上げていないんですよ。ちゃんと販売戦略に則った指導をしてくださいね」と、日ごろの不信感をことばに乗せて、言い切った。
そんな様子に、二川も失笑を隠せない。
「そのくらいにして、さあ、仕事しごと」と、ふたりの間に割って入った。
二川も、百合とは違う会社ではあるが、国産メーカーの出身だった。大きくなり過ぎた組織で歯車のひとつとなって埋もれてゆくよりは、たとえ小さな会社であっても、頭とまではいかないまでも手足くらいの仕事をした方が自分のためになるのではないかと考えて、三十代半ばでヨーロッパの自動車メーカーに転職したという。日本法人の立ち上げに携わり、自分の考えをどんどんアピールして仕事をすることができたのは、今振り返ってもいい経験だったと、二川が話していたのを百合も聞いたことがある。
時代遅れのモンドにも、「井戸掘りからやってきたというわけですね、たいしたものではないですか」と、素直に感心することができた。
しかし、成功の結果として輸入業務が拡大したその会社は、それを受けて自前の埠頭を持つこととなり、本社ごと愛知県に移転した。二川は、三年間の単身赴任生活の末、家族がいる東京に戻ることを理由に会社を辞めた。家族にとって、取り分け子供たちにとって、このままで良いはずはないとの思いからであったという。
その後、アメリカの会社をひとつ経験した後に、この会社に移ってきた。早いもので、今年で六年になる。
百合は、ふたり分のコーヒーをいれて会議室に入った。
「ありがとう。でも、これからは自分のコーヒーは自分でいれるから気を遣わなくていいよ。それがこの会社のルールだ」
「ルールよりも、いれたい自分の気持ちを優先させただけですから気にしないでください。二川部長とお茶をしたかっただけなんです。お忙しいところ、ご迷惑でしたか」
「いやあ、私も丁度息抜きがしたかったところだ。ここのところ忙しさにかまけて、水沢さんともあまり話をする時間がもてなかったからな。声をかけてもらって嬉しかったよ」
「そうですか、よかった。私も何だかイライラしてしまって。先ほどは失礼しました」
「ああ、若林次長のことだろう」
二川のことばに、百合が驚きの声を発した。
「えっ、わかりますか」
「そりゃあね。先日も社長から注意してもらったんだが、直らないねえ、彼は」
「上がああしょっちゅうゲームばかりやっていたら、営業のスタッフもますます仕事しなくなりますよ、バカらしくて」
「それにしても、さっき、バカか、って口が動いていたのは、彼にもわかったんじゃないのか」
「ええっ、部長気が付きました?」
「ああ、しっかり読めた」
「あら、うれしい。でも、わかってほしかった人にはきっと全然伝わっていないんですよ、間違いないです」
「ははは、そういうものかもな」
「でも、部長凄い」
百合が心を開いて笑顔を見せている。二川には、それがとても嬉しく感じられた。しかし、笑顔を返そうとする間もなく、百合は眉間に皺をよせて二川の目を見据えるようにして話しはじめていた。
「それと、アシスタントの金山さん。今日もまだ来ていないんですよ。ちゃんと連絡あったんですか。もっと、はっきり言ってやった方がいいですよ」
「だがなあ、生理痛がひどくて動けないとか言われちゃ、何も言えないだろう。そういうのって、私なんかにはわからないから」
「でも、そんなの月に三度も四度もあるわけないじゃないですか。びしっと言ってやった方がいいですよ」
「そうだな、わかった」
よほど溜まっていると見える。百合の不満はそれだけにとどまらなかった。
「それから、桑田代理。あの人どうなってるんですか。二川部長に言われたことしかやらないなんて、おかしいですよ。自分の守備範囲を自分で決めちゃって、それ以外のことには関心を示そうとさえしないし」
「ああ、正直彼には随分手を焼いた。それでもどうにかここまでやってきたんだ。今でも決して褒められた状態じゃないから、弁護をする気はないんだが、あれでも随分良くなったんだよ、あいつにしてはな」
いささか困ったという表情を浮かべながら、二川は話し続けた。
「以前、営業に田代って課長がいてな、二つ三つ年が上だっていうだけで随分と先輩風を吹かせて、桑田をひっぱりまわした。だから、その頃の彼は、営業受けがいいかどうかだけを判断の基準にして仕事をやっていたんだ。田代の考えを形に置き換えるのが自分、いつの間にかそんな図式の中にどっぷり浸かっちゃってな。毎日のように言い合いだった、彼とは」
「そうだったんですか」
百合は、自分も営業の言うことを少しは聞いた方がいいんじゃないかと二川に言った先日のことを思い出して、首を竦めた。
「営業が喜ぶ仕事をするのがマーケなんじゃないですかって、結構食らいついてきたんだが、それじゃマーケがこの会社にある意味はどこにあるんだって、時間をかけて話をしたよ。営業は毎日のように目の前のお客さん、それもエンドユーザーならまだしも、ほとんどの場合ディーラーの社長や営業所の所長あたりになるんだが、そういう人たちからああしてくれこうしてくれと言われている。その辛さもわからないじゃないが、相手の言うことを聞くだけじゃなくて、営業からもこちらの考えをちゃんと説明してもらいたいと思うんだがね。確かにマーケとしても、その話を聞いて仕事に役立てることは大切なことだが、仕事はそういう相手をなだめるためにするものであったり、言い成りになってするものであってはいけない、私はそう思うんだ。だから桑田にも、もっと大きな目的に向かって時間と予算を使い、成果を上げることに目標を定めて欲しいって話をした。それこそ、何度も諭したさ。それなのに彼は、直ぐまたこそこそ営業の言うことばかりをやろうとしていた」
さもありなん。百合は大きく溜息を吐いた。
「新車の仕様や装備、ううん、それ以上に価格なんかを決めるときには、一番の敵が営業だったりすることがよくありますよね。ライバル車よりも安ければいいみたいなこと、平気で言うし。そんな口車に乗ったら、取り返しのつかないことになっちゃいますよ」
「連中は、すぐ目先の利益にとらわれるからなあ。まあ、販売現場に近いからやむを得ないとも思うのだが、輸入車がその線を辿ってうまくいくわけがないな。ディーラーのショールームやサービス工場は数だけでいっても、まだまだ十分とはいえない。それでも、お客さんとは昔から隣近所の付き合いみたいにやってきた国産メーカーのディーラーを相手にビジネスを展開しなければならない訳だからね。より質の高い満足を提供することでブランドの価値を高めるっていうことに、もっと真剣に取り組んで行かないと、その内に大変なことになる。だから、顧客管理システムの構築や体系的なセールスマントレーニングの実施に本腰を入れて取り組んでくれって言ってるんだが、そういうところは全く気にもならないようなんだな。必要ならコストをかけてでもやるべきだと私は思うんだが、連中にとって必要なコストは接待費ばかり。信じられんわな」
二川も、小さな溜息が出るのを、止めなかった。気持も塞ぐ。それでも、百合がいれてくれたコーヒーから立ち上る湯気に顔を近づけて、甘い香りを楽しんでいるようだった。鼻先にカップを寄せ、目を閉じたまま、二川はまた話しはじめた。
「わざわざ遠いところをクルマを走らせて来てくれるお客さまに、我々としてしなければいけないことって、安けりゃいいっていうこととは全く違う次元のものだと思うんだが。営業が言うことといえば、まずは売れないことにはその先がないんだから、そんなことに予算を割かずに値引きやおまけを付けることに金を使え、だろう。私はそんなことに耳を貸す気にはなれんのさ」
「部長も、大変なんですね」
「まあね。それでも私が折れないものだから、少しずつは良くなってきたんだ、これでも。とはいえ、この戦いは、まだまだ続くんだろうな」
「同じように、桑田代理も少しは変わってきたということですか。それでも、闘いが終わったわけじゃない、というわけですね」
百合の溜息が、二川の口元に笑みを呼んだ。
「実はね、彼の場合は、田代が会社を辞めたのがきっかけだったんだ。あまり外では言えない話なんだが、あいつ、会社の備品を持ち出して、ネットオークションにかけて売りさばいていたらしいんだな」と言ったところで、「はっはっは」と笑いはじめた。
「いくら管理がずさんな会社だとはいっても、目に見えるものが無くなれば、騒ぎ出す人間が出てくるのは当たり前のことだ。当然のように辞めさせられて、姿を消した。それからというもの、桑田も私の言うことに少しは耳を傾けてくれるようになった。まあ、すぐに手綱を緩めるわけにはいかないが、あまり追い詰め過ぎてもね。潰れかねんだろう、彼みたいな人間は」
百合も笑って、「潰してしまっても、いいように思いますけど」と、思うところを口にした。それを、「ははは、なかなか言うねえ、水沢さんは。まあ、もしもその時が来たら、だな」と二川が軽く受け流す。弾む会話を締めくくったのは、百合の「もう、その時ですよ」のひとことだった。
二川が、時計に目をやり椅子から腰を上げた。
「さあ、そろそろ席に戻るか、君も忙しいんだろう」
それでも百合は言い足りないのか、ひとこと付け加えずにはいられなかった。
「二川部長、やる気を失うようなこの雰囲気をどうにかしてくださいね。その気になれば、今ある仕事なんてどうってことないんですから」
モンドがこの地上に持ってきた天からの資料は、そこで終わっていた。
それにしても、この時代で何が難儀かといって、飛び交う英語やカタカナ言葉の多さほどモンドの手を焼かせるものはなかった。辞書が欲しいと、短い間に何度思わされたことか。いくらポケットを探ったところで・・・、あるはずがないと思ったものに手が触れた。
「ほう、これも管理官が言っていた、念ずれば、の内のひとつなのでしょうか。便利なものです」
しかし、ことばは耳に届いてもスペルまではわからない。これでは、辞書を引くことさえできない。しかたなく、またポケットに戻すだけだった。
さてここから、移民管理官の机に置かれたモニターで覗き見た、この娘と謎の男が何やらややこしい話をしていたあの喫茶店の場面までは、約六カ月間。この先、何が起きるのか。それを、サブとふたりで、実際に確かめてゆかなければならない。
モンドは、いよいよ始まるんだなと褌を締め直して、サブに声をかけた。
「いつまで寝ているのですか。そろそろ、あの娘が会社で働きはじめる頃合いです。さあ、わたくしたちも行きましょう」
どうにか目を覚ましたサブだったが、すぐにはモンドの気の入れようが理解できない。それでも、額に垂れ下がった昆布のような髪をかき上げながら、後を追ってきた。
(三)
モンドにも、少しは会社の動きがつかめるようになってきた。とはいえ、自動車業界や世界市場のこととなると、はたしてどこまで理解し納得することができているのか、自信がなかった。
何しろ自分たちが生きてきたあの時代は、モンド自身がそうであったように、国中が欧米に右に倣えで、良いところも悪いところも区別なく、ただ取り入れることだけに遮二無二なっていた頃合だ。仕組みや基準は日々改められ、それらが広く知れ渡る頃にはまた新たな骨組みが立ち上げられる。だから、頭で理解するよりも体で反応することを優先させないではいられなかった。これでは、じっくり考え納得するという癖が、付くはずがない。
「そういえば、〝変化は進歩・発展〟と勘違いして、みんながみんな日本の躍進を悦び祝い、まさに酔っぱらいも同然の日々を送っていましたからねえ」と、モンドは懐かしみつつも、恥じ入らないではいられなかった。
何をどう思い違いしたか、「護憲運動か何か知らねえけどさ、浮かれてみんなと一緒になって暴れてたら、翌日には第三次桂内閣が総辞職してた。おいらが世の中を変えたんだって思ったら、なんだか嬉しくなっちまって」と、訳もわからずに暴動に加わったサブまでもが、面白おかしく思い出話を口にした。
そんなだから、着々と勧められた政府の全体主義的体制固めにも、批判の目を向けることさえできなかったのだと、苦い思いに苛まれた。これには、返すことばもない。治安維持法が、その後の日本の歩む方向を決定づけたのは間違いなかった。たしかに反省すべきは、流れに乗りすぎたということだったかもしれない。モンドは、思わず「もう少し冷静に考える余裕を持つべきでした」と、悔いることばを口にした。
何を思ったか、ここでもまたサブが、思い出のひとこまを口にしだした。それも、いつになく熱く。
「それだけじゃねえですぜ。なんかさあ、思い遣りとか優しさとか、そんな日本人の心まで捨てようとしていたんじゃねえのかなあ。誰が、とまでは言わねえがよ」と、吠えた。
たったひとつ、赦せることがあるとするなら、勘違いとはいえ、どれもが日本のためだと信じてのことだった、ということか。
「そうだったよなあ」と、こういうときだけは、ふたりの声が揃う。
明治、大正、そして昭和。それは、初めて手にした真っ白なカンバスのようなものだった。誰もが心躍らせて、絵の具を搾り、絵筆を走らせたのではなかったか。無知と同程度の前向きな善意で。無茶というより、これほど無謀なことはなかった。だからといって、時の流れを遡り、新たな絵に描き直すことは許されない。ましてや、時代のせいだけにしてよいはずがなかった。
時は現代、この日本という国が追い求めているものは、いったい何なのだろう。モンドにとって、それが大きな謎だった。仕事に燃える水沢百合でさえ、昨日まで世話になっていた国産自動車会社を辞めて、今では敵とも言える外国企業に勤めている。そして、平気な顔をして元いた会社を追い抜くための算段をつけようとしているのだ。それも、命懸けで、というほどに全力で。
「国の一存で戦に駆り出されたあの時代の方がよかったとは、思いません。管理官が言うことばを引き合いに出すまでもなく、命は何よりも大切なものです。しかし、どうせ懸けるのであるならば、よその国より自分の国に、そう思うのは当然ではないでしょうか」
「たしかになあ」と、サブもうなずく。ところが今日のサブは、いつもと違って、少しばかり冴えていた。
「それでも、おいらたちの時代だって、自由だ平等だを謳ってた連中の目指していたものが、はたして本当に国のためということだけだったかどうか、疑わしいものでやんすよ。結局は、自分のためだったりしてさ。この姉ちゃんと、それほど違わないんじゃねえのかなあ」と、中途半端に聞きかじった知識の上に自分の意見を重ねる。素直に、偉人や英雄を認めることをしない。世の底辺で生まれ育ったサブには、こういうところがあった。
街路樹が色付き、空も随分高くなってきた。そんな秋の日の午後、俄に、社内が慌ただしくなってきた。桑田までもが走り回っている。
「何やら、どちらさんもお忙しそうですね」
他人事のように語る営業部次長若林のことばを借りるまでもなく、モンドはマーケティング部内の様子の変化が気になっていた。早速、またキャビネットの上に腰かけて、オフィスの様子を窺うことにした。これは資料に書き記された過去の出来事ではない。何がいつ起こるかも知れない現実の世界でのことである。片時も、目が離せなかった。
「本当にこの人たちは、何を考えて、どう動こうとしているのか、わたくしにはさっぱり掴めません」と独り言ちながら、二川相手に非難めいたことばを口にしている百合の動きを目で追った。
「何をお考えなんですか」と、えらい剣幕である。
「この期に及んで出展することにしたと言われても、二週間後ですよ、時間が無さすぎます。大体、この不況の真っ只中に、進んで参加するメーカーなんて、今のところ、国産の四輪四社と二輪が二社だけ。輸入車に至っては出展なしです。自工会も、失敗を認めざるを得ないだろうって、この間の会議でも笑い飛ばしたばかりじゃないですか」
かつては世界の三大モーターショーともてはやされた東京モーターショーも、最近では躍進著しい中国やインドといった国に押されて、メッキはすっかり剥がれ落ち、見る影もなかった。だから尚のこと、自工会を中心に業界は必死になって巻き返しを図っていた。突然、前評判を高めるためのプレイベントを、お台場のファッション系商業ビルのフロアを借り切って行うことが、発表された。ところが、世の中そううまくいくものではない。
それは当然のことだった。市場が減少すれば、自ずと各社の活動も絞り込まれる。百合の会社も、モーターショーを主催する自工会に協力すべき立場にあるが、それだけの目的にしては費用がかかり過ぎるということで、プレイベントへの出典は見合わせることにしていた。
ところが、何を考えてのことか、土壇場になってその決定を、誰あろう部長の二川自身が覆したのだ。
「何も言わずに動いたことは謝る。出展申し込みの締切期限ぎりぎりまで悩んだ末の決断だ、理解してくれ」と、二川が部員全員を集めて説明しはじめたのは、その日の就業時間も終わろうかという夕刻のことだった。
「見込める効果の割には、手間も金もかかりすぎる。みんなも知ってのとおり、それが不参加を決めた理由だった。しかし、正直に言うと、私はその頃からこれでよいのだろうかと割り切れずにいた。そして、今頃になってこんなことを言い出して本当に申し訳ないんだが、考えれば考えるほど、やはり参加するべきではないかと思うようになってきたんだ。それで、社長に相談した」
部長の二川が、一度下した判断を取り下げることはめったになかった。それだけに、驚かされた。
「それにしても、事後はないよな。実際に手を動かすことになるのは、こっちだぜ」と、桑田代理が手厳しいことばを口にする。百合も黙ってはいられない。立ったまま、「そう思われた理由を、具体的に聞かせてください」と、詰め寄った。
二川が、「聞いてくれ」と話しはじめた。「今更言うまでもないことだが、我々は、新参で弱小の海外メーカーだ。そんなところが、モーターショーの本番で、他の一流メーカーを相手に戦っても、勝てないだろう。へたをすれば、埋もれてしまうだけだ。だが、よそが手薄のプレイベントなら、うまくすれば我々のブランドと商品力をアピールすることができるかもしれない。それも、自工会を助けるという恩を売りながらであれば、それこそ一石二鳥じゃないか」
半分賭けのようなことにもなりかねない。二川が取る普段のやり方ではなかった。それだけに、決断の大きさが見て取れる。ここで反対の声を上げる者は、誰もいなかった。
社長室に忍び込み、決定までの経緯を目の当たりにしたサブが、「このおっさん、なかなかやるじゃないっすか」と感心していた。
「何がおもしろかったって、このおっさんの言い方というか、理詰めの話し方がアニキそっくりなんでやんすよ。こいつもやっぱり、詐欺師なんでやんすかねえ」
なるほど、サブらしい捉え方だった。まんざら外れてはいないかも知れない、とモンドは思った。
「たしかに。人の心を掴むという点においては、一流かも知れませんね」
そんなふたりの読みどおり、このままではプレイベントの開催自体が却って逆効果にもなりかねないと心配を募らせていた自工会からは、大いに歓迎された。
「これは大きな貸しになる。貸しは必ず返してもらうさ」と、二川は自らの目論みを百合に打ち明けた。その辺りについて、二川に抜かりはなかった。
横で聞いていた桑田が、「部長、さすがですね」と、すかさず持ち上げにかかる。これではサブの役回りそのものだ、とモンドは開いた口が塞がらなかった。
それからの日々は、あっという間に過ぎていった。既存のものに手を加えて専用のパンフレットに作り替えたり、販売店に引き当て済みの車両の中から抜き取った一台を展示会場に搬入したりと、プレイベントの準備に当てる手間と労苦は思いのほか大きかった。
二川も、自分のところのブースをどう作り上げるか、自ら施工会社を呼んで打ち合わせを繰り返していた。
その分、成果には十分な手応えが得られた。この二日間のイベントを通して、千にも近いアンケートと見込み客情報を集めた。現行販売車種とはいえ、この会社にとって、実車を前に説明を聞いてもらう機会が持てたことは、何ものにも替え難いほどに貴重なことであった。その中でも取り分け大きな関心を引いたのが、パンフレットの表紙にこっそり忍ばせた『乞うご期待!来春発売予定の新モデルを先行展示』というティーザー・コピーだった。百合も質問攻めに合ったが、そこは「モーターショーまでのお楽しみ」と煽ることばを添えるだけで、敢えて説明はしなかった。
自動車専門誌のwebサイトでは、リアルタイムで会場の様子が映し出された。その中でも、インタビューに答える百合のことばが話題を呼んだ。
更に、暫くすると自工会が定期的に発信するモーターショーのニュース・リリースの中で、今回のプレイベントの実績が特集された。ハイブリッドや電気自動車といった環境対応型の車を前面に打ち出す国産メーカーが初めの頁で取り上げられているとはいえ、その次に、百合の会社が唯一の輸入車メーカーとして大きく紹介されていた。普通であれば、あり得ない扱いである。
「元は十二分に取った」
二川が、嬉し気に成果の大きさを声に乗せた。
「そんな程度じゃないと思います」と百合も驚くほどに、それは大きな効果につながった。ディーラーからも、「お客様からの問い合わせや見積依頼が増えた」と、喜びの声が社長宛に寄せられている。
「文句や苦情で溢れていたうちの会社が、感謝やお褒めの言葉をいただくなんてな。こんなの、初めてじゃないか」と、桑田までもが嬉しがっている。
いとも簡単にそんなことをやり遂げる。二川の仕事の楽しみ方を、百合はこの時になって初めて知った。
「この人はただ者じゃないわ」
百合の二川を見る目が、また大きく変わったようだ。
モンドは、サブの肩に手を置いて「苦労が多かった分、さぞや喜びも大きいことでしょう」と、頑張ることの大切さを説いた。「それにしても・・・」と言いかけたところで、どうにか「おまえもこんなふうに仕事ができれば良いのですが」ということばを呑み込んだ。
「いずれにしろ、よかった。すっかり昔の元気を取り戻したようじゃないですか」
そんなモンドの語りかけにも、サブはどう答えたらよいのかがわからないようだった。ろくに資料に目を通してもいないのだから、過去の百合がどんなだったのか、それさえも知りようがなかった。
「さて、いよいよです。ここから先は、目を離すんじゃありませんよ。この辺りから場面は大きく動くはずなのです」
管理官が言っていた。資料の内容は、記憶を辿ることも含めれば数年間に及んでいるが、決着は、せいぜい数十分のうちになされるはずだと。だから、まだ半年近くあるとはいえ、今のうちから百合とその周辺の動きに目を留めておくに越したことはない。なにしろ、やり直しがきかない仕事である。モンドは、油断大敵と、肝に銘じた。
本番のモーターショーは、想像以上の盛り上がりを見せた。ギリギリではあったが、来春発売を予定している新型車の展示も間に合った。商品説明の応援にと全国のディーラーから集まったセールスマンも手を焼くほどに、来場者の注目を集めた。すると、それが呼び水となって、従来からの販売車種にも関心が高まる。驚くことに、普段はコンピュータゲームに明け暮れている営業部の面々までもが、総出で対応に当たってくれた。
地方のディーラーからも、東京まで来られない多くの客がショールームに足を運んでくれているという嬉しい知らせが寄せられている。
そんな中、百合たちは早くも次の施策に向けて取り組んでいた。熱を増すクリスマス商戦を当て込んだ年末の拡販キャンペーンの準備だ。今まさにモーターショーで掻き集めている見込み客を、一気に刈り取ろうという目論見である。せっかく高まった購買意欲も、時間が経てば冷めてくる。ここで休んでいるわけには、いかなかった。
広告表現の案もまとまり、後は計画通りの媒体投入を実施するだけとなっていた。
しかし、事はそう思いどおりには進まない。モーターショーのプレイベントに参加した付けが、ここで回ってきた。当初予定していた、このキャンペーン予算が削られたのだ。
それでも、二川は慌てない。
「金がないからといって遊んでいる訳にはいかない。今までのように広告代理店や外部の業者に一括委託できないなら、自分の体を使ってやってゆくしかないだろう」と檄を飛ばした。
モンドにも、この時代の仕事の進め方について、ようやくわかってきたところがある。どうやら、通常この手の会社でマーケティング活動を展開するということは、まず調査会社を使って市場の情報や顧客のデータを収集・分析するところからはじめるのが普通のスタイルのようだ。次に、それらを事前に定めた会社の目標や予算に照らして、具体的な内容を検討する。それ以降も広告表現への落とし込みや、パンフレットやDM製作とやることは幾つもあるが、そういった一連の作業を取りまとめるのが広告代理店の仕事というわけだ。その中でも最も金額が張るのが、実際に広告を打つ段に発生するテレビCMの放映料や新聞広告の掲載料である。
「しかし、今回ばかりは、その金がないということですか」と、モンドも肩をすぼめた。
多くの場合、こういう事態に陥ると仕事が止まる。残念ながら指をくわえて見ているより他にない、となるのが普通だった。この会社でも、営業の連中であればこんな時には何もせずに一日をブラブラと過ごすだけ、ということになるのだろう。百合にしても、ここまでくるとお手上げかと、諦めかけていた。ところが、二川は違った。部下を集めて、ひとしきり演説をぶった。
「広告ひとつ打つ金もないっていうんじゃ仕方ない、って諦めるのか?目的は何処へ行った。そのための手段は、ひとつだけじゃないだろう」と、迫る。
その声の勢いに、「まるで、自分自身に言い聞かせているような言い方ではないですか」と、モンドでさえ怯みそうになっていた。百合も、目を見開いて二川の顔を見詰めている。
「そこでだ、それをディーラーにやってもらったらいいんじゃないかと思うんだが、どうだろう。我々がディーラーのオヤジさんたちに主旨と実行する意義を説いて回って、自社での広告出稿をお願いするんだ。幸い、こちらには既に制作した質の高い原稿がある。それを使って実施してもらうようにすれば、小さな取り組みの寄せ集めだとしても、お客様の目には全国統一キャンペーンを告知する一連のメーカー広告に見えるんじゃないか。そうなれば、世間に与えるインパクトも期待できるだろう」
今手元に残っている予算は、既に進めてきた原稿制作費の支払いに当てるだけで、ほとんど使い切ってしまう。ここから先は、各ディーラーの負担でやってもらおうというわけだ。
百合には、これまで広告は本社 資本関係はないが、どういうわけかディーラーはこの会社をそう呼んだ の仕事と頼り切ってきたディーラーが、そう簡単に乗って来るとは思えなかった。それで、「ディーラーが身銭を切ってまで、乗ってくるとは思えないのですが」と、思うままを口にした。
「たとえば、こういうのはどうだろう。一社一社に割り振ったらまあ大した援助の額にはならんかもしれないが、営業部の販売促進支援金を使ってもらうんだ。更に、うまく結果を出すことができたら、その成果に応じて報奨金を出す。そう約束してやれば、彼らも動くんじゃないか。なあ、やってみる価値はあるだろう」
販売台数の伸びに合わせて報奨金を出すのは、いつものことだ。社内でも、これが問題視されることはないだろう。しかし、営業部が「はい、そうですか」と、自分たちが握っている虎の子の販売促進支援金を差し出すとは思えない。それに、これで効果が上がらなかったら、責任は誰が取る。
「また人の金を当てにしてるんですか、マーケは」
今回のアイデアを営業企画会議に乗せたときに発した若林次長の第一声は、辛辣だった。
「たまには人に迷惑をかけずにやれないもんですかねえ。こんなことじゃ営業活動もまともにできやしない」
「何が営業活動だ」と言いたいことばを呑み込んで、百合は会議の進展を見守った。
「さぞや臓腑が煮えくりかえる思いでしょう」と、モンドも気の毒がる。それに引き替え、こんな時にも桑田代理は知らん顔を決め込んでいた。
「これはあなたたちの仕事よ。少なくとも商品企画の私の仕事じゃないわ」
そんな声にならない百合のことばが、モンドにも聞こえるようだった。思わずついた溜息に、「どうしたんですか、イライラしちゃって」と、桑田が小声で聞いてくる。
「あんたには分からないわよ」
呆れるばかりで、それ以上のことばを口にする気も起きないようだ。
二川にとって、営業の連中をぎゃふんと言わせるくらいのことは簡単だったに違いない。本来は先へ向けての活動のために使われるべき支援金を、彼らは自分との人間関係を高めるだけの目的で、各社が既に実行してきた過去の活動経費の一部を肩代わりするというような使い方で浪費していた。ディーラーの社長に尻尾を振っていると言われても仕方のない使い方だった。しかし、それをここで言ってしまっては、「マーケがちゃんとやってくれていれば我々だって好き好んでそんなことをしなくたって済むんだ」と話が意味のない方向に飛躍するのは火を見るよりも明らかなことだった。だから口を閉ざしているのだ。百合も口を開かない。
「こりゃ、なかなかの見ものでやんすね」
まるで試合開始を待ちきれずにいる野球少年のように興奮して、サブが身を乗り出した。
「まあ、助けると思って協力してくださいよ」
へたをして営業が背中を見せることにでもなれば、ことがひとつも進まなくなる。だから、ここは我慢のしどころと、二川は頭を下げた。
「マーケとしても、ディーラーの社長さんに説明したりと走り回りますから。少しでも販売につながればと思っての企画です。実績が上がれば営業の手柄になるじゃないですか」
〝営業の手柄〟、この一言で会議の雰囲気がガラッと変わった。
「仕方ないなあ、あとは頼んますよ」と捨て台詞を吐くことだけは忘れない。若林を先頭に営業の連中が席を立つ。
ドアが閉じると、溜息交じりに百合が口を開いた。
「相変わらずですね」
「まあ、放っておこう。社長には私が説明する。早速、我々で手分けしてディーラーへの説明に当たるとしよう。営業に任せていてはまとまるものもまとまらなくなってしまうからな。さあ、覚悟を決めて取りかかるぞ」
各ディーラーによる地方紙への広告出稿。とはいえ、各社ばらばらに進めたのでは、手間がかかりすぎる。各社の年間出稿量はどこもそれほど多くなく、料金交渉も強気に押すことができない。却って高くつくことが予想された。おまけに、デジタル化が進められているとはいえ媒体各社によって入稿原稿のサイズやデータの指定メディアなどが微妙に異なり、その対応は手慣れた広告代理店に一括で任せた方が合理的である。ここは東京に本社を構えるこの会社が、全国の新聞社に顏が利くひとつの広告代理店に委託するしかない。しかし、ディーラーの予算もけっして潤沢というわけではない。いくら集めたところで、電通や博報堂といった手慣れた一流どころを使えるだけの金額にはならない。やむを得ず、二川が持つネットワークの中から安くやってくれるところを探して、頼むことになった。
そんなことから、今日も二川は広告代理店との打ち合わせに追われていた。百合や桑田も聞いたことがない名の、会社だった。途中からふたりも加わって、告知内容の検討を進めた。そんなマーケの残業を尻目に、モーターショーの会場勤務さえ部下にまかせっきりの若林次長は、今日も定時で退社していった。
「あいつが困っても、絶対助けてやらないんだから」と百合が恨み節を唸れば、桑田も「手伝いに、顔を出すくらいのことをしてもいいのになあ」と、まだまだ友達感覚の抜けきらないことばで伴奏を奏でる。それも百合には、「冗談じゃないわ、顔も見たくないわよ」と気に入らなかった。
そこまでの様子を目の当たりにして、モンドが唇の端に笑みを浮かべて膝を乗り出した。
「いやあ、いよいよ面白くなってきましたよ。それにしてもなかなかなものですね、この部長さん」
モンドの左手が、サブの右肩をポンとたたいた。それでも、サブは相変わらず納得いかないような顔をしている。
「おいらもそうは思うんだけど、このまんまでいいんですかねえ」
「どうしました、サブ。何か気になることでもあるのですか」
「だってですよ、水沢百合はそのうち死のうってんでしょ。それを食い止めるのが、おいらたち救急救命チームの仕事なわけで・・・」
「そうです。よくわかっているじゃないですか」
「でもですよ」と、首を左右に折りながら、考え込む。
「どこをどういじって死なせないようにすればいいのか、おいらにゃさっぱりわからねえ。そればかりか、この姉ちゃんすっかりやる気を出してるし。いいんですかねえ、このままで」
「いいんですかねえって、おまえ。仕方ないじゃないですか。どうすればいいのかなんて、誰にもわからないのですから。ここは、探りを入れていくしかないのではありませんか」
「なんだ、兄貴にも分からないんですかい。大丈夫かなあ」
そこまで言われても、言い返すことばさえ思いつかないモンドには、丸いメガネのレンズを拭くことくらいしかすることがなかった。
翌日の朝。目には見えないサブひとりを従えて、百合が出社した。モンドは、週に一度開かれるという部長会を覗き見るために、早朝からひとりで会社に来ていた。
まだ八時を回ったばかりだというのに、二川が部長席で難しい顔をして何やら資料に目を通している。
傍らで考え事をしているモンドを見つけて、サブが歩み寄った。
「会議の方は、どうでやんした」と問いかける。どうしたことか、いつになく浮かぬ顔でモンドが、「それがな」と答えようとしたその時だった、トイレで化粧直しを済ませた百合が、「おはようございます」と、二川に挨拶の声をかけた。
「やあ、おはよう。どうした、今日は随分早いじゃないか」
担当の桑田や金山だけでは手が足りない。先日決まった年末の拡販キャンペーンでも、百合が相当の部分を受け持つことになった。
「ええ、十時までに千葉のディーラーを訪ねることになっているものですから。二川部長は?」
「朝の部長会があっさり終わったんだ」
営業の若林次長が、横目で二川部長の顔を盗み見る。その歪んだ唇の左端には、含みのある笑みが浮かんでいた。
この会社、本国の首都に本社を構える親会社のやり方で運営されている。時差はない。それで、部長会や全マネージャーが参加するミーティングなどは、決まって本社と同時刻の朝の七時から行われることになっていた。もしもどちらかで、何か徒ならぬ突発事項が発生したとしても、本社の始業に合わせて互いに行動を起こすことができる。それにより、素早い対応が可能となる、と考慮してのことであった。いつでも、目と意識が向けられているその先には、本社があった。
都内、それも会社近くのマンションに住む本社からの駐在員ならいざ知らず、同じ東京とはいえ郊外の住宅地から通ってくる二川部長のような現地採用の社員にはたまったものではない。七時と言えば、始発に乗ってやっと間に合う時刻のはずだ。
「そうですか、だったらスタートを一時間でも遅らせてもらいたかったですね」
とはいえ今日が特別で、いつもなら九時前後まで続くのが普通だった。一般社員の多くは、フレックス・タイムの制度を利用して十時前後に出勤してくる。いつの間にか、早朝から会議が行われていることすら、忘れられていた。
「うまいこと了解を取り付けてきてくれよな。あの社長がうんと言えば、まず関東圏は心配いらない。逆らおうなんて社長はどこのディーラーにもいないはずだ。後は関西か。それも明日私が話に行く兵庫くらいだろう、うるさいことを言って来るのは。すまんが、今日のところは頼んだよ」
「はい」
百合は資料を鞄に詰めてオフィスを出た。モンドも「そっちは頼みましたよ。わたくしはこちらに残って、会社の様子を見ていますからね」と、サブを送り出した。
サブの目にも、今日の仕事の成果は上々だった。はじめは何ともいえない不満顔で聞いていた千葉の社長も、美人の百合が相手となれば、それ以上気が悪くなろうはずもない。ふたりだけの昼食を楽しんだ寿司屋のカウンターでは、次第に機嫌を取り戻し、「概ね賛成。しかし金がかかるわな」とか言いながらも、自ら近隣ディーラーの社長に電話をかけはじめた。その上、「まあ、そういうこっちゃ。あんたんとこも一緒にやってもらわんと困るぜ」と、百合の応援を買って出てくれた。
帰りの電車を待つ駅のホームで、「これでひと安心」と、部長の二川に報告を入れようとスマートフォンを手に取った。ところが、電話に出た金山智子が言うには、「社長室に行ったきり、戻ってこない」とのことだった。
「だったら、桑田代理はいる?代わってちょうだい」
モンドの目の前で早くも帰り支度をはじめていた桑田が、面倒臭そうに受話器を取る。百合はひと通り今日の成果を話し、二川部長に伝えておいてほしいと頼んだ。
「えっ、オレもう帰るんだけど」と嫌がる桑田。そんなことに構ってはいられない。百合は、「じゃあ、あたしがこれから帰ればいいっていうわけ?あなた、ここ何処だと思っているのよ」と詰め寄った。しぶしぶ「わかったよ、伝えとく」と答えた桑田だったが、突然、何を思い出したか「そうだ」とことばを繋ぎ、「ところで水沢さん、話、聞いた?」と問うようなことばを口にし出した。
いつもは必要最小限のことしか言おうとしない桑田代理が、珍しく百合との電話でそれ以上のことを話そうとしている。
「いえ、何か?」
一瞬の間を置いて、桑田は「すぐ、かけ直す」と受話器を置いた。周囲の耳を気にして、場所を変えようとしているのだ。これは、よほどのことに違いない。程なく、百合の手元で呼び出し音が鳴りだした。画面には、桑田の名が表示されている。
「もしもし、何かあったの?」
「二川さんの首、飛ぶかもってよ」
「何よ、それ」
桑田代理もどこから話したものかと考えあぐねているようだった。暫くの間、ふたりのスマホは、ことばを伝えるという最低限の機能さえも果たせぬままに、互いの電波を探り合っていた。
続く説明が、これまた全くといってよいほどに要領を得ない。それでもどうにか、今朝の部長会で二川部長が社長に楯突いたということだけは伝わってきた。
「そんなことがあったのなら、あのとき言ってくれればよかったのに」
なぜ朝の部長会があっさり終わったのか、その理由も訊かずに飛び出したのは、自分の方だった。営業の若林次長の歪んだ唇の左端に、含みのある笑みが浮かんでいるのを認めていながら。
会議は、定刻にはじまった。席を立った二川を追って、モンドも会議室の隅に潜り込み、それからの一部始終を目撃した。
「社長。お言葉ですが、この件はもうこれ以上検討する余地はありません。先日もご報告したとおり、先方に調査を二度かけましたがパートナーを組むような相手ではございません。向こうにそれだけの機能と財力があるというのならまだしも、どこをどう探しても何一つ出てきません。それこそ、やる気さえ感じられないというのが、正直なところです。話を進めるだけ無駄ですし、下手をするとこちらのイメージを下げることにもなりかねません。社長もそのことについては、既にご理解いただいていると思っておりましたが」
それで引き下がるくらいなら、はじめから会議の議題にも上げない。社長は「あなた、これは話してなかったことだけど、相手は本国本社の役員の親戚が経営している会社だよ。是非うまくやってくれ、わたし、そう言われたよ、直接だよ、本人からだよ。だから、このままにはしておけないよ」と、引き下がらない。それでも、二川は顔色一つ変えなかった。
「いや社長。このままにしてください。ただでさえ今やらなくてはいけない仕事が山積しているのですから。こんな時に、そんなことで貴重な労力と時間を浪費する訳にはいきません」と踏ん張った。その後も、「しかしです、二川部長・・・」と言えば、「まだそのようなことを仰しゃるのですか・・・」と切り返した。そんなことばのやり取りが、何度繰り返されたことか。
「とは言っても、なあ・・・」と、困り果てる社長。
「どのようにおっしゃろうと、この件に関してはお受けできません」と、譲らない二川。
何とも、アジア的感覚の話だった。同じ外資でも、合理的な欧米の会社であればまずあり得ない内容だろうと思われた。二川は呆れ、社長の困惑は消えなかった。ふたりの会話はそれ以上続かず、沈黙が方向の異なる二つの溜息に取って代わった。
会議は、重い雰囲気を漂わせたままに終了した。
桑田代理から百合に伝えられた内容は、もっと大雑把なものだったが、百合は持てるイマジネーションをフル稼働して、少しでも事実に近付こうと努力した。そこから導き出された結論はひとつ、「ここで直帰するわけにはいかないわね」と覚悟を決めることだった。
モンドは、既に読み終えた資料を通して、最初に決定が下された際の成り行きについても知っていた。
「この社長さんは、あのとき下した自分の判断を、忘れてしまったということなのでしょうか」と、呆れるしかなかった。
この話、関西圏にガソリンスタンドのグループを運営する企業が、百合たちが扱うこの会社の車の販売を手伝うことができると、本社の役員経由で持ち込んできたところに端を発している。二川の意見によれば、 もっとも、これは個人の意見レベルの話ではなく、自動車業界全体の常識ともいえる事なのだが、 そもそもガソリンスタンドの片隅に新車を展示することでさえブランドイメージ上大きな問題だった。ましてや、ロイヤルティに欠けるスタンドマンに自分たちの車を販売し、質の高いサービスを提供することができるとは思えない。日本では、コミッションやマージンの一部横流しで車を売る時代は、とうの昔に終わっていた。どこのメーカーも、車のある暮らしを素敵に演出し、世界トップレベルの品質の高さと行き届いたケアで自社ブランドに対する評価・評判を高めることに躍起になっていた。
「そもそも車は売れれば良いという商品ではない。確かな信頼がなければ未来も無いんだ」が、二川の口癖だった。
百合は会社に着くなり、二川の席に向かった。聞いた話を元に、事の真偽を二川に確認した。サブが、その横に立って様子を窺っている。
問い詰めるような百合の口調に、はじめは驚いた顔で聞いていた二川も、「まあ掛けなさい」と、部長席の前の椅子に百合を座らせて話し始めた。
「元々、車のビジネスで、金だけがモチベーションの源泉だなんて話が気に入らなかった。今の日本で、そんなものが成り立つと思うか」
「まったくですよね、呆れちゃいます」
「しかしそんなことだけ言って、日本の事情に疎い社長の指示を無視する訳にもいかないから、みんなにも協力してもらって一度は先方の経営内容について調査を掛けたり、わざわざ出向いてあちらの現状なんかについても確認してきたわけだ。もう二カ月も前のことだが、結構手間取ったよな。それで、これは全く駄目だという結論に至ったので社長にもその旨報告をしてきた。社長だってわかっちゃいるのさ。でも、本社の役員には勝てない。言ってみれば社長も可哀そうな役回りを演じさせられているってところなんだろうが、いくらなんでも、これ以上無駄を承知で付き合ってはいられない。それで、言うことを言ったってわけさ」
「でも、大丈夫なんですか、二川部長の首」
百合の余りにもダイレクトな表現に、二川は「はっはっは、幸か不幸か、首はほらこの通り今でも繋がっているさ」と言って、ワイシャツの襟に手の平を当てながら可笑しそうに笑った。
「こう言うと女性の君に怒られるかも知れないが、社長も男なんだなって思わされたよ。実はさっき、社長室に呼ばれて話をしてきた。社長が言う訳だ、トップとその直属の部下である部長がこんなことを繰り返していたら、会社が立ち行かなくなるってな。万が一にも今度同じようなことが起こったら社長か私か、ふたりのうちどちらかが会社を辞めるようにしよう、いいかって、そう言うんだ。聞くところによると、本社だったら間違いなく経営トップの言うことを聞かない部下、つまり私のような者は即刻クビだそうだ。それが常識だと言っていた。しかしここは日本だし、向こうにしたって、そうもいかんのだろう。それで、今度は事前に話し合ってどちらかが会社を去ろう、っていうことのようだ。次はお前を首にしてやると言わないだけ、社長も男を示した気でいるんだろう。それならって、受けてきたよ。くだらん事だが、男の意地の突っ張り合いだ、笑っちゃうだろう」
百合は、二川の笑い顔を眩しそうに見つめていた。何よりも、二川が示す仕事に対する姿勢が、単なる上からの評価を良くするためのものではないということを改めて知ることができて、嬉しかった。
「この人となら、これからの道を死んだ気になって力いっぱい歩いてゆくことができる」
百合が浮かべた心の声は、モンドの心にもしっかりと響いていた。
「この娘の気持ちが、わかるような気がします。まさに、ロマンです。いいものですねえ、サブ。そうは思いませんか」と、感動のことばを投げかけた。ところが、サブはよほど久しぶりの遠出に疲れたと見える。足元に蹲り、気持ち良さそうな寝息を立てていた。
モンドには、百合が大切にしているものが何であるかがわかったような気がした。
「鍵は、このあたりにあるようですね」
モーターショーの効果もあって、市場の期待の目は、間違いなくこちらに向いている。幸い、ある意味ディーラーにおんぶにだっこの拡販キャンペーンの準備も、着々と進んでいる。いよいよ、この週末には待望の広告が朝刊を飾り、全国のディーラーで店頭イベントが開催される。ここのところ、顧客から寄せられる声にも、不満や苦情は聞かれなくなっていた。それは、久しぶりに明るい未来を予感させる兆し・・・、のはずだった。
街はすっかり冬支度を終え、喧騒の中にも年末ならではのしめやかさともいえる匂いを漂わせはじめていた。
そんな中、会社に激震が走った。二、三日中に、本社が〝決断〟とも言える日本市場に対する来年度以降の新たな三カ年計画を打ち出す、というのだ。はじめは噂レベルの話だった。それが、日を追うごとにその信憑性は増し、ついには文書で示された。
掲示板の前で、モンドが呟く。
「こんなことで、この会社は成り立つのでしょうか」
そこに書かれている内容は、凄まじいものだった。達成できない目標を掲げるようなことは金輪際行わない。その代わりに、撤退こそしないものの今後三年間は日本での積極的な販売活動を一切行わない、と言い出したのだ。取りようによっては、低調な販売というあまりの不甲斐なさに業を煮やした本社からの、最後通牒とも取れる内容だった。
「ってことは、死なない程度にじいっと息を潜めていろと、そういうことでやんすかね」と、サブも首を捻る。モンドとしても、「たとえこの週末のイベントが成功したとしても、報奨金が出されることはないということかもしれません。ここまできて、そんなこと、できるものなのでしょうか。ディーラーが黙ってはいないでしょう」と納得がいかなかった。
百合が、握った拳をワナワナと震わせている。腹の底から湧き起こる憤りを、抑えられないのだろう、「やっとこれからというところなのに・・・、馬鹿じゃないの」と、毒づいた。よもや、言うことを聞かない二川部長に対する本社からの報復というわけではあるまいが、これではマーケティングという組織自体の存続さえもが危ぶまれる。まさに、とんでもない事態と言わざるを得なかった。さすがの二川も、頭を抱えた。
程なく次の噂が流れ出した。リストラだ。そして、二川部長に会社の新体制を提案するようにという指示が社長から出されたという。
「こりゃ、罠ですぜ」
サブでさえ気が付く、稚拙な手としか思えなかった。
「どんなものにも、付けようと思えばケチのひとつやふたつは付けられますからね。出された内容を否として、〝無能〟の烙印を押す。その上で追い出しにかかるのであれば、誰も文句は言えません」
気を揉むモンドに、サブが追い打ちをかけるようなことを言う。
「それに、退職金だって出さずに済む。よしんばそれがケチの付けようもないほどに完璧なものであったにせえ、その気になれば、会社はそんなことを望んじゃいないのひとことで、ヒュッと吹き飛ばすくらいのことは造作ねえや。どうしたところで、この部長さんに将来はないってことか」
どこの部署でも、人が集まるところに噂の花が咲き、尾ひれが付いてまた流された。
「まずは、リストラか」
誰もが、我が身に照らして不安を抱えた。
そんな中にあっても、百合は動じなかった。
「これもまた、今後のことを考えるにはいい機会なのかもしれないわね」
二川との仕事は刺激もあって楽しいが、未来を感じさせないこの会社にしがみついていてもしかたない。そう考え始めていた。
「せっかく頑張って来たというのに、これじゃあ何もしないでぼうっとしているだけだった、営業の連中の方が正解だったっていうことになっちゃうじゃない」と、恨み言を口にすることさえ躊躇わなかった。
「馬鹿が賢いなんて、ありえない」
それは、百合にとっては耐え難いことだった。そしてそれは同時に、モンドとサブの常識に照らしても、許せることではなかった。
(四)
会社が揺れた。
二川部長が、身を引いたのだ。
噂はウワサ話で終わらなかった。やはり、将来を見据えた会社の体制固めを社長が二川に指示していたことは、その後全ての従業員の知るところとなった。そのことがマネージャー・ミーティングで社長の口から明らかにされ、社長自身も販売不振の責任をとって十二月末日付で本社に帰任することが発表された。そしてその翌日には、二川部長の退職願が提出され、その日の内に受理された。
そこまでの経緯を目の当たりにしてきたモンドからしてみても、それはいささか奇異な出来事のように思われた。
「わかった気になっていましたが、それは間違いだったようです。わたくしには、どういう仕組みでこの会社が成り立っているのか、さっぱりわからなくなってきました。販売不振の責任を取るにしても、親分と大番頭ふたりが一緒に辞めてしまっては、立て直すことも挽回も、できなくなってしまうではないですか。それにですよ、残ったのが本来であれば責任を取るべき立場にある営業の責任者というのですから、わたくしには何が何やら訳がわかりません」
どうやらこの時代、というよりも、モンドにとってはちんぷんかんぷんの外資系という企業、そしてそれを統括する本国のグローバルカンパニーに勤める人間の目は、日本のためだけにしか働いたことのない人間には見えない、どこか違うところを見ているようだ。
「いったい何を考え、何をしようとしているのでしょうか」
それは、百合の資料を開きはじめた時から感じていたことだった。
それに加えて、愛社精神などというものも、感じられない。盛んにロイヤルティということばは使うけれど、それは、そこに自分が繋がっていられるという喜びや、数字の上で更に高めようとする情熱だけのことで、会社に対する帰属意識とは別のもののように思えて仕方なかった。
関心は、人も羨む高給を手にして、どううまく世の中を渡り歩くかということにだけあるようで、それはまるでゲーム感覚とでもいうようなものだった。
「消される前に、自分からリセットする気に違いない」と、人の口にのぼることばは収まるところを知らない。やるかやられるか、プラスかマイナスかだけが基準のような言い方だった。
退職願を提出した日の夕方。部長の二川は、百合と桑田の課長代理ふたりだけを会議室に呼んで、今回の決断について説明をした。二川は、ここでもまったく、揺らぐところを見せなかった。
「私は、ふたりも知っているように、攻撃型の人間だ。これまで、好きなマーケティングの仕事でいろいろなことを経験させてもらってきた。広告も販促も、そして広報や商品企画も、狙いを定めて常に攻撃する姿勢で取り組んできた。記憶を辿っても、守りに走った経験は一度としてなかったように思う」
胸を張って話す二川の首が微かに前に折れ、ひとつ小さく息を吐いた。そして、ふたりの顔を交互に見て、また話しはじめた。
「この会社の難しさは知ってのとおりだが、それでも随分と自分の考えでやらせて貰った。付き合ってくれた君たちも大変だったとは思うが、間違ったことを押し付けたことはなかったつもりだ」
二人とも、幾分俯き加減に二川部長の話を聞いていた。事の成り行きに流されないようにしなければと、顔に浮かんだ緊張の色さえ、最早隠そうとはしなかった。目だけが鋭く見開かれている。さすがの百合もことばを挟めずにいるようだった。
「私は、今回の話を社長から聞いた時に、これは私が生きていく世界じゃないな、と思った。死なない程度に生き続けることだけを目的にじっとしている。そんなことができる人間じゃないんだ、私は。それで、社長に辞めさせてほしいと申し出た。当然、今後の会社の体制についての提案も辞退させてもらった。そういうものは、残る人間が責任を持ってやるべきものだからね。私の知る限りでは、現在、社長の下で経理とサービスの部長が検討を進めているはずだ。近々発表されるとも聞いている」
興奮気味の顔を二川に向ける百合とは対照的に、桑田の顔には何の反応も見られなかった。そんなことはどうであれ、自分はこれからどうなるのだろうという思いだけが頭の多くの領域を占めているのだろう。
「色々と考えもあることとは思うが、できることなら、ふたりには引き続きこの会社に残ってほしいと思っている。自分にはできないと言って放り投げた私の口から、この会社の将来の発展のためにもその大切な役割を担って貰いたいと言うのもどうかとは思うが、この会社が今後、より正しい道を歩んでゆくためには、今を知っている人間の力が必要だと思っている。何を自分勝手な、と言われてしまうかも知れないが、これが私の正直な気持ちだ。そして、ここから先は君たちの問題だ。後はよく考えて決めてくれ」
二川は、深く頭を下げた。自分自身のわがままとも取れる行動に対する謝罪の気持ちと、これからの将来を担う彼らの活躍に対する期待を込めて、というところか。
「冗談はやめてください」と、噛み付いてもおかしくない局面ではあった。それでも、百合は何も言わなかった。それどころか、二川に向けるその目には、「自分勝手だなんて、そんなことない」とでも言いたげな、憐れみにも似た暖かな光さえ宿していた。
モンドには、「結局は、自分のことを考える以前に、私たちのことを考えてくれていたんですよね」と、百合が叫んでいるように思えるのだった。
会議室に入る前に、百合が桑田に話しかけているのを、モンドは聞いていた。
「お得意の、ヘッドカウントという名のコストカットよ。もしも二川部長が辞めなければ、給料が半分の私たちふたりが辞めなければいけないことになるじゃない。そんな新体制の青写真なんか、二川部長に描けるはずがないでしょう。だから、自分が身代わりになったのよ」
それが、百合の信じるところなのだ。
二川が部屋を出、少し間を置いて桑田もドアを開けた。一人残された百合の顔が、微かに歪んだ。
「ああ言われちゃ、辞めないでくださいなんて、言えないわ。あたしどうしよう」と、独り言を口にする。それでも、答は簡単に出そうになかった。
百合はふと、天井にはめ込まれたエアコンのルーバーを見上げた。
「これって、綺麗な空気の吹き出し口だよね。それなのに、黒く煤けたようになっているってどういうこと?」
独り言は、止まらない。今まで気にもしたことがなかった。
「実は、汚れた空気の吸い込み口でもあったりして。えっ、ホントにそういうことなの?」
それなのに、一度として拭いたこともなかった自分が、恥ずかしくなったのだろう。顔を赤らめ、誰もいない周囲をキョロキョロと見回しはじめた。
「見える外側でさえこの有り様だっていうことは・・・、目の届かないダクトの奥がどうなっているかなんて、押して知るべしって、えーっ、ヤダ、そういうことなの?」
次から次と浮かぶ疑問と想像で、頭の中がいっぱいになる。行き着いた先は、「時には覗いてみることも、無駄じゃないのかもしれないな」というところだった。
何がそう言わせたのか、それはモンドにもわからなかった。そして、それをどうやって実行しようというのか。そこまで考えてのことではないに違いない。それでも、何故か胸の奥に小さな不安が湧き起こったから口にした、ただそれだけのことなのだ。
誰もいなくなった会議室は、経理部の机の島に隣接して設けられていた。財務は本社直結ということで、日本語も話せるからということだけを理由に、取り仕切る部長が本国から送り込まれていた。この日も、三人の日本人経理マンが部長の席を取り巻いて、少し奇妙な日本語を織り交ぜながら、何やら話し合っていた。モンドとサブが近寄っても、誰も気が付かない。
「本当ですか。二川さんも、なかなかですね」と、若手のひとりが驚きの声を上げている。
「日本人も、えーと、何と言うですかこういうのは・・・。そう、したたか、ですね」
なかなか、ボキャブラリーは豊富のようである。
「でも、部長。日本でもあまり聞いたことないですよ、こんな話」
「私、驚きました、ホント。本社、今でも大騒ぎします。二川さん、この前の出張、本社行ったね。そのとき、関係持ったです、相手、本社が息吹きかけたパーツサプライヤーよ。どういうわけか私知らない。だけれど、この人、本社の偉い人こっそり流したはずの裏金の情報、掴んでいたよ。それで、脅したいう話だったね。たまたま通りかかった社員、聞いたよ。日本の自動車メーカーのオプションパーツ作る、それ安く売りさばこう話したの、聞いたよ。ウソじゃないよ、それ提案した、二川さんだよ。輸入販売の会社作ります、それ横浜だよ。私、ビックリよ」と、椅子の背にもたれて、天井を仰いだ。
年長のひとりが「へたをすると、本社の優れたコストカットのノウハウが、流出してしまうじゃないですか」と、思わず大きな声を上げた。慌てる部下に、身振り手振りを交えて、声を抑えるように指示する部長。その割には、自分の方こそ「どんどん流出する、間違いないです。本社のいろいろなノウハウ、あなた、知ってるか。世界一だよ、世界一」と、興奮を抑えきれずに大声を出している。相変わらず、身振りも驚くほどに派手だった。こうなると、もう止まらない。部下も、「これは放っておけないですね」と、声を揃えた。ひとりが、「とんでもない男ですね、二川は」と肩書きも敬称も外して非難すれば、他のひとりも、「部長。その会社、ただのパーツサプライヤーですよね。だったら本社の力で脅せば、どうにかなるんじゃないですか、そんなちっぽけな会社」と攻撃の手を緩めない。残ったひとりまで続いて、「そうですよ。このまま見過ごしていては、まずいことになりますよ。こういうのは、どうせ手を打つなら、早い方がいいんだ」と、部長を煽りはじめる。
ところが、ここにきて部長は顔を曇らせた。
「そうもいかないです。そのパーツサプライヤー、息吹きかけたの、知ってるか? 本社の副社長だよ。関係しているだけと、違うよ。二川さん、そのこと知ってるよ。あなたわかるか、本社の企業体質。縦の関係に楯突けないよ。二川さん、もっと知ってるよ。あなたがたより、いろいろ経験したよ、たくさんたくさんだよ」
それに引き替え、この三人ときたらどうだ。何も知らずに騒ぐだけかと、ことばにしないだけで見下す気持ちが、その目に現れていた。「こんなことに首突っ込む、これ、危ないよ。だから言うよ。私のアイデア、グッドアイデア、言うよ。あなたよく聞く、あなたも良く聞く、あなたはもっと良く聞く、いいか。私もあなたも、それからあなたもあなたも、何も知らない。だから、本社に向かって問題だ言う、しないよ。私、聞いてないよ。あなたにもあなたにもあなたにも、私何も言ってないよ。もしも聞いた思った人いたら、忘れてよ。早く、忘れてよ。私知らないよ。あなたもあなたも、もうひとりあなたも、私知らない言ったの、聞いたよ。だから言ってよ、聞かれたその時、私知らない、言ってよ」
モンドにも理解できないことのないこの話、「そういうことですか。まるで、わたくしたちが生きたあの当時の日本を見ているようではないですか」と、懐かしむことばを口にしていた。
上下関係がはっきりしていると、時に白が黒となり、黒が白となることがある。この会社では、たとえ不都合が生じていると認識された場合であっても、そこに上の人間が関与していると知れば、誰も何も言わないというのが、当たり前のことなのだ。
「今でもあるんじゃねえですかい、こんなこと。この前も、テレビの国会中継か何かで、同じようなこと言ってやしたぜ、たしか」
モンドには、まだこの時代のことがよくわかっていない。それでも、「かもしれませんね」と言った。見てくれだけならいざ知らず、人はそう簡単に変われるものではないということだ。
そんな、本社の仕組みと体質を、二川部長は心得ていたということなのだろう。そして、それを利用した。
モンドが感心して、「二川という男はたいしたものです。自分にとって見逃すことのできないチャンスがやってきたと思ったからこそ、行動に移したということなのでしょうね」と言えば、サブも「躊躇う理由なんかひとつもないってか。なるほど、大したもんでござんすね」と、褒めまくる。
それでも、サブには何か引っかかるものがあるようだった。
「でもなあ・・・」と言いながら腕を組む。「おいらたちは、面白がってりゃそれで済むが、百合ってこの娘はどうなんでやんしょうねえ。一緒に感心していられるとも思えねえんだが」
モンドは思う。これだからサブは侮れない。本能的に、危なっかしいものを嗅ぎ分ける。
それなのに、「まあいいや、どっちにせえ、二川って百合の上司は大物だ、そういうことでやんすよね」と、無理やりいい加減な結論を導き出して、けりをつけようとする。言ってみれば、これがサブの特技であった。
ここからは、すっかり割り切ったサブに代わって、モンドが考える番だった。
「この娘は、ただ感心ばかりしていますが、あれはどうやら勘違いですね。まさか、二川が百合を騙すということはないでしょうが、これだけ心酔している相手です、どこかで目を覚まさせてやらないと、危ないことになりかねません。なあサブ、この部長さん、とんでもない玉だったのですよ。もしも、あの頃のわたくしが出会っていたら、どうなっていたでしょう」
そんなモンドのことばに、それこそ勘違いしたのはサブの方だった。
「それじゃあ、おいらとの仲はどうなっちまうんですかい。ひでえや。そりゃあアニキ、あんまりってもんじゃありゃしやせんか」
頓珍漢な反応をして、ひとりむくれていた。
引継ぎを手際よく済ませた二川が、会社を去った。
新年は新体制で幕を開けた。百合はマーケティングの正課長に昇進して残り、桑田は、リストラされたふたりのエリア・マネージャーの代わりとして、部長となった若林が統括する営業部に異動となった。アシスタントの金山は、実家に帰って家業を手伝うと、あっさり会社を辞めていった。各部毎に数名の退職者を送り出し、小さな会社が一層こじんまりとした所帯となった。本社から赴任してきた新社長が、営業とマーケティングを統括する本部長を兼務することになった。それで、全て完了だった。この程度の規模の会社がその姿を変えるのに、それほどの時間も労力も必要とはしない。昨日までのことが嘘のように忘れ去られ、雰囲気も大きく変わった。まるで、全く新しい会社のようだった。
本社からの指示がない限り絶対に動いてはならない、これが百合に出された最初の指示だった。バカらしく思えるような毎日が、スタートした。
「日永一日、どうやって過ごせばいいっていうのよ」
百合はひとり、たばこ部屋の換気扇に向かって呟いた。
「あの時、やっぱり追いかけてでも、私もついていきます、って言うべきだったんだわ」
今更それを言って何になる。百合の悔いは、尚のこと大きかった。
販売不振による予算カットがリストラの理由だというのに、百合の給与は課長の役職手当が付いた分、以前よりも大幅に増えていた。
「こういうところが、外資のいい加減なところなのよね」
給料明細を前にして、小さな溜息をつく。
「お金じゃないのに」
将来を託す大企業でならいざ知らず、やる気の出ない日々の連続に、これっぽっちの喜びを感じることはなかった。
「原資が一緒なら、頭数が減ればひとりあたりの配分は増える。これ常識」とか言って、部長への昇進以来すっかり有頂天になっている営業の誰かさんの声を聞くだけで、百合のイライラは募る。
それは、サブの目にも明らかだった。
「この姉ちゃん、死んだも同然だな」
手洗いに立つふりをして、百合が部屋を出てゆく。北風に襟を立て、通りを渡った先のコンビニで、たばこを買っていた。以前なら、こんな時にも部長の二川にことわってから急ぎ足で用を済ませていたのに、それが今はどうだ、信号のひとつやふたつ待たされたところで気にもかけない。急いで職場に戻ることに、意義を見出せずにいるのだろう。買う気もないのに店内をひと回りして、ラックから女性誌を取り出してページをめくっていた。はじめから文字を読む気などないし、グラビアを飾る写真にさえ目を向けない。見るからに、只の時間つぶしだ。
何がここまで百合のやる気をなくさせたのか。考えるまでもなく、それは明らかだった。
「バカばっかり」
そして、「こんな時、二川部長だったらどうしていただろう」と、自分自身に問いかけていた。
「そうかあ」
百合は、思わず声に出していた。
「二川部長には、こうなることが最初からわかっていたんだわ」
自分の声が発した結論に、百合自身がうなずく。
「だから、辞めていったのよね」
それを見抜けなかったところに、自分の今の状態がある。読む気もない雑誌を手にしたまま、独り言を続けた。
「二川部長がいてくれたから、こんな会社でも毎日頑張ってこられたのよね」
先ほどまでは、口の中だけで囁いていた独り言。それを今は、躊躇うこともなく声に出している。
「よもやこの姉ちゃん、自暴自棄に陥って自分の命を絶とうって魂胆じゃあるめえな」
いくら何でも、サブの気の揉みようは大袈裟だろう。それでも、「まさか」とは言ったものの、モンドにもいささか気になるところがあった。それにしても、あの喫茶店の男とのつながりが、どこにあるのか。
レジから、奇妙なものでも見るような目が、百合に向けられている。周囲の客も、ひそひそ話をはじめていた。気が付かないのは当の本人のみ。
「そう、前の会社では、石黒課長がいてくれたし」
百合の周りだけ、ポッカリ空いたように人が寄りつかない。
「車が好きだからでも、商品企画やマーケティングの仕事が好きだからでもなかったんだ。そんなこと、自分が一番よく知っている。あたしが好きだったのは、何と言っても、真剣に仕事に立ち向かうときの、あの緊張感。それさえあれば、満足だったわ」
百合の顔に笑みが浮かんだ。
「どんなに大きな川の流れでも、一歩後ろに下がって見渡せば、それがどこに向かっているかがわかる。それさえ掴めれば、今ここでするべきことが見えてくる。同時に、それをすることにどれだけ大きな意味があるのかということにも気が付くって、石黒課長や二川部長が教えてくれた。そんなことを知るのが嬉しくて、毎日職場に向かったんだわ。本当に楽しかったー、そんな毎日が」
目を閉じ、胸一杯に息を吸った。
「あなた方がいてくれたから」
噛みしめることばの意味は、百合にとって重かった。会社での働き甲斐や人生の生き甲斐を教えてくれた石黒と二川、そのどちらも今はいない。見回しても、目に入るのは若林や桑田の顔ばかり。
「あんたたちから学ぶものなんて、何もないわ」
その声に、近くの棚で探し物をしていた学校帰りの女子高生が、「えっ」と気味悪がって離れていった。百合の意識は、最早周囲にさえ及ばなくなっていた。
ますます苛立ちを募らせて、ついに叫びにも近い声を上げていた。
「ホントに、バカばっかりじゃない」
自分の声に驚いて、手にしていた雑誌を床に落とした。店員がレジの方から走ってきて、声をかける。
「何かあったんですか」
「いいえ、大丈夫です。ごめんなさい」
振り切るように、赤信号の交差点に飛び出した。クラクションを浴びただけで、轢かれなかったのは幸いだった。
「危ないところでした」
「おいら、こんなに肝を冷やしたのは、久し振りだ」
モンドとサブも、百合を追ってオフィスに戻る。百合が、力なく机に突っ伏している。それでも、何やら呟き続けていた。
「みつかるかな、もう一度『あなた探し』をしてみたら」
そのまま、机に乗せた腕を枕に目を閉じた。
「こうなったら、行くしかないわね」
百合の唇が小さく動いて、決意のことばを声に乗せた。
「この女、『あなた探し』ってやつに、出かけるつもりでやんすかね」
「そうでしょうね。ここには無い何かが見つかる、そんな気がしているのかもしれません。わたくしが、のこのこサブについて天へと続く道を歩きはじめたときもそうでした。もうすっかりやる気をなくしていたのです。サブ、おまえが呼びに来てくれたからまだよいようなものの、もしもあのままだったら、わたくしは今頃どうなっていたことやら」
そんなことを考えていたモンドだったが、「この娘と同じ。きっと死んだようになっていたことでしょうね」と思ったところで、はたと気が付いた。
「なんですか、それでは今と何も変わらないではありませんか」
その声に、サブがプッと吹き出して、モンドの脇腹を肘で小突いた。
そこに、経理部の方から声が届く。パーティションが邪魔をして、俯く百合の姿が見えないらしい。ふたりの経理マンが、不用意な会話を続けていた。
モンドは、これを百合に聞かせてはどうかと思った。百合の目を覚まさせるには、絶好の機会である。しかし、迷いがなかったと言えば嘘になる。もしかすると、ただ単に、百合の逆鱗に触れるだけ、ということにもなりかねない。そうなっては、目を覚まさせるどころか、逆に百合を勢いづける事になってしまう。この判断は難しい。それでも、モンドは吉と出る方に懸けて、敢えて百合の耳を塞ぐことをしなかった、とはいえ、どうあがいたところで天から下ってきただけの今のモンドに、そんな力はないのだが。
部長と、最も年長と思しき経理マンはたまたま不在。若手のふたりは、上司との密約を忘れて、二川の話に花を咲かせていた。ひとりが、「二川さん、随分ぼろ儲けだそうですよ」と言えば、もうひとりが、「こんなに早くかよ、要は、本社の弱みを握った人間は無敵だということだな。それにしても、二川さん、ホントしたたかだよなあ」と相槌を打っていた。
耳とは不思議なもので、普段なら気にも留めない声が、こういう時に限って関心を掻き立てる。ハッと起き上がり、ふたりに詰め寄って、ことの詳細を問い質した。
よせばいいのに、この男たち、聞いてもいないことまで話し出した。
「それだけじゃないんだぜ、ほら憶えてるだろモーターショーのプレイベント。あの時のうちのブース、どこの業者が施工したか知ってるかよ。二川部長の弟が社長やってる会社なんだぜ」
「それはまだいい方さ、マーケがディーラーに金出させて全国の地方紙で打った広告。水沢さん、あんたも随分苦労してたよな。いったい全部でいくらかかった?そのマージンの一部といっても、相当な額になるんじゃないか。それを、自分の銀行口座に振り込ませていたっていうんだから、信じられないだろう。捕まるんじゃないか、そのうち」
「ということは、みんな自分のためだったっていうこと?」
思い返せば、当てはまりそうなことが他にもあった。
「あっ、あのガソリンスタンドとの提携話」
うまくやれば、甘い汁を吸うことができたかもしれない。それで、自分たちを使ってじっくり調べさせた。ところが、何度目かに行ったときだった、そこが本社の役員と直結している親戚の会社だということが判明した。そんな会社を相手に変なことをしてバレでもしたら、それこそ本社はおろかこの会社にも筒抜けとなる。そんな危ない橋を「渡れるはずがないわね」と、百合の独り言は止まらない。何が何やらわからぬ経理マンたちは、ただ目を見合わせるだけだった。
「いくら頑張っても自分の身入りにはつながらないんだし」
だったら、忙しい思いまでして取り組む意味がないだろうというのが、二川が出した結論に違いないと気付いた。そんな時間があるなら、他のことに充てた方がよっぽどいい。
「それで、断ったんだ」
頭の中に浮かんだだけのストーリーだが、まんざら当たっていないこともないと思えた。
それだけではなかった。試乗会に連れて行った、あの聞いたこともない雑誌社の記者や、名も知れない自動車評論家。あれなんかも臭い。数えはじめると限がなかった。
「あー、やだやだ」
そんな具合に、はじめはショックを隠しきれない百合だったが、切り替えも早かった。モンドとサブの目にも、迷いから解放されたように明るさを取り戻した。自らの軽率を、理想の上司がそうあっちこっちにいるはずもないかと恥じて、二川のその後についてはすべてを忘れることにしたようだった。ただ、モンドとサブのふたりには、気になることがもうひとつだけあった。その分、石黒とかいう見たこともない嘗ての上司に思いを募らせていることだった。
百合は、その日の内に退職願を書きあげて、水沢百合の自署に並べて力いっぱい判をついた。
「年末にボーナスはもらっちゃったし、今回は思い残すこともないわ」
退職理由は、ありきたりに〝一身上の都合〟となっているが、そこに真の気持ちが込められていないことは言うまでもない。従業員をコストとしてしか考えない会社が、受理を躊躇うはずがなかった。
「さあ、大切なものを探しに出かけようっと」
まるで、明日の遠足を前にして、照るてる坊主を軒先にぶら下げている子供のように、百合はデスクの片付けに取り掛かった。
終業の時刻を待たずに会社を後にする百合。十歩遅れて、モンドとサブは歩いていた。一月の夕空は澄みわたり、オレンジの光が目に痛い。駅まで続く靖国通りは、今日も車で溢れている。葉を落とした桜並木が、西向きの枝々を目にも鮮やかな黄金色に輝かせている。モンドは思う。百合の目には、この光がどのように映っているのだろうか。
今日は、気分転換に歩いて帰ることにしたらしい。橋を渡って、右に左に折れながら、向かうは神楽坂方面。今では、すっかりコンクリートとアスファルトに囲まれている。
「なんだ、近くに住んでるんだったら一度くらい寄らせてもらうんだった」
寄ってどうしようというつもりなのかは知らないが、最早百合も、サブが嫌う相手ではなくなっていたということなのだろう。
「こんなに大きな都会にもかかわらず、私たちを引き寄せるのは、やはりここら辺りの街というのだから面白いものです。それにしても、見事な夕焼けじゃないですか」
高台から見渡せば、遥かかなたに茜雲が漂う。見とれるモンド。その背中に「ボーっとしてると見失っちゃいますぜ」と呼び掛け、百合の後を追いかけるサブ。
百合は、鉄筋コンクリート三階建の瀟洒なマンションの、ガラス張りの角部屋を含む一角に住んでいた。さすがのモンドも、「若い娘が、なんですかこの贅沢は」と呆れないではいられない。サブはますます調子付き、「同居させてくんねえかなあ」と遠慮がない。
そんな期待を裏切るように、若い娘の日常は、思いのほか味気ないものだった。再就職先が定まらぬまま、百合は二か月以上もの日々をダラダラと過ごしていた。
今はさっぱり動きの見られない一般企業も、新しい会計年度が始まれば、中途採用の募集を再開するに違いない。そんな計算の上に立った日々なのかもしれないが、モンドとサブからすれば何もせずに過ごさなければならない、それはそれで耐え難い日々だった。
その傍らで、運命の日だけが刻一刻と近付いてくる。
「それなのに・・・」
当然と言ってしまえばそれまでのことながら、自らの行く末を知らない百合に、焦りはみられなかった。穏やかな日々を、呑気に過ごしている。
ただひとつ、百合を苛立たせることがあるとするなら、それは、最近の輸入車市場の活況だった。多くのメーカーが販売台数を伸ばしている。その中でも群を抜いているのが、つい先日まで勤めていたあのメーカーだった。何もしないで死んだふりを続ける中にあって、ニューモデルの発売だけは、モーターショーでの約束どおりに実施されていた。それが、予想を超えて大ヒット。連日のように、テレビや新聞を賑わせた。
営業部長の若林がインタビューを受け、販売好調の要因を「われわれの地道な営業活動が、この新車の登場と共に一気に花開いたということです」と答えるのを聞いた時には、あまりの驚きで卒倒しそうになった。目を凝らせば、画面の隅で桑田が笑みを浮かべている。
「それって、あたしが仕込んだのよ」
その傍らで、サブが呟く。
「自棄を起こさなけりゃいいんだけど」
ついにその日がやって来た。百合がこの世との決別を果たす、当日である。
朝から、風もなく晴天だった。それにもかかわらず、百合はまだベッドの中だ。春を感じさせる柔らかな陽は既に高く、レースのカーテン越しにフローリングの床を照らしはじめていた。
「もうあまり時間が残されていないというのに、こういつまでもボーっとされていては困ります。この娘が死なないようにリードしてやってくれと、あの管理官は言っていましたが、わたくしには、この先いったい何がおこるのやら、さっぱり見当がつきません」
何も手を出せずに来てしまったこの数カ月。溜息交じりに、サブの顔を見るしかないモンドだった。サブはといえば、まさか自分の使命を忘れたわけでもあるまいが、「こんなにノンビリしたのは、生まれてはじめでやんす」と、死人には相応しからぬ物言いで、英気を養うには長すぎる休暇のような日々を満喫していた。
「あの禿げ頭が、どうかしやしたか」と、人の話もろくに聞いてはいない。
それでも、話ができる相手はサブを置いて他にひとりもいないのだから、仕方がない。
「この娘、全くやる気を失っているようです。どうしたものでしょうねえ、サブ」と、話しかけた。サブは相変わらず寝ているも同然で、「どうするったって、相手がこんなじゃ、どうしようもねえっすよ、ねえ」と、聞き流す。そうこられては、「まったくです。それにしても、若い娘の普段の様子が見られるからと期待して来たのに、案外、日常なんてものはつまらないものなのですね」とサブのレベルに合わせて、下世話な話題に誘い込むしかなかった。サブは単純明快、簡単に乗ってくる。
「もっとハチャメチャに乱れ狂ってくれたりすると面白いんでやんすがねえ。どうにかしてくださいよ、アニキ。昔っから、その辺得意とするところじゃあねえですかい」
「それもそうですね。いっちゃいますか」と、サブにつられてはしゃぐモンドだったが、情けないことに、本題の打つ手が思い付かない。
それを悟られてはモンドの名が廃る、とでも思ったか、ここのところすっかり出番のなくなっていたお気に入りのボルサリーノのブリムに右手を添えて、すっと前にずらした。
陰から突き刺す視線は諸刃の剣。
その辺の女なら、これでいちころのはずだ、ったのだが・・・、サブに効果があろうはずもない。
「大事な日だってえのに、いってえ、何をしてるんでやんすか」と、逆に呆れられる始末。
そうこうしているところに、百合のスマホの呼び出し音が鳴り、テーブルの上板をブブ、ブブブと振るわせた。
ところが百合は、目は開いているのに動こうとしなかった。
「おいおい、めったにかかってこない電話なんだからよ、惚けてないでさっさと出た方がいいんじゃねえか」と、おっとり刀のサブでさえ気を揉んだ。呼び出し音と振動も、そろそろ十回目を数えようかというところ。モンドも、「これは無理かもしれませんね」と諦めかけた。と、その時だった。腕を伸ばした百合が、サイドテーブルの上を指先で探りはじめた。
光に満ちた部屋の空気も、そろそろ淀みはじめていた。純毛のブランケットに包まれた百合の肌が、薄らと汗を浮かせる。浅い眠りが、体中の筋肉に、重みのあるだるさを呼んでいた。首をもたげるのにも、必死の形相は隠せない。
「えっ、もうこんな時間なの」
大好きな、白とベージュの縦縞の壁紙。その上に掛けられた真っ白いシンプルなデザインの四角い時計。二本の針が綺麗に開かれて、Vサインを掲げていた。
昨日買ってきた女性誌の表紙が、枕元できらびやかな彩りを蘇らせている。
そういえば、天の管理官から預かった資料の最初の頁に書いてあった。本人が書いたものではないから履歴書とも経歴書とも言わないのかもしれないが、その趣味の欄には、映画鑑賞や海外旅行と同列に、〝朝寝〟の二文字が並んでいた。それだけではなかった。アスタリスクの付いた注意書きとして、*春眠不覚暁、処処聞啼鳥、と孟浩然の春暁詩の一節を言い訳に学生の頃から朝寝を憚らなかった、とまで記されていた。これは、一筋縄ではいかないかも知れないと、モンドは思わされた。
それなのに、「いくらでも寝ていられる。あたしも、まだまだ若いってことだな」と、おかしなところで納得さえしているのだから、呆れざるを得なかった。
退屈凌ぎに隣り近所での噂話を訊きまわったところによると、どうやらこの界隈は、今でも一等地の呼び声高い人気の街であるらしい。何でも、以前から百合の先祖が所有する屋敷だったが、都市再開発計画で今の形に建て替えられたという。両親は、「固定資産税だけでも大変だったのに、これからは家賃収入を手にすることができる」と喜んだ。
昔の風情はどこにもないが、そんな奥座敷のような地であれば、都会の喧噪も遠慮して、部屋の中にまでは入り込まない。ところが、携帯電話の電波に情け容赦はなかった。百合は、こんがらがった頭の中を片付けながら、通話開始のボタンを押した。
「まったく、信じられないよ。あんたまた会社辞めちゃったんだって」
十二年間勤めた最初の会社、国産自動車メーカーで仲良くやっていた同期の小川幸子の弾けるような声だった。
「ああサッコ、何よいきなり」
「何よじゃないわよ。久しぶりにご飯でも一緒にどうかなと思って会社に電話したら、水沢さんはとうの昔に辞めましたって言うじゃない。驚いちゃったわよ。何も言わないんだから」
「ごめん」
「ごめん、って、あなたまだ寝てたんでしょう。いくら家賃の心配がないからって、そんな生活してるとすぐオバサンになっちゃうわよ。どうしたのさ、いったい」
「うん、イヤんなっちゃってさ」
「そりゃあ誰だって嫌だよ、当たり前じゃない。だけど仕方ないってみんな頑張ってるんだよ。やっぱ、人間関係?」と、矢継ぎ早の質問を浴びせてくる。
「そんなもんかな。人間関係ね、そうね、大切な人間関係。それがなくなっちゃったのよ、ぱーって」
「あんた、まさかの失恋?それとも、不倫」
的外れな詮索で、幸子は勝手に色めき立っていた。
「バーカ、そんなんじゃないわよ」
百合は、その話はまた後で、と話題を変えた。
「それはそうと、いいわね、ご飯。どこにする。サッコ、新宿経由で帰るんだっけ。だったら、取り敢えずスタバあたりでお茶して、その後で美味しいもの食べに行こうか」
早いにこしたことはないと、ふたりは今日の夜七時に待ち合わせる約束をして、電話を切った。
「サッコはきっと、私がどうしているのか聞きたいんだろうしな。私も、みんなは元気にしているか、聞いてみようっと」
百合は、幸子の会社が今どんな状況にあるのかを、時折聞こえる噂や評判である程度は察していた。そこにあるのは、明るい話題ばかりではない。それでも、羨ましく感じる気持ちの方が大きかった。
「わたくしは知っていますよ。勢いだけで飛び出したつもりはないと言いながら、取り返しのつかないことをしてしまったと悔やんでいるのでしょう。だから、いつも考えるのは以前の会社や当時の仲間のことばかり、というわけです。そして、あの時、もう少し我慢して残っていたら今頃はどうなっていたのだろうと、諦めきれない思いを巡らせていたのではないですか」
モンドが言えば、サブも寄り添う。
「会社の変化がどれだけ大きかったのか、おいらにゃよくわからねえが、軽はずみな行動だったと言われても仕方ないんじゃねえかなあ。挙句の果てに、次の会社じゃ二川にまで裏切られちまって、泣いても泣き切れねえって、その気持ちもわからないじゃねえがよ」
百合に、ふたりの声が聞こえるはずはない。それでも、「いいんだ、良かれと思って飛び出したんだし、これ以上考えるのはよそうっと」と、答えるようなことばを口にしていた。
「やっと出会えたと思った二川部長も、とんでもない人だったみたいだけど、私にはまだ石黒さんがいる。第二の石黒さんを探すしかないんだわ」と、先にある夢に向かえと自分自身に言い聞かせた。
何をするのも簡単なことではない。それでも百合は、自分の行動が決して間違ってはいなかったと、思いたかった。そう思わなければ、明日はない。その明日のためにも、最後の砦、石黒のことだけは忘れないようにしようと思っているのだった。
「明日の目標があるからどうにかやっていかれる、それもわかります。それは決して悪いことではないはずです。しかし、あまり拘りすぎるのはどんなものでしょう。これまでがそうだったじゃないですか、上ばかりではなく、横とか下とか、もっと身近なところに目を置いてはどうでしょう。学ぶことなら、その気になりさえすれば、何処にでも転がっているものです」
そんなモンドの気持ちとは裏腹に、百合は理想の追求に俄然燃えるのだった。
「あなた探し」
自分の唇から出た小さな言葉が、耳から入って心の内側を押し拡げる。そのまま壁で跳ね返って、楽しげに弾む。期待は失わない。まるで、いつまでも転がり続けるその感触を楽しんでいるようだった。
久し振りの新宿。そこは、モンドとサブにとっても、馴染み深い場所だった。
それなのに、「うひゃー、何だ、どうなってるんだ」と、人の波に溺れたサブが奇声を上げる。
「昔から、混み合った街ではありましたが、これは驚きです。サブ、見てご覧、あの繭玉みたいなのやらガラス張りの箱のようなのを。見上げるほどのビルヂングが背比べ、といったところです。銀座あたりとは違って、何とも喧嘩腰といった雰囲気ではありませんか」
サブも、そのあまりの変わりように、目を白黒させるばかりだった。街は溢れる忙しないテンポの音楽だ店員の呼び込みの声だで、一瞬たりとも静まるということがなかった。
そんなところに、「待ったー、ゴメンね」という、一際高く澄んだ声が響いた、のだが・・・。周りを取り囲む無数の音。そのせいで、モンドには声の主を特定するができなかった。為す術もなく、ただキョロキョロと辺りを見回すばかり。ところがどうだ、百合が右手を挙げて「早かったじゃない」と返事をしている。モンドも、これにはたまげた。
「どうやると、自分に関係のある声の主だけを見分けることができるようになるのでしょう」
一方サブは、広告やニュースを流す、ビルの壁に埋め込まれた大きな画面に目を奪われていた。不思議そうな顔で、「タダで見ててもいいんでやんすかね」と、独り言のように呟いている。モンドが「どうしました」と聞けば、「いえね、これじゃキネマも上がったりだろうと思ってさ」と、心持ち神妙にとも取れる声で答えるのだった。
「たしかにな、何処の家にもテレビジョンが置かれているようですし、何もわざわざ映画館にまで足を運ぶ必要がありませんからねえ」
「そうでやんしょう。と思えば、あの壁のデッケエ画面で、その映画の宣伝なんかもやってるってんだから、おいらにゃ訳がわからねえ」
「共存共栄ということなのでしょうかね」
「ってことは、年がら年中こんなもの見続けてるってことですかい、現代人は。でもですよ、それにしちゃあ、百合は家でもそう滅多にテレビは付けない。チャンネルとかも、BSとやらを入れれば十や二十じゃきかないってのに、一時に見られるのはひとつだけってんでやんしょ。見られもしないものなんかやったって、金にはならねえんだろうしさ。こいつら、いったいどうやって食ってるんでやんすかねぇ」
ふたりにとって、現代の謎は尽きなかった。
窓際の席は、幸子の弾け飛ぶような声と笑顔でいっそう華やいだ。
「百合、待たせてごめんね」
「全然。それにしても早いねえ、あの山奥からでしょう、さては飛んできたな」
「正解。山を飛び、谷を越えー」
「そうかあ、ひたすら忍ニンを実践してるってわけだ。それにしてもさあ、あんた毎日あそこまで通うんだから凄いわ。私なんか考えただけでも気が遠くなるよ。サッコは偉い」
百合も、あの頃の自分のテンションで幸子の期待に応えた。楽しくやろうね、がふたりで会うときの決めごとだった。であれば、幸子も百合もはじめのひとことに力が入る。
店を出て、光の洪水ともいえる街を歩いた。忘れかけていた冬の名残の風が襟元をかすめて一直線に走り抜けていった。
「元気でよかった。これでも、ち―っとは心配してたんだぞ」
「あたしは元気」と、百合は自分に言い聞かせるような小さな声を唇に乗せた。首を左に傾げながら幸子に向かって片目をつぶると、幸子が頷いて笑顔を返す。ふたりはいつものふたりだったが、見渡す久しぶりの新宿の街には、モンドとサブには見分けの付かない変化があるようだった。幸子が、「バブルなんて、遠い昔の話だね」と、リーマンショックよりも更に遠い時代を引き合いに出せば、百合も頷く。自主性の欠片もないこの国は、未だに欧米の動きに翻弄され続けているということのようである。モンドとサブには活気しか感じられないこの街の姿にさえ、小さく背中を丸めては息を潜めているような元気の無さが、見て取れるのだろう。
「もうそろそろフレンチとかイタ飯とかは、卒業よね」と言って、飲茶を提供する中華料理店に入った。透かし彫りの衝立で仕切られたテーブル席が、フロア一杯に並んでいる。二十代ならまだしも、何も殊更気取った店を選ぶ意味はないということなのだ。
「お肌も曲がり角を過ぎてるし」
自虐的なことばを楽しむ余裕、というよりもむしろ居直りが、貴重な財産ということか。お酒よりは暖かい烏龍茶でと、尽きぬ話に花を咲かせた。
モンドとサブからすれば、それはまるで外国の話のように聞こえる。
幸子によると、組織は変わり、役職名にはカタカナが増えたという。チーフ エグゼクティブ プロダクト プランナーが開発部門を取り仕切るチーム長で、呼び名としては課長のままだがシニア プロダクト コーディネーターが石黒の正式な役職名だと言われても、百合でさえピンとこない。一般社員にまで展開される社内文書の多くは未だに日本語だが、トップ決裁が必要となる稟議書あたりは英語となり、リクエスト フォー アプルーバルというらしい。
「百合が見たら、ビックリすることばかりだと思うよ。あたしだってまだ慣れてないもん」
ことばの後ろに、鼻から息を抜くような溜息をつけて話す。
「まあ、気持ちはわからないでもないけど、そんなしゃべり方しない方がいいよ。何だか、年寄りくさいじゃない」
言いたくはないが、溜息はいただけない。最近の幸子の話し方に見られる悲しい癖は、それだけではなかった。同時に必ず瞼を閉じる。見ていられずに、「それも」と言う。そんな姿に幸子の苦しみを垣間見るようで、相槌を打つ百合にとっても辛い瞬間となっていた。それでも、幸子は動じない。
「自分でもわかってるの。でもね・・・」と言って、またひとつ溜息をついて目を閉じた。
このまま暗くなってもいけないと思ったか、百合が「それじゃ、サッコんとこもますます知らない世界になっちゃてるんだ。十年以上も務めた会社だっていうのに、一年かそこいらでそんなになっちゃうなんてね。何だかそういうのって寂しいよ」と、少しだけ話題を元に戻した。そうすれば、自ずと石黒や白井の話になると踏んでのことであるのは明白だった。それでも、自分からふたりの名前を出すのは憚られる。つい溜息を吐きそうになったが、それでは元の木阿弥だと、気を引き締めるのを忘れなかった。
「そうだ」
百合のことばにやっと気づいたか、幸子がテーブルに乗り出すように首を伸ばして話し始めた。
「白井さんだけどさあ」
ほら来た。
「ディーラーに出向なの」
「えっ、この時期に」
外資が入ったときから、この会社は会計年度を一‐十二月に変えたはずである。思わぬ展開に、息が止まりそうだった。
「うん、石黒さんとやっちゃったのがまずかったんじゃないかって、みんなが言ってる。それで、広島のディーラーへ出向。でも一応向こうの本社勤務らしいからって、みんなでほっとしたところなのよ。やっぱり、営業所じゃね」
「広島って・・・。石黒課長と何があったっていうのよ」
「シニア プロダクト コーディネーターの石黒さん、最近ちょっとね」
話の歯切れが、急に悪くなった。
「なんだか、いきなりヤバそうな話になってきやした」
サブが百合の顔を覗き込む。見開かれた目、半開きの口、そのまま体全体が固まっている。事の重大さを感じているに違いない。問い質したい気持ちをどうにか抑えて、続くことばを待っている、そんな感じだった。
「白井さんと取り組んだプロジェクトの内容が認められて、会長賞を取った直後ということもあったのかな。石黒さんも、ほら、そろそろ勝負の年齢じゃない。会社人間としては、今までみたいに自分を出し切って喧嘩を売るっていうことだけじゃダメなところに差し掛かったっていうのかな。本当の自分をぐっと抑えて、時には上に気に入られる顔をつくらなくちゃならないっていうのもあるんでしょ、きっと。仕方ないよね、そういうのって」
上司に対する配慮からか、それとも石黒に信頼を置く百合に対する優しい遠慮からか、肩を持つような言い方でお茶を濁す。本心がどこにあるのかわからない。
幸子は自分の気持ちを口にしていない。百合の目が、「そんな言い方じゃなくて、ちゃんと教えてよ」と言っている。モンドには、そう思えた。
「サブ、このあたりから、百合は一気に動くはずです。覚えていますか、管理官が最初に見せてくれた、あのシーン。ほら、この娘がコーヒーを飲みながら男と話をしていたあの場面です。あれは、あと一時間もしないうちに起きることなのですよ」と、緊張感を募らせる。ところがサブは、「それにしちゃ、肝心の男がいないんでやんすけど」と、腑に落ちない顔で問い返す。そう言われても、モンドには「たしかに。おそらく、そのうちやって来るのでしょう」としか、答えられなかった。まったく、先が読めない。