ありがとう
晴美のアパートの前で、二人は名残惜しそうな顔をして、立っている。
「それじゃ、帰るから」
「うん、今日はありがとう。楽しかった」
「俺も」
「良かった」
晴美は微笑むと、躊躇うことなく、アパートのドアノブを握った。
誠は晴美に背を向け、重い足取りで、歩き出す。
だが、まだ伝えたいことがあるようで、すぐに歩みを止めた。
誠が晴美の方を向き、口を開く。
「なぁ、晴美」
晴美は鍵をあけ、ドアを開けて中に入ろうとしていた。
誠の声に気付き、ドアからヒョッコリ顔を出す。
「ん? どうしたの?」
「やっぱり寂しいな」
「え?」
「もう会えないなんて、やっぱり寂しいな」
「あー……」
晴美は一旦、外に出て、ドアを閉める。
誠と向き合うように立つと、「私も寂しいよ。でも決めた事なの」
「そっか……でも気が変わるかもしれないだろ? 俺、お前の携帯番号、残しておくから、会いたくなったら、連絡してくれよ」
晴美は俯き、誘惑を一生懸命、断ち切ろうとしているかのように、唇を噛みしめる。
少しして、迷いを断ち切ったようで、真剣な面持ちで顔をあげた。
「そうやって、気を持たせることを言っちゃ駄目よ。誤解しちゃう」
晴美は母親が子供に見せるような優しい表情を浮かべ、誠に近づいていく。
触れそうなぐらい近づくと、背伸びをして誠のホッペにソッとキスをした。
「だから、これで最後にしましょ」
本当なら唇を重ねたかったかもしれない。
もっと長く触れていたかったかもしれない。
それでも晴美は別れのキスをホッペにし、一瞬で終わらせる道を選んだ。
それには、その一瞬に全ての想いを込め、ここでキッパリ終わりにする意志が込めらているのだろう。
晴美はハンドバッグから、白いハンカチを取り出す。
「ごめんなさい。口紅が付いちゃったね」
そう言いながら、誠のホッペをハンカチで拭きだした。
「これで、怒られないわよ」
クスッと晴美は笑うと、ハンカチをバッグに戻す。
誠の手を取ると、ギュッと握った。
「今まで、ありがとう。誠君と過ごした日々、本当に楽しかった。色々あったけど、あなたと出会えて、良かったと思っている」
晴美は自分の想いだけを伝えると、握っていた誠の手をスッと離し、逃げるように背を向け、駆けて行った。
誠はまだ迷っているようで、眉を顰め、複雑な表情を浮かべて見送っていた。
晴美がアパートのドアを開け、バタンっと中に入る。
誠はそれを見て、いま伝えないと後悔すると思ったのか、ようやく動き出す。
晴美の部屋の方へと歩いていき、ドアの前に立つと、大きく深呼吸をした。
「俺もだよ。色々あったけど俺も晴美に出会えて、良かったと思っている。人見知りが激しい俺にとって、家族以外で心が開ける女性はお前一人だけだった。今まで楽しい時間をありがとう」
誠はそう言い残すと、その場を離れた。
晴美はまだ玄関に居て、ドア越しに誠の言葉を聞いていた。
ドアに背中を預け、ポロポロと泣き崩れている。
「馬鹿……去り際にそんな嬉しいこと、言わないでよ」
誠が温かく光る外灯の下を歩いていると、携帯の着信音が鳴る。
立ち止まり、ズボンのポケットから携帯を取り出すと、画面を見た。
「晴美……」
メールを開くと、そこには『今までのこと、歳を取っても、忘れないから』
と、だけ書かれている。
誠はその場でメールを打ち出す。
『俺も忘れないよ』と、一言だけ打つと送信した。
スッとズボンのポケットに携帯をしまい、夏の美しい星空を見上げる。
「お前が正直に俺に話してくれるまで、待っているよ。そうしたらまた、会おうな」
誠はそう呟くと、正面を向いて歩きだす。
誠は昼食のとき、晴美が老化薬を入れたのを遠くから見ていた。
そしてその後、『ごめんなさい』と言いつつも、直前で気持ちを入れ替えて、湯呑を取り換え、老化薬が入った緑茶を自分で飲んだのも、分かっていたのだった。
おそらくあの時に、晴美が『あ……』と、声を漏らしたのは、自分が口を付けた所で、誠が飲み始めたから、照れ臭くて発しただけで、それ以上の意味はないだろう。
晴美は今回、計画は立てたものの、最後まで何も起こさず、大人しく身を引いたのだった。
※※※
誠とデートをする前日。
晴美は薬を買った女性のもとを訪れていた。
「いらっしゃいませ」
女性は目の前に立つ晴美に声をかける。
「ごめんなさい。今日は御客として来たんじゃないの」
「では、どういった御用件で?」
晴美はテーブルの前にある椅子にスッと座る。
「私、この町から離れるの。だから最後にお礼をと思って。私の名前は佐藤 サヤカ。あなた名前は何て言うの?」
「鈴原 舞です」
「鈴原さん。あなたのおかげで良い夢を見させてもらったわ。ありがとう」
晴美はそう言って、満面の笑みを浮かべる。
舞は晴美の笑顔をみて、満足そうにニコリと笑った。
「いえ、私は年齢で悩んでいる人が、年齢を気にすることなく、自由に恋愛が出来ればいいなぁって思って、商売をしているだけなので、気にしないでください」
「へぇー……そんな夢があったのね。でも何で、こんな人気のない所で商売しているの? あの薬だったら宣伝すれば、もっと広められるのに」
「本当に悩んでいる人にしかあげたくないんです。それに、恋のライバルは少ない方がいいですよね?」
「なるほどね。それって私が年齢で悩んでいることに気付いたってこと?」
「何となくですけどね」
「実はサヤカさんのこと、何回か見かけたことあるんですが、最初に見かけた時、一人の若い男性をジッと眺めて、悲しそうな表情を浮かべていましたから、ピーンときたんです」
「あー……、そういう事だったの。なんか恥ずかしいところ見られていたのね」
晴美はそう言って、照れ臭そうに髪を撫でた。
舞はクスッと笑う。
「何も恥ずかしい事なんて無いですよ。私も小さい頃、同じ経験したことあります」
「そう? ありがとう。私のお金、少しはあなたの夢の手助けになれそう?」
「もちろん」
「それは良かった」
晴美はそう言って、スッと立ち上がる。
「それじゃ、そろそろ行くね。あなたの夢、遠くから応援しているね」
「ありがとうございます」
舞は返事をしてニコッと微笑む。
晴美もニコッと微笑むと、手を振り、その場から去って行った。




