反抗期
誠は昼食を済ませ、大学に行くため、黒のシンプルなバッグを背負い、玄関で靴を履いていた。
「それじゃ沙織さん。行ってきます」
「マコちゃん、ほら。いつものように頭を下げて」
「いいよ、もう」
「良いから」
誠は渋々、頭を下げる。
沙織は頭をポンポンと軽く叩くと、優しく髪を撫でた。
「いってらっしゃい」
沙織は満足したかのように、満面な笑みを浮かべる。
「沙織さん、その……」
「なに? 言いたいことがあるなら、言っていいのよ?」
「その頭を撫でられるの嫌じゃないけど、そろそろ恥ずかしい……」
「えぇー……、彼女が出来るまで我慢してくれる?」
「――分かった」
誠は、すんなり返事をすると、玄関を出た。
浮かない顔で、大学に向かって歩いていく。
誠は過去、酷く沙織を傷つけた事があった。
遡ること5年前。
旦那を亡くし、仕事をしながら、子育てをしていた沙織は、酷く疲れ、精神的に病んでいた。
そんな中、誠はまだ反抗期の真っただ中だった。
些細な言い合いで、誠は沙織に『本当の母親でも無いくせに! 死ね!』と、言ってしまったのである。
決して言ってはいけない言葉。
誠はそれを知りつつも、堪えられない怒りに負け、言ってしまったのである。
沙織は本当の息子のように育ててきた誠に、胸を抉られるような言葉を投げつけられ、ショックを受け、その場で泣き崩れた。
そして沙織も拒絶するかのように、言ってしまったのである。
『この家から出て行って』と……。
互いの心が傷つき、すれ違う。
誠は少ないお小遣いを片手に、家を出た。
しばらくして沙織は、冷静になり心配になったのか、不安な顔をして家を出た。
旦那も居ない状況下で、酷く混乱していたのだろう。
沙織は誰に連絡するわけでもなく、キョロキョロ辺りを見渡しながら、ひたすら歩き始めた。
誠は当てもなく彷徨う中、たまたま通りかかった公園に入り、ベンチに座っていた。
浮かない顔で、ただ一点を見据えている。
本当の母親はもう居ない。
そんな寂しさで言ってしまったのかもしれない。
誠は後悔するかのように顔を両手で覆い、目蓋をギュっと抑えた。
辺りはすっかり暗くなり、外灯が公園内を照らす頃、沙織が辿り着き、誠を見つける。
靴下も履かず、履きなれないカカト付きのサンダルで歩き回ったせいか、靴擦れが出来ていた。
苦痛で顔を歪めながらも、懸命に誠に向かって駆けていく。
沙織が息を切らせながら、誠の前で立ち止まる。
「沙織さん……」
誠はチラッと、沙織の顔を見るが、すぐに気まずそうに俯いた。
「良かった……」
沙織は倒れこむかのように誠の隣にドカッと座る。
腕を伸ばし、うつむく誠を引き寄せると、、ギュッと抱きしめた。
「さっきは酷いこと言って、ごめんね。もっとあなたに寄り添って、お母さんになれるように頑張るね」
沙織は必死で誠を探す中、どうしてこうなったのか、自分なりに考えていたようで、怒ることなく、涙を浮かべながらも、優しい表情でそう言った。
誠は沙織の優しい言葉に、言葉を詰まらせていた。
唇をグッと噛みしめ、涙を堪えているようにも見える。
意地っ張りなのか、反抗期特有の素直になれない気持ちが邪魔をしているのか、誠はなかなか口を開こうとしない。
そこへ沙織は、頭をポンポンと軽く叩き、優しく髪を撫で始めた。
ようやく誠は口を開く。
「俺こそ……ごめんなさい。もう二度と言いません」
口に出したことで感情が高ぶったのか、誠はその一言だけ言って、涙をポロポロと零した。
「うん。帰ったら、あなたの大好きなハンバーグを作ってあげるからね。一緒に食べようね」
それから沙織は仕事を辞め、誠と居る時間を増やし、親しみを込めるかのように誠君から、マコちゃんと呼ぶようになった。
頭をポンポンと叩き、髪の毛を撫でるようになったのも、その時からである。
誠はそれを感じ取るかのように、今まで何も言うことなく過ごしてきた。
だが今日、意思表示をしたのは、自分はもう大丈夫だと、アピールしたかったのかもしれない。
「誠くーん」
晴美が元気よく、誠の後ろから駆け寄っていく。
誠は声に気付き、後ろを振り向いた。
晴美は誠に追いつくと、「学校行くの?」
「あぁ、午後から講義だから」
「私も。途中まで一緒に行こ」
晴美は今にも腕を組みそうなテンションで、そう言った。
「あ、あぁ」
誠は晴美から目をそらし、気恥ずかしそうに答える。
二人は腕と腕がぶつかりそうなぐらい狭い歩道を、肩を並べて歩き出した。
二人が出会ったのは、大学1年生の時。
パソコンの講義が始まる前、100人ぐらいは入りそうな大きな講義室で、誠は一人でポツンと座っていた。
そこへ薄手の白いブラウスに、ミニ丈の黒いスカートを履いた晴美が、下の入口から現れ、スカートをヒラヒラさせながら、上へと上がって行き、誠の座っている方へと近づいて行った。
男子生徒は、そんな晴美の姿をみて、クラスのアイドルを見るかのように、釘付けになっていた。
中には、視線が合うのすら恥ずかしいのか、晴美の方をチラチラとみて、反応をして示している者もいた。
晴美はそんな男子生徒の反応に気付いているのか、いないのか、表情一つ変えずに、誠の隣に着くと、黒のハンドバッグを机に置いた。
誠はこの広い講義室で、なぜ自分の隣に来るのか不思議に思ったのか、チラッと晴美の方を見る。
晴美は誠の視線に気付いたのか、髪の毛を耳に掛けると、誠の方を見た。
「あ。この席、駄目だった?」
「いや、大丈夫だよ。いくらでも空いてるし」
誠は本当に女の子に対して興味がないようで、素っ気なく答えて、頬杖をかいた。
「そうだね」
晴美はスカートを抑えながら、長椅子にスッと座った。
しばらくして体を誠の方へと傾ける。
「ねぇ、私は谷口 晴美。あなたは?」
「俺は畑中 誠」
「誠君ね。よろしく」
晴美は親しみを込めるかのように、満面の笑みを見せる。
「あぁ、宜しく」
誠も晴美の笑顔に安心したのか、ようやく笑顔を見せた。
その後、晴美の積極的な性格もあってか、二人はこうして、自習室や食堂、図書館などで出会っては、会話を交わすようになり、連絡を交換するまでの仲になっていった。