宮古島サイクリング旅行記
宮古島の11日間 1992.4.25~5.5
We sat dining on endless meat and on sweet wine
And when the sun went down and the darkness came on,
We lay down to sleep beside the surf of the sea. (Odyssey)
われら、渚にすわりて肉を食み、ぶどう酒をあほる
陽沈み 闇来たれば 砂に横たわりて寄せる波に夢を浮かべる(オディッセイア)
1992年
4月25日(土)
朝、8時45分に羽田をジェット機で出発した。浜松町の駅で早めにチェックインしておいたので窓側で禁煙の席がとれた。ぼくの座ったのは右側で、窓から頂のまだ白い富士山がきれいに見えた。伊豆半島もほぼ全貌を見ることができた。飛行機はやがて高度を上げながら本州から離れて雲の上に出る。このフライトは南西航空SWALの便だが、ぼくらを乗せたのは実際には親会社のJALのジェット機だった。ゴールデンウィークの時期になると客が増えるためこの頃から2倍以上の客を乗せられる大型機をピンチヒッターで飛ばすのだろう。この羽田-宮古間の直行便は国内便としては滞空時間が最も長く、約2時間50分のゆうゆうたるものだ。これだけかかるので国内便では珍しく機内食が出る。そして宮古島は国内とはいえ亜熱帯地方にあり、ちょっと行き過ぎてしまうと台湾に届いてしまう。
伊豆を過ぎ幾つかの島を雲間に見ていると、やがて翼の下はまぶしく輝く雲しか見えなくなり、その多様な形と白の陰影の美しさに見とれていたが、ついにその単調さに気づいてぼくは窓から顔を離した。そなえつけのイヤフォーンで落語を聴きはじめたが機内放送で何度か中断されたのでそれもやめ、前の座席の背のネットラックに入っていた南西航空の雑誌コーラルウェイを取り出して見てみることにした。宮古島に関する情報のページを見ていると、4月26日にトライアスロン・レースがあることが紹介されていた。26日といえば翌日だ。ぼくは、この時期にその有名な宮古島トライアスロン・レースがあるはずだということは知っていたので運がよければ観戦できると思っていたが、翌日であることを知ってますます興味が膨らんできた。
泳いで、ペダルをこいで、そしてかけって。このレースはすべてのレースの中で最も過酷で最も落伍者の多いレースであろう。どんなに自転車とマラソンが得意でも、水泳が苦手で時間以内に岸にたどり着けなければ失格となるし、どんなに水泳と自転車で好調でもマラソンで力尽きればゴールにたどり着けない。したがってこのレースは完走することだけでも大きな栄誉を得ることになる。そして彼らはアイアンマンともストロングマンとも呼ばれ、その後半生はその過酷なレースの回想から滴り続ける甘い蜜によって豊かさを保証される。だから、ぼくが今、宮古島11日間のサイクリングツアーを振り返りながらその回想を書くこの瞬間にも、彼らはぼくのこの甘いノスタルジーの数倍の甘さの陶酔に浸りながら自分たちのレースを回顧しているに違いない。
ぼくはあすはきっとストロングマンたちを応援しようと心に決めた。彼らの走る姿を見ることができれば、「競争する」ことからは遠のいてしまったぼくにも再び競争心が湧いてくるかもしれない。ぜひトライアスリートたちの競う姿を目撃しよう。そして彼らの・彼女らの走り去ったあとをゆっくりでも追っていってみよう。
ぼくは雑誌を閉じると、耳栓をしアイマスクで目隠しして睡眠をとった。さて、今回の旅行の同行者は、私の勤める会社の技術部の川上氏(ハンドル名としてジャック・アマノを名乗っている)、特許部同僚の石塚君との三人で、ぼくはマウンテンバイク、川上氏はクロスバイク、石塚君はロードレーサーでの参加だ。川上氏は今回の旅行の真ん中の5月1日にトヨタとの合弁会社「アドマノックス」へ出向となりその専務となられた。川上氏とは前年の夏にいっしょに北海道道東を走り、石塚君とは一年前のゴールデンウィークに八丈島を走った。ぼくと川上氏とは5月5日までの滞在だったが、友人の結婚式に出る予定の石塚君は2日にぼくらに見送られて島を去った。
ところで今回宮古島を選んだ理由はこうだ。まずゴールデンウィークはたいていどこへ行っても車がいっぱいで大量の排気ガスを吸わされ健康によくない。そこでぼくは車の容易に渡れない島を候補にする。去年の八丈島はそうして選ばれた。しかし、5月初旬に八丈島に行ってみると期待に反して泳ぐにはまだ水が冷た過ぎた。水泳を一つの楽しみにしているぼくはそれで今回は沖縄方面の地図を開いた。しかし、沖縄本島は鉄道がないせいで車が多くサイクリングには適さないと地元から来た人から聞いていたので、考慮の対象にしなかった。すると石垣島か、宮古島ということになった。最後にぼくが宮古島行きを決定したのは石垣島に行くには那覇で乗り換えねばならないが、宮古島には直行便が飛んでいるということだった。
航空運賃は宮古島まで往復で約7万5千円かかる。ぼくはそれだけかかるのなら折角だからできるだけ長く滞在したいものだと考えた。ぼくの合理的価値判断によると、航空運賃の経済性は、ある場所に観光の目的で行くとき、そこに行って帰るためにかかる運賃を滞在日数で割ったときの商がいくらかによる。滞在のための基本料金は一日いくらになるか、と見るわけだ。永く滞在するのなら高価な運賃も報われようというものだ。そこでぼくはせっかく遠くへ行くのだから少しでも永く島に滞在するようスケジュールを組んだ。こうして、有給休暇を4日分とって、4月25日(土)から5月5日(日)の11日間の長期滞在を計画した。しかし、この一日でも長くという貧乏人根性がぼくに勇み足をさせた。たいてい往復割引は7日間以内の場合に適用され、沖縄方面の場合はこれが10日間となる。したがって5月4日に帰ることにしておれば、約1万円の割引を受けることができたのだが、1日の差でぼくらは約8万4千円の料金を払うこととなってしまった。しかし振り返ってみて、5月5日の朝の前浜での魚の大群の中に泳ぎ入る感動的体験のために、この最後の日も思い出に残る捨てがたい日となった。(後日この時の経験が拙作「木人形」におけるヨナの海からの着陸のシーンで役立った)。では宮古での11日間のどの日を捨てて往復割引をとるかと聞かれると、ぼくはやはり一日として譲れないことに気づく。フィアンセから、何人子供が欲しいのとたずねられて、11人欲しいなと言うと、11人は多すぎてだめよ、せめて10人にしましょうよ、と言われれば、うん10人でもいいや、ということになるが、11人わが子が生まれてしまってから一人捨てて10人にしようということになるとどれもかわいくて捨てがたいものだ。そして宮古諸島での毎日はぼくらを最後まで飽きさせない捨てがたい日々だった。
目が覚めると、飛行機は着陸体勢に入っていた。窓から覗くと島が見えた。これが宮古島か、なるほどなかなかいいとこだぞ、と思っているとすぐに通り過ぎてしまいまた海上に出た。通り過ぎた島は宮古の離島の伊良部島である。すぐにまた島の上に来た。これが宮古島だった。飛行機の窓から見た宮古島の印象は、畑の多い平らな島というものだった。あとで、この畑のほとんどはさとうきび畑と判った。まわりの海は浅く、沖のほうでも岩や珊瑚の群が海面すれすれのところにあったり、海面からのぞいていたりして、エメラルドグリーンの海の中に泡立つ白い波がいたるところにそのありかを教えてくれる。この宮古諸島全体が一つの大きな棚の上にのっていることがわかる。このような美しい海に囲まれた島々が日本にもあることがうれしい。
しかし環境の美しさが必ずしもそこに住む人々の生活の豊かさの指標にならない。否、むしろ環境の美しいところは未開地の場合が多く零細の生活を見つけることが多い。ここでも台風や干ばつによる農作物の被害が多く、苛酷な自然との戦いが繰り返された。今の宮古島は開発も進み不便の少ない島となったが、この島の歴史は現在も保存され観光のポイントともなっている「人頭税の石」に象徴されるごとく島民にとっては薩摩藩や琉球王朝、あるいは島の主により課される重税の下に苦しみ喘ぐ受難の歴史であった。しかし、そのような暗黒時代においてもこの美しいエメラルド色の海は毎日ひねもす宮古の美しい砂浜や切り立つ岸壁に波を打ちつけていたのだ。そしてその波の下には超天才の芸術作品かのような熱帯魚たちがずっと生息してきたのだ。それらの美しさが住民の貧困の苦しみをどれだけ忘れさせ和らげたかは知らない。ぼくはどうしてもこのさまざまの熱帯魚の美しさと島の苦難の時代とをうまくマッチさせてイメージすることができない。ぼくの今までの連想システムの中で熱帯魚はいつも、美しく高価なもの、生きた宝石、従って豊かさと結びついていたのだ。宝石を散りばめ、美しく着飾った紳士淑女が、必ずしも幸せな人でないように、かつての宮古島はエメラルドの海に囲まれ、星の砂で化粧し、豊かな緑の広葉樹をまとい、いくつかの離島を侍従の如く従えていたが、その実は貧困に苦しむ不運な人々を魂として宿す悲しみの島だった。
宮古島は、沖縄本島の南西約300kmにある宮古諸島の主島である。面積は150平方キロで八丈島の2.2 倍、大島の1.65倍である。三角形の平坦な台地状の島で、山らしい山はなく、最高点は野原岳の109メートルである。しかしこの野原岳、結局ぼくらはどれがそれなのか見極めることはできなかった。台地の上の野原で一番高いところが109メートルだけあるという意味なのだろうか。
飛行機から真先にタラップを降りると、覚悟していたとはいえ蒸れるような熱気に包まれ、ゴールデンウィークの連休でやって来たぼくらは一気に夏休み気分となった。今からこんなでは、7月8月の暑さはどのようなものなのだろうか・・・暑いというよりは熱いにちがいない。
ただでさえ汗だくになることの多い自転車の組み立て作業を、この暑さの中で長袖のウィンドブレーカーを着たまましたので汗が吹き出してきた。すぐ上半身裸になってTシャツに着替えたが、黒地のものだったので太陽光をよく吸収し、まるで砂鉄カイロでできたTシャツを着ているように温かかった。
空港のロビーには練習中のトライアスリートたちがレースウェアのままやってきて、その時到着した仲間を迎えていた。ぼくらは、自転車を組み立て、ボトルに水を入れ、記念写真を撮り、追い風に帆を膨らませるヨットの如く、期待に胸を膨らませて空港を出走した。するとすぐに、レースに備えて最終調整をするレーサーたちを見かけた。そしてコースとなる道のわきには選手の名前と激励文を大きく書いた白地の横幕がたくさん見られた。昼がかなり過ぎてぼくらは昼食のパンや牛乳を買うために店に入った。レースパンツをはいたぼくらの姿を見た店のおばさんが笑顔で、あすのレースは頑張ってね、というようなことを地元の言葉を交えて言う。おばさんとしては精一杯に標準語を使おうとしているのだろうが、すぐには意味がとれなかった。ぼくらはすぐにレースには出ないのだと弁解した。特にこの島ではトライアスリートたちはヒーローとして尊敬されるので、ぼくらは冗談でもトライアスリートの振りをすることをはばかった。またそれと同時に、この島に限らずどこでも多くの皮肉者たちは、(それはぼくらが会ったあるトライアスリート自身もそう告白していたのだから全くの的外れでもなさそうなのだが)、トライアスリートたちは単なる馬鹿ではなかろうかと言う。ぼくらは笑顔のおばさんがどちらにくみするにしても、トライアスリートの振りをすることをはばかった。
この日会う人のほとんどは、ぼくらに同様の激励の言葉を掛けてくれ、そのたびにぼくらは応援するだけだと弁解し、また、レースが終わってからは今度は、「完走したか」「何位だったか」「来年もまた来るかね」などと聞かれ、そのたびにぼくらはトライアスリートでないことを釈明するのであった。現地の人がぼくらを地元の人間と思って話してくるとき、たいてい二三度聞き返さないと意味がとれない。若い人なら問題はないが、年配の人の場合は、なかなか意志疎通がスムーズにはゆかない。地元の人どうしが話しているのを横で聞いていると全く意味の判らないのが普通だ。
ぼくらが最初に海辺に出たのは与那覇前浜ビーチだ。ここには東急リゾートホテルがある。沖縄県の全諸島を見て回ったある人たちはここを沖縄のナンバーワンビーチとして選んだ。白砂が4キロにわたって続く規模とその砂の質が決め手となったという(「沖縄35島」真島満秀、加藤庸二共著;桐原書店)。
ぼくらはこのビーチに自転車に乗ったまま侵入してきたが、砂にすぐにタイヤをとられてしまった。ぼくのマウンテンバイクの太タイヤですらすぐに砂にもぐった。ぼくらは木陰で砂の上に座って昼食のパンを食べた。ここの細かい白い砂は砂時計に使われるもののように液体のようにさらさらして肌触りのいいものだった。1.5キロほど沖に来間島が横たわっており、その島へこちらからの架橋工事が進行中で、ほぼ2/3ほどが完成していた。
ここでは、水泳の練習をしているトライアスリートが5・6人いた。恐らく、彼らはスウィムが一番苦手なのだろう、あすの本番でもしかしたら規定時間以内に岸に戻ってこれずスウィムで早々に失格になるというおそれが強く、その後の自転車とマラソンの練習をいくらしても無意味になってしまうという悪い予感を抱いていたのだろうか。ぼくはひとり波打ち際まで歩いてゆき、そこで波に濡れた砂を両手でつかんでみた。何というきめ細かく柔らかい砂だろう。しばらくぼくは砂をつかんだままで宮古島での初めての感激が両の掌から身体にしみ込んでゆくにまかせた。
川上氏は昨夜、自宅で旅行の準備をしながらウィスキーをちびちびやっていてつい深酒をしてしまい、旅行の初日は二日酔い気味で、それに加えてこの急激な温度環境の変化によっていつもの元気がなかった。前浜を出発してからしばらくして道に迷った。先頭を走る川上氏が三叉路で自転車を止めた。「休むぞ!」「今度の旅はのんびりやりましょう」「そうしょうや」川上氏は木陰にすわり、タバコをふかしながら地図を広げた。石塚君はズボンが汚れるのが気になるのか決して地べたに直接すわらない。ぼくは、川上氏のそばにすわり、彼の指が地図の上を滑るのを見る。彼は地図の上でぼくらの現在位置を見つけようとしている。石塚君はそれに何の興味も示さない。彼は始めからすべてをぼくらに任せているのだ。そして、ぼくもこのあたりでこれからの行程は川上氏にすべて任せようという気になっていた。いや、むしろできることなら三人とも地図をすべて捨て、ぼくらの野性の導くままに走ってもいいと思った。どんなに道に迷っても、宮古島からさまよい出ることはあるまい。あるいは地図に頼ってでは決して到達できないユートピアのごとき秘境にさまよい込めるかも知れない。
ぼくは今回のツアーを旅というよりは生活と考えていた。雨が降れば一日中テントの中にこもってのんびりしてればいい。眠くなれば寝、目が覚めれば横になったまま読書でもすればいい。ぼくはさらに仕事をする用意もしてきていた。今これを記述しているOASYS の文字通り背広の内ポケットに入るワープロ "Pocket" は、こういったツアーサイクリング中にも仕事をすることを可能にしてくれる。ただ、テントの中で寝そべってキーを打つのは難しい。ぼくは、学生だった20年くらい前に travelling workerの夢を持っていた。まずぼくの職業種は科学技術分野の翻訳だった。そして各地の宿を転々としながら、住所不定の状態で仕事をするわけだ。宿で仕事をしたり喫茶店、図書館、あるいは公園で仕事をしてもいい。翻訳が出来上がれば依頼主に郵送する。収入は旅費と宿代と食費が稼げればいい。こんな人生をぼくは真剣に考えていた。そして、今初めて宮古島で寝場所を転々としながらポケットワープロという利器を持って travelling workerのまねをしようとしている。しかし、宮古島での11日間は余りにも充実しすぎていて仕事に気持ちが向くひまはなかった。
その日ぼくらは、友利という村から坂道を海のほうに下ったところにあるインギャーという海泉の湧く小さな内海の畔でテントを張った。そこは全体が公園になっており、すぐそばに3・4分で登れる小さな丘があり、その頂上には展望台がありその屋根の上にはなぜか牛の像が立っていた。翌朝ぼくがひとりで散歩していて見つけたのだが、この丘の反対側はキャンプ場になっていて、水道やバーベキュー炉の設備もあった。しかし、そこには夜通しそこでたむろしていたに違いない高校生らしい5・6人の男女が酒を飲んでいてあまりいい雰囲気ではなかった。
夕食後、ぼくと石塚君がヘッドランプで道を照らしながら近くのシャワー設備のあるトイレに向かっていると、大きな甲殻類の生物に遭遇した。カニにしては甲羅がなかったのでぼくは大きなエビかと思った。あまりに珍しかったのでぼくはすぐ引き返し、生物に詳しい川上氏を連れて再び現場に戻った。エビであれば捕まえて食べようと提案した。彼もそれは初めて見るらしかったが、さすがに博識者、すぐに椰子蟹だと特定した。そしてエビが海からはい上がってくることはまずないと付け加えた。ぼくが前から近づくとそのヤシガニは大きなはさみをかかげてこちらを威嚇した。そこで後ろ側に回って背中をつつくと、あわてて草むらに逃げてしまった。その後もう二度とその種のカニに出合わなかったので、あのヤシガニを写真にとっておくべきだったとあとでぼくらは残念がった。
実はこのヤシガニ、後で調べてわかったのだが、宮古の味の王様と呼ばれている美味の甲殻類動物で一番近い親戚はヤドカリであるらしい。従ってカニの味ともエビの味とも違う、ヤドカリの味がするらしい。そのまま丸ごとゆでて食べるもので、特にお尻のところのミソがとろりと甘いという('92 るるぶ沖縄)。お尻のミソがおいしい点ではカニ類もそうだ。が、読者諸氏よ、もしかしてこの傾向は甲殻類にとどまらず、もっともっと普遍的なものではなろうか?我々はもっと研究熱心になっていろんな動物の「お尻のところのミソ」を試食してみるべきではなかろうか?
ところでヤシガニはその美味のため捕まえて食べる人が多く、しだいに数が減ってきているということだ。しかし味覚に関しても好奇心の旺盛なさすがの川上氏も、「あまり旨そうじゃねえな」と食する気が起こらなかったくらいの異様な様相を呈していて、旨いものは旨そうに見えない、という自然の保護の鎧を授かっていた。最初に食べた人は勇気ある人であったろう。いや実情は、飢えた人間のすさまじい食欲にはヤシガニも兜を脱がざるをえなかった、というところだろう。そして一旦味をしめると人はもう容赦しない。北海道の毛ガニしかりである。なおヤシガニという名がつけられているが、ここにはヤシはないので、ここのはアダンの木に登りその実を好物とする。
ところでシャワーのことに少し言及したが、宮古島には至るところに海水浴場があり、そのほとんどにシャワー室付きのトイレの設備が有るので、その近くでキャンプすれば水道も使えて便利だ。そしてぼくらはほとんど毎日寝る前にシャワーを浴びた。温泉はもちろん銭湯もないこの島では冷たいシャワーは欠かせない。
4月26日(日)
目が覚めるとすぐぼくはテントから出て、インギャーの内海の畔を一周しようと岸沿いに散歩した。水辺にいた魚たちはぼくの足音で逃げてゆく。浅い底をよく見ると、砂がこんもりと小さく盛り上がっているのがいくつもある。そしてそのてっぺんに小さな穴がありそこから泉が出ているようだった。これが海泉の正体らしかった。やがて切り立った山肌がせまり、水の中に入らないと先に進めないような所に来たので岸辺を外れ、草むらをのぼり小さなアスレチックフィールドを越えて丘の反対側に出た。そこのキャンプ場で前述したように昨夜より朝まで徹夜でいたらしい少年少女の一群に遭遇した。彼らはあずま屋のテーブルを囲んですわり、その真ん中に1/4くらい中身の残った泡盛の一升瓶をおいて飲み食いしていた。中に妙に馴れ馴れしく話しかけてくる少年がいて、ぼくがそばを通り過ぎようとすると、きょうはトライアスロンに出るのかと聞き、そうでないと言うと、一杯やっていかないかと誘い、断ると、電話してねと言って電話番号を言った。すると他の者たちもアッハッハと笑った。悪意のある連中ではないのだが、こちら側でテントを張っていたら安眠できないところだった。ぼくは、こんどは丘の海側のふもとの道を通ってテントサイトに向かった。この辺の海岸は前浜とはうって変わってごつごつした岩がたくさんあり、それらは溶岩と思われた。漁をしている男性がひとり槍を手にし発泡スチロールの大きな板をひもで引っ張りながら沖のほうへ泳いでいっている。内海のほうではダイバーがふたり潜っている。
今回のぼくらのツアーの目的は、透明度の高い海を楽しむもので、海辺でののんびりしたテント生活に都会で味わえない喜びを体験することにあった。サイクリングよりもスウィミングのほうが目当てだ。そこでぼくは朝食をすませると、小さな湖のような内海に入っていった。最初は冷たいと思ったがすぐに慣れると水の中も気持ちよい。海泉が湧くだけあってここの水はあまりしょっぱくない。海草が多いので小魚がたくさん集まってきているようだった。
海に近い岩場のほうに泳いでゆくとついにめぐり会った。最初に見つけたのは、輝くようなコバルトブルーの小指くらいのサイズの魚で岩のあたりを漂うように群がっていた。これらは近づいていっても逃げない。つかもうとするとやっと決心したかのように岩の反対側にゆく。この種はどこへ行っても見かけたので、とうとう宮古島を去るころには見飽きてしまいゴミのように思うようになった。さらに泳いでゆくと、近づくといやがって岩かげに隠れるが決してその岩から去ろうとはしない掌くらいの美しい熱帯魚がいた。そばには体は黒いが顔だけオレンジ色をしたのがちょろちょろしている。(ぼくは川上氏のように博物マニアでないので、これらの魚の名前を知らないし、また教えてもらってもすぐに忘れてしまう。)これら熱帯魚たちはどうやら決まった岩に住んでいるらしく、行動範囲は岩のまわりに限られているようだ。しつこく追うと、岩にできた穴に入っていく。すばやく遠くへ逃げるのは、いつも大小の群れを成して泳ぐうまそうな魚たちだけだ。それらは岩に住んでいるのでないらしく逃げると戻ってこない。「うまそうなのは襲われる」太古からの経験則がそれらの魚の本能にインプットされ遺伝子に組み込まれて受け継がれているのだろう。逆に、熱帯魚は襲われないと知っているのか、神経質な逃げ方をしないので余り近づかなければゆっくり鑑賞できる。
熱帯魚の美しさについては読者諸氏も水族館等で十分堪能されていようからあえて詳述しない。むしろ適切な照明を当てられて水槽の中を泳ぐ熱帯魚をガラス越しに見ていたほうが、その美しさをより満喫できるだろう。しかし、魚たちと一緒に泳ぎながら彼らを鑑賞することには水族館等では体験できない魅力がある。この魅力を的確に表現してくれているのが以下の引用文だ。これは青木恵哉著「選ばれた島」(新教出版社)から得た。
『渚の岩に立てば降り注ぐ陽光が海底まで通り、珊瑚礁のあいだを遊泳する色さまざまな熱帯魚の美しさはたとえようがない。・・・沖縄の海は清澄で美しい。水中眼鏡をかけてとびこむと、あらゆる色と形、静と動とが完全な調和を保ち、その美しさは呼吸するために顔を水面から上げるのさえ惜しいくらいである。』
海の中には人の手でなく神の手により調和された文字通り息もつかせない美しさが展開しているのだ。
さて、ぼくらが入手していたトライアスロン・コースポイント通過予想時間表によると友利あたりに先頭の自転車がやって来るのは10時半くらいだった。そこでぼくらは10時ころにインギャーを出発した。途中道に迷い、さらに鉄砲玉のようにあらぬ方向に走って行った石塚君を追いかける一幕もあり、やっと11時頃に太平洋側の村である吉野あたりで初めて自転車で駆け抜けるトライアスリートたちを見つけた。とおにトップグループは通過していた。ぼくらはしばらくそこで応援した。そしてぼくらも彼らと同じ方向に進むことにした。めざすは東平安名岬だ。(ちなみに、東を「あがり」と読むのは太陽が上がるのが東だからで、日の入る西は「いり」と読む。)
レースの邪魔にならないよう歩道側を走ったが、水やバナナ、オレンジピースなどを選手に渡すエイドステーション等は歩道をふさぐように設置されていたり、それらの物を補給するための車などが歩道をふさいでいたので、そういうときは車道に出た。すると道端に旗を持って並ぶ部落総出にちがいない老若男女の応援団がぼくらにも頑張れとおしみない声援を送ってくれた。ぼくらは手や旗を振って声援に応えた。
片手に持ったウォーターボトルから水を飲みながらぼくらを追い越してゆくトライアスリートたちに「ファイト!」とか「頑張ってください」などと言って励ましていると「サイクリング頑張ってくださいね」と逆に励まされたり、「どちらから来たのですか」などとたずねてくる余裕派もいた。
ぼくらが東平安名岬の突端に着くころには、もうレースの最後尾あたりの連中がやって来るようになり、女性レーサーも多くなった。道端にはレーサーたちが捨てた空になったウォーターボトルやバナナの皮、スポンジなどが転がっていた。ボトルを拾ってみると、真ん中に宮古島の略地図が三角形の中に描かれその中に"STRONG MAN"とあり、上部には"MIYAKOJIMA APRIL 26, 1992" そして下部には "THE 8TH ALL JAPAN TRIATHLON"とあり、三角形の三辺の外に泳ぐ人、自転車をこぐ人、走る人の略絵があり、その下にそれぞれ 3km, 155km, 42.195km と記されてあった。ぼくは記念に一つもらって帰ることにした。そして川上氏は食器を洗うときに役に立つとスポンジも二つくらい手に入れた。
さてここでぼくは読者諸氏にクイズを出させてもらおう。このトライアスロン・レースは朝8時に美しい前浜をスタートし3キロのスウィム、155キロのバイク、42.195キロのマラソンと続く。この全行程を夜の10時までに完走しなければ失格となる。では質問。トップでゴールインした人は何時頃にテープを切ったでしょうか?
答えは3時半頃。すなわち第一位完走者と最後の完走者とで6時間半の差が生じるわけです。チャンピオンは7時間半の苦しみを経たのちに栄光の座に付き、最後の完走者はその倍近い14時間の苦しみののちやっとゴールインする。そして途中で失格したり棄権したりで永遠にゴールインできない者たちも大勢いる。
この過酷なレースは人生の苛酷さをも示唆していないだろうか。「参加することに意義がある」とよく言う。この「参加」の意味はこの種のレースの場合完走することであろう。しかしタイムリミットを刻む時計の秒針に追い越されてしまった者は失格してしまう。トライアスリートたちは腕時計を見ながら自分の持ち時間があとどれほど残っているか、その時の迫るのを知ることができる。しかし人生においてはわれわれは自分のタイムリミットを知るすべを持たない。なんと多くの人たちが苦しみ喘いだのちにやっと栄光のゴールを眼前にし、歓喜した瞬間、冷酷なストップウォッチの秒針に心臓を串差しにされてしまったことか。トライアスロンはサバイバルレースだ。最後まで倒れてはならない。生き残ること。人生も同じ。苦しむことと生き残ることが等号で結ばれた苛酷なレースなのだ。
しかしトライアスリートたちよ、君らはなぜにその苦難に満ちた人間の運命を縮図にしてぼくらや沿道の応援者に演じてみせるのだ。ぼくらに何を警告する必要があろうか。それともその縮図の中に注視すれば発見できる救いでもあるというのか。君らの苦しむ顔に他では見られない美しさが表われるとでもいうのか。追う者よ、逃げる者よ、競う者たちよ、こんな素晴らしい自然の中をなぜそんなに喘ぎ苦しみながら急ぐ。君たちの縮めた時間を僕たちツアーサイクリストは、また元通りに引き延ばしながらのんびり進んでゆく。ぼくらには君らの受ける人々の声援はない。約束された栄光もない。しかしぼくらは、鳥の声を聞く、川の流れる音を遠くにも近くにも聞く、腹が空けばペダルをこぎながらでなく木陰に腰をおろして食事する。追い抜かなくてはならない人も、追い抜かれてはならない人もいない。ただ、日の沈むまでに寝場所を見つければよいのだ。
ぼくらはコースに沿って東平安名岬の突端までゆき、最終走者の折り返して行くのを見送った後、あたりを散策した。折り返し地点のエイドステーションでは民謡がスピーカーから流れ、民俗衣装を来た若い女性が二三人いて南の島の雰囲気を作り上げていた。子供たちが選手の投げ捨てたウォーターボトルを探しており、水が入っているのを見つけたといって喜んでいる子もいた。しかし選手たちが皆去ったあとは、エイドステーションの人たちは子供たちを交え、ピクニックを始め、バーベキューや焼きそばを作りはじめた。彼らは仕事が終わったのだ。この細長い岬は1周目だけ選手たちはピストン走行するが、2周目はもう岬には進入しないで通り過ぎてゆくのだ。
この岬の端に立てば333度の中心角を持つ扇形の海を見ることが出来る。水平線はその円弧だ。足元の岩はみな溶岩だった。おそらく海底火山の噴火によってできた島なのだろう。海にもこのような粗く多孔質の岩がたくさん転がっていた。川上氏が本土にはいないハエくらいの大きさのセミを見つけた。木に止まるのでなく草の葉に止まっていた。彼は去年北海道をいっしょに走ったときも北海道にしかいない蝦夷ゼミを見つけた。博物学者であったご尊父に恥じず、彼も動植物に関する観察眼が鋭い。ぼくはここで彼に博士号を授けることにした。
東平安名岬の付け根付近にある三叉路にもどると、そこのエイドステーションでそろそろ2周目のトップが近づいているということだったので、ぼくらはそこでしばらく観戦することにした。トップは去年優勝したというパドリだった。しかし彼は自転車でとばし過ぎたらしくあとのマラソンで去年2位だった宮塚に追い抜かれて去年の順位が入れ替わることになる。
ぼくらは、勢いよく通過してゆく選手たちの姿をしばらく時間の過ぎるのも忘れて見ていた。やがてぼくらはレースの邪魔にならないよう海岸沿いの道を進み、再びレースコースと合流するところでパンとおむすびとビールの昼食をしながらレースを観戦した。さらに、そこから下に見えた魅力的な砂浜に下りてゆき1時間近く泳いだりした。遠くまで浅いので、泳ぎが不得手で海で泳いだことがまだないという石塚君も安心して水に入った。ただ彼は水着を自転車のところに置いてきたので、ふるっちんだった。そうだ、彼は処女航海にふさわしく一糸まとわぬ姿で進水しくまなく塩水の洗礼を受けたのだ。
ぼくらは泳ぎ終わると、坂道の途中にあった冷泉をコンクリートでプールしているところで体を洗った。ぼくは石鹸で頭もシャンプーした。しばらくつかっていると冷たさにも慣れ、露天風呂につかっている気分になった。このような泉は、島のいくつかの切り立った断崖の下に見つけたが、水道がまだなかった頃には、島民は急で危険ながけ道をおりてこのような泉に水を汲みに来たのだ。そしてこのコンクリートのプールはなにも水浴をするためのものではなく、複数の人が一度に洗濯したり、水を汲めるようにするためのものだ。
上に登って休憩所のベンチで再びのんびりトライアスロンレースを観戦した。ぼくらが泳ぎにゆく前にこのベンチには若いアベックがいたが、彼らの去ったあとになぜか南西航空の毛布が置かれてあった。おそらく彼らが飛行機から持ち出してきたものであろう。このままここに放置しておけば風雨にさらされ貴重な資源を損失してしまう。そこで川上博士はこれを有効利用すべく携行することにした。今回彼もぼくもシュラフは持参しなかった。ぼくは羽毛のテントシューズやシュラフカバーを用意していたのでテントの中で寒いと思ったことはなかったが、博士は朝寒かったと言い、その後はこの毛布のおかげで快適なテント生活を送れることとなった。
しばらくして2周目の最終ライダーである女性選手がやってき、そのうしろからレスキューバンが「これが最終走者です」とスピーカーでエイドステーションの人たちに伝え、「ご苦労さまでした」と労をねぎらってのろのろと通過して行った。東平安名岬の突端で1周目の最終ライダーだったある初老のおじさんはもういなかった。あの時ぼくらが岬の突端のトイレで用を足し、ボトルに水を入れて出てくると、このおじさんは道わきにロードレーサーを止めた。ぼくらはコースはあっちですよと教えてあげたが、彼は「ここはトイレですか」とやはり用を足しに入っていった。するとまもなく最終ライダーとその後に続くレスキューバンが通り過ぎていった。そしておじさんは幻の最終ライダーとなってバンを追って行ったのだった。しかし2周目にはその幻ももうなかった。
その後ぼくらは、トライアスロンの自転車コースをたどって東平安名岬を後にした。やがて雨が降り始めた。これはトライアスリートたちには好都合であったに違いない。しかしぼくらにとってはつらい雨だ。ある坂を上りきったところで自分たちが今どのあたりにいるのかわからなくなり、地図を見てみることになった。しばらくじっと地図をにらんでいるとさすがに寒くなってきた。ぼくはステンレス製真空断熱ポットに湯を入れていることを思い出し、博士に紅茶を飲んで休みましょう、と提案した。この紅茶、博士が愛飲するところのもので、東京でたくさん買って持参した。彼は頻繁に湯を沸かし、特に朝は必ず3人分の湯を沸かすことが彼の一日の最初の日課で、この紅茶を防水袋から取り出しストレートで飲んだ。いつもぼくらにも分けてくれたので、ぼくも旅行が終わるころには少々ストレート紅茶を愛好するようになってきた。さて、この小雨の中で飲んだ紅茶は最高だった。そしてぼくはこの何の変哲もない一時のことを、まるでもうずっと前のことのようにその後の宮古でのサイクリング旅行の間何度もなつかしく思い返した。
ぼくらはトライアスロンのコースに沿って進んだので、その朝いた友利に再び戻ってきた。いったんやんでいた雨が再び降り始めたので、時間はまだ早かったが、知らないところへ行って雨の中を新たにテントサイトを探すよりは、ぼくがその朝見つけたインギャーのキャンプ場に行くことにした。食料は友利のスーパーマーケットで買い、焼き肉主体の料理をすることにした。
キャンプ場に着いた途端、雨足が激しくなったのでぼくらは屋根とベンチのある所に入って様子を見た。そこはゲートボール場の細長い休憩所で、海側に一棟と山側に一棟あり、ぼくらは後者にまず逃げ込んだ。最前までゲートボールをしていた10人くらいの中年男女が、雨が降りだしたので山側の棟でバーベキューの用意を始めていた。そこでぼくらは海側の棟に自転車を移し、荷を下ろした。雨が再び上がると博士は水道が近いということで、20メートルくらい離れたところにあるあずま家のほうに荷を移動し、今夜はそこでテントを張ると決めた。そこはしかし3人でテントを張るには狭いようだったし、その朝そこでたむろしていた例の少年少女らが一升瓶を割ったらしくガラスの破片がコンクリート床の上に散らばっていて、ぼくは海側のゲートボール休憩所でテントを張ることにした。石塚君のテントはコンクリートの上に張るには大きな石を6個運んできて、それでペグを固定せねばならないので、土の上に張れる休憩所のほうに来て、ぼくの隣にテントを張った。やがてスコールは止んだ。
その夜も、材料を買い過ぎていて、食べきれず、残りものを翌朝の朝食のために取っておくことになった。しかしそれでも食べきれないほどであった。米は水の加減がうまくゆかず、その夜も前夜と同じく、柔らか過ぎるのだが底の部分は少し焦げているといった具合だった。
4月27日
未明、ぼくはすさまじい声を聞いて目を覚ました。それはカタカナで表すなら「オギャー、オギャー」という大人の男性の威嚇的な叫び声だった。途端にぼくの上半身がガタガタと震え始めた。眼を見開き、起き上がろうとしたが体が金縛りにあったように動かない。ぼくは「やられた、もうこれでおしまいだ」と悟った。こういう場合テントの中にいる者は無防備の不利な状態に置かれていることになる。その狂気と悪意を帯びた攻撃的叫びはすぐこちらに襲いかかってこようとする勢いを持っていた。声の方角からすると、川上博士がまずやられただろう。そしてすぐに石塚君とぼくのテントがめちゃめちゃにされるだろう。逃げようにも動けない。からだは震えるときには硬直してしまい、それで特に上半身が一枚の板になったかのようにうまく震動する。しばらくこの状態が止まらなかったが、狂気の声はすぐに聞こえなくなっていた。ぼくはそのままじっと金縛りの解けるのを待った。風でテントの天井が左右に揺れているのが見える。
夢というにはあまりにも大きな声だった。ぼくはこのような大声を夢の中で聞くことは今までになかった。そして、もし夢なら、目が覚めたときに、どういうストーリーがあってこういう眼の覚めるような経験をすることになったのかを思い出せるはずだ。目が覚めた直前の夢は容易に思い出せるからだ。そして声の主も誰であるかだいたい見当がつくはずのものである。しかしこの時の声は何のストーリーもなくやぶからぼうに襲ってきた。従ってぼくは何の夢も見ていなかったと信じられる。いわばぼくの夢テレビはスイッチオフの状態になっていたのだ。従ってあの声は現実の声だったのだとぼくは思った。やがて金縛りは解け、ぼくは起き上がった。ぼくは恐怖の経験ののち立腹していた。あの野郎ただではすまさないぞ。しかし同時にまだ身の危険も感じていた。まず、川上博士の安否を確かめねばなるまい。今やられている最中だとしたら早く行って助けねばならない。ぼくは恐るおそるテントのチャックを開けた。海岸を打つ波の音と木の葉を揺する風の音だけが聞こえる。ぼくは素早く外においてあった運動靴をはいた。そしてテントの中から唯一の武器であるナタを取り出した。そばの石塚君のテントはドルフィン型のもので馬蹄形に曲げられたグラスファイバーのポールで幕が膨らまされている。しかしこのポールの一箇所が折れており、骨の折れた傘を開いたときのような情けなさを漂わせていた。しかしこれは最初の夜、彼がテントを設営するとき失敗して折ってしまったものだ。ぼくは、20メートル先の吾妻屋の川上博士のテントを見てみた。星明かりにぼんやり彼のテントは見えた。どうやら壊されてはいないようだった。しかし、念のためにぼくはそこまで行ってみた。テントの外に人の気配はなかった。やはり夢だったのだろうか。ぼくは安堵したが、不可解な気持ちが残った。テントに戻って横になったぼくはしばらくこの不可思議な経験を反芻してみた。しかし、なんら納得のゆく説明がつけられなかった。悪霊がぼくだけを襲ったのだろうか。
朝、紅茶を飲みながらこの話を二人にすると、川上博士はぼくの近づいてきた足音に目を覚まし、それは覚えている、なんだ君だったのか、しかし叫び声は聞かなかったぞ、と言った。石塚助手はずっと熟睡していたようだ。博士はこのあたりの霊がぼくだけを訪れたのだろうと解説した。そして、ぼくがそういう霊に敏感な能力を持っているからだろう、とも付け加えた。
宮古島とその辺りの離島を訪れるならすぐ気づくことであるが、どの家にもシーサーと呼ばれる、陶器の魔除け唐獅子が門や家の玄関の両側に置かれている。これらはみなこわい顔で睨んでいるので、本土の神社等の狛犬の石像の親類である。のちに渡った離島の大神島では、貧しそうな構えの家では、陶器の唐獅子の代わりにヒトデのように角を放射状に突き出した、名前を知らなければ鬼貝とでも名付けたくなるような威嚇的な様の大貝をシーサーとして入口の両側に立てかけていた。(あとで書物により、これはスイジ貝というものだと知った。水の字形をしていることによる。)。さらにどの島でも少し注意するなら気づくことであるが、ほとんどの家の壁の下部には「石敢當」という三漢字が刻まれていたり、あるいは路角にそのように彫られた石塔が立っている。博士が地元の人に尋ねたところでは、これも魔除けのまじないであるという。その後調べた書物によると中国の豪傑の名ということだ。ではなぜこの土地ではこのように神経質なまでに徹底した魔除け処置をとるのであろうか?この傾向はこの土地のどういう現象を反映しているのであろうか?その後ぼくは二度と同様の霊の訪問を受けなかった。
(この旅からかなりたって読んだ戸井昌造著「沖縄絵本」からの引用:
「ガジュマルの木にはキジムナーが住んでいるそうな…キジムナーは海の神様の落ちこぼれで、ムシャクシャ赤毛の童子だそうな…キジムナーは海のタコと人のオナラが苦手なそうな…キジムナーはいたずらもんで、寝ている人にとりついて金縛りにしてしまうそうな…」
さては、ぼくが寝る前に排便した木陰の水辺にはカジュマルの木が立っていて、そこのキジムナーが気を悪くしてぼくに仕返しをしたのであったろうか?)
しかし、ぼくは27日未明の経験を今では感謝している。眼鏡などにこびりついたとれにくい汚れは超音波をかけて震わせて遊離させ落とすように、あの威嚇的叫び声はぼくを震わせ、ぼくの精神にしがみついていた臆病なものをおおかた離散させてくれたようであった。あの恐怖のあとにぼくが抱いた怒りは、これからぼくが経験するいかなるおどしのあとにも必ず頭をもたげ、けしからぬ者にぼくをけしかけるであろう。
その朝は、川上博士も石塚助手もいっしょにインギャーの内海で泳いだ。その後、熱帯魚を探して海水に潜るのはほとんど日課となった。博士は当初、カヌーを借りたり釣り具を借りたりして海の楽しみを満喫しよう、と提案していたが、この素晴らしい海の中をかいま見てからは、もう潜ることに専念することにしよう、と考えを改めた。ぼくはもう一つ欲を言うと、サザエやタコを捕まえて、おかずにすることを望んだが、これらは自然にはお目に掛かることはなかった。海の中ではこういうのは専門家でないと簡単には見つけ出せないらしい。旨いものは自然に保護されているのだ。
水から上がりシャワーを浴びたのちテントをたたんでいると、数人の男性が車でやって来てゲートボール場にポールを何本か立て始めた。彼らの持っている細長い袋は中にライフルが入っているように見えた。そこでぼくは、射撃の練習ですか、とひとりに尋ねた。しかし笑いながらその人は「グラスゴルフ」と言った。そして袋から彼が取り出して見せたのは全体が木製のクラブだった。これはその後この地のいたるところで見受けられた。そしてこの競技は大人だけでなく子供もプレーしていたので、ゲートボールの敬老のイメージがなく、ゴルフの金権イメージもない。これならぼくもやってみようかなという気にさせる。やがて体力が衰え、自転車を入れた巨大なショルダーバッグを担げなくなったら、ぼくもキャンピングサイクリストをやめ子供たちとこの草ゴルフを楽しもう。そして、ゲームのあと家に帰ってビールの栓を開け、「波のたわむれ」「雨音のしらべ」「小川のせせらぎ」「虫のセレナーデ」「野鳥シリーズ」などの自然録音CDのひとつあるいは二つ以上を組み合わせてBGMとして流しながら、サイクリング旅行記のどれかをゆっくりと読み返す。ゆっくり読むのは、何度も文字を追うのを中断して、宮古島や、北海道、信州、九州などの現地を記憶の手すりをつたいながら再び訪れるからだ。・・・黄金の回想。
さて今回のトライアスロンレースに関して、ひとつ不可解なことがあった。コースポイント通過予想時間表の地図を見ると、宮古島の北端には、池間島をはさもうとするかのようなカニのはさみに似た二つの岬が延びており、一つが世渡崎、もう一つが西平安名岬である。スウィムの後、前浜で自転車に乗ったトライアスリートたちはまず一路北に向かい離島の池間島を目指す。地図の自転車コースを追うと、世渡崎から池間島に線が延びている。そして池間島折り返し点でターンして再び世渡崎にもどる。しかし、ぼくらが空港で得たレンタカー会社の地図にも、この通過予想時間表の地図にも池間島と世渡崎との間に橋などはかかっていないのだ。いくら浅いとはいえ海を自転車で渡るのは無理だ。ぼくらはこの謎を解き明かすためにも宮古島の北端世渡崎を目指すことにした。
ぼくの持参したプリムスバーナー用のガスが早くも不足してきていたので、途中平良市市街地で購入するためいろんな店を訪れた。しかしどの店にもなく、とうとうぼくらは炭を一袋買った。そしてぼくはさらに釣具店で缶入りの固形燃料を購入した。これらはどちらものちに役に立ったし必要だった。固形燃料を消費したあとの空缶と炭との組み合わせがぼくらの自炊生活をサポートしてくれた。なお、博士のピークワンはその朝、全体が炎上してスクラップとなっていた。こうしてぼくらは文明生活からまたさらに一歩遠のいていった。そして遠のけば遠のくほど、ぼくらの野性は牙を剥いて貪欲になっていった。
ところで、トライアスリートたちがいかにして池間島に渡ったかの謎は、平良市街で見つけたあるポスターで解けた。そのポスターは、ある地元出身の男性演歌歌手の新曲発表コンサートを宣伝するもので、その新曲の題もずばり「池間大橋」というもので、開通式に人々が立派な橋を歩いて渡る写真も載っていた。この年の2月に開通したばかりで、それも架橋工事が始められて1年足らずで完成したのだった。それは海が浅く、しかも底が硬質の岩礁よりなっているので、橋よりも高架の高速道路を作るに近い技術で間に合うのだろう。いずれにしてもこの橋が2月にできたことも考え合わせると、宮古島の一大イベント、トライアスロンが架橋のひとつの動機になっていることはまちがいない。同様に前浜から来間島に建設中の橋も来年はトライアスリートたちを来間島に渡すことであろう。
さて橋でつながったので池間島はもはや離島ではなくなった。強い風に煽られながらぼくらは島に渡った。橋の世渡崎側にも池間島側にもそれぞれ公園があった。そしてどちらにも砂浜もあった。橋のどこから海を見下ろしても必ず底が見えた。それは水がきれいだからというばかりでなく実際に浅いのだ。隣の西平安名岬からでなく世渡崎から橋が架けられたのはこちらのほうが海が浅いからであろう。同様に、来間島への橋が前浜ビーチからの最短のコースを取らないで、皆愛から斜めに延びるように架橋されようとしているのも、浅い棚部分を示す地図を見るならその理由は一目瞭然となる。浅いところを利用したほうが架橋がずっと容易だからなのだ。
西平安名岬といえば、ぼくらは池間大橋を渡りながら風力発電のための大きな風車を見た。まだ政府から許可が下りていないため試験運転の段階で、本格的運転はなされていなかった。東平安名岬の付近では太陽発電の試験場があった。山がないためほとんど川らしい川のないこの島では水力発電はできず、火力発電のためのオイルも採れない。すべて他よりエネルギー源を頼らねばならない。しかし強力な太陽光と、強風には恵まれている。これらを利用して電力を得るならばここの島々は潤いを増せるであろう。
ぼくらは、まず港にハンドルを向けた。「ありがとう、池間丸」と書かれた横幕をつけたままの古びたフェリーボートが岸壁に横付けになっていた。ここに来る途中には、「祝、池間大橋落成」という横幕を見かけた。さっそうとデビューしたスマートな大橋、そしてくたびれて引退する錆びたフェリーボート。橋ができるまではこの船は島の生命線だったに違いない。島民は公園かどこかに保存するのだろうか。ぼくは、新曲演歌「池間大橋」の中に一言でも「池間丸」の名が出てくるのだろうかと思った。
ここの漁港は地形の利を生かした良港であった。ぼくは漁業組合の人と掛け合って一匹魚を売ってもらった。名を聞くと「暴れん坊」ということだった。ピンク色をしていた。組合の人は親切に刺し身包丁で身を切ってくれたのでぼくらは新鮮な刺し身にありつけた。その間に川上博士は沖縄産の「オリオンビール」を買ってきていた。石塚助手に醤油とワサビを買いに行かせると、そこには醤油はキッコーマンのLサイズのボトルのものしかなかったので彼はそれを仕方なく買ってきた。ぼくはその後、腰バッグのウォーターボトルを差し込むポケットにこのボトルを差し込んで持ち歩いた。スーパーマーケットなどに入るときは自転車のそばにおいてから中に入った。皮肉なことにその後醤油を必要とする料理は殆どしなかったので、殆どが余り、最後のテントサイト前浜のキャンプ地に置いてきた。
さて、その夜のテントサイトは大橋のたもとの公園にした。シャワー設備はなかったが、水道があり、ぼくのプラスチック製ヘルメットで水をためて浴びれば、体を洗うことができた。ところで、今回の旅でもぼくのこのシンシナティ・レッヅの赤ヘルがいろいろと役に立った。水浴びのための桶、炭をおこすときのうちわ、まくら、腰掛け、そしてパンクしたときの穴さがしのための洗面器等。
さて、この公園には、橋を羊羹を切るようにして得た実物大で厚さ2メートル余りの三片のコンクリート大ブロックがモニュメントとして並べられており、これらは断面が逆台形で中は空洞であった。ぼくはこの中にテントを張った。川上博士と石塚助手はこのブロックのひさしの下に設営した。ブロック間にベンチとテーブルがあったが、料理は浜に下りて、炭をふんだんに使ってなされた。博士の指導で、暴れん坊の刺し身にした残りの部分を水で煮て醤油を加え、吸い物を作った。これは旨かったので、ぼくは断熱ポットに入れてあとでまたテントの中でゆっくり飲んだ。
毎夜のことであったが、まずオリオンビールで乾杯したあと泡盛をあおった。博士は、バーボン・ウィスキーを最も好むが、郷に入っては郷に従え、とどんな小さな店にも必ず置いてあった地元の泡盛を買い続けた。これのお湯割りもなかなかよかった。ぼくらにとって一日は紅茶で始まり泡盛で完了するのだ。
その夜は特に星がよく見えた。ぼくらは公園から急な坂を降りたところにある浜で夕食と晩酌をした。ぼくは泡盛をいつもより多く飲んだせいか、いつのまにか水際近くの砂の上に横たわって星を眺めていた。波の押し寄せては引く絶え間ない音の繰り返しが足元で聞こえる。博士と助手が、頭の後ろのほうで何やら話している。ホタルがあそこにいるとか、星がみごとだとか、そういえばパソコン用の星座ソフトを買った、とか。ふと、先ほど公園で会ったある漁師の話を思い出した。「今夜あたり、ウミガメが卵を産みに浜に上がってくるかもしれんよ。」ぼくは、おもむろに立ち上がり水際をヘッドライトの明かりを照らしながら歩きはじめた。カニがあわてて逃げてゆく。波がサンダルを履いたぼくの足を気持ちよく洗ってくれる。夜の海に釣り舟が幾つか出ていて、明かりが波の上をチラチラとゆれている。ときたま大橋を猛スピードの車が走る。もうウミガメはこの浜には来ないだろうという気がした。ぼくらは食器や炭など貴重品でない物をすべて浜に残し、公園のテントに戻って寝た。
夜半、ぼくは目を覚まし、波の音が気になったので、浜に下りて行ってみた。ライトで照らすと波打ち際はぼくらが去った時より数メートルほど上の方にあった。しかし、食器類は無事だった。ぼくは安心したが、念のためにそれらをずっと上の方に移動した。テントに戻りポットからまだ熱い魚スープをコップに注いで飲んだ。そして、横になって昔のことなど思いめぐらしていたが、やがてそれも fade out して眠りが訪れた。
4月28日
未明より風を伴うかなりの雨が降った。外が明るくなってからも、やがて雨が止んでからも、ぼくは横になったまま浅い眠りと瞑想を繰り返していた。眠りから覚めると、あることを瞑想し、しばらくすると次第にその思いが fade out し、再び眠りが訪れ、そして目が覚めるとまた同じ瞑想が始まる。そのたびにぼくの体は、寄せては引く波に揺れる波打ち際の丸棒よろしく寝返りをうった。とりとめのない瞑想は次第に浅い眠りの中の夢と交錯し、さらに込み入った難解な迷路にぼくを導き入れた。
9時過ぎになってぼくはこのとめどもない繰り返しから身体をふり切ってテントから顔を出した。すると、博士と助手君のふたりは来訪者を接待していた。それは男性トライアスリートだった。彼は、レース中は必死で走ったので周りの景色がほとんど目に入らなかった、例えばここでは西平安名岬の発電用風車が回るのは見たが、その他の風景の記憶は全くないと言う。それで今こうしてゆっくりレースのあとをたどりながら、素晴らしい景色を堪能しているのだそうだ。この人の自信に満ちた他人に対する親しみの込め方から、過酷なレースを完走した者であることがうかがえた。
やがてぼくらはいつもより遅い朝食を済ませると、島巡りをするために、テントは設営したままで貴重品だけを身につけて自転車で1時間余り走った。ブロックモニュメントの内壁に貼ってあったプラスティックの新しい絵入り地図によると池間島には大きな沼があり、木製の遊歩道も設備されており、白い野鳥もいる。そこでぼくらはまず沼を探した。しかし道はすべて微妙にカーブしており、しばらく走っていると同じ所に出てきたりしてぼくらの方向感覚もマヒしてきた。それに、この島は標識がなく地図も役に立ちそうでなかった。とうとうサトウキビ畑のお婆さんに沼の場所を聞いた。するとこのお婆さんの反応が興味深かった。彼女は我々が沼を探しているのは、喉が乾いて水が欲しいからだと思い込んだのだ。だから場所を教えてくれるのではなく、今はもう誰もあそこの水は飲みませんよ、どこそこに行くと水道がありますよ、と言う。ぼくが、水が欲しいんじゃないのです、と話しても老婦人は「昔の人はあそこで水を飲んではいたけど・・・」といつまでも飲料水のことにこだわった。今では宮古島からパイプラインが来ていて、島の人は水道で水を得られるが、かつてはここの人々は沼から貴重な水を得、海水で用が足せるものはできるだけ海水を使っていたのだ。島の老婆にとって、人が沼へ行く目的は飲料水を得る事以外には考えられないことだったのだろう。
この地方の人魚伝説によると、美しい人魚が漁師に捕らえられ、まさに味見をされそうになったとき、彼女は海の神に呼ばわり助けを求めた。すると津波が襲ってきて島は波で洗われ、人魚はその波に乗って海に逃げ帰った。そして、その津波によってできたのがこの沼であるという。
ぼくらは、道を聞いてからも迷い続け、ついに大橋からは島の反対側にあたる灯台に出た。ここから左折し、野生のアサガオが咲いている砂利道を下って島の北側の浜に出た。自転車を置いて、海辺に出てみた。浜で珍しい形をした貝殻を拾ったり写真を撮ったりしたのち、そこにあった小舟のふなべりに腰を下ろして海を眺めてのんびりしていた。すると、一目で島の漁師とわかる美しい顔だちの若者がやってきた。ぼくらは「こんにちは」と挨拶したが、彼は一瞬どぎまぎした様子でこちらを見たかと思うと何も言わずに波打ち際まで行き、それに沿って歩いて、海水に洗われている大きな岩の影に隠れ、しばらくするとその岩の上に立った。六七分沖のほうをじっと眺めていたが、結局何をするでもなく去って行った。
彼が何をしていたのか、その時はわからなかった。しかしあとでわかった。実は彼が見ていた方向こそ「幻の大陸、八重干瀬」のある海域だったのだ。これは、地元でサニツと呼ばれる毎年旧暦の3月3日(4月中旬)に約2時間だけ海より姿を現す広大な珊瑚礁の群で、その広さは宮古島以上であるという。近辺の人々はこの日時にフェリーボートなどで大挙して押し寄せ、この束の間の珊瑚大陸に上陸し、逃げ遅れた魚、エビ、タコ、貝類、その他あらゆる海の幸を手掴みで収穫する。まさに海の中から現れる豊作の畑である。要所要所には百を越える数の地名が付されており、たとえばかつて汽船が座礁した所は蒸気が関と呼ばれ、鯨が淵や、大蛸の江といった具合に名付けられている。しかし、国土地理院の地図にはこの幻の潜水島はしるされていない。さて、宮古島滞在最後の日に入った理髪店の理容師の話によると、サニツの日だけでなくほとんど毎月大潮の日には規模と時間は縮減されるが、このヤビシは姿を見せているということだった。してみれば、この池間島の若者はいつも干潮時が近づくとここに来て沖を見て、ヤビシの出現の兆候である白い波が立っているか否かを観察していたのであろう。その時もし少しでも白いものが見えたら、ぼくらの座っていた小舟をこいで沖に出て、ヤビシに一番乗りをしようという腹づもりであったのだろう。ヤビシは豊かとはいえない池間島の人々にとって神から贈られた宝島である。今までに海に生きるありとあらゆる種類のものが神からの賜物としてヤビシのまな板の上に載ったことであろう。ならば賢明なる読者諸氏よ、このうら若き南海の美青年が、幼き頃より、いつか伝説で聞いた美しい人魚がヤビシの岩の上にとり残されることを、そしてそれをわが妻にめとることを願い、海神に祈り続け、その純粋な思いを崇高な信仰心にまで高めた結果、その成就を信じてここに立つのだ、というぼくの推察はあまりにも突飛であろうか?
しかし、またこのヤビシは科学的ロマンをもかき立ててくれる。池間島から橋を架け、このヤビシの上に巨大な海上都市を構築することをぼくは想像してみた。海中でも腐食しない水中コンクリートが開発されているのでこれを使えば基礎部は心配ない。ベニスのように道はほとんどが水路であってもよいし、建物の高さを一律にして屋上を道路で連絡してもよい。広大な海中水族館も作れよう。うまくすれば、魚の牧場もできよう。海の釣り堀もあってもいい。サイクリングロードをつくれば、トライアスリートたちは、ヤビシを一周することにより宮古島の同じコースを自転車で二度回らなくてもよくなる。また、制限時間を2時間とすればこれ以内にヤビシを回れなければロードが水没するとすればスリルも出てくる。発電は太陽光線、風力、波力、および潮の干満を利用する。やがて、ここに空港もでき、巨大な多目的タワーもできる。しかしこの壮大な科学的ロマンと美しき青年の密かな夢は互いに排他的である。
ぼくらは再び島の沼を目指した。さらに島の人に聞いてなんとか沼にたどり着くことができたが、遠くから湖面を眺めることができる状態で数羽の白い鳥も見られた。公園の地図に描かれたような木製の湖上遊歩道などはなかった。誇大広告ならぬ、誇大地図だ。おそらくあの地図はこの島のこれからあるべき姿を描いていたのであろう。しかし、遊歩道など作って沢山の人が来るようになると今度は白い鳥がいなくなることもある。
ぼくらはテントに戻り、ぼくはしばらく浜に出て遊泳した。やがて石塚君もやって来た。岩があればたいてい熱帯魚がいた。しかし、ここは橋の工事の後遺症なのであろう、あまり多くは見つけられなかった。テントに戻ると川上博士が早くも数本オリオンビールを購入しており、それを冷たく保つためにシャーベット種のアイスキャンディーもたくさん袋に入れていた。ぼくはこのアイスのほうをたくさんいただいた。やがてぼくは水浴びして着替えると昼寝をすべくテントでアイマスクをして横になった。しかし朝と同じ瞑想を繰り返すばかりでほとんど眠ることができなかった。
外では、新たなアイアンマンが次々にやって来ていた。博士自身サッカーやラグビーを愛するスポーツマンだから、彼らを温かくもてなした。ついには女性の完走者も来た。この時ばかりはぼくもテントから出て挨拶をした。ある者は、浜に出て泳ぎ、もずくをたくさんかき集めてきた。これをお土産にするのだという。少し賞味させてもらったが確かにもずくの歯ざわりであった。ぼくは同じ所を最前泳いだのだったが、もずくなどは味付けされて器に盛られたものしか知らないので海中で見かけてもとんと気がつかない。トライアスリートたちは、池間島を巡ったのち飛行機の時間を気にしながら次にゆくところを決めると去って行った。「サイクリングがんばって下さい」「来年もトライアスロンがんばって下さい」ぼくは彼らが池間大橋を宮古島のほうに走り去ってゆくのを見ながら寂しい思いを禁じえなかった。もうぼくもこのへんで旅を切り上げて帰ってもいいような気さえしてきた。
昼過ぎにぼくらは荷造りして池間島を去った。ぼくの地図に「きれいなビーチ」と紹介されていた東シナ海側のビーチを次の目的地に定めていた。途中、福山というところで石塚助手のチュブラータイヤがパンクし、スプレー式パンク修理具でそれを直した。その後、遅れを取り戻そうとするかのように川上博士はどんどん南下してゆき、ぼくと石塚助手は次第に遅れ、ついに博士の姿を見失った。博士はどこかで左折してビーチに下りて行ったのだ。そして、そのビーチがゴミが多くてきれいでなく、ぼくらもなかなか来なかったので、彼は坂道を登って引き返した。しかしその時にはぼくらはもうそこを通り過ぎてしまったあとだった。彼はまた石塚助手のタイヤがパンクしたのだろうと考え、そこから池間島の方向に引き返し、ついに東シナ海と太平洋への別れ道である南静園の三叉路まで引き返したという。
この頃、ぼくはまるで夢遊病者のようにひたすら走り続けていた。あまりにも長く博士の姿が現れないので、ぼくは上述の状況を危惧し、引き返そうかと思い自転車を止めて後ろから石塚君の追いつくのを待った。すると、やはり夢遊病者のように疲れ切った様相で走って来た彼は、そのままぼくを置いて更に進んで行った。放っておくと彼は東平安名岬の突端まで行くかもしれない。彼は2年前の日南海岸で、彼が先をゆく我々を視野に入れているのを見届けて横道に逸れたぼくと川島君を気づかぬうちに真っ直ぐ進み、ぼくらが先にいるものと思い込み、とうとう鹿児島県志布志まで行ってしまった。そのことを覚えているぼくは、彼を追いかけることにした。しかし、こういう状態のときの、つまり見えないが先にリーダーが走っているものと信じ込んだときの彼の走りはしぶとい。簡単に追いつけるものではない。石塚君、しかし君は先にいない者を追いかけていたのだ。決して追いつくことのできない者を追いかけていたのだ。目覚めよ、石塚君。君の慕う博士は君のずっと後方にいたのだ。君のいつも何かを追い求める姿は尊い。導くものを追い、あわよくばそれを追い越すということは若者の正しい姿だ。しかし若いが故に導くものを見失い、あるいは見誤り、危険な速度とコースをとることもある。君が君を導くものをいつも自分の外に見つけようとするならこの危険はつきまとう。君の中に君のリーダーを育てるのだ。幻のリーダーを追うのでなく、自分が今リードしていることを自覚するのだ。神の国を指し示す羅針盤は君の中にもある。
ぼくはようやく、石塚君に追いつき、引き返そうと言うと首をひねり怪訝そうな表情で返事をした彼を連れて、来た道を戻った。目の覚めるような美しい海がこんどは右にきたので、ぼくは何度も首を右に振った。二十分くらいたった時、川上博士がぼくらの方にやって来るのが見えた。ホッとした。ここで互いの非を論じ合うのは無意味であるばかりか、有害である。地図で「きれいなビーチ」と書かれた目的地としていたビーチをはるかに通り越してしまったぼくらも愚かであったが、後続の姿を確かめないで左折した博士にも非はあった。しかし再会したときにだれもこれらを口にしなかった。
ぼくらはヒガという村で食購し、きれいでなかった「きれいなビーチ」の隣の与那浜に下り、ここでテントを張った。水際から10メートルくらい上がったところだ。ぼくは夜半にまた目が覚め、波の音が近づいているので外に出てみると、2メートルくらいの所まで波打ち際が迫っていた。そこでぼくはテントを丸ごと抱えて防波堤の後ろに移動した。結局、波はそれから先には上がって来なかったので、真夜中の大テント移動は無駄であった。が、移動していなかったなら波の音が気になって、安眠はできなかったろう。このようにものごとをすべて都合よく考えてゆけるなら、残りの人生も愛すべきものとなろう。
4月29日
目が覚めてみると腹が刺すように痛む。食あたりのようだ。トイレットペーパーをザックから取り出して、それを持ってテントから出た。すでに明るくなっていたが、博士も助手もまだ寝ているようだった。この地に来て初めて一滴も雨の降らない夜が明けた。ぼくは水辺で用を済ませると、昨夜の宴の場に行ってみた。犬が「きれいなビーチ」の方にそそくさと歩いて行っている。見ると、そこに残したままにしておいたそう麺が袋からはみ出て湿気で柔らかくなって曲がっていた。ビニール袋を見るとその中に入れておいた朝食用のパンが見あたらなかった。空になった泡盛の瓶が転がっている。先ほどの犬がここで早めの朝食を済ませたにちがいなかった。ぼくはテントに引き返し、横になった。
それから数回テントから出て排便したがいっこうにおさまりそうでなかった。ときに唸されるほどの痛みが襲ってきたので赤痢に罹ったかなと不安になった。腹痛は周期的に襲ってきた。3・4回目毎に便意をもよおした。テントの中で横になっていると、朝の太陽光線がテント越しに眩しい。ぼくはアイマスクをして目を刺激から守った。しかし、テント内は温室のように蒸してきた。身体中から汗が滲み出てきた。そして、腹がひとしきり騒ぎ、またぼくはテントから出る。このような事を繰り返しているうちに、体力を消耗し、脱水状態になってきて、少し歩くことでさえつらくなってきた。
やがて、博士と助手の声が聞こえてきた。朝食用のパンが紛失し、出しっぱなしにしておいたそう麺も駄目になったと言う。ぼくはテントから顔を出して、パンは野犬が食べたのだろう、と言った。それだけでくたびれて、また横になる。
その朝、米と生卵と調味料に毛が生えたようなおかずしか残っていなかった。博士らはぼくのテントのすぐそばの防波堤の下の日陰の中で朝食のための作業を始めていた。ぼくはテントから出て、腹の調子の悪いことを報告し、それでも米を研ぐことと、米の入ったコッヘルを火に架けることまでして、再びテントに戻って横になった。とてつもない重労働をしたあとのようにへとへとになっていた。食欲は全く無かったが、水が欲しかった。しかし、体力と気力を回復するためには、とにかく固形食料を胃に送り込まなければならなかった。
きょうはしかしこのまま動けないかもしれないと思った。ここで腹痛がおさまるまで横になって待つしかないかもしれない。赤痢だったら病院に行かねばなるまい。心細い時間が過ぎてゆく。しかし幸いなことに腹痛がおさまる兆候がみえてきた。やがて、ご飯が炊けたというので、テントから出て防波堤の影に入って生卵と醤油をご飯にかけて食べた。湯も飲んだ。三人は質素な朝食を済ませた。そこの日陰が次第に面積を縮めてきて居心地が悪くなってきたので、ぼくは再びテントの中で横になった。ご飯を食べたせいか元気も回復してきていた。自分でも不思議なくらい調子が戻ってきたので、再び外に出てそのことを報告し、ついでに泳ぐつもりになってきたとも言った。この豹変ぶりには自分でも驚いた。この浜にはきっとたくさんの熱帯魚がいるにちがいないという確信があった。それにせっかくこんなすばらしい海辺を前にして、一泳ぎもしないで去るのではあとあと悔いが残るに違いなかった。
着替えて水中眼鏡をかけるとぼくは海中に身を投じた。どこまでいっても足がとどくほどの浅さだ。遠浅というよりはここは海全体が浅いのだ。6~70メートル沖に行って初めて背が届かなくなるくらいだった。熱帯魚を見つけるための必須要件は岩である。熱帯魚は穴のあいた岩に巣くうので、これがない所では見つからない。そこでぼくは岩場を探した。底が黒みがかっているところが岩場だ。そちらに泳いでゆくと、気持ち悪い黒いナマコがいくつも岩にへばりついている。よくこんなものを自分はおいしいと思って食べていたものだ。
やがて、酒場の入口で客の呼び込みをしているきれいに着飾ったホステスを思わせるような長く垂れるヒレを持ち派手な色彩をした熱帯魚が、大きな珊瑚の岩影からのぞいてぼくの目を捕らえた。ぼくはそちらに泳いで行った。そして、海面から顔を出すと、すでに水着に着替えて泳ぎ始めていた川上博士をも呼び寄せた。「博士、いいところを見つけましたよ、一杯やってゆきましょう。」という感じだ。ぼくが近づくとその熱帯魚は尾ヒレを振りながらぼくを誘うように岩の反対側に泳いでゆく。反対側には穴がありその中に入っていった。ぼくがあきらめて去ろうとすると、また出てきた。ぼくがまたそっちへ行くと、また、中に入る。こういうことを二三回繰り返しているうちに博士がやって来た。ぼくはその魚を指さして、それは博士にまかせて、こんどはその岩の下のほうに潜っていってみた。すると、岩の底に穴がありその奥のほうから美しい青色の足をたくさん持った地を這う種類の魚がのぞいていた。この複数の足というのは胸ビレが進化したものだ。博士をまた呼んだ。ぼくが手を伸ばしてその奇妙な魚を指し示すと、それは穴に退歩した。博士は、それは毒を持っていて刺すので手を出さないほうがいいと言った。博士はまた名前を教えてくれたが、例によってぼくはすぐに忘れてしまった。しばらくして石塚君も水着をつけて泳ぎ始めた。しかし彼はなかなかこちらに来ないで、浅い砂地のところばかりをうろうろしていた。ようやく熱帯魚のいるこちらの岩場に来たころにはぼくらはもう飽きてきていて岸に戻り始めていた。
彼は海の経験が浅いからまだあまり深みに来ないほうが安全であることは確かだ。しかし、艶やかな魚は危険な深みに来ないと見れないのだ。彼は恐る恐るぼくらがいたところに泳いで行った。彼はしばらくそこで潜っていた。彼もあの派手な熱帯魚を見つけたに違いなかった。しかし彼はあまり深くは潜らない。必ず身体の一部が水面の上にあった。いいぞ、その調子だ、助手君。どんなに艶やかに着飾り誘惑にたけたものも、またどんなに美しい足を持ったものも、君が高見の見物をきめつける限りは害を及ぼすことはできないのだ。美しいものは離れて鑑賞できればそれで十分ではないか。しかし、自らの技を過信した何と多くの若者たちが美しきものに触れようと深追いをしその美しき毒牙に刺されてきたことか。生命体における美しさはすべて毒素の結晶だ。美しき人を目の前にしてわれわれが動揺し、たじろいでしまうのは故の無いことではないのだ。ぼくはこの旅行ののちある美しき歌姫と話す機会があり、彼女はその頃放映された日本のビジネスマンの実態を扱ったテレビ番組に言及して、われわれビジネスマンは毎日命をすり減らす思いでお客さんの接待をしなければならず「大変ですね」と憐憫の思いを表してくれた。そこでぼくはすかさず、「でも、あなたのような美しい方を接待できるのでしたら命がすり減ってもいいのですが」と言うと、彼女もすかさず「私を接待するのは命がけですよ、命がいくつあっても足りませんよ」と笑った。まじめな話の中よりもこのような冗談の裏に真理が潜んでいることが多い。
ぼくらはその日の目的地を伊良部島と決めた。そこで宮古島を横断して平良港に向かった。ぼくは腹痛はおさまったが、下痢が止まったわけではなく、その後二三日間のトイレットペーパーの消費量は、普段のときの約一か月分に相当するくらいだった。とにかくぼくは体力が低下していたので、博士が常に先頭でぼくと助手が後ろから博士の姿を見失わないようについてゆく、というパターンが定常となった。
平良港に向かう途中で、ぼくの全く予期していなかったことが待ち受けていた。決してパンクしないだろうと信じていたぼくのマウンテンバイクの後ろタイヤがパンクしたのだ。ぼくは、このマウンテンバイクを買ってからツアーに出るときはいつもスペアチューブを持参していたが、ずっとパンクすることはなかったので、とうとうマウンテンバイクは空気さえ十分入れておけばパンクしないものと合点するようになり、ついに今回は荷を軽くするためにスペアチューブは持参していなかった。石塚君は自転車を止めたぼくを追い抜くとそのまま進んでいった。ぼくは、パンク修理具を取り出して本当に久しぶりのパンク修理を始めた。パンクの穴を見つけるためにチューブにウォータボトルの水をかけてみた。容赦なく太陽光線が照りつけ、アスファルトを濡らした水もまたたくまに蒸発してしまう。やがてパンクは修理できたが、虫ゴムが古くなっていて空気がなかなかチューブに入っていかない。そのうち疲労して空気ポンプを押す手に力が入らなくなってきた。そうしているうちにやっと博士たちが引き返してきた。結局、ぼくはしばらく心もとない状態のタイヤのまま1キロくらい走ってガソリンスタンドでエアコンプレッサーのお世話になった。
ぼくらはそのまま平良港に向かい、伊良部島行きの切符を買った。自転車乗船代も安くなかった。出航まで15分待ち時間があったので、ぼくはひとり市街に引き返し薬局を探した。歯が痛みだしていたので歯と歯の間を磨くブラシを買うためだった。宮古島に来てから2日目に買ったパイナップル味の砂糖塊(子供の頃よくしゃぶっていたものだ)を、走行中のカロリー源として頻繁にかじっていたのだが、これが歯をむしばみはじめていたらしい。結局目当ての物はなかったので、デンタル・フロスを買った。ついでにぼくはセブンイレブンに寄って船の中で食べるためににぎり寿司のプラスチックパック入り詰め合わせとミニバナナと青リンゴジュースを買った。
船の出航3・4分前に港に帰ってきたが、博士と助手がいなくなったぼくを探しており、ぼくを見つけると、船がもうすぐ出るぞと急がせた。確かに船は今にも出航しそうな様子だったのであわてて自転車を積んだ。客室に入ると、前後2室に別れており、前のほうが禁煙室だったのでぼくと石塚君はそちらに入って座った。愛煙家の博士は後ろの部屋に行った。船室の前の方にテレビがあり広島-横浜大洋戦を実況放送していた。船内テレビの常として映りは悪かった。東京から去ってはるばる沖縄の離島に来て、その離島のまた離島に渡ろうとする時、ぼくは船上でその存在すら忘れかけていたプロ野球の試合をリアルタイムで見る。そして、ぼくがかぶっているレッヅのヘルメットが、ブラウン管に映し出される広島カープの選手たちのかぶるヘルメットと同じであることは一目瞭然だ。
ぼくは、もう何年も前から、つまらないから広島カープのファンであることをやめようと努力してきた。そして年々それは成功してきていたかに思えた。ぼくがかぶるヘルメットも、「カープのヘルメットだ」と言う人には、「レッヅのです」とはっきり断った。そしてそれはアメリカで買ったのだから嘘ではなかった。さて自分がカープのファンであることがつまらないというのはこうだ。ぼくは広島県で生まれ育ったので自然とカープファンになった。つまりカープは地元のチームだからいい、という単純な理由だ。さて、地元を愛する心理は、対象を広げてゆくと愛国心となり、狭めてゆけば父母への愛情にゆきつく。自分が属しているものあるいは自分を生んだものが優れているならば自分も優れているはずである、という心情だ。この「自分の地元が他より優れており、優れたものが優れたものを生み出す」という仮定が正しければ、自分の属しているものに同じく属している者たちはみな優れているはずだということになる。従って彼らが他と競うとき、彼らは勝つはずであり、さもないと上記仮定が覆される。そこで地元の者をひいきし応援することになる。つまり地元を愛することは自分を愛する自己愛の一形態である。自分個人に誇るべき何ものをも持たない者も、自分のルーツを誇ることは可能だ。またそういう人ほど、それが自分をさらに低めるのも気づかず、自分のルーツを頼りに自己を誇張したがる。すなわちこういう人が自己を他人にアピールしようとするとき、自己との関わりのあるもので優れたものを吹聴する。従って、自分は・・・だというのでなく、自分の何々は・・・なのだというパターンで話すのだ。すなわち彼らはたいてい次のような言い方をする:自分の祖父は・・・だった、親父は・・・だ、母の実家は・・・だ、いとこに・・・をしているのがいる、俺の高校の同級生が・・・に勤めている、親戚に・・・の資格を持っている人がいる、そしてこのリストのずっと末尾のほうに、ぼくは広島県人でカープファンなんだ、カープはどうやら今年は優勝しそうだね(だからぼくも偉いんだ)、とくるわけだ。しかしそれとてカープでプレーする選手は広島県外の出身者がほとんどで、カープが優勝したからといって広島県人の価値が少しでも上がるわけではない。ましてやカープが優勝したとして、選手の給料はうんと上がっても、ぼくらがラジオやテレビにくぎづけになりながら応援したからといってそれでぼくらの給料が少しでも上がるわけでもない。次に、選手たちはトレードによりチームを移るので、前年までは憎らしいと思っていた選手がカープに移籍してくると一変して応援し始めるし、逆に前年まで応援していた選手も他のチームに移れば次第に応援しなくなる。これは何か不合理で健全なる精神と調和しがたい。ぼくはだから「カープファンはやめたよ」と公言し続けた。しかしどうしたことだ、東京から去ってはるばる沖縄の離島に来て、その離島のまた離島に渡ろうとする船上で、シンシナティ・レッヅの赤ヘルをかぶったぼくはテレビを見ながら広島カープをあきらかに応援している。しかもぼくはテレビに映っている赤ヘルとぼくのかぶっている赤ヘルが同じであることを船室内の人たちが気づいてくれればとまで願っているではないか。ぼくは何という小人間なのだ!せっかくこんな遠くまで来て、しばらくは野球のことなど忘れていたのに、これはまるで、雲に乗ってはるか彼方の地に飛び去って、もうここまで来れば安心だとホッとした孫悟空が、その行く手に立ちはだかる巨大な釈迦の手の指を見て自分の小ささを思い知った、という図ではないか。
船中で食べたにぎり寿司セットはとても旨かった。全国チェーンのスーパーで買った寿司が旨いのはやはり離島ならではだろう。船は高速艇で、9キロ余りの海路を20分くらいで伊良部島に着いてしまった。ぼくはもっとゆっくりできて、一眠りできるものと思っていたが、青リンゴジュースを飲みほす頃には船は速度を緩めた。博士は喫煙船室で隣にいたおばさんと話がはずみ、すでに上陸を前にして伊良部島の要所の聞き込みはすんでいた。宮古島には観光客がたくさん訪れるようになったが、なかなか伊良部島まで足をのばす人はいないので、ここの島民は外からの人を心から歓迎するのだそうだ。上陸してすぐ目についたのは港湾ビルに掛けられた「架橋早期実現!」と書かれた垂れ幕だった。孤高を選ぶか、それを捨てて他の島との同化を選ぶか、このさいはての離島もその選択を迫られ、ついに決定が下されたのだ。「すべての道はローマに通ずる」、この大予言は着々と成就しつつある。
ぼくらは急な坂道を上りスーパーマーケットに寄ってその日の夕食の材料を仕入れた。そのスーパーマーケットの入口の横の大きな透明ガラスに、バーゲンの広告に並んで「祝完走!○○××君!」「おめでとう、伊良部島の鉄人○○××君」と書かれた大きな紙が貼ってあった。聞くところによると、この鉄人君は島の魚市場に働く青年で、レースのあとに友となった数人のトライアスリートたちを島に招いて案内し新鮮な魚で彼らをもてなしたという。ぼくは思った。何年かのちに9キロの橋が架けられるときまでこの鉄人君は現役で活躍を続けることができるであろうか。もしできるなら、それこそその橋は彼の栄光を讃えるための凱旋門ならぬ凱旋橋となろう。レースののち彼は友を従え、自転車で島に帰ってくる。島の人々は彼らを英雄として迎える。しかし彼はこの橋を渡り切ったところで引退を決意する。今まで彼が何度レースに参加して完走しても行き着くことのできなかった未踏のゴールに彼はついに到達したのだから。このようなことを思っていると、川上博士と石塚助手が買い物をすませて出てきた。
ぼくらは、坂を再び下って、港に戻り、海岸沿いに進んで渡口の浜を目指したが、途中魚市場に寄った。ここでは珍しい魚をいろいろ見た。大きなシイラがあり、熱帯魚も混じっていた。中でもぼくの興味をひいたのは、尾ヒレの付け根あたりに前方に伸びる鉤状の刺を左右に一対持った皿に載るくらいの大きさのカラフルな魚だ。これはすれ違いざまに相手をぐさりと傷つけるので魚の間では嫌がられている種類だろう。こいつらが集団で襲ってきたら鮫もかなわないだろう。ぼくらは鮮魚の料理に自信がないので、何も買わないでここを去った。
博士は相変わらず元気で飛ばす。それに比べぼくと石塚助手は一周遅れの選手たちのようにパワーがなくなっていた。
渡口の浜は強い風を受けており、砂浜に打ち寄せる波も高かった。翌朝ここでも泳いでみたが、波が荒いために舞い上がった砂で海中が不透明になっており熱帯魚は一匹もお目にかかれなかった。海を見晴らす展望台がありそこにシャワー設備もあった。普通ならぼくらはこの展望台の二階のフロアでテントを張るところだったろうが、あまりに風が強く、しかも展望台は吹き晒しであったのでそこはやめた。ぼくらは展望台が風よけになっていて比較的風の弱まるアダン樹の林の中にテントを張った。大きなヤドカリが歩き回っている。蚊も多い。ぼくは長袖のスポーツシャツを着、レインパンツをはいて蚊を防いだ。博士は近くにスーパーマーケットがあるのを聞きつけてさっそく蚊取り線香とアルコール類を買いに行った。
三人はテントの近くに炭を炊いて夕食の用意をした。ごはんが炊けると酒を飲むのを中断して食事が始まる。たらふく食べる。酒もたくさん残っている。話もはずむ。しかし酒席に足りないものがある。どうしたことか歌が出てこないのだ。博士は歌が好きなのだが、ぼくが彼と同行した北海道旅行の時の旅行記で彼の歌を茶化してしまったので、今回は躊躇してしまったのだろうか。ぼくはカラオケ用のテープを一本持ってきていてひまさえあれば練習するつもりだった。特にいつもぼくの心をしめつける "Beyond the Reef"を繰り返し歌うつもりだった。しかし体調をくずしていたぼくは気の抜けたビールのようだった。石塚助手は少なくとも「瀬戸の花嫁」が歌えることは実証済だ。しかし彼はいつものようにおとなしく静かに酒を飲んでいる。だれも歌おうとしない。ぼくらは火を囲んで、他愛のないことを話しただけで、酒が空しく体内を流れる。話も途切れがちになりやがて絶え間ない波の打ち寄せる音だけが聞こえる。ホタルが舞う。学生時代のあの乱痴気騒ぎはもうぼくらにはできなくなってしまったのか。カラオケ文化がぼくらをかえっておとなしくさせてしまったのだろうか。あのハイテクの装置がないと我々はもやは歌うことができなくなったのか。マイクを持たなければぼくらはもはや歌わないのか。歌おう、大声で。さもなければぼくらのこの旅の思い出はやがて降り積もる、時の片の堆積の下に深く埋もれて探り出せなくなる。思い出の化石と化してしまう。思い出を生き続けさせるのは歌だ。音楽だ。それぞれの思い出にまつわる音楽のメロディーを口ずさむことによってはじめて我々はその思い出の臨場感を蘇らせることができる。音楽による条件反射だ。BGMの伴わない思い出は事象として記憶されるだけでその時の心情を再生することは難しい。なぜなら人の心情は動的なものであるから、やはり音楽のような動的な媒体の上にのみ固定し保存しうるのだ。ある感情を静的媒体である文章で記録しても、その後にそれを読み返したとき同じ感情がよみがえるであろうか。感情は心臓の鼓動のように時間の関数として起伏する。音も時間の関数としてオシロスコープにカーブを描く。さすれば時間の関数はすべて時間を共通パラメターとして互いに一対一対応させることが可能ではないか。博士よ、助手君よ、ぼくらは歌を忘れていた!
4月30日
ぼくは今、伊良部島と下地島の載った国土地理院の2万5千分の一地図を目の前に開いている。旅行から帰ってしばらくして買ったものだ。なぜもう二度と行くこともなかろう所の地図を買ったのか、その理由はこうだ。
今回の旅行中に走った道で一番印象に残ったのはどれかと問われると、ぼくは迷わず4月30日に走った伊良部島と下地島を分ける細い水路に沿って延びる伊良部島側の道だと答える。その水路の幅は小さな川のそれであるが、上流も下流も海に通じているから川ではない。そして川でないから両岸がすなおに平行するのではなく対岸とは無関係に複雑に凹凸しているのだ(http://www.ritou.com/miyako/irabu.shtml参照)。
その日、朝から降り出した雨が上がったのち昼食を済ませるとぼくらは乗瀬橋を渡って隣の下地島に入り、長い飛行場を有して巨大な空母のようなこの小島を一周した。乗瀬橋に戻ると、こんどは伊良部島側に戻り水路に沿って北上した。左右に展開する趣のある小さな湖や入江を見ながら、こんな珍しい風景は見たことがない、ここは間違いなく国立公園の格調があるぞ、などと独りごちながら進んでいると、ずっと先に行っていた博士が自転車を止めて「おかしいな」と首を傾げてぼくらの来るのを待っていた。そしてそこは見覚えのある「サシバの里」という施設の前だった。ぼくらはいつのまにかすでにその朝一周した下地島に再度渡ってしまっていたのである。前述の水路はすんなりと延びるものでなくくねくねしていて、ぼくらの走った道路は両側に小さな入江や湖がいくつもあるという状態だから橋をいくつか通ることになり、そのうちに下地島に渡る橋をうっかり渡ってしまったらしかった。ぼくらは狐につままれたような心持ちになり、この人だましの景色を怪しんだ。こうしてぼくはますますこの道が気に入り、このぼくらを迷わせた地形に興味を持った。そしてこの地形がどのようにぼくらを迷わせたのかを解明するためにその地図を買ったのだ。ところで「サシバの里」のサシバとはこの地に飛来する鷹の一種である。
さて読者諸氏はこの国土地理院の2万5千分の一地図を見るならすぐにぼくらのたどった道筋がお判りになるでしょう。そしてさらに地図読解力に長けた方ならぼくらがその道をたどるにつれ左右に展開したたぐいまれな素晴らしい光景をある程度想起していただけることでしょう。しかしどんなに地図読解力に恵まれた才能を有し且つ想像力に長けた方も、地図を見ながらぼくらと同じようにこの道すがらこの地形のラビリンスに惑わされ自分の現在位置をあらぬ所に錯覚し戸惑うことはよもやないでしょう。しからばそれはこの地形の魅力の肝要なるものを逸したことになる。
ここは天然の迷路で、しかもたくさんやたらな方向に枝分かれして延びる幾多の別れ道を有す今はやりの人工的で狭苦しい迷路とはまったく違って、道は二度か三度分岐するだけで、ぼくらを惑わすのは周りに展開する精巧に仕組まれた魅惑的風景だけなのだ。ぼくらを迷わせるのは多くの選択肢ではなく、海を川に見せたり池に思わせたりする擬態なのだ。迷路ファンならずとも一度はチャレンジしてみる価値のある名路だ。日本には日本百名山とか、名水百選とかいうのがあるが、日本百名路というのが提案されるなら、ぼくは真先にこの伊良部島の道を推薦したい。
さて、ぼくらはすでに下地島を一周していたから一度訪れていたサシバの里で錯覚に気づいたが、もし下地島を先に訪れていなかったらどうだろう。もしかしたらぼくらはいつまでも伊良部島側にいるものと思い込み、その錯覚が連鎖的に新たな錯覚を呼びみるみるこの美しき迷路に深く吸い込まれてゆき(そういう時は、正確な地図はかえって錯覚を手助けするものだ)、ついにぼくらはツアーサイクリストにとっての夢また夢のゴールである桃花源郷にさまよい入ることを果たせたかも知れない。生きている間に桃花源郷を知ることを許される者は幸いかな。およそ人が迷路にひかれるのは、その彼方にあり幸い住むと人の言うこの未知の里ユートピアに無意識のうちに心をそそられているからである。サシバの里はその迷路の迷惑な出口であった。覚めて絶望と苦渋の旅を続けるより、いっそ迷路の終身刑の虜となり、いつかエデンの楽園にたどり着けるという甘い思いに浸りながらその中で果てるほうが幸せである。迷路、あるいはそれはユートピアの同義語ではなかろうか。かの人に愛されているとひたすら迷信する恋する者の甘い恍惚はオリンポスの神々の至高の法悦に少しでも劣るものであろうか。
さて、話を朝に戻そう。その朝も博士が一番に起きて木炭を起こして紅茶をいれる。そして助手の石塚君が起きだしてきて夜通し干していた物が乾いたかを確かめる。たいてい夜露と朝露で湿ったままだ。そしていつまでもまとわりつこうとする朝夢の愛撫をついに振りほどいてぼくがテントから顔を出す。
質素な朝食が作られ公平に分けられる。各人一つのティーバッグで食前と食後の二回分の紅茶を作る。波の音が今朝も荒々しい。しかし食後いつものようにぼくは泳いでみることにした。渡口の浜はあいかわらず波が高く水が濁っていた。見ると標識があり、それによるとここは遊泳禁止場所だった。やはりほとんどいつもここは波が荒いのであろう。そんな所にシャワー施設があるのもおかしい。防波堤の上で仰向けになって寝ている人がいた。その幅はやっと一人が長さ方向に沿って横になれる位のものだった。ぼくは入江に浮かぶ小さな島に泳いで渡ってみることにした。泳ぎつくと、島の岸辺は岩肌の多い所で、サンダルを渡口の浜においてきたので歩くと足の裏が痛い。もっと先まで行ってみたかったが足が痛くて億劫になり引き返した。何のみやげ話もなくぼくは浜に戻りシャワーを浴びに展望台に行った。すると先ほど防波堤の上で寝ていた人がすでにシャワーを浴びて出てくるところだった。二日酔いで昨夜からあそこで寝ていたそうだ。よくあの細い堤から落ちなかったものだと感心した。
ところで彼の話だとかつては宮古島にも銭湯があったが10年くらい前に休業して以来この辺りには風呂屋はなくなったとのことだった。この地では暑さが酷しいのでわざわざ金を出してまで熱い風呂に入るより冷たいシャワーで十分なのだろう。
やがて、博士と助手が食器を持ってきて洗い場で洗い始めたので、ぼくもそれに加わった。すでにゴミはかたずけられていた。そうこうしているうちに雨が降りだしたのでぼくらは各々テントの中に避難しそれぞれの孤独な時間を昼頃まで過ごした。博士と助手は低くなった所にテントを張っていたので、底から水が浸入してきたそうでかなり居心地の悪い時間を過ごしたようだった。一方ぼくは少し盛り上がった所を選んでいたので安泰で、フライシートも功を奏し快適な時間を過ごすことができた。
ぼくは雨が降ってもテントの中で豪華ホテルの高価な一室にいるよりもリッチな時間を過ごすことができる。それはひとえに自然という最高級ホテルのおかげである。自然ホテルにいればじかに接することのできる環境の特殊性でいつもその地方にいることをさまざまに自覚させてくれるが、一般ホテルはそこが例えば北海道であっても入口を入った途端に東京、名古屋、福岡、あるいは他のどの町にあるホテルとも同じ画一化されたスタンダードの空間が広がる。せっかく北海道にいても北海道から隔離された空間にいるのだ。これではとても旅の宿とは言えない。ビジネスの宿である。一般ホテルのナイトライフは部屋の電気を消して窓から街の夜景を眺めながらちびちび酒を飲む楽しみがある。しかし、ツーリングサイクリストの夜景は真上にある。我ら自然ホテル愛好家の楽しみ、夜の醍醐味は何といっても地球をすっぽり包む巨大プラネタリウムである。いつまで見ていても星座はぼくらを飽きさせない。
さらに自然ホテルの空調設備はすべて季節に合わせて調整されているので四季の気候をそのまま楽しませてくれる。春は春眠暁を覚えずのとおり温かい午後のそよ風が甘い眠りに誘い、夏は蒸し暑くてせせらぎで冷やしたビールがよけいおいしくなり、裸になると皮膚が強まり冷房病などは一切知らず、秋は天高く馬肥ゆるのとおりひんやりし始めた空気が食欲を増進する。テントの外には紅と黄の落葉の絨毯が広がり、あちこちに木の実がなり、いよいよ自然ホテルが冬眠する宿泊客たちのために慌ただしく部屋と食糧を準備しはじめた様子を見ることができる。冬の到来とともに自然ホテルの支配人はすべての宿泊希望者に余すところなく部屋を提供し、宿泊客たちを寒さから守る。冬にこのホテルに泊まったことのあるものなら、寒さの中で初めて身体の奥に灯る小さな炎のあのほのかな暖かさの幸せを忘れえぬであろう。
さてぼくは、この雨の一時、仕事をする気分にならなかったので読書をすることにした。大抵はポケットサイズの英訳新約聖書を持参するのであるが、今回持参したのは古典中の古典、ホメロスの「オデュッセイ」だ。それは、ギリシャの英雄オデュッセウスのトロイ戦争からの帰国談で、島々を巡りながら奇想天外な冒険を経てようやく故郷イタカの島に帰り、さらに自分の妻に群がる不埒な求婚者たちを討ち滅ぼすというもので、島々を巡る今回の旅の友としてはぴったりしたものだった。否、ホメロスのもう一つの傑作「イリアス」とともにこれはぼくの人生の旅の大切な伴侶である。ぼくは一度読み終えた英訳版を最初の三十数葉ほど切り取り持参し、読み終えた紙から一枚一枚炭を起こすための燃料として再利用した。しかり、オデュッセイは、ぼくのひるみがちな心に冒険と不屈の精神を注入し続けただけでなく、その一葉一葉は燃え上がりながら炭を着火しその火勢を強め、もってぼくらの冷えがちな胃に温かみを与え続けた。ぼく自身島々を訪ねながら、自らがオデュッセウスとなったつもりで今エーゲ海の孤島にたどり着いたのだという振りをして波打ち際を歩いたりした。
雨が止むと、ぼくは近くのスーパーマーケットに行き三人分の昼食のための食糧を買ってきた。「飲むためのお米」という珍しい缶入りの飲み物も三個買った。飲むとおもゆを甘くしたようなものでなかなか旨かった。それでその後もぼくは水分とエネルギー源として何本か自動販売機で買って飲んだ。自動販売機で思い出したが、本土ではとうに当たり前のこととして受け入れられている消費税がこの島ではまだ一般に受け入れられていないのだ。自動販売機の缶入りソフトドリンクもまだ100円のままだった。おそらく宮古の人たちは悪税に苦しんだ歴史を持っているせいで、いかなる名によるものであっても新しい税の導入に対し強いアレルギー反応を起こすようになっており、消費税も断固受け付けようとしなかったのだろう。
さて、前述したように昼食後ぼくらは隣の下地島に渡り、サシバの里を経て下地空港に着いた。ジャンボ機も離着陸できる立派な滑走路を有しているが、ここの便は那覇へ一日一往復があるのみだ。実はこの空港の主な目的はパイロットの訓練にある。したがってパイロットの卵たちはここで雛になり、飛ぶ練習を繰り返し、ついに巣立ち、世界の空に飛び立ってゆく。まさしくサシバの里なのである。
ぼくらは、小さな空港ビルに入ると搭乗カウンターの女子従業員ふたりを相手にひとしきり会話を楽しんだ。今は連休のせいですべて満席状態ということだった。博士は那覇に行きたそうだった。やがて、エンジンの音が聞こえてきたので、那覇行きの始発便かつ最終便であるジェット機の離陸を見とどけた。空港ビルから出ると、島のお巡りさんがいて、この島では交通量が少ないせいで十字路をスピードを緩めないで通りすぎる車が多いから気をつけるようにとのアドバイスをもらった。さらに、今夜のキャンプサイトとして適当な所も教えてもらった。
下地島の北の海岸は伊良部島の北部とともに湾を形成しており、この浅い湾にはたくさんの巨岩が散らばっていて、初めて見る者には異様な光景である。なんだか地の果てに来たかのような気さえしてくる。ここは今でも、伝統漁の「仕掛け魚垣」が行われており、滑走路に沿って水際を走っていると浅瀬にそのための石垣が見られる。滑走路の突端をなぞって走っているときにぼくのマウンテンバイクはまたパンクしてしまった。博士のアドバイスで、ぼくはヘルメットの頂部の穴をガムテープで閉じ、これに水を満たし、パンクの穴を探した。博士はヘルメットを動かないよう両手で支えくれ、ぼくはふくらませたチューブを水の中でしごく。そして石塚君はぼくらのこの模様を横から写真に収めた。パンクは容易に直せたが、バルブの部分が老朽化しており空気がまともに入ってゆかない。幸い博士が虫ゴムなどの補修材を持っていたのでぼくは窮地を免れることができた。この博士は他にはブレーキ・シュー、スペアタイヤ、すでに述べたガムテープ、紅茶バッグ一箱、火傷薬、国土地理院の地図、調味料一式等、きめ細かい装備を得意としており、とても今回がキャンピング・ツアー二度目とは思えない用意周到なサイクリストだ。
さて、下地島を一周して、乗瀬橋にもどり最初に述べたような華麗なる迷路を経て北上し伊良部島の佐和田の浜の近くにあるマリーン・センターという総合スポーツ施設に着いた。先ほどのお巡りさんに勧められた所で、彼によるとここには湯の出るシャワー設備があるはずだ。こんな離島にもあったのかというような立派な観客スタンド付きの野球場や、体育館等のあるこの運動公園の一隅に自転車を止めた。6・7人の白い半袖の夏制服を着た女生徒たちがブランコや滑り台で遊んでいた。(博士の観察によると、たばこを吸っていた者がいたらしく、不良少女だということだ。しかしたばこなら博士もよく吸う。)
風が強いので、野球場の中にテントを張ろうということになった。博士の提案でダッグアウトの中が選ばれた。地面よりも低くなっているから雨が降ったら水浸しになるのではないかというぼくの危惧は、中に排水ガターが整備されていたので無用の心配とわかった。さらに水道設備もあることがわかり、ぼくらはさっそくテント設営にかかった。もちろんぼくらは慣習に従って、ビジター側のダッグアウトに幕を構えた。
ぼくは後ろのタイヤがまた平たくなってきていたので、公園でタイヤを外し空気を抜きヘルメットに水を満たしてチューブのパンク箇所の点検をした。どこからも空気は漏れていなかった。しかしポンプで空気を入れると抜けるのだ。博士と助手は近くのストアに買い出しに行った。ひとりになったぼくはなおもパンクの穴を探していた。すると白い運動靴が目の前に近づいてきて「おじさん、パンク?」と聞いた。「そう」と言って、その運動靴から延びるひょろ長い脚、紺のプリーツスカート、白いブラウス、と見上げてゆくと風にそよぐ髪の毛で顔を半分覆われているが気品のある顔だちの女生徒が立っている。かわいい前歯が自然に下唇を軽く噛んでおり, 薄く開けた目でぼくを見おろしている。すぐにあと3人ばかりが集まってきてぼくのまわりにすわると口々に自転車やぼくのことを聞き始めた。やがてぼくが中学生かと聞くと、みな笑って高校2年生だと言った。ひとりは大柄で胸元のボタンをひとつふたつよけいに外していて胸の膨らみをかなり露出させて挑発的である。一見番長タイプだ。ひときわ小柄で髪を短く切ってボーイッシュに可愛い「おちびさん」(あとで博士が命名)もいたが、その子の言葉づかいは他の三人に少しもひけをとらずこれも気骨のある少女だった。4人目はこの地方特有の南国的エキゾチックな美しさ持つ背の高い少女だ。しかし4人のなかで最も印象的なのはやはり最初に声を掛けてきた気品のある少女だ。内に大きな自信を秘めているような落ち着きがうかがえる。
オディッセウスは異国に泳ぎ着いて身も心も疲労困憊していたとき、川口に洗濯に来てボール遊びをする少女たちの一群を見つけ、身を投げ出して助けを求めるが、その時他の少女たちは怖がって蜘蛛の子を散らすように逃げたのにナウシカだけは堂々とオディッセウスに直面し、話を聞く。髭をのばし、妙ないでたちをし、パンクの修理で汗だくになっていたぼくの前にやってきて話しかけたこの気高い島の美少女をナウシカと呼ぶことにした。
「きょう下地島を走っていたでしょう」「私たちは車に乗っていて見たよ」「手を振ってあげたよ」「気がつかなかった?」彼女らは口々に言った。ぼくはパンクの穴を探す操作をまだ続けてはいたが、これだけの少女に囲まれて気もそぞろになってしまっていて、穴の位置を示す泡が見えてもそれに気づけなかったろう。
「そういえばそんなこともあった。君らが乗っていたのか。だれが運転していたの?」ぼく。
「先輩が宮古島から車で来たんで、乗せてもらってたんよ」おちびさん。
「このへんにシャワー浴びられるところある?」ぼく。
「あるよ、あの体育館の中に温水シャワーがあるから行ってくれば」番長。
「でも、きょうは閉まっていて入れないよ」エキゾチックさん。
「いつもだったらあいてるのにねえ」番長
「きょうはどこに泊まるの?」おちびさん。
「ここでテントを張って寝るよ。夕食もここで自炊するよ」ぼく。
「わー、夜になったらまた来てみようか」口々。
「でもここは夜はこわいよ、出るよ」番長。
「出る?そういえば、宮古島のインギャーという所でこわいことがあったよ。夜テントで寝ていると急にオギャー、オギャーという叫び声を聞いたよ」ぼく。
「ああ、あそこはずっと前に赤ちゃんが捨てられたことがあるから、きっとそれだよ、ね」おちびさん。
「でも、大人の男性の物凄い声だったよ」ぼく。
「それは、赤ちゃんが育ったんだ」番長。
「ハハハッハ」みんな。
「おじさん、どこから来たの?」ナウシカ。
「東京から。直行便で宮古空港に飛行機で・・・」ぼく。
「わー、すごい」口々。
「東京一度行ってみたい」エキゾチックさん。
「でも、東京で暮らしたいとは思わないよね。おじさん、東京で何してるの?」番長。
「サラリーマンだよ」ぼく。
「私はお姉さんが名古屋にいるから、就職は名古屋でする」おちびさん。
「私は大阪で看護婦になるよ」ナウシカ。
「看護婦は大変な仕事だけど、君のようなしっかりした子なら大丈夫だ。ぜひ、看護婦になって欲しいね」ぼく。「(傍白)もし、ぼくが病気でもして入院するなら君のような看護婦さんにめぐり合いたいものだ。」
このようなことを話しているとタクシーが来た。おちびさんが「こっち!」と言って手を振った。彼女は家が島の反対側で、ここから丘を越えて歩いて帰っていると日が暮れるので電話でタクシーを呼んでいたのだった。「早く来たね」と言って立ち上がると、「でもどうしよう、私お金持ってないよ」と心配そうに言った。ぼくは黙っていた。「(傍白)おちびさん、このおじさんはその手にひっかかるような甘ちゃんじゃないよ。」彼女は「じゃあまたね、バイバーイ」と言って、はずむようにかけて行った。しばらくするとまたタクシーがやって来て公園のそばに止まり、警笛を鳴らした。実はこれがおちびさんが呼んだ車だった。「遅いからもう行ったよ!」番長たちは同級生の男子にでも言ってるようにぶっきらぼうに言った。タクシーは来た道を引き返して行った。
やがて博士と助手が買い物から帰って来た。日が暮れかけている。パンクの修理の見込みがたたないぼくは彼女らに、近くに自転車屋はないかと聞くと、あるよと言ってナウシカが自転車で案内してくれることになった。そこでぼくは博士の自転車を借り、片手でハンドルを握り、片手でパンクしたタイヤを持って行くことにした。ホメロスのナウシカは、悪い噂の流れることを嫌ってオディッセウスに自分よりずっとあとからついてくるように指示したが、ぼくのナウシカはそのようなことを気にしないでぼくと並んで走った。民家には明かりが灯り始めていた。ぼくはナウシカと他愛のないことを話しながら5・6分のサイクリングを楽しんだ。
自転車屋に着くとナウシカはそこの女将さんと話を交わす。「どこの家の娘さん?・・・ああ、あそこの子・・・きれいやは・・・」そのような話し声を聞きながら、ぼくはエア・コンプレッサーでタイヤに空気を入れてみた。やはり空気が抜けるので修理を頼むことにした。翌朝取りにくると言ってタイヤを預けると、再びナウシカと公園の方に引き返した。複雑な道筋でひとりで戻るのは難しかったからだ。途中でエキゾチックさんが歩いて帰宅しているのにすれちがった。うつむきかげんで歩いていたがぼくらが来るのを見つけるとぱっと明るい顔になって手を振った。公園に着くと番長ももう帰ったあとだった。ぼくはナウシカに感謝し、気をつけて帰るよう言って、来た道を帰らせた。たそがれの中を自転車のペダルをこいで去ってゆく彼女の後ろ姿をいつまでも見ていると、沈みゆく夕陽を後ろから浴びてオレンジ色に輝くナウシカの両足が映画のラストシーンの「終」の字のような印象で浮かび上がってきた。
「完」