さゆりの過去
おびえた表情の生徒たちが壁際に居並んでいた。さゆりも、級友らとともに教室の一隅に押し込められている。先生はどこへ連れて行かれてしまったのだろう。銃を小脇に抱えた人相の悪い男が三人、生徒たちを睥睨している。
この兇漢たちはわたしのことを狙ってやってきたのか。それなら、銃を突きつけてF財閥総裁の孫娘はどこだと訊けばすむ話なのに。
……と、場ちがいなほど冷静に考えている自分に気づいたところで、さゆりは、いま夢を見ているのだと察した。
もちろんあの日のことは、あれ以来幾度も悪夢として現われてきている。ただ、いままではイメージの断片がフラッシュバックするばかりで、これほど鮮明であったことはない。ゆえに、夢だと気づけた。あの日と同じように哭き叫び、その自分の声で目を醒ますというようなことはなさそうだ。
事件の当時は恐怖と動転でまったく周囲の状況を把握できていなかったが、いまははっきりと細部まで見えるようになっていた。兇漢たちの顔から、並ばされているクラスメイトの順番まで。おそらくこれは事実なのだろうなと思える。意識することを心理的禁忌が阻んでいただけで、さゆりの脳はすべてを記憶していたのだ。
彼女はすぐ近くにいた。どこからともなく目の前に飛び出してきた、という印象しかなかったのだが、実際にはこんなかたわらにいたのか。胸が痛んだ。
これは夢だと気づいたのだから、さゆりは結末を変えることができるだろう。現実には修得していない謎の武術を振るうか、超能力を使うかして、兇漢たちをたたきのめし、学校占拠事件を解決へ導けるにちがいない。
だが夢はあくまで夢だ。夢の中でなにをしようとも、目を醒ましたときに犠牲になった人たちが戻ってきていたりすることはない。
これほどはっきりとあの日のできごとが再生されているのならば、かなう限りしっかりと脳裏に焼きつけておきたい――さゆりは意志を定め、眼前で繰り広げられる過去のできごとに身をゆだねた。目をこらし、耳をすませて。
――バラバラだった静止画が整然と時系列順に並んで、動き出す。だれが叫び、だれが駆け出したか。まずだれから射たれ、だれが涙ながらに命乞いをし、やはり射たれたか。犯行声明と要求文を持たされ、こわばった表情の中に安堵を隠せないまま立ち去った同級生。事態は動き、軍と警察とマスコミが学校を取り囲む中、交渉の準備が進められ、メッセンジャー役として幾名かの民間人がやってきた。そこにさゆりの両親もいた。犯人側に指定されたわけではなく、自ら名乗りをあげたのだと、あとで聞いた。
テロリストたちの要求のうちに、案の定、財閥に対する項目もあった。しかし、総裁――いや、あのときは引退を表明していたから、前総裁か――フランツ・ジェイド=レンドールはそのすべてを拒否した。
そして……
さゆりは目を醒ました。涙は目じりからこめかみをつたい、鬢髪を濡らしていた。薄情なようだが、両親の死へ流した涙ではない。さゆりの腕の中で血に染まった、彼女のために流した涙だった。
ふと気がつくと、ケイがベッドのかたわらに控えていた。湯で絞った、温かな濡れタオルを銀盆に載せて持っている。心配げな侍女へ、さゆりは伏していた睫毛をあげ、しっかりとした眼を向けてみせた。
「さゆりお嬢さま……?」
「だいじょうぶよ。悲しいけれど、厭な夢ではなかった。懐かしい顔に逢うことができたの」
「ヨリコさまと、ジョセフさまですか?」
「両親もいたけれど、わたしにとって彼女はそれ以上の存在。わたしを救ってくれた。そして生命を落とした」
ケイは要領を得られていない表情をしていたが、それも無理はない。さゆりは起きあがってから「ありがとう」といって濡れタオルを受け取り、目もとをぬぐってベッドのわきから脚を伸ばし腰かけた。
背の低いケイと、目線がほぼそろう。
「いままでだれにも話したことがないわ。でも、あなたには知っておいてもらいたいと思うの。長い話になるけれど、聞いてもらえる?」
「もちろんです」
「ほんとうに長いから、座って」
自分の右となりを手でしめして、さゆりはうながした。「失礼します」と前おいてケイはすすめに従う。さゆりからタオルを受け取ることは怠りなかった。
並んで腰かけたところで、さゆりは記憶の引き出しを開いた。ただケイに話して聞かせるだけではなく、自分のためにも。彼女のことをあらためて刻み込むために。
「彼女と……ルミと最初に出会ったのは、二年前だったかしら――」
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わたしは、いまでこそ、こうしてお嬢さま然としているけれど、生まれてからしばらくのうちは、どこにでもあるような一般家庭の娘として育ったの。――そう、あなたもすこしくらいは聞いたことがあると思うけれど、父のジョセフはそもそも財閥にかかわる意志を持っていなかった。母のヨリコも、最初は父が何者か知らなかったし、知ってからも、財閥と無関係に生きていくという父の考えに賛成していた。
……でも、なかなか都合がよくはいかないもので、わたしが六歳のころだったかしら、祖父のフランツが迎えをよこしてきたの。ジョセフの兄弟が、短いあいだに相次いで事故で亡くなったから。……いまその話をする必要はないでしょう。たしかに不自然だけれどね。
それからの生活はすこし息苦しいものになったわ。でもまだわたしもほんの子供だったし、何年もしないうちになんとなく馴れていった。あまり熱心に勉強したつもりがないから、ほんとうに実力が伴っているのかいまだにわからないのだけれど、高校には二年飛び級で入ることになって、それまで住んでいたところからすこし大きな街に引っ越した。そこで出会ったの。
ルミを最初に見かけた日のことはよく憶えているわ。……正確には、そのときルミがどんな状態だったかをよく憶えている、というべきかしら。以前は教室として使われていたようだけれどいまは資料が積みあげてあるだけで、生徒も教師も、まず足を踏み入れない場所だったわ。どうしてそんなところに行ったのか、なにかを準備するように先生から頼まれていたのかもしれないけれど、とにかくわたしはそこでルミを見た。ルミは五人の女生徒に囲まれていて、そのうちのふたりはわたしも知っている顔だった。ルミは口を引き結んで立ちつくしていて、あげつらうような口調でののしられていた。
「あんたみたいなのが通ってくるせいで、この学校の品位が下がっちゃうのよね」
「だいたい、なんで淫売屋のガキがここに通えるのさ?」
「あたし聞いたよ、ルミの親は元締なんだってさ。女衒の親方の娘でもお嬢さまはお嬢さまってことになるのか、ってうちの親がいってた」
「だからさ、あんたにぴったりのモンを持ってきてやったんだ」
「……なんだその顔は? どうせおまえも、こいつを被って道行く男に声をかけるんだろうが。二、三年早くなろうが変わりゃしねえよ」
「あんた、もしかして自分はべつだと思ってる? 淫売稼業は下々の仕事で、元締の家の自分には関係ないとか勘ちがいしちゃってるワケ?」
「おんなじなんだよ、下っ端だろうと親方だろうと、おまえらはみーんな薄汚い寄生虫だ」
聞いても意味のわからない言葉が多かった。とりあえず、ルミは自分の家のことで、自分の出身のことでひどいいわれようをされていると見当はついたわ。
わたしはわざと大きな音をたてて室に入った。ルミと五人組は教卓がおいてある前のほうにいて、そちらの扉は半開きになっていたから中の声が聞こえていた。机の代わりに並んでいる棚のあいだをとおりながらわたしは声をかけた。
「ごきげんよう。あなたたち、こんなところに集まってなにをしているのかしら」
「さ、さゆりさま……」
弱いものいじめをする人間は、自分より強い相手があらわれるとすぐに取り乱すもの。それまでわたしは財閥総裁の孫娘だからといってほかの人と異なるところなどはないと思っていて、特権を振りかざすような真似をするのは好ましくないと考えていた。でもこのときは、自分にまとわりついている虚名がありがたかった。
「あら、すてきなショールね。これ、わたしがもらってもよいかしら?」
ルミにかぶせようとしていたショールをわたしが手に取ると、五人組の顔は青くなった。そのときのわたしの目には実際にすてきなショールにしか見えなかったし、いまもそれ自体はよいものだと思う。長い年月のうちに、特定の階層の象徴になってしまっていたのでしょうね。
「さ、さゆりさま、それをあなたのようなかたがお召しになっては……」
「わたしがこの恰好をするとまずいというの? なのにどうしてこの子ならよいの?」
「それは……」
「答えられない? こちらに訊いてみようかしら」
わたしがルミのほうへ向くと、五人はもう浮き足立ってしまって、
「わ……わたくしどもはつぎの時限の授業がありますので、これで失礼いたしますわ」
なんて、とってつけた逃げ口上をのこして退散していった。その場で徹底的に追及しようと思ってはいなかったから、引きとめはしないで逃げるに任せた。でも、ルミの顔には、解放された、という感じの表情はなかった。
「……どうして、私みたいな下賤のものに情けをかけたりするんですか」
ふたりだけになって、最初にルミが口にしたのはそんな言葉だった。感謝されるのが目的だったわけではないからべつに不快を覚えたりはしなかったけれど、ちょっと気になった。
「そういうものいいをしてはいけないわ。わたしにとってF財閥総裁の孫であることはどうでもよいこと。いまみたいなときは役に立つようだけれどね。財閥や祖父は関係なく、わたしは両親の娘であることには誇りを持っている。自分を否定するようなことをいっては駄目」
「あのひとたちのいっていたことはまちがっているわけじゃないんです。私たちはいろいろといかがわしいモノを売っている。そして私の家は部族の頭領筋なんです」
わたしは、いまの世の中に部族なんてくくりでまとまっている人たちが存在していて、その人たちがみんな卑しめられているなんて、おとぎ話じゃないのかと思ってしまった。ようするに世の中をなにも知らなかったのだけれど、無知だったからこそ、こんな能天気なものいいをすることができた。
「いかがわしいくらいならまだよいのじゃない? F財閥は戦争を生み出し、武器を売って大もうけしている。そしてわたしの両親も、しばらくは独立して自分たちだけでやっていこうとしていたけれど、祖父に逆らいつづけることはできずに財閥の傘の下に収まってしまった」
「そういういいかたをしてはいけないんじゃなかったんですか、さゆりさま?」
わたしたちは笑った。恐れられているか蔑まれているかのちがいであって、周囲から距離をおかれていることに変わりはない、わたしたちの境遇は似ているのだと、わかったから。