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妄想論

「ざまぁ」と世相の関係

作者: とびうお君

 所謂”ざまぁ”が流行るのは世相じゃないと思う。最近書くことがマンネリ化してる。テーマは今回新しいが、そのための論拠が焼き直しのオンパレードになる。ただ私以外この発想居ないと思うから書いてる。世相視点で書く人はちらほらいる。その批判じゃない。私はあほオタク系社会学者が嫌いなんだ。なろうエッセイカテで書いてる人への文句じゃない。


 学者と言われて文系科学の中に入れてもらってるが、旧態依然の形而上学的哲学考察から抜け出させないレベルのアホが金もらって学者してるのが腹が立って仕方ない。作品と世相が関係がないとは言わない。だが作品は作品同士で競争と創作の歴史をうけついでるんだ、この基礎を知らないですぐ世相と結びつけるアホ学者が多いのに腹が立つ。


 結論から書くと、”ざまぁ”が流行るのは、作者が素人で読者がにわかだからだ。これにはまず”ざまぁ”は勧善懲悪の一部であるって点。実際は悪人主人公が”ざまぁ”できる作品も作れるからこの定義は間違ってるが、実質的にそんな作品は見たことがないので。以前魔法科と見たときに、設定は凝ってるが、ストーリーは素人レベルだなと思った。


 どう違うの?っていうと筋道のツボが悪人が居てそれを超絶パワーのお兄様がこらしめるってのが多かったから。まあ初期の魔法科はきちんとざまぁしてた、ただ魔法科はラノベ特有の1巻重視から応募した分量だけタイトルを生かしていたので、見下した相手をざまぁしてる展開になってる。必ずしも生徒たちは悪とは言えないので。


 差別的だから悪だと言えなくもないが、まあそこまで陰湿なものじゃなかったので。まあそれでも社会的に思想レベルにまで言ってるので勧善懲悪って言えばそうなのかもしれない。それでもそれなりに凝っていた。だがその後は全体の達也を取り巻く社会構造とか以外短期的には悪事を行う悪党を暴力的に懲らしめる成敗の構図の筋道が多かった。


 あまりにストーリーとして初歩的すぎんか?って当時思っていた。なろうに来てから思ったのは、魔法科が特別なわけじゃないなとつくづく思ったこと。


 シンプルで効果的なストーリーを選ぶと”ざまぁ”になるんじゃないの?って結論になった。多くの作者が簡単に書けるレベル。それはシンプルなものになりがちになる。だが競争だから複雑なものもできる可能性はある。次だ、それを読者が求めてるか?になる。読者は効果を期待すると同時にシンプルさを重視する。


 何故か?ここは小説サイトといっても漫画アニメレベルで楽しめるものじゃないとだめだと思ってる。映像作品漫画レベルで頭を使わずに楽しめるものが求められる。それは自然とシンプルなものになっていくのではないか?と私は見てるんだ。これ何が面白い?多分そういうのが極端に少なくなると思う。


 いやなろうで俺TUEEE何が面白い?っていう人多いよ?それね、本当は面白さわかってる。ただそれは子供の時飽きてるか?または、触れてもすぐ飽きてしまってるから。何故こんなもの何度も楽しめるの?ってなってるんだと思う。だからニワカが出てくる。読者はリピーターが少ないの?


 多分違う、良い意味で永遠のにわかになれてると思う。いつまでたってても初心者みたいに楽しめる。2つのケースが考えられる。実はにわかじゃない。ごはん理論になる。コメの飯は何度食っても飽きたと言わないでしょ?になる。その人にとってそういうものになってる。もう1つが永遠のニワカ、何故かわからないが、常にリセットされてフレッシュな気持ちで楽しめる。


 いろいろな感想を見ていくと集中してみてるのに差がかなりある。これは小説だとわかりにくいかも。ぼーっとみてるようなものは飽きにくい。これは過去いかぽんさんって人が触れていたけど、数の多い人気作はその数に騙されるけど、その1人1人はそれほど強く支持してるわけじゃないって話。


 数に圧倒されてすごく面白いんだと思い込む。その勘違いが原因じゃないか?と見ている。対して面白くないが何故か数だけは集まる作品がある。その程度の刺激だとぼーっと見てる可能性が高い。小説だとこれが分かりにくいが、受動メディアのアニメならこれがすごくある。多分本当は楽しんでるが、薄すぎて良くわからない時つい惰性と使ってしまう人が居るとは思う。


 あんまり記憶に残ってないからにわかのままでいられる。まあごはん理論ファンと区別したことがないから真実どっちか?は分からないけど。ごはん理論ファンは意識してるから感想にもそれが出て、これはそうじゃない人と好みに差があるからって事でかなり確かなものになる。これだけでも説明可能。


 しかも批判的な人もご飯的作品があるのじゃないのか?と疑うところもある。なろう見たいなしょーもなくないと言い張るだろうけどね。どのみちそれを公開して批判しないので問い詰められないので仕方ない。


 読者と作者の初心者っぷりが今の形を作ってるとみてる。世相の入り込む余地があるのか?というとそもそもじゃ何故現代ものでやらないんだ?となる。そこに実際は古典的なテーマだというのが見えてくる。世相に合わせたサイクルがあるだろう?本当に?それは確率的なランダムウォークにすぎないんじゃないの?


 ランダムウォークが生み出す波を見て必然論を語ってるおまぬけじゃないの?何度も書くがざまぁは勧善懲悪の一部であり勧善懲悪は過去から廃れずにずっとあると思う。なろう作品の多くはシンプルな勧善懲悪な悪人退治をなんでもかんでもざまぁとしてまとめてるだけだと思う。


 さまぁだけが重要なのは善悪が不明瞭でも読者への効果が絶大である点。なろうでざまぁが前面に出る理由は、自己投影型で楽しむからが理由としてあげられる。自分本位の仕返しで正当性が薄くても問題ない。ここにざまぁの個性がある。勧善懲悪の視点からなら、それ悪人なの?って疑問が残る相手でも、主人公がむかついたからって感情論で仕返し問題ないとなる。


 これがざまぁがなろうで特に多い理由になる。どこに世相の反映があるのか?


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