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この世界の『気』を司るのは精霊と呼ばれる存在である。
マスタス王国は世界の『気』の一端を担う大精霊を一人有しており、聖なる山とはその精霊が住まう場所だ。
世界の『気』というのは本来規模が大きすぎて、異世界人が1人落ちるような末節の不調は精霊に感知されない。異世界人が登山で担う役目とは、精霊に会って不調があると伝えることなのだ。
八カ月前、エミとアリスターはこの精霊に会っている。『気が乱れておりますのでどうかお力をお貸しください』と言ったら『ああほんとだ、いっけね』とごく軽いノリの返事が返ってきて、『異世界人が落ちる前に気づけるようにしておけ』と憤慨したのは被害者のエミだ。
包み隠さず本当にそう言ったエミをこの精霊はいたく気に入った。毎年会いに来いと言ってエミの頭をぐしゃぐしゃ撫ぜた。エミは毎年来て一年に一度不調がないか確認させると言って了承した。
人外の美貌を除けば貫禄がないこの精霊は、それでも二千年以上生きているという。
アリスターが魔術で記憶喪失と聞いたとき、エミの頭に浮かんだのはこの精霊だ。記憶を戻す方法を知っているかもしれない。
一人で王宮を出てこの山に登ろうと考え、国王の「姿をくらませて欲しい」との言葉を素直に了承した。
しかし、実際にエミが直面したのは、思っていたより厳しい現実だった。
***
私を腕の中にしまい込んだ精霊が、腕を伸ばしてアルの肩に触れた次の瞬間、私たちは山頂に位置する神殿にいた。精霊の魔術だ。この山から出られない代わりに強力な魔術を使うことができる。
神殿は夜でも煌々と明るい。
初めて来た時さすが聖なる山の神殿だと崇め奉ろうとしたら、「恵美落ち着け、蛍が異常発生しているだけだ」とアルに諭されたのはいい思い出である。
私は石造りの長椅子にアルと並んで座っていた。
「いいかい、アリスターくんがかけられたのは王家で脈々と受け継がれてきた強力な魔術だ。厄介なことに…記憶に蓋をする、しまい込むんじゃない。頭から消し去る」
精霊は縫い目の見当たらない服に身を包み、短く切り揃えられた髪を揺らして饒舌に喋り始めた。
「ただ、一縷の望みもないってわけじゃない。エミのことだけじゃなく、全部忘れたって言ったね。でかしたよ、アリスターくん。唯一の希望はそこにある。いくら強力な魔術師でも、人一人の記憶をまるごと完全に消し去るなんて無理さ。魔力が足りない。つまり、魔術師の魔法は不完全または未完成な可能性が高い。何がきっかけになるかはわからないが、全てを思い出せる可能性はあるってことだね。できることと言えばまあ…月並みだが、エミ、君が出来る限りアリスターくんと一緒にいることくらいだね。エミは文字通りアリスターくんの『全て』なわけだし、ぷぷ」
精霊が、若者をからかう爺婆の類の笑みを浮かべる。
私はそれを顔を青ざめさせたまま呆然と見ていた。
わざと明るい調子で喋ろうと努めていたのであろう精霊は、長い話の最後に、初めて辛そうな顔をして一言だけ言った。
「ごめんね、二人共。」
アルの記憶喪失は、大精霊にも打つ手無し。
だけどアルは記憶を取り戻さなければならない。
彼は記憶をなくす前、陛下を説得するつもりだった。自分は政略結婚以外の全ての方法を使ってこの国を守っていくと。
私とアルが一緒になるには陛下を説得する以外に道はないが、今のアルでは陛下は交渉に応じないだろう。逆に一度思い出してしまえば、陛下とてアルから二度も記憶を奪ったりはしないはずなのでそこは安心できる。
アルの記憶を取り戻すには一緒にいて何かのきっかけで思い出すのに期待するという不確実なことをする他ないが、問題は私にはそれが許されないということだ。
陛下は最後の思い出づくりに私とアルの逃避行を見逃してくれただけだ。
譲歩した分、むしろ最後の一線は決して譲らないはず。
精霊は何も言えない私を少しの間見つめたあと、「ゆっくりしていっていいからね」と部屋を出ていった。
「エミ、逃げよう」
アルが口を開いた。耳を疑う思いで顔を上げる。
「あの国王はお前がそばにいるのを許さないだろう?俺はお前のことを思い出せないままになるなんて絶対に嫌だ。今なら追っ手が届かないところまで逃げられる。あの精霊に頼んで遠い国にとばしてもらうこともできるはずだ」
彼は本気で言っていた。
「エミ、俺はお前を一人にしない。一緒にいよう。二人なら大丈夫だ。そう思わないか?どこでだって、どんな世界でだって、お前と二人一緒なら」
聞き覚えのある言葉たち。
彼は、ずっと私と一緒にいると。 私は、彼より先に死なないと。
約束したあの日。
色んな感情が混じり合って瞼を閉じたら、結局いく粒もの涙になった。
嬉しいとか、ありがとうとか、ごめんね、とか。
「記憶がなくなる前のあなたも、同じことを言ってくれたんだよ」
彼の前で泣くのはいつぶりだっけ。一緒にいてくれたら悲しいことなんて何もなかったから、本当に、あの日以来かもしれない。
「でも多分、逃げようとは言わなかった」
アルは目を瞠った。
彼は真面目だし責任感が強い人だ。王子であることに誇りを持っていたし、この国を愛してもいた。
だから、自分が何者であるかを覚えていたなら、彼は本来逃げようとは言わなかった。言いたくても言わなかったはずだ。
目の前の彼には私が言わせてしまったようなものだ。
「ごめんね」
そんなこと言わせて。
私のために変わらないで欲しい。やりたくないことをやらせたくない。国を捨てさせたくない。
マスタスという名字は、私のために捨てていいようなものじゃない。
あなたが私を許しても、あなたの親友、恋人一歩手前の親友として、私が私を許さない。
目を見開くばかりの彼に、不意打ちでキスをした。
「王宮へ」
小さくそう呟けば、私と向かい合う彼の背後に、突如として精霊が現れる。
アルが振り返るよりも前に、その指先が彼に触れ。
アルはまばたきの間に消えた。
「王宮の彼の寝室にとばしたけど、それでよかった?」
私の意を正しく汲み取った精霊が尋ねた。
「うん、ありがとう」
「エミ、アリスターくんのこと諦めるの?」
「まさか」
反射的に返す。
「あの調子で説得されたらいつか絆されちゃうから、とりあえず離れたかっただけ。誰が諦めるもんか」
王宮に送り返したのはアルにひとまず王子としての自分を取り戻してほしかったから。
へらへら笑って言ったら、精霊は「それでこそエミだ」と楽しそうに笑った。
***
その夜は神殿に泊まって、次の日の朝一番に麓までとばしてもらうことにした。
翌朝リュックを背負って精霊に別れを言うと、
「また来てねエミ。元気で。ちゃんとあったかくして寝るんだよ。ご飯も食べてね。」
「はーい。精霊も元気でね」
「うん。あっそうそう、王都がちょっとだけおかしなことになってるみたいだから、ちゃんと髪を隠して行きな」
頭に精霊の手が乗る。帽子をより深く被せられた。
何の話、と聞き返す間も無く、私は2日前に泊まった宿屋の前に突っ立っていた。
「…何のことだろう?」
教えてもらえなかったことに口をとがらせる。しかし、馬の手綱を引いて王都の中心へ向かった私は、すぐにその言葉に思い当たることとなった。
広場に人だかりができていた。その中心には役人らしき人たちがいて、大声で何かを繰り返している。
「一年前にこのマスタス王国に来た異世界人、エミ・ミズタニが行方不明だ!見つけた者は直ちに王宮に知らせて欲しい!危害を加えれば重罪となる!特徴は黒髪と茶色の瞳だ。繰り返す、これは第一王子の勅命である――」
集まった人々は、「ありゃま、あの子が」だの「アリスター王子と大親友って有名な子だよね」だの「俺昨日市で見かけたぞ」だの口々に言っている。
「あ、アル……」
私は脱力した。
陛下は一体何をしているのだろうか。