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朝5時。アリスターと一緒に眠った翌朝毎回行う作業がある。
「起きてアリスター、起きて…。ほんと、寝起きが悪いのが玉に瑕なんだから…」
私をがっちり抱えて抱き枕にするアリスターは放っておくといつまでも眠り続けるので、強制起床が必須だ。顔をペチペチ叩いて攻撃する。
その際改めて思った。アリスターはイケメン、それもトップレベルのイケメンだ。寝起きは特に色気がだだ漏れですごいのだが、慣れすぎて何も思わない。私の目のくせに肥えすぎだ。
アリスターは煩わしそうな動作で私をベッドに引きずり戻してくる。
力が、力が強い!
「ぐぬ…ちょ、アリスター…!」
「……………早すぎる…まだいいだろ…」
「だめ!今日は山に登るから!」
アリスターはやっと布団から顔を出した。
「……………やまあ?」
うん、山。それも聖なる山。
そう、私たちの旅の目的地とは、8ヶ月前にアリスターと2人で登ったあの山だ。
馬は宿屋に預け、身1つで登山を開始した。リュックはアリスターが持ってくれている。この山に登るのは異世界人とその同行者くらいなので、姿を消す魔術を使う必要がないのだ。
辺り一面木、木、木。緑が目に優しいこの光景は私には大変懐かしい。
アリスターにも一緒に来たことがあるんだよと説明したが、やはり覚えはないようだ。
実はあの宿屋も以前と同じ。8ヶ月前の旅をなぞっただけだったので旅程は完璧だった。
途中、アリスターが言った。
「なあ、俺は18歳だろ?婚約者がいるのが普通だと聞いたが何故いないんだ?」
「ああ、18になった時陛下が大量にお見合い話持ってきたんだけどね、アリスターってば全部突っぱねちゃったんだよね」
「…」
この国では18歳になり成人した時に初めて結婚を考えるのが習わしだ。昨日王宮を案内されたときにでも教えられたのだろう。
アリスターが18になったのは今から3.4ヶ月前だ。私よりも1ヶ月ほど早かった。
多分そのときには私のことを好きになってくれていた。陛下は私にも縁談を持ってきたが、「私の世界では晩婚化が進んでおりまして」と断った。言うまでもなく、私もそのときにはアリスターが好きだった。
「…そういえば、ヤイナという影武者は上手くやっているといいが」
「んー、陛下にはバレてると思う。アリスターと一緒に王宮を出たのがまずバレてる気がする。陛下頭が良いから」
「…やっぱりか」
影武者はあくまで他の人への体裁を保つため。陛下は一国の主。私の拙い策に引っかかりはしない。
私の予想だが、陛下はアリスターが自分からついていくと言えば行かせるつもりだったのではないだろうか。
それはすぐ返すはずだという私への信頼の表れか、それか罪滅ぼしか。
何にせよあの場で宣言した一週間という期限を守らなければ、陛下の密命を受けた騎士たちが追いかけて来るのだけは確かだ。
アリスターは特に驚きもしなかった。陛下が一筋縄ではいかない人というのは察せられていたらしい。陛下がそんな人でなかったなら、アリスターもみすみす記憶を奪われたりしない。
アリスターに手を貸してもらって少し大きな段差を乗り越えた。
しゃべっているうちに息が上がってきた。比較的涼しい季節でよかった。
この山を一日で登頂するのは無理だ。急すぎる勾配も崖もないがとにかく麓から山頂までが長い。一日は野宿する必要がある。
暗くならないうちにその場所を探さなければいけないので、自然と一日の行動時間も短くなる。
少し暗くなった頃、ひらけた場所で火を起こし、食事をとった。
そうこうしているうちにあっという間に陽が落ちた。夜になると辺りは本当に真っ暗になる。
静かな虫の声がそれでも響き渡るように大きく聞こえる。他に何も聞こえないからだ。
寝袋は例のごとく、大きいものひとつ。アリスターにぴったりくっつくようにして横になる。
「アリスター見て!星がすっごくきれい」
「そうだな」
今日は特に文句はないようだ。私は昨日と同じくらい早々に意識を手放した。
***
真夜中、また目が覚めた。
昨日もこんな風に起きたような。
ポカポカする寝袋の中、眠たい瞼でそんなことを考えたのは一瞬だった。
唇に、何かが触れていた。
それは柔らかく、熱くて、少し湿っている。私の唇を啄ばむような動きをする。
アリスター以外何も見えないと数秒かけて気づいたとき、それが何なのかわかって急速に意識が覚醒した。すぐ近くにあった彼の胸を強く押す。
ばっと起き上がり這い出て、彼から距離をとった。頭が混乱している。
「な、なんで」
キスなんて。
「したこと、なかったのに」
状況がつかめない。アリスターも起き上がり、静かな瞳で私を見ていた。王宮を出た夜と同じ目に思えた。
「いや、多分あるぞ」
は。
「俺はお前の唇の感触を知っている。昨日寝ているお前に試してわかった」
昨日も?いや、それも大事だけど。
今までもされていた?勝手に?
頭の中で彼の言葉が理解された瞬間、顔から火が出た。やばい、やばすぎる。何やってるのアリスター。
顔が真っ赤になったのを感じたけど、そこではたとあることに気づいて顔を上げた。
「それはわかったけど…何でアリスターは、今も私に、き、キスしてたの?」
昨日からアリスターが何を考えているのかわからない。そんなの嫌だ。彼の考えていることが知りたい。
「――ずっと、思ってた。『親友』なんて信じられない」
アリスターは私を見つめ、噛んで含めるように言う。
「初めて見たその瞬間から、名前も知らないお前のことが胸が張り裂けそうなほど愛しいのに、ただの『親友』なわけがあるか」
――――あ。
『父上。王宮の案内なら彼女に頼みたい。俺の友人だというのを確かめる』。
『俺とお前が親友っていうの、信じてないからな』。
友人の域に達していないんだとばかり思っていた。だから焦って無理やり距離を詰めた。
逆、だった?
「それにもう1つ理由がある」
嬉しさで心が舞い上がりそうになったが、しかし次の瞬間急停止した。
「俺には記憶がないがわかるぞ。こんな風に狂おしいほど情欲を感じる相手は、『親友』とは呼ばない」
情欲。馴染みのない言葉だがちゃんと意味は知っていた。
そろそろと顔を上げる。そして息を呑んだ。
さっきまでの静かなアリスターはどこに行ったのか。そこにいた彼は肉食獣みたいな目をしていた。そしてその視線の全てを私一人に注いでいる。
――――喰われる。
「なあ。俺たちは本当にいつもあんな風に眠っていたのか?俺は何もしなかったのか?本当に?ああいや、キスは勝手にしていたんだろうが。信じられないんだ。お前のことを何も知らない今の俺が、それでもわけがわからないくらいお前が欲しいんだぞ。エミ、何故だ?」
彼は立ち上がり、こちらに歩いて近づいてきて、私の真ん前に座る。一連の動作を金縛りにあったみたいに見ていた。
彼の手が伸びてきて私の頰を撫でた。その感覚で我に返り、思考をかき集めて声を出す。
「あ…わ、私たち、恋よりも先に、ずっと一緒にいようって決めた、から」
アリスターは怪訝な顔をする。慌てて言葉を足した。
「私、その、異世界人だから。最初は、生きようって思えなくて」
「なるほど。俺は今お前の事情も王子の立場も知らないから、自分の感情ばかり遠慮もなく前に出るのかもしれないな。――お前に生きようと思わせたのは、俺か?」
「う、うん」
頭をぶんぶん縦に振ったら、アリスターはそれはそれは嬉しそうに笑った。
私の頰を滑るように撫でていた左手が、同じように私の耳を撫で始めた。
「ん、」
「エミ。俺はどうやら独占欲が強いらしい。俺はお前を夜でも部屋に入れて一緒に寝ていたんだろ?その理由がわかるか?未婚の男女が、それも王子がそんなこと、容認されるはずないのに」
アリスターの顔がいよいよ近づいてきて、彼が喋るたびに唇が触れてしまいそうになる。逃げる気にはならなかった。
「見せつけてたんだよ。アピールしてたんだ。周りに。これは俺のだから絶対に手を出すな、ってな」
「あ、ありすた」
「その呼び方。ずっと気になってたんだ。そんな風に呼んでいたのか?違うだろ?呼んでくれ。頼むよエミ」
愛おしそうに、ほんの少しだけ苦しそうにそう言う彼の顔には見覚えがあった。記憶を無くす前、ふと気づくと彼はよくこんな顔をして私を見ていた。
でも名前を呼べば、それはもう幸せそうに笑ってくれて。
いつもみたいに名前を呼んで、いつもみたいに笑ってくれないのを見るのが怖かった。
でもアリスターは記憶を無くしても私を愛してくれていた。
記憶があってもなくても、この人は同じ。私の一番大好きな人。
そうわかったから、だから当たり前のように、いつもの呼び方が口からこぼれた。
「――アル」
「ああ、エミ」
ずっと今にも触れそうだった唇がついにくっついて、軽い音を立てて離れた。
アルはどうしようもないくらい幸せそうだ。私の心臓が爆発したらどうするつもりだろう。
「エミ、エミ――」
ぼおっとした私が彼のなすがままになって押し倒され、彼の肩越しに夜の星を見たそのとき。
「はいストーップ。あのさアリスターくん君さ、ここ一応聖なる山なんだけど知ってた?」
気づいたら誰かに抱きかかえられていた。
見上げると男性なのか女性なのか判別のつかないただただ美しい横顔が見えた。懐かしいその人物に私は漸く我に返ることができ、羞恥に顔を覆ったのだった。