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私の『大事な人』こと親友アリスターとの関係について話させてほしい。
1年前、私は日本で女子高生と呼ばれる生き物だった。だが死んだ。いや、死にかけた。用事があってちょっくら道を走っていたら、ふと気付いた時には目と鼻の先にトラックがいたときの私の気持ちを想像してみてほしい。
しかし来るべき衝撃は来なかった。代わりに襲ってきたのはとてつもない浮遊感で、周りの景色が音を立てて崩れ、捻じ曲がり、無くなった。
世界が壊れた。
そう思った次の瞬間目を開けたら、知らない場所にいた。目の前には帯剣した筋肉たち。今考えると騎士団の訓練場だ。『異界人だ』と誰かが呟いた。
あれよあれよと王宮に連れていかれ、第一王子のアリスターにとりあえずひれ伏したら毛虫を見る目で見られ、『気』の流れを正すと説明されたので全力で反対した。
だって、『気』が乱れて私が来てしまったなら、戻れる可能性があるのも乱れている間だけではないのか。
そう主張した私の希望は叩き折られた。異世界人は落ちてくる。元の世界に戻る、つまり上に上がるのはまず不可能だと。
誰もが私に気を遣ってちゃんと伝えられずにいた中、第一王子はそうはっきりと言い切った。異世界人はみな腹を括ってこの事実を受け止めなければならないのだ。
私はそれでも『気』を正すのに協力するのを渋った。生活が保障されているのをいいことに王宮の図書室に入り浸って文献を読み漁り、足りない頭を一生懸命働かせて戻る方法を探った。異世界なのに言葉がわかるだけでなく、文字も読めたのは幸いだった。
そんな私の元へ毎日のように顔を出したのは他でもないアリスターだ。
彼はあれで結構面倒見が良かった。忙しいだろうに、「せいぜい頑張れ」とお菓子や読みたい資料を持ってきてくれた第一王子。『気』を正すという義務を放棄する私を責めもしない。気を許すのは早かった。世間話をするようになり、冗談を言い合うようになり、遂には会わない方が不思議な気持ちになるようになった。
この世界のことをたくさん教えてくれたし、私の世界のことをたくさん教えた。
気晴らしによく馬に乗せてもらって遠乗りにも行った。根が真面目なせいでいたずらなんてしたことがなかった彼のため、手を引いて王宮中にいたずらを仕掛けて回ったこともあった。執務室の扉を開けたら上から葉っぱがどっさり落ちてきた国王陛下は、『君のおかげで息子は明るくなった』と優しく微笑みつつ私にだけげんこつを入れた。
『楽しかった、またやろうな』とアリスターが言うと、『私が帰る前ならいいよ』と返す。お互いの隣で一番長い時間を過ごす私とアリスターの姿は王宮の人間にとって当たり前のものになった。
会ってからそれほど時間は経っていなかったが、そうしているうちに身に染みてわかったことがある。
誰も言えなかった事実を私に突きつけた彼は、誰よりも優しい人間だったのだ。
だから、私が落ちてから3ヶ月が経った頃。食事を摂らなくなって日に日に衰弱していく私に、一番泣きそうな顔をしたのも彼だった。
『恵美、頼む。少しでいいんだ。何か食べてくれ。頼むよ……』
頰はこけ、手足は棒みたいに細くなり。私はこの頃一人で立つこともできなかった。
『どうしたらいい?どうしたらお前は生きようとしてくれるんだ。恵美…』
そう言って何かをスプーンで掬い私に食べさせようとしていた。ベッドから見上げた彼の顔は見たことがないほど辛そうで。それを見たら私も苦しくなってしまった。
『…………アル』
掠れた声。アリスターは何一つ聞き逃すまいと顔を寄せる。
『恵美、』
『この世界では、1番の、罪って、何?』
唐突すぎる質問。彼は眉を寄せた。でもちゃんと答えてくれると知っている。この人は誰よりも優しいから。
『殺人だ。恵美の世界でもそうだろう?』
それがどうした、と言うように私を見た彼。
ううん、違ったんだよ。
このとき私は多分へらへら笑った。悲しい気持ちなのに無理して笑おうとするときの癖なのだ。
『私の、世界、ではね』
次の瞬間、アルは目を見開いた。
『親よりも、先に、死ぬこと』
目元がじわじわ熱くなって、どうしてもこらえきれなかった分が頬を伝って流れた。
この世界に来てから一度も吐かなかったのは弱音だけじゃない。心の奥底の本音も、ずっとしまい込んで彼にも見せていなかった。
『おと、さんの。たんじょ、び、だったのに』
涙はいよいよせきを切ったように止まらない。腕で顔を隠しても、噛み殺しきれなかった嗚咽が喉の奥からこぼれていく。
そう、あの日はお父さんの誕生日だった。おうちで家族三人お祝いをするばずだったのに。家路を急いで事故に遭った馬鹿な娘。
私が異世界に落ちた後、元の世界でどうなったのかは分からない。でも少なくとも行方知れずになったのは確かだ。そしてそのまま見つかることはない。
誕生日を娘の命日にした私は、なんて馬鹿で、親不孝なんだろう。
『おと、さあん…、おかあさんっ…、ひ、う、ごめんなさ…っ』
ごめんなさい。ごめんなさい。
この世界に落ちてから3ヶ月。もういい加減、目の前の事実から目をそらすことができなくなっていた。どんなに足掻こうと、私はもう家には帰れない。家族には会えない。
私よりずっとこの世界に詳しく賢い人たちが匙を投げている問題を、ただの小娘が解決できるはずもない。そんなことははなからわかってたよ。調べても調べても、帰還できた異世界人なんて一人もいなかった。みんな諦めていくだけ。
でも私は認めたくなかったのだ。帰れないだなんて。もう二度と家族に会えないだなんて。認めてしまったらそれ以上生きられないと思った。そして今認めないこともできなくなった。
お父さん、お母さん。馬鹿な娘でごめんなさい。私のことは初めからいなかったものと思って、どうか悲しまないでください。
私は、もう、だめみたいです。
ぽっかり空いた心と止め処なく溢れる涙を自分ではどうにもできなかった。
そんな私を掻き抱いた人がいた。
「…っ、く…」
その人は自分も泣いていた。強く強く抱きしめられて、ふとよくわからない感覚に囚われた。彼が私を抱きしめるばかりで自分の涙を拭いもしないから、私の頭にはぼたぼた雫が降っていた。
そこに感じたのは温かさだ。
涙だけじゃない。腕、腿、額、手のひら、漏れる嗚咽と吐息までも。彼が存在し私に触れる場所全部、溶けそうなくらい、温かい。
久しぶりに感じた人の体温。今までもアリスターに触れたことはいくらでもあったのに、私の心は『温度』というものを完全に忘れていたらしい。
そして今思い出した。
私の存在を私にわからせるみたいに抱きしめて、私のためだけに泣いてくれた人が渡してくれた。
「そっちの世界で大罪を犯したなら、こっちの世界では絶対にやるな」
アリスターは言った。
「お前のこの世界での1番の罪は、俺よりも先に死ぬことだ」
彼の言葉と涙は私の心の深くに染み込み、空いた部分を急速に埋め、満たしていった。
ああ。世界に色がついていく。ずっと受けいれられなかったこの世界に。
アリスターは私の顔を両手で挟んで自分の方を向かせた。涙でぐしゃぐしゃの顔はそれでも間違いなく今までで一番かっこよくて、
「もう二度と一人でいなくなろうとするな。俺と生きよう。二人なら大丈夫だ。ずっと一緒だ。この世界を生きてくれ、俺と」
私はこの世界を彼のためだけに生きると決めた。
彼は私の親友になり、彼は約束通りいつでもどこでも私をそばに置くようになった。