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頭のいい彼であっても、こうも突飛な状況だと頭の回転が鈍くなるらしい。
「あー…と…いつからだ」
たっぷり何秒かたってから言われた。
「み、3日前から…」
「…カーサー公爵令嬢か」
「うん」
「精霊に飛ばされて遠方にいる可能性が高いと思っていたが…あの公爵令嬢、もっとやり方があっただろう…そうかそうか、王家より友人か…」
アリスターは近くにあった椅子に座り込んでうな垂れるようにした。
顔は伏せられたまま、大きな両手が私の手を握る。
「俺のことが、嫌いになったか」
そうしてありえないことを言う。
でも彼をこうさせたのは私だ。ここまできたらもう振り切ろう。言いたいことを言わせてもらうことにする。
彼の手を握り返して、胸の前で抱くようにした。私の気持ちが余すところなく伝わるように。
「天地がひっくり返ったって、アルを嫌いになったりしないよ」
やっと顔を上げて私を見てくれた彼は、ひどく安心した子供のように見えた。
自分よりずっと大きなこの人を子供だなんて自分でもおかしくなってしまう。
「きっともう陛下には私がいるってバレちゃったねえ」
「そのことなら大丈夫だ。説得に成功した」
「え?」
「精霊に飛ばされた直後直談判した。元々話さえ聞いてもらえればうんと言わせる自信はあったんだ。1回目の時は父さんがあそこまで思いつめていると思ってなかった。まさか問答無用で記憶を消されるとはな。
明後日王宮で大規模な会議が行われるだろう?俺の婚約者がお前になることを受けて、今後の方針や具体的な政策を話し合うんだ」
「え?え?」
「ああそうだった、俺は記憶が戻っている」
「ええー!?」
ちょっと待って。一旦待って。私さっきから『え』しか言ってない。
神殿から王宮に帰ってきたあとにはもう記憶が戻っていた?なら昨日話したのも記憶を取り戻したアルだったのか。記憶があってもなくてもアルはアルだったし全然気がつかなかった。
「ま、待って。いつ?いつ記憶が戻ったの?」
混乱するままに聞くと、あろうことかアルはまた昨日と同じ表情を見せた。怒りだ。
え、なんで。
「神殿でお前が泣いた時だ…俺はあのとき、『絶対にお前を一人にしない』とどうしても伝えなければいけない気がして…口から言葉が流れ出て、強烈な既視感に襲われた。お前が泣くのはあの日ぶりだと思った瞬間、全ての記憶がフラッシュバックした。脳が焼き切れるかと思ったな、かなりの衝撃だったよ」
ゆるゆると私の手を撫でていたアルは、おもむろに私に顔を近づけた。久しぶりの距離に固まってしまう。その視線に囚われたみたいに動くことができない。
「恵美、初めてお前からキスされても反応できない程度には」
ゆっくりと近づいていた唇は、私のとくっつく寸前でぴたりと止まった。
その動作で、自分が目を閉じかけ受け入れようとしていたことに一拍遅れて気づき、猛烈に恥ずかしくなる。
「でも俺は今怒ってるんだ」
彼はそんな私を笑う。思わずぼうっとした。アルはこの笑顔でおそらく世界中の女性を軒並みノックアウトできる。
「お前、俺から離れただろ。約束を破った」
怒っているのだと言う割に、彼の言葉には怒気がない。昨日みたいに怖くもない。
私がいるだけで幸せだと言われているみたいだと思った。
「そうだな…これからは、俺から一度離れるごとに俺に好きだということ。新しい約束だ」
「!? 」
「いいだろ、離れなければいいんだ」
反対の声を上げようと思ったが呑み込んだ。ふと考える。
…あれ、私アルに好きってちゃんと言ったことなくないか。
アルが提案した羞恥罰ゲームよりも、自分の方がよっぽどひどい気がしてきた。
「さあ」と急かす彼の胸板を「待って」と言って押し返す。
「な、何て言うかを一晩かけてちゃんと考えたい…」
言うの、初めてだし。
顔を真っ赤にさせてそう言えば、今日一番の笑顔を見ることができた。
アルはバーニスが私にかけた魔法を解いた。そして今日はここで寝るように言う。
男子寮に戻るのは絶対に許さないし、自分の部屋に入れるのも、私に何かしない自信がない、らしい。
「そういうのは結婚してからだ」と言う彼は、やっぱり根が真面目で、私は彼のそういうところが好きだ。これは明日の彼への告白の言葉にいれようかな。
アルが部屋を出て行って、私は医務室に一人になった。
だけど。
それは午前2時、丑三つ時にやってきた。
「よお、メグム」
真夜中の王宮に、まるで寮の隣の部屋に遊びに来たかのような気軽さで現れたのは、まさしく私の元隣人。
「フィン?」
「今からちょっとした魔法をかける。詳しいことはその夢ん中で話すから、まあもう一回眠ってくれや」
目を覚まして私を見下ろしているフィンを認識した瞬間。私はもう一度夢の中に送り返されてしまった。
***
私は知らない場所に立っていた。服は眠る前と同じ、男の子用の仕事着だ。
でもこれは夢の中なのだろうと簡単にわかる。
辺りが一面、ありえないほど様々なものに溢れているからだ。それらは全て私の記憶にあるものだった。
アルと待ち合わせしたあの木、バーニスにもらったクリスタル、アルの部屋のベッド、子供の頃使ってた机、ヤイナのためアルと作ったケーキ。うん、なんかアルが多い。
夢にしてはやけに思考がはっきりしているな。そんなことを考えながら辺りを見回していた。すると巨大な声が響き渡った。
「よし、かかったな。それじゃ始めようか」
フィンだ。
問答無用でこんな状況にされたが、一体何を始めるのというのか。
呑気にそう聞こうとした。
しかし、視界の端に何かが映って、そちらに気を取られた。
「------------」
フィンの声が頭上から知らない言葉を降り注ぎ始めると同時。そこら中、部屋の至る所で同じ現象が始まった。
周りから、次々と物が消失していく。
振り返った先で、視界の隅で。私の知っているものたちが忽然と姿を消していく。
声にならない悲鳴をあげた。
それは『記憶』だ。
私は口を押さえてたたらを踏んだ。とてつもなくまずいことが起こっているのだと今更理解する。
見知った何かが消えていく。するとそこは希薄な白いモヤのようなもので補完されていく。どんどんそれが増えていく光景に泣きそうになった。何かがなくなるたびそれにまつわる感情も消失していくようで、思わず胸を押さえてうずくまった。
奪われていく。
なくなっていく。
私が、消えていく。
「-------、どうなってんだ、こりゃ」
そのとき、姿は見えないフィンのお経が一旦止んだ。そして困惑の声がする。
見回しただけで私にもその理由がわかった。
時間が進むにつれアリスターの割合が増えていっているのだ。さっきから消えていくのがアリスター以外の物ばかりだから。
「おいおい、お熱いなあ…。----------」
声が再開されいよいよその速度が増したのがわかった。
バーニスやヤイナが、日本の両親や友達が、アリスター以外の全てがなくなっていくのを、頭を抱えてただ見ていた。
そしてそのときは来た。
私の視線の先で、初めてアリスターが1つ、消失して霧になった。
「あ、あああ…っ!」
いてもたってもいられなくなって走り出す。この場所から出たいのに出口がない。それでもかけずり回った。壁をガンガン叩き、声の限りに叫ぶ。
そうしている間にも周りのものはどんどん少なくなっていって、あれだけたくさんの物で溢れていた私の中は、ついに1つを残して全てが消えた。
それはアリスター本人だった。
しかし本物じゃない。私の記憶の中のアリスター。私と一緒に生きると約束して涙を流した、あの日のアリスターだ。
「やめて、やめてぇっ!」
奪わないで。彼だけは。
必死に縋り付いた。壁を叩き過ぎて痛む腕の中に閉じ込めた。抱きしめて、抱え込んで、取られないようにした。
なのに。次の瞬間私の腕は宙を抱きしめていた。
「ごめんなメグム。俺、お前らの敵なの。隣の国の人間なんだわ。ああそれにしても、まさかお前があの異世界人だったとはな。アリスターを張ってて正解だったな」
全てが色あせていく。喉が引きちぎれるように「返せ」と叫んだのはほんの一瞬だった。
何も無くなった空間。白い霧だけがその場を満たす。それに包まれると急速に体温が奪われた。体が嫌に軽くて、自分の輪郭すら不明瞭だったが、心が全てなくなったことだけはよくわかった。
私は意識を手放した。