遭遇
死の森。高い木々が短い感覚で生い茂っているため、森の中に光が差すことはなく、どこか薄暗く不気味なのが特徴の森だ。
大層な名前を付けられているが、これは誇張でもなんでもない。
この森は強力なモンスターが数多く潜んでいる危険な森なのだ。いつからどうしてそうなったのかは誰も知らないが、どれだけ恐ろしいかだけは多くの人間が知っていた。
本来ならすぐにでもこのような危険は取り除くべきなのだが、王都からも離れた辺境な上に森にさえ入らなければ被害を受けることがないため、討伐隊が派遣されることもない。
そしてそんな危険な森には、一匹の王がいた。彼は他のモンスターを寄せ付けないほどの比類なき力を持っていた。
彼が近付けばどんな獰猛なモンスターも戦わずして逃げ出した。他のモンスターたちは本能で理解していたのだ。彼にはどう足掻いても太刀打ちできないことを。
そして彼自身も本能で理解していた。自分こそが死の森において最強の存在であることを。
しかし最強である彼にも最近悩みがあった。それは食事だ。
これまで彼は目に付いた他のモンスターを食らい、自身の空腹を満たしてきた。だがほんの数ヶ月前、彼はこの森に存在しない生物――人間を食らった。
どうしてあの時あの場に人間がいたのか。彼はその謎の答えを知らないし興味もない。ただ一つ重要なのは、食らった人間が美味かったという事実のみ。
それ以降、彼は同じものを求めて森の中のモンスターを食い漁った。だがいくら食べても彼の欲は満たされない。しまいには、森の中のモンスターを食らい尽くしてしまった。
それでも彼は止まることができない。一度知ってしまった味を忘れることなど不可能なのだ。
そこで彼はあの時の人間が森の外からやってきたことを思い出した。同時に彼の興味が森の外に向けられた。
そこまで悟った彼は即座に森を飛び出した。彼の欲はそれほどまでに肥大化していたのだ。
――人間の臭いがする! あの極上の美味の香りが!
彼の鼻は森を出てすぐに人間の臭いを嗅ぎ取った。かなり近くだ。彼は臭いのする方へ駆ける。
一分もしない内に、彼の瞳は一人の人間を捉えた。
土煙を立て、轟音を携えながら自分に迫る人間を前に彼の心が震える。
人間は彼の目から見てもとてつもない速度で距離を詰めていた。だが今の彼にとって、そんなことはどうでもいい。
――やっとだ! やっと待ち望んでいた存在が自分のところへやってくる。
彼は久々のご馳走を前に昂っていた。最早彼の心は眼前に迫る人間に釘付けだ。
そして彼は人間を射程圏内に収めたと同時に――その凶悪な爪と牙を振るった。
「ん……?」
王都を目指して全力で駆けていたところで、俺が地面を蹴る音に混じって何かが潰れたような水っぽい音が耳に届いた。
この音は聞き覚えがある。生き物の肉がグチャグチャになった音だ。昔熊を殴り飛ばした時にも似たような音がしたので間違いない。
ここで問題になるのは俺が何をグチャグチャにしたかだ。その辺の野生の動物やモンスターならまだいい。野生の動物はともかくモンスターは死んでも誰も困らない。
この辺りでモンスターが出る場所と言えば、近くの死の森という危険なところだが、そこのモンスターが外に出ることは滅多にないと聞いたことがある。
つまりモンスターの可能性は限りなく低いということだ。そしてそれは動物に関しても同じ。
モンスターが存在するこの世界で、野生の動物が生きていくなどほぼ不可能。
となると残る可能性は人間だけだが……深く考えるのはやめよう。世の中には知らない方がいいこともあるもんね!
「……忘れよう。俺は何も聞いてない。俺は何も知らない」
そうして現実逃避のためにぶつぶつと念仏のように色々自分に言い聞かせていると、
「きゃああああああああ!」
「…………!」
女性の甲高い悲鳴が聞こえてきた。
何事かと思い声のした方へと全速力で向かう。
「あれは……!」
豪華な作りのドレスを着た、黄金色の髪と可愛らしい顔立ちの少女。少女を守るように円を作る甲冑に身を包んだ騎士らしき集団。そして騎士らしき者たちに刃を向けるカタギとは思えない人相の悪い男たち。
それが現在俺の視界に広がっている光景だ。
装備こそ騎士らしき者たちの方が立派なものだが、数は男たちが勝っている。そのせいで、騎士らしき者たちは押され気味だ。
どちらに加勢すべきかは考えるまでもない。俺は騎士らしき者たちのところに急ぎ足で向かう。
「何者だ!?」
騎士らしき者たちを背に、人相の悪い男たちと対峙する形で現れた俺に警戒の色を含んだ言葉を叫んだのは、騎士らしき者の内の一人だった。
まあ突然敵か味方かも分からないような奴が現れたのだから当然の反応だな。
「俺はクロノと言います。事情はよく分かりませんが、加勢しに来ました」
視線は人相の悪い男たちから離さず、後ろの彼らに説明した。
「そ、そうか! それは心強い!」
やはりかなりの窮地だったのだろう。身元の分からない俺なんかの言葉をあっさり信じるくらいだからな。
「お話は終わりか?」
人相の悪い男たちの中でも一番体格のいい男が集団から抜けて一歩前に出た。
「何だよ、わざわざ待っててくれたのかよ?」
「ひっひっひ。今生最後のお話になるからな。せめてもの慈悲ってやつだよ」
「そりゃお優しいことで」
ここまで分かりやすいクズだとボコボコにしても罪悪感湧かねえなあ、などと考えていると、
「死ねや!」
体格のいい男が斬りかかってきた。完全な不意討ちだ。
しかし『無敵』を持つ俺の目には、男の攻撃など止まって見える。
「…………ッ! こいつ!」
男は初撃を避けられたことに驚愕しつつも、攻撃の手を緩めることはない。だが結果は同じだ。
攻撃の最中、男に隙が生まれたのでここで反撃を――と考え実行しようとして気付いた。いや、気付いてしまったのだ。
――俺が攻撃すれば、男たちは皆挽き肉になってしまうという事実に。
この世界は良くも悪くも元の世界とは倫理観に大きな違いがある。その際たるものが人の生死に関してもだ。
元の世界では正当防衛であっても過剰と判断された場合は罪に問われることもある。しかしこの世界では、正当防衛とされるなら何をしてもいい。
更に目の前の男たちは恐らくだが盗賊だろう。この世界では盗賊はどんな理由があろうと悪だ。盗賊は見つけ次第皆殺しが当たり前。場合によっては報奨金が与えられることもある。
そういった理由から彼らを殺しても罪に問われることはない。しかし元日本人である俺は、未だにその考えに馴染めていない。なので、できれば彼らを殺すような真似は避けたい。
だがそれでは加勢した意味もない。どうしたものかと攻撃を紙一重で回避しながら考えていると、
「て、てめえナメてんのか!?」
息も切れ切れの様子で男が怒声をあげた。多分攻撃を全部避けられたことにムカついているのだろう。
「人の攻撃を避けるばかりでやる気あんのか!?」
いやそんなこと言われても……。
こっちはお前らがハンバーグの材料にならないよう必死なのに、勝手なことは言わないでほしいものだ。まあ事情を知らないこいつらに理解しろという方が勝手だが。
「おいてめえらも手伝え!」
男は後ろに控えていた仲間たちに呼びかけた。
男の指示を受けて他の奴らはすぐさま行動に移す。男たちの動きは早く、瞬く間に円を作り俺を囲んだ。
「へっへっへ、これで避けられないだろ。てめえら、やっちまえ!」
次の瞬間、俺の視界は汚い男たちで埋め尽くされた。
「てめえ……いったい何者なん……だ」
男はそう言って膝から崩れ落ちた。男の仲間たちもすでに全員地に伏している。一応全員生きてはいる。彼ら倒れているのは、ただの疲労が原因だ。
ちなみに俺は一切危害を加えてない。だというのになぜこんなことになっているのかというと理由は単純で、俺が奴らの攻撃を避け続けただけだ。――疲労困憊でぶっ倒れるまで。
スキルのおかげでとんでもない身体能力を手に入れた俺には、体力の限界というものがない。ただ回避しながらどうやって倒そうか考えていただけなのに、まさかこんなことになるとは予想外だ。
今は騎士たちが倒れた男たちを拘束し始めている。とりあえず一件落着といったところか。
「失礼。少しよろしいだろうか?」
騎士の内の一人が俺の方に駆け寄ってきた。兜のせいで顔は分からないが、声からして多分女だろう。
もし俺が助けに入らなかったら「くっ、殺せ!」みたいな状況になっていたかもしれない。……ちょっと見てみたかったかも。
そんな俺の邪な考えなど露知らず、騎士は話始める。
「この度は見ず知らずの我々にご助力いただき誠に感謝致します。あなたの奮闘ぶり、我が主も大変お喜びのようでした」
「主?」
「あちらの方のことです」
騎士が視線を俺から守られていた金髪の少女に移した。
騎士の口振りからして、もしかしたらあの少女は結構高い身分の人間なのかもしれない。
「ところでクロノ様はこれからどちらへ向かわれる予定で?」
「王都ですけど……」
何の意図で訊ねたのかは分からないが、一応正直に答えておく。すると騎士は声を弾ませながら、
「それは良かった。実は我々も丁度王都に帰ろうとしていたところなんですよ。我が主が是非ともお礼をしたいと仰っていますし、よろしければ馬車でご一緒にどうですか? もちろんお礼は別途させていただきます」
騎士の提案はなかなかに魅力的なものだ。いくら早いからといって、走るのは面倒と感じていたのでありがたい。ただ一つだけ問題があるとすればそれは、
「ちなみに、王都に着くまでどれくらいかかりますか?」
「大体一週間ほどですね」
試験は五日後。馬車じゃ絶対に間に合わない。
「ご厚意はありがたいですけど、すいません。馬車より走った方が早いので遠慮させていただきます」
「馬車より早い? いったい何を――」
「それじゃ、さようなら!」
「あ! お待ちください!」
騎士の制止の声も聞かず、俺はその場を後にした。
――この時の俺は知らなかった。この出会いが後の俺の人生に大きく影響を及ぼすことを。