(二) 3 すがりつくもの
「こんにちは」
「あら、また来てくださったの?ほらカオリちゃん、柳井さんが来たわよ。」
「いえ、仕事中ならいいですよ。」
恐縮してる間に彼女が奥から出てきた。
もう一人の従業員のなっちゃんと呼ばれる人は、今日は休みのようだ。
「いらっしゃいませ」と小さく抑えた声でカウンターの前に来た彼女は、僕にメニューを差し出した。
ここ『まるもり弁当店』へ来るようになって4回目。あのとき、喫茶店で彼女が心の内と過去を話してくれたあと、1枚のチラシをくれた。まるもり弁当のメニュー表と地図が書かれたチラシを、「名刺はないので…」といいながら、言葉少なげにここで働いていることを教えてくれた。
話すだけ話して、終わりにすることもできたはずだった。どんな心境の変化かわからないけれど、縁が切れないことにホッとした。彼女の気まぐれに感謝する。あの話を聞いても、なんの気の利いた言葉も返せない僕は、歯がゆくて、もう少し話してみたかったから。
「あなた痩せてるからたくさん食べたら?」
母親みたいなことを年下の子に言われて、少し恥ずかしかったけれど、嬉しかった。
「ありがとう。買いにいくよ。会社に戻ってから昼休憩だといつも遅くてね。お弁当買って車で食べるなら、時短でいいかも。」
「近くに公園あるからそこで食べれたらいいよ。あっ寒いか、車の中がいいか。」
「そうだね、ありがとう。じゃまたね…」
「…うん」
そう交わしてから日もたたないうちに、お店を探してやってきた僕を見て、彼女、カオリさんは驚いた顔をしたけれど、片頬だけを上げた笑顔で「いらっしゃいませ」とぎこちなくもあたたかく迎えてくれたのだった。
「今日は何がオススメ?」
「やっぱり幕の内弁当かな。今日はシュウマイ1個増量キャンペーン中です。」
「へぇ!じゃそれ貰おうかな。」
「はい、じゃ幕の内1でーす。」
そう後ろに呼び掛けて彼女もタッパにご飯を詰め始める。昼を過ぎた時間だったため客は僕一人だった。白いブラウスにお店のロゴの入った青いエプロンを付けた彼女は、初めて会ったときに比べてあか抜けて見える。きびきびと慣れた様子で手を動かし、体が揺れるたびに束ねられた髪がぴょこぴょこと動く様はネズミのしっぽみたいで、そんなことを言ったら嫌な顔をするのが目に見えているので黙っている。スーツのネクタイを緩め、店先で待っていると揚げ物の香ばしい匂いと、炊き上がったばかりのご飯の甘い湯煙がこちらにも漂ってきた。思わず唾を飲み込む。
「はい、お待ちどう様でした。」
そう言って彼女は出来上がったばかりのお弁当の蓋を閉め、輪ゴムで止めてビニール袋へ入れようとした。
「あっ、今日はそこの公園で食べるから袋はいらないよ。」
「えっそうなの?それじゃ…」
半分まで入れた弁当を取りだそうとしたとき、袋の持ち手に一瞬引っ掛かってしまった。
弾みで弁当の蓋に隙間ができる。
「あっ…」
斜めになったせいで、シュウマイがポロリとズレた隙間から落ちてしまった。それを彼女は早業で弁当へと戻す。
「えっ…」
「はい、どうぞ。」
「今落ち…」
「大丈夫、大丈夫。うちのカウンター毎日綺麗に拭いてるから!」
食いぎみにかぶせて、僕に有無を言わさずにお弁当を差し出す。
「どうしたの?」
お弁当屋さんの奥さんが、奥から顔を出して声をかけてきた。困り顔の彼女を横目に
「いえ、なんでもないですよ。いただきますね。」
そう言って支払いを済ませ、僕はまっいっかと、近くの公園へと向った。
公園といってもそんなに広くはない。
芝生はなく土だけがむき出しになっていて、家一件ほどの面積に、小さな砂場と錆びだらけの滑り台があるだけだった。汚れたベンチを払って腰掛け、蓋を開けて食べ始める。やっぱり美味しい。ほくほくと心が和んでいく。これから回るお得意様のことを思い出し段取りを考えていると、静かな公園にかすかな足音が聞こえてきた。そばに近づいた気配に横を向けば、カオリさんが先程の格好にカーディガンを羽織った姿で立っていた。挨拶もなく「はい」と手渡されたものは、お茶のペットボトル?
「どうぞ、飲んでください。」
「くれるの?ありがとう。」
常連になったよしみか、先ほどのやり取りのお詫びかは分からないけれど、断るのも悪いので素直に戴くことにする。半分近く一気に飲み、ぷは~と息を吐く。思っていたよりも喉が渇いていたようだ。自分が飲んでいた水筒は残りわずかだったので助かる。隣に間隔を開けて座った彼女もペットボトルを持っていて、休憩時間をもらったらしい。
「この前は、ごめんなさい。」
唐突に言い出した彼女に視線を向け、無言で理由を問う。
「初めて会ったときも、二回目の喫茶店でのやり取りも、私すごく失礼な態度だった。生意気で、上から目線で、あなたに愚痴をぶつけるように喋って…」
「あぁそのことか。初めは驚いたけど、いきなり話しかけた僕も悪いんだし、いいよ。お互い様。」
「貴方ってほんとに…」
「お人好し、だろ?なんかこの仕事してたらさ、受け止めて流すことに慣れちゃってて。営業でお客様商売だと理不尽なことも多くてね。君みたいなのは案外平気だよ。」
「そうなんだ。大変だね。」
「正直、お客様もだけど、仕事仲間とのやり取りの方が神経使うこともあるし。あぁごめんね、僕も愚痴ばっかりだ。会った時から。」
「ううん、大丈夫、お互い様。」
僕と同じことを言って、下を向く。もしかして、下を向くのは照れ隠し?彼女の事が少し分かった気がする。少し嬉しくなってこの前の出来事を話す。
「蛍光灯」
「…?」
「僕のあだ名。この前初めて知ったんだ。会社内での僕のあだ名が蛍光灯だって言われてるの。ほら、オフィスなんかで広いミーティングルームに入るとき、電気のスイッチつけるだろ?その時に何本かだけ、遅れて灯りがつくのがあってさ。僕はそれなんだって。一斉に揃わない、反応が遅い。普段の仕事ぶりがのろまでどんくさいってことさ。」
「何それ…なんで笑ってるの?」
「いやぁ…なんか的を得てて、なるほどなって思ったんだよね。初めは悪口だと思ってショックだったけど、確かにみんなとズレてるなって思うこともあるし、一様に揃わない。お客様の反応にも対応しきれないしさ。」
クレームがあったの日の夕方、ミーティングルームでの会話を、忘れ物をした僕はこっそり聞いてしまった。
「なんで私が部長に呼ばれなきゃならないのよ!」その声は水戸さんのものだった。「みんなに見られて恥ずかしかった。それもこれもあのどんくさい柳井のせい。」「あぁ、あの蛍光灯ですか?」アハハ、と笑い会う水戸さんと後輩の布瀬くんの声にドキッとした。「ほんとお人好しっすよねぇ。あのクレーマーどこいっても文句ばっかで、必ずクレーム寄越すので有名なんすよね?どうなるかと思ったけど、そのことあの人に誰も教えなかったんすか?」「情報にうとい柳井くんってほんと蛍光灯だわ」「やっぱり駄目だったし、まぁそりゃあの柳井先輩じゃ無理っしょ」「そりゃそうよ。はぁ良かった、私当たらなくて。善良ポイント上げるって言ったらすぐ返事したんだよ、蛍光灯のわりにそこだけは反応早かった!そんなのやるわけないじゃん。私はね、もう柳井さんにあげるって決めてるから」
柳井さんとは、もちろん僕のことではなくて4つ上の従兄弟のことだ。この会社は柳井グループの傘下に位置する。僕は叔父が経営する会社の支店で働いている。ゆくゆくは僕ではなく、従兄弟の柳井清司さんが継ぐことになるだろう。僕はそれでいいと思ってる。出世欲もなく、このご時世、働ける場所があるだけで十分満足していた。
彼はとても人気があって、将来有望だ。誰もが惹き付けられ、票が集まるのは致し方がない。
「なんでそこで言い返さないのかって顔してるね?」
「そんなに分かりやすい?私の顔。」
「いや、なんとなく。」
カオリさんは怒っていた。
彼女は何か言いたいとき、一瞬僕の顔を見て、すぐさま下を向いてしまう。頭の中を整理しながら、感情を圧し殺そうとするときの仕草に見えた。
「やっぱり、もめたくないじゃん?僕が我慢すればいいだけさ。余計な確執はつくりたくないんだよ。これからもずっと同じ会社で働いていかなきゃいけないんだし。平和でいたいってのは言い分けで、ただ臆病なだけかもしれないけれど…」
「なんだか会社って面倒なところね。まぁそういうとこで私ちゃんと働いたことないけどさ。」
「君だって、お弁当屋さんはお弁当屋さんなりの苦労があるだろ?」
「まぁね。でも佐藤さん夫婦ができた人だから、私はすごく助かってる。何かあったときには相談できるし。」
「いい人たちなんだね…」
「うん、ふふっ」
「なに?」
息を吐くように、笑った彼女がチラリと僕を見た。
「柳井さんのそういう察しの良さは…すごいと思うよ。自分が嫌な目にあったあとなのに、人の心配する。他人の苦労って分かりにくいから。」
「えっそうかな?」
「そうだよ、全然蛍光灯なんかじゃない。他人の仕事ってなんで楽に見えやすいのかな。結構足元みられやすいんだよね私たちって。やっぱり知らないからかな?想像できないから?お金のことだって、労働時間だって、善良制度が導入されてから世間ではそれなりに勤務体制は改善してきてるけど、客の質は変わらない。営業時間が短縮されようが、給料が上がろうが、無茶な要求してくる客はいるし、いつだって客と店の間に不満は生まれる。あぁしてほしい、こうしてほしいってのはなくならない。不条理なことが起きても、嵐が過ぎるのをただじっと待つしかない。私なんて、藁の屋根だからあっという間に吹き飛ばされちゃう。」
先程の気の抜けた笑い声はなく、自嘲気味に言った。
「外だけは我が儘でいたいんだよ。」
「ふーん、中は?」
「会社とか…世間体とか?」
「あなたはそうね、家族が窮屈な人もいるし。」
「君が窮屈なのは?」
「私は……」
思案中のカオリさんが少し前のめりになった。自然な仕草で僕のお弁当からシュウマイを1個指先で摘まみ、そのままパクっと口に入れてしまった。
「あっ!」
僕のおかずが…
「うん、やっぱり美味しい。」
指先をエプロンでぬぐう。してやったりの顔の彼女に呆れた僕だけど、なんとなく先程の話の続きをはぐらかされた気がする。僕は気づかない振りをした。かわりに
「せめて僕は、頑丈な家をつくるよ。」
と言った。
「鉄筋コンクリート?」
「そこまでは。うーん…真中のしっかりした一軒家くらいには?」
「それならまぁまぁ強そうね。柳よりは。」
アハハと彼女が笑ったことにホッとした。
「ごちそうさま。それじゃね、またのお越しをお待ちしております。」
そう言って軽く頭を下げながらすっくと立ち、エプロンをたなびかせて店の方へ小走りに戻って行った。
ごちそうさまはこっちなんだけどな。小さい背中を見送った僕は、手に持つお弁当の残りを口に入れる。まだおかずは十分ある、まぁいいかと思ったとき、ふと先ほど食べられたシュウマイはカウンターに落とした物だと気づいた。
優しさは見逃されやすい。
悪意の方が伝わりやすい。
善意が広まる世界ならどんなに良かったか。
善意を強要する世の中になりつつある社会に、僕はどこまで立っていられるだろう。そんなとき、すがりつきたくなる。彼女のような真っ直ぐ伸びた一本の木に、葉音をききながら、木陰で僕は、ひと休みしたいんだ。
彼女はどこまでゆるしてくれるだろうか。彼女の優しさを独り占めしたい。その衝動にドキッとした。
わがままなこの想いを、もし悪意とみなす人がいるのなら、僕はポイントなんていらない。善悪の基準はこうやってつくられる。
奇跡に等しいこの出会いを基礎に、嵐に負けない頑丈な家をつくろう。
二章まで読了ありがとうございました。
引き続き読んでいただけたら嬉しいです。