(二) 2 出会い
一週間後のこと。出勤して早々、上司から呼び出しがあった。オフィスの奥に行くと、険しい顔がそこにあった。
「お前にクレームがきてる。」
「えっ!僕にクレームですか!?」
営業に回されてからの初期、注文先の店主や買い付けにきたディーラーから直接苦言を言わたり、怒鳴られたりしたが、会社を通してクレームという形できたのは初めてだった。最近では顔も覚えてもらえ、ミスも少なくなってきたはずだったが、どこのお店だろう?
「一週間前の午後、下の展示室でフェイシャルベットの案内したお客様がいただろ?その時対応したのお前だったよな?」
「あ…はい…」
滅多に入らない急な訪問に、誰も時間が空いてなかったため、自分が対応したのだ。確か『菅井』という名のよくしゃべる四十過ぎの女性だったはず。
「覚えております。その方が何か?」
「どうもこうも…そのときの対応が酷かったと言っている。」
「えっ!そんな…」
「先方が言うにはな、自分の話を全く聞かないで次から次へと高いものを強引に進めてきたり、個人的なことを聞いてきたり、しまいには説教してきたんだと、だから買う気が失せた、と言っている。」
「えっ…」
そんな覚えはない。
「お前どんな対応したんだ?」
「僕は普通に…」
「普通にって現状クレームが来てるんだぞ?お前この会社に入って何年だ?そんなこともできんのか。」
「…申し訳ございません。」
「そもそもなんで外回りのお前がフェイシャルベットの販売やったんだ?エステ部の仕事だろ。」
「あのときはエステ部のみんな手が空いてなくて、だから代わりに僕が対応することになったんです。」
「だったら予約をずらせばいいだろ。」
「僕が外回りから戻ったときにはもう予約が確定してて、自分がやるしかなたかったんです。」
「電話受けたやつは誰だ?」
「水戸さんだったかと。」
「おいっ水戸!いるか?」
遠くから足音が聞こえてきて、同期の水戸さんが近づいてきた。「はい、何でしょう?」と僕の顔は見ずに肩の髪を払うと同時に隣に並ぶ。
先ほどのやり取りを話し、なぜ連携がうまくいかなかったのかと、上司から問われると
「柳井さんが自分がやると言ったので、お任せしました。私は先約の別のお客様がいたので、他のメンバーもそうでした。彼なら大丈夫だろうと思ったんですが…」
省かれた報告は上司に想像力を欠かせる。
言いたいことを押し留め、僕は上司のため息と叱咤しった受け続けた。これから仕事があるため、ほどなくして私達は解放された。
僕は未だにクレーム内容に首をかしげる。あの女性客の菅井様は、なぜそこまで僕が気にくわなかったのか。きっと、うなずきも、褒め称えも全然足りなかったのだろう。見た目でも頼りなく、突きやすかったのもある。これも僕に想像力がなかったせい。どんなお客様にも対応できる営業の技術は、どうやったら上達するのか、頭を悩ませる。
「お疲れっす、先輩。」
「あぁ…」
席に戻ると後輩の布瀬くんが声をかけてきた。何か言いたそうにしていたが、もう会話する気力はなかった。僕は、自分の今日の担当地区を確認するのを理由に、下を向きふさぐ。
猫背になった自分の背中を社内にさらしている間、寄せられる後ろからの視線は、同情か、嘲笑か、確認する度胸は僕にはなかった。
あとから聞いたところによると、あの菅井様というお客様は相当なクレーマーだったらしい。それをエステ部のみんなは知っていた。だから誰もやりたがらなかったのだ。お人好しな僕は、押し付けるのにちょうど良かったのだろう。いや、僕は善良ポイントという水戸さんの言葉に釣られたのもある。目先の欲がほしかった。僕は社内でも特に善良ポイントが少ない。焦っていた。
仕事ぶりの評価が目に見える形となってプレッシャーをかける。会社に貢献できていないんじゃないか、成長できていないんじゃないかと。空回りする僕は、道化すらなりきれないただの埃の被った置物で、いつ廃棄されるか分からない不安を積み重ね、前が見えずにもがき続けていた。
**
女性二人と男性がもめているのを見かけた。
遠方の取引相手の商談帰り、慣れない電車に乗って会社に戻るところだった。そんなとき少しキツイ声で話す女性と、おどおどした男性が話しているのを駅のトイレの入り口付近で目撃した。僕はただ立って見ているだけだった。手伝う?何を?迷っている間に女性二人は、男を残して足早に立ち去る。改札を抜けたその姿を僕はつい追っていた。端の方でこそこそ話す彼女達のそばに寄り、近くに備え付けてある旅行用パンフレットを物色するふりをして会話を盗み聞きする。
「恩返しナンバーを教えてください」という言葉に僕は羨望をもった。人を助けて善良ポイントをもらう光景に真っ直ぐな正しさが見えた気がして。
なのに、片方の女性が「いりません」とハッキリと拒絶した。
『えっ!?』と助けられた女性と同じように、心で声を重ねた僕は、つい後ろを向いてしまった。二人には気づかれなかったが、拒絶した女性は背中を向けて去っていく。僕はもう追えなかった。
何故ポイントをもらわないのだろう?大した貢献ではないのかもしれないが、感謝してる人がいて、今後の生活の足しにもなる善良ポイントがもらえる、そんな機会なんて滅多にない。おかしい。一人の女性の危機に気づけずに、助けもしなかった僕が言うのも変だが、納得できなかった。
それから帰ってからも、仕事をしていても、気になって考えてしまう。営業をして、客に頭をさげて、残業して、いつもの疲労の積み重ね。善良ポイントを肴にする社員がいて、そんな駆け引きにうんざりする。キッパリ断った彼女の後ろ姿が忘れられない。善良制度を拒絶した理由が知りたい。
会社帰り同じ頃、あの時間と場所で待ってみた。二日目にして、案外すぐに見つかった。
彼女と話してみて、疑問が解決したわけではない。善良ポイントに対して、上辺で動く人がいることは知っている。知って分かってはいたけれど、日常的にそれが義務のようになっていくと、何が善良の基準なのかいつも推し量っている自分がいる。つねに周りの人の顔色をうかがい、不安と焦燥がつのる。
良い人が報われる制度に疑問をもつなんて、恥ずかしいことだと思っていた。なのに彼女はハッキリとこの制度が嫌いだと言った。同じように疑問をもち、制度に意を唱えてくれて、そしてそれを言葉に出してくれたことに、少しホッとした。話せて良かった。
ただ、固い鎧をまとわせた彼女は、とても窮屈そうで、終始突き放したような話し方をする。遠くを見る目は寂しそうだった。かといって誰かに寄り添ってもらおうとはしない。
僕と同じように、身動きがとれずにもがいていた。
その鎧を解く日は来るのだろうか──
(二)3へ続く