終章
アスファルトの熱気にあてられて、頬が熱くなり頭がのぼせる。暑い暑いとみんなが口々に言い、聞き飽きた言葉を繰り返す。真夏の灼熱が心をも溶かし、怠惰な自分を作り上げているようだ。
このままじゃいけないと思い、休日に涼しい場所を求めて図書館へと足を向けた。ついでに写真集と雑誌を眺める。次第にスマートフォンの写真機能では物足りなくなってきて、容量のこともあり、新しいデジカメを買おうかと思案していた。
( いや、いっそのこと一眼レフでもいいかも… )
人に送る写真から趣味へと変わりつつある自分の要求に、呆れると共に、このまま流されていけるところまでいってしまおうと思った。
二時間ほどそこで過ごし、涼しかった図書館を出た。力の衰えない太陽が出迎える。今度はどこかでお茶でもしようかと借りた写真集をトートバックに入れて、市内に向かって歩いた。住宅地を抜けた先には小学校があって、その横を通ると夏休み中の子供たちがプールで遊んでいるのが見えた。体いっぱい使って泳ぎ、きらめく水の眩しさに目を細めた。
そんなとき、声が聞こえてきた。それは、圧し殺すこともできずに、断続的に感情を吐き出す声。
「誰か泣いてるの?」
曲がった先にいたのは棒立ちになって、滂沱の涙を流す、子供だった。夏らしく白い半袖にベージュの短パン。日焼けした腕が見えたが、この暑さの中、帽子は被っていなかった。肩を縮めてひたすらに泣いている。
「どうしたの?どこか怪我したの?」
通り道、誰もいない。さすがに無視することもできずに子供の前に回り込んで、話しかけてみた。一年生くらいの男の子が手を土まみれにして胸に抱き、鼻水と涙をたらし、うっうっと言葉にできずにいた。
「大丈夫、ゆっくり話して。」
子供を楽しませる方法はしらないけれど、なるべく優しい声で話しかける。
「お家は?送ろうか?それとも先生呼ぶ?」
学校を指し、目を見ながら聞いてみると、子供はブンブン首を振り拒否をした。
「こ、こうえん…うめ、るの。」
「公園?行きたいの?」
泣きながらも断片的に言葉を伝えてきた。うん、と男の子が頷く。
小学校の隣には幼稚園があり、そこに誰もが入れる公園が隣接されていた。「じゃぁ一緒に行こうか」と言って、目の前にある公園へ男の子と向かった。男の子は人に話しかけられてから少しずつ落ち着きを取り戻し、涙は止まらないものの、ゆっくりとついてきた。公園に入りハンカチで顔を吹いてあげる。水道が見えたので汚れた手を洗おうと、男の子の手を見た。
「え?あっ…それって…」
男の子が手に持っていたのは、雀だった。気づかなかった。土まみれ、汚れて、丸まった、すでに動かない雀。
「ねぇ、この雀…どうしたの?」
震える心をなんとか落ち着かせて聞いてみる。男の子は黙っていた。目を合わせてしゃがみ、静かに待ってみる。そのうち、ポツポツと話してくれた。
すでに弱っていた雀が小学校に迷いこんで来たのは、太陽が天辺に昇った真昼のこと。同級生の友達が何やらわーわーと騒いでいた。近づいてみれば、みんなで飛べなくなった雀を枝でつついたり、石を投げて当てようとしたりと、思い思いに遊んでいるところだった。男の子は「可哀想だよ」と止めさせようとしたが、同級生たちは聞き耳をもたず、その行為はエスカレートすりばかり。そして、次第に雀は動かなくなった。「埋めてやったぜ」といって学校の砂を振りかけて笑っていたのはクラスでも人気の男の子。みんなが周りに集まって笑っている。足元には死んだ雀。それを、ただ見ていることしかできなかった。それからお腹すいたね、と言ってそれぞれが家路へと帰っていった。
「ぼくは、たすけてあげられなかった。みてた、だけだった。」
純粋な悪意。
また涙を流し悔しそうに唇を噛む。雀さんが可哀想、痛そう、ごめんなさい、と何度も言っては泣いている。目を閉じて、しばし私も沈黙した。男の子にかけてあげる言葉が見つからない。美しい写真も今は意味がない。
男の子はおもむろに公園の端にある花壇の方へと進んだ。雀を一旦土の上へ置いて、キョロキョロとし始めた。意図を察した私はなるべく人の目のつかない奥側の木の近くを教えてあげた。男の子は私の顔を見て、うんと決意の表情で土を掘り始めた。私も手伝って土を掘る。そこは土が比較的多くあり、素手で掘っていても柔らかくスムーズにかき出していけた。そばでは濃いオレンジ色のマリーゴールドが咲き乱れていた。よく見れば赤と黄色の花びらが何枚も重ね合わさっていて、朱色に近い深い色合いのもあった。それが密集していくつも連なっているさまは、さながら彼岸花を彷彿させる。
ある程度の深さまで掘ると、男の子は先ほどの雀を優しい手つきで掴み取り、その穴へと寝かせた。その上へ一緒に土を被せていく。ゆっくりと、労る手つきの男の子に私も同調していく。
性善説、性悪説なんて知らない。この世には傷つける人と傷つけられる人がいるということだけ。それをなくすことなんて生きている限りはなくならないし、正義をふりかざし大切なものを守るために、攻撃的になる人もいる。全てが主観的でしかなく、それが正しいと決めるのは結局当事者本人だけなのだ。愛をたくさん与えられて悪行を行う人もいれば、愛を全く与えられなくても、善良な行いをする人もいる。一つ国が違えば全く逆の価値観になる環境と生まれ、基準はもはや国が行うようになった。だから善良制度なんてものがつくられた。けどそれが破綻しかけている。
今分かることは、男の子が死んだ雀のために涙を流し、墓をつくり、犯してもない罪で謝っている。この弱くも優しい男の子の純粋な善意は、確かに目の前にあった。
土に水が染みた。太陽の熱は相変わらず私たち二人を包む。目が暑い。涙を流しているのは私もだった。なんで泣けるのか分からないけど、男の子と一緒にしゃがんで泣いた。並んだ私達はさっき会ったばかりの全くの他人。共有したものが同じ感性で同調して、今までのつくられた私の奥底にあるものを引き出す。
母が亡くなってから数年が経ち、ちゃんと泣いたのは初めてだった。恨みでつくられたあの出来事を一人の男の子が癒してくれた。ごめんなさい、という言葉に私も何もできなくてごめんなさいと言った。
痛かったよね、怖かったよね、そばにいれなくてごめんね、頼りない私で心配かけてるよね。でもね、お母さん、私一人でここまで生きたよ。今はたくさんの人に支えられてるよ。だから私も真っ直ぐ立とうと思う。たまにフラフラするけど、きっともう大丈夫だよ。だからお母さんも…
男の子の手を洗い、服の汚れも払って家まで送ってあげた。バイバイと手を振り、一人になった私は、そのまま自分のアパートへ戻り、一つの決意の元に電話をかけた。
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「へぇ、じゃお母さんの給付金は全額寄付したの?」
「うん。私の代わりに管理してた伯父さんに電話してね。あのお金を使わせて下さいって言ったの。それでもう20歳なんだから好きにしなさいって伯父さんが言ってくれて、私に渡してくれたんだ。」
「それで、児童福祉支援に?」
「うん、子供達の為に使ってもらった方がお母さんも喜ぶし、私が決めたことなら、どうぞどうぞ!って笑って言ってると思うよ。」
二人で話しているのは前にも休憩で来た、まるもり弁当店の近くの小さな公園だった。仕事中のお昼休憩に柳井さんが弁当を買いに来て、一緒に休憩していた。奥さんの含み笑いは気になったけど、お得意様兼私の知り合いということで融通してくれたのだろう。
「ねぇ、知ってるかい?」
「ん?何が?」
柳井さんの改まった顔がこちらを向き、私も何の話かと聞き返した。
「善良制度が廃止されるらしいよ。」
「……」
「夏前にあった市内の火災あっただろ?一家3人が犠牲になった事故。事故といえるのか分からないけれど、通報しなかったために発見が遅れたっていう。」
「えぇ覚えているわ。」
「それがSNS全般で問題視されてさ、次第にテレビでも善良制度について審議されるようになって、国会でも取り上げられたんだ。他にも今まで表にでてなかった問題がたくさんある。それが虐めやポイントの不正取引に繋がっていて、どんどん告発されるようになったんだ。世の中廃止に向けての風潮が高まっている。」
「ふんっ、今さら…」
鼻で笑うしかなかった。制定から六年以上たって、世間に善良制度が浸透したと思ったら廃止の意向。何か間違いが起きてからやっと気づく違和感に、国の未熟さが浮き彫りになった。使いこなせてると勘違いしていた者達は、ただの悪政に振り回されていたのだと知ってももう遅い。貯めた善良ポイントはどうなるのか。もし廃止と同時に全てが0になったら、人はどのような行動にでるのだろうか?
虚しさだけが残った。
「どうなっていくんだろうね。まぁ自分のことで精一杯だけどさ、私は。」
「僕もだよ。会社もポイント性なくなるのかなぁ。まぁ下請けは、ただ従うしかないけどね。弱小社員の悲しいところだよ。」
はぁーと柳井さんはため息をついて、幕の内弁当の唐揚げを頬張る。そのまま隣にあったポテトサラダにも箸を伸ばす。私はじーとそれを見ていた。
「ねぇ、今日のポテトサラダどう?」
「えっ?どうって味のこと?ポテトサラダは、うーん、おかしくはないけど、なんかジャガイモとニンジンがいつもより固めかな?ポテトサラダっていうより肉じゃがに近い煮物かなんかだと思った。」
ガックリと私は項垂れた。
「え?何々?もしかして…」
「そう、それ私が一から全部作ったんだよね。切るところからジャガイモを湯でて、潰して、味付けして…」
「そうだったんだ!」
「ジャガイモは固くなっちゃってうまく潰せないし、味付けは濃くしすぎちゃった。奥さんにみてもらったんだけど、やっぱりまだお客さんに出すまでには無理だねってなって、また今度教えてもらうつもり。」
「客に出せないって?でもお弁当に入ってるよ。」
「あぁそれは柳井さんに味見してもらおうと思って。」
「実験台!?」
「だってお客さんに出せないじゃん。」
「僕だって客じゃぁ…」
トホホといいながらもまんざら悲しそうでもなく、ちょっと嬉しそうにニコニコしている。
「また今度も食べてくれる?」
「うん、食べてあげてもいいよ。」
「なんか、上から目線じゃない?」
「弱小社員の唯一強気になれた瞬間だからね!」
「小さい!心が小っさい!」
「二度も言わないで!」
小さな公園に笑い声が響いた。
穏やかなこんな日が続いて欲しいと願う午後の一時。
人の痛みに無関心になっていく世の中に不安は尽きない。
本当に怖いのは、「背が高いね、手が綺麗だね」と同じ感覚で「チビだね、ダサいね」と言ってくる人なのではないか。悪意も善意もない、中立のふりをして近づいてくる、痛みを放棄した無責任の好奇心。一つの目で見分けるのは難しいけれど、二つ以上目があれば迷いやすい道も怖くはない。最近はそう思えるようになった。
見えない力が公園の木々を揺り動かす。カサカサと葉が囁き、湿った空気が頬を撫でた。感傷的になるのは秋が近いせい。日々はあっという間。隣り合った距離の隙間が、もう少し近ければいいのにと思うのも秋のせい。
自分を誤魔化すように、ペットボトルのお茶を飲む。「またね」と手を振り、結んだ髪を揺らして仕事に戻った。
花織の声と遠ざかる足音を耳に残し、柳井は弁当を片手に空を見上げた。すじ雲の隙間から真昼の月が見え隠れしてのぞいている。その姿はまるで子どもが遊んでいるようにもみえた。
ー 完 ー
最終話までお読み頂きありがとうございました。
自分にとっても大切な一作になりました。善良制度というありもしない制度がもしあったらどのような行動に人々はとるのか、とふと思い付いて出来上がった物語です。なぜそんなことを考えたかと思うと、昨今モラルの問題や不条理な事故や事件が数多くあり、どうしたらこのような悲しいことが減るのかと考えておりました。一個人がどうこうできるわけもなく、自分の狭い世界を通して見えるのはごく一部だけ。人の基準は身の内にしかなく「お願いする」という形でしか勧告ができないのが現状。今回の主人公カオリもただ1人の弱い人間。振り回されたり怒ったり悲しんだり、楽しみを見つけるのも一苦労。そんな彼女だからこそ、見える世界もあると信じて創り上げました。まだまだ未熟な物語でしたが、少しでも読者様の善良について考える切っ掛けになっていたら嬉しいです。善行は強制するものではありません。一つの考え方がここにあるということだけ留めて頂ければ…。
最後に重ねて感謝申し上げます。これからも精進して参りますので、作品を通してまたお会いできたら幸いです。