(四) 4 からっぽの鳥かご
連日続いていた雨もやっと上がり、厚い雲の隙間から、晴れ間がとことどころ見えるようになった。蒸し暑い夏がやってくる。
「ちょっとカオリちゃん、何排水溝見つめてボーッとしちゃってるの?」
弁当店の奥さんが、洗い物をしていた私の肩を軽く叩き呼び掛けた。
「すみません。でも水の流れる音って聞いてて安心しませんか?」
「あ、聞いたことがあります。流れる水の音ってマイナスイオンと同じ効果があるみたいですよ。ほら美容院行ってシャンプーしてもらうとマッサージされて気持ちいいのもあるけど、水の音が耳に心地いいからなんですって。そう美容師さんが言ってました!」
なっちゃんが思い出しながら、肩まで伸びた髪に手をあて、さらさらといじった。
「カオリちゃんお疲れぎみ?」
奥さんが心配顔で問いかけた。
「…ちょっと、色々考えすぎちゃって…」
「何かあったら言ってね。この前の風邪も残ってるんじゃない?」
「そうかもしれないです。」
「なら今日は早めに上がりなさい。それ終わったらもう上がっていいわよ。」
「はい、ありがとうございます。そういえばなっちゃん、この前の教えてもらった森の湖畔公園すごく良かったよ。ありがとう!」
「でしょー、あそこ静かでゆっくりできるし、天気いい日なんか色鮮やかな花と青い空で、すっこぐ綺麗なんですよねぇ。時期によって咲いてる花が違うから季節ごとに行くのもいいんですよね。」
「うん、今度また違う季節に行ってみるね。」
「カオリちゃんもそういうところ、行くようになったのね。」
「え、まぁたまには…」
奥さんの優しい視線から逃れるように下を向き、残りの作業に取りかかる。洗い終わった容器や箸を置き、濡れた布巾で手を吹いた。
「それじゃすみませんが、今日はお先します。」
「はい、じゃお大事にしてね。それから、考えすぎるのはカオリちゃんの悪い癖だからね。あんまり頭ん中で迷子にならないように。」
「その通りかも。気を付けます。お疲れ様でした。」
「お疲れ様でした。」
奥さんとなっちゃん、奥にいる店長に軽く頭を下げて、店をあとにした。まだ昼過ぎて間もない、明るい時間帯。少し蒸し暑いせいか、弁当店はいつもより暇になってしまい、ゆっくりとした時間が流れた。だからか、考えないようにしていても、どうしても昨日のあの子からのメールを思い出してしまう。
『またあの踏み切りを渡ってみようと思います』
おそらく今日。あれから1ヶ月しかたっていなかった。母の月命日は彼の覚悟を試す日になった。お互いに大した話はしなかったけれど、彼の何気ない文章の代わりに私は写真を送る。元気を出してほしかった。彼の見る世界を少しでも明るいものであるようにと。風景なんで主観でしかないけれど、目を反らしたいことがあったとき、その先がこんな風景なら、一時の逃避もいいのではないだろうか。
来て欲しいとは言われなかったけれど、後ろからそっと見守ってみようと思った。
( もはやストーカーね )
苦笑いで足早に歩き、一月前と同じ時間にあの場所へと向かった。
あの踏み切りに着く前に二人で会話したコンビニの前を通る。そこであの猪股少年を見つけた。何やら誰かと話しているようで、黒いシックなスーツを着た四十代半ばの大人の男性、髪は軽く整髪料で撫で付けた七三分けで、揉み上げから耳後ろ辺りまで刈り上げた今風のスタイル。どこかで見たことがあるかもしれない、そう思い少し近づいた。
「お前、塾の時間だろ。何故こんな所にいるんだ。」
「父さんこそ、なんでここにいるの?」
「俺は支援者の挨拶回りだよ。それよりお前だ。」
「父さんには関係ないだろ。」
「関係ないわけないだろ!」
少し興奮しているせいか、声のトーンが高い。早々と男性の正体がはれた。猪股少年のお父さん。知ってるわけだ。ちゃんと父親とはあの母の葬儀の日に顔を合わせているんだから。その日だけでなく、テレビで一番顔を出してた人。感謝をし、いかに母が偉大だったか、そしてそんな人を報われる社会にと善良制度のあり方を全面的にに推し進め、一役買った人物。あの頃は議員秘書をしていたはず。噂では市議会議員になって敏腕を振るってる、らしい。
父親は背が高いのでちょうど後ろに隠れて見えない位置で私は様子をうかがっていた。
「お前な、こんなことしてちゃんとした大人になれると思ってるのか?」
「すくなくとも、父さんみたいにはなりたくないとは思ってるよ。」
「なんだと?お前変わったな。何があったんだ。何が不満なんだ。」
「何もかもだよ。母さんは?また遊び?どうせまたあることないこと言ってるんだろ。この前なんか、息子には好きなことさせてあげたいとか友達に言ってたけど?好きなことって何?僕の好きなことは勉強?ピアノ?それとも海外留学?それ全部母さんが自分でやりたかったことじゃないか。今サイパンに行ってるんだっけ?」
「母さんの話は関係ないだろ。」
「なら父さんにも僕のことは関係ないだろ。」
「屁理屈言いやがって。そんなにうちが嫌か。」
「うん、嫌いだ。父さんも好きな仕事に戻れば?」
少年が嫌いなのは家じゃなく息苦しい両親。少年を真っ直ぐ見ていない家族といて、楽しいわけがない。今彼が何と向き合っているのか、何を頑張っているのか知ろうとしない。父親は世間のレールに乗せようと必死だ。とうにレールはひしゃげて歪んでいるのも知らずに。母親は傍観者。見守ることと無関心をはき違えている。子供のままの親に説教されるほど、嫌なものはない。
「恥さらしが…お前なんか、」
「こんにちは!」
それ以上言わせたくなくて、父親の後ろから顔を出して猪股くんに声をかけた。背中越しに女の声が聞こえて、ぎょっとした顔をした父親。息子と私を見比べる。
どう対応したらよいのか分からない怪訝な顔をした少年は、「あ、どうも…」と言って、父親の顔色をうかがいながら忙しく視線をさ迷わせた。
「あなたは?息子の知り合いですか?」
「はい、この前少しお話する機会がありまして。近くで具合悪くなっているのを介抱しただけですよ。喧嘩できるほど元気になったようで何よりです。」
彼の不調も、なぜここにいるのかも端から知ろうとしない父親なら、詳しく言ったところで意味がない。端的に伝えた。
「もしかして、ご迷惑をお掛けしたんですか!?お前なんてことしてるんだ。」
後半は息子を叱るように問い詰める。
「あの、迷惑だなんて掛けられてないですよ。誰だって調子悪くなるときはありますから。」
「いいえ、自己管理できないなんて恥ずかしいことです。」
「まだ高校生になったばかりですよ。常に健康でいろっていうのは無理があります。まして集団生活してますから。」
「はぁ、優しいお言葉ありがとうございます…」
余所行きの顔になった父親は不毛な会話を早く切り上げたいようだ。
「もう少し息子さんにも優しい言葉をかけてあげてください。彼すごく頑張ってますから。」
「…まだまだです。お前もちゃんとお礼言ったのか?」
「言ったよ。」
「本当か?お前のその体足らくじゃ信用できんな。」
「……」
親に信用されないほど、悲しいことはない。もう我慢できなかった。
「あのさぁ、さっきからお前お前って猪股くんはあなたのツレじゃないのよ。ちゃんと名前があるんだから!…えっと…なんだっけ?聞いてなかったわ。」
「しゅ、瞬一です。」
少年は慌てて答える。
「そう、瞬一くん。そう呼んであげてください。そしてちゃんと彼を見てあげてください!」
渋い顔の父親の目が一層きつくなり、警戒心を表す。なんて分かりやすい人。
驚いた少年は突然怒りを表した私を見て、あっけにとられていた。
「なんなんですか貴女は?息子のことをよく知らないで、なぜ初めて会った赤の他人にそんなこと言われなきゃならんのです?息子が余計なこと話したんじゃないでしょうな?」
「いいえ、なにも。我慢し過ぎていつか破裂してしまわないか心配なくらい。耐えて、耐えて…」
「当たり前だ。この子は強く生きなければならないんです。じゃないと人の命を奪っといて、示しがつかない。」
私の次に息子を睨み付けたのを、間に入って、彼の視界を遮る。
「いいえ、母はそんなことで、怒るような人じゃないです。」
「は?何を言って…」
そこでやっと父親は私の顔を見て何かを思い出したかのように、一度言葉を途切れさせた。
「そう、貴方と私、そして息子さんとは、はじめましてじゃないですよ。」
「貴女は、本橋百合子さんの娘さん?」
「はい、娘の本橋 花織です。お久しぶりです。」
愕然とした二人に一旦深呼吸してから言った。
「ごめんなさい黙っていて、瞬一くん。」
少年の顔を見て頭を下げた。彼を騙すつもりはなかったが、結果的に嫌な思いをさせてしまった。自分だけが知ってるという優位に甘えて、助けてるつもりの自己満足に、ズルズルと言い出せずにいた。今日ちゃんと言おうと思っていたときに、このようになるとは。
「猪股市議…」
今度は父親の顔を見て話す。顔が売れて周りに推されるまま順調に当選し築いた今の地位。
「もう母を理由に彼に負担を強いるのはやめてください。母はそんなこと望んでいません。彼の好きなことに目を向けてあげてください。きっとあるはずですよ。」
少年は下を向き唇を噛む。
「そうか、分かった。君は善良ポイントが欲しいのか。」
「は?」
突然何を言い出すのか。少年の話をしていたのに、父親はそれを素通りして自分なりの解釈を導きだしたようだ。
「あのときのお金は使い果たしたのかね?今の息子に近づいて、また善良ポイントを貯めようという心づもりか。」
この人はどんな世界で育ったのだろう。
なんて悲しい発想、なんて寂しい世界。私をそんな風に見ていたのか。思いもよらない問いに一時言葉を無くす。
猪股瞬一くんの世界は壁に囲まれた籠の鳥。早く放してあげなければ心が死んでしまう。
「善良ポイントなんていりません!母の命でできたお金も遣ってません!」
「何言ってるんだ。ポイントなしに息子に近づく理由がないだろ。」
ああ…鳥籠に捕らわれていたのは、この父親の方だった。そして
「もう囚われないでください、貴方も、私も。」
私も安全地帯だと勘違いしていた。籠の中から出ることを諦めて、飛ぶことも鳴くことも忘れた飾り鳥。入り口は開いていたのに。
導き救ってくれたのは、少年だった。もがき抗う姿は古く固まった羽を落とし、新しい翼で飛んでいく。
「瞬一くん、あまり無理しないでね。無理することだけが強くなることじゃないから。好きなことたくさん見つけて、そして目一杯それを楽しんで。母はそれを望んでるはず。何より子供が笑ってる姿が好きな人だったから。自分のことで瞬一くんが辛い思いをしてると思ったら悲しむわ。」
チラリと憮然としてる父親を横目に見る。
「本当に口うるさい父親で大変ね。でも腐らないで。喚く鴉のゴミ箱あさりだと思えばいいよ。前にも言ったけど、あなたは十分強いから。」
「な、なんだと!鴉!?」
動揺する父親を無視して少年と目を合わせる。
「つくられた母のイメージに潰されないで。母はそんな心の狭い人じゃない。大丈夫、一番長く一緒にいた私が保証する。信じて。」
「あ、あの…僕は…ご、ごめんなさい。」
「謝る必要なんてない。堂々と、生きて。」
泣くのを我慢してる瞬一くんに、言霊を繰り返す。
「生きていてくれて、ありがとう。」
それが彼に一番送りたい言葉だった。母が一番送りたかった言葉。最後の言葉。
さようなら、と小さく声にした。
西日が頬にあたり、眩しさに耐えられずに目を細める。くしゃっと笑った顔。それを見られたくなくて、私は後ろを向きその場から離れた。もうこれ以上彼らの世界をかき乱すことはできない。あとは親子の問題で他人の私ができるのはここまでだ。
二人の目には私の背中はどのように見えているんだろうか。それぞれの目に映った優しい世界は違う形を投影している。遠くまで見渡せるのは、どちらの目かな。




