表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

平安鬼譚 〜散り萎る〜

作者: 寿桜壱屋


 咲けば萎れて散り枯れる―――それが花の宿命。

 どれほどの艶やかな花であろうと、抗うことのできぬ行く末。

 自然の理。

 万物の定めであり、絶対の真理。

 それは、人とて同じこと。

 いつかは老いて朽ちてゆく。


 人であれば―――。





 平安の夜にグチャリと奇妙な音が響く。それは、何度も何度も聞こえてきた。まるで、何かを―――柔らかな生肉を食しているかのように。

 否、実際それは間違いではなかった。


「ごめんなさいね」


 哀しげな声音がうつろに響く。薄暗い板張りの部屋には灯台が一つ灯っていた。

 その傍らに女がひとり座っている。灯台の頼りなげにゆれる火にぼんやりと照らされたその女は、悲しげに顔を曇らせながら呟いた。

 美しい女である。

 年のころは三十へと差し掛かる前ぐらいか。年月とともに艶を失いかけてはいるものの、癖のない黒髪にうりざね顔というその時代の美女の条件を兼ね備えた彼女は、扇形のまつ毛を揺らし、そっと瞼を落とすと再びそれを口にした。

 グチュと生肉を食む音。

 女は、口に入ったそれを鋭く尖った歯で細かく千切るとグッと奥歯で噛み締め、ゴクリと喉を鳴らした。口の端に落ちかける血は、血よりも赤い舌で舐めあげる。

 そうして彩られた唇は、仄かな明かりの灯され禍々しく輝きながらも、その奥からは謝罪の言葉がこぼれ落ちた。


「ごめんなさい。でも、許してね。全てこの身に取り込んであげるから許してね」


 慈悲に満ちた声だった。

 切なげな眼差しで、女は手にしたそれを愛おしげに掻き抱く。


 ピチャリ。


 小さな音が床に響き、それは身に纏う衣服にもしたたり落ちた。

 幾度も響く音が、その量がわずかではないことを示す。現に女が身に纏う、鮮やかな模様を描れている白色の小袿の袖口からは、模様をかき消すほどの赤黒い染みが広がっていた。けれど、女は気にすることはなかった。すでにその衣は、袖だけではなく、胸元もそれ以外の場所も随分と汚れてしまっていたのだから。

 女は、以前抱きしめた頃よりも、ずっと小さくなったそれを慈しむように抱きしめ、ゆっくりと撫でた。

 

「でも、あなたも喜んでくれるわよね?」


 そうして自身の視線に絡めるように持ち上げたそれは、灯台の薄明かりに照らされる。

 赤く染まった手の中には、まだ幼い少女の顔があった。

 だが、その下からはない。彼女の手元には、首から下が食いちぎられた―――否、食い荒らされたといった方がいいほど無残な姿をした少女が存在していた。

 その顔は恐怖に引き攣り年齢の判断を困難にさせたものの、それでもようやく十を過ぎ裳着を済ませた頃の年にしか見えない。だが少女の生は、そこで止まってしまった。

 蒼白いその頬が、生気に満ちた薔薇色に染まることはもうない。染めるための血潮は、少女の身体から抜け落ち、女の手や服にべったりと染み付いた。


「でも、貴女も私の美しい顔が好きだと言ってくれたから―――」


 だから、その美しさを保つために犠牲になってもらったのだ。

 女は、血に染まった唇でにこりと艶やかに微笑んだ。

 仄かな明かりに浮かぶ彼女は、先ほどとは雰囲気を変え、瑞々しさにあふれた二十歳を幾ばくか重ねたほどの、若く美しい顔立ちをしていた。

 あたかも先ほどの少女の命を吸い上げたかのような変貌である。


「ふふっ」


 長い黒髪は椿油を練り込んだように艶を帯び、頬は紅を差したように染まっていた。肌は瑞々しく潤い、滴り落ちた血は手の甲を玉のように滑り落ちる。

 それを感じ悦に満ちた笑みをこぼす。


(ああ、素敵……鬼となった私は、もっと若さを取り戻せる)


 嬉しい。これできっと……これできっと全てうまくいく。

 鬼になれて良かった。心からそう思える。

 歓喜に打ち震えながら、女は人であった頃にはなかった長く鋭い爪でその少女の顔を突き刺すと、同様に生えた牙で少女の顔に喰らい付いた。




**********




 平らけく安らかであれと言う願いを込められ、遷都されし平安京。その建都から百四十年余り経ち、未だに続く平安の世。だが、その中を覗きこめば、言葉どおりに平和な都だとはすでに言えなくなっていた。

 いくら様々な呪的結界を張り巡らそうとも、人が存在する限り、どこぞのゴキ〇リのごとく湧き出るのが物の怪というものである。故に、すでにこの都にも、物の怪と呼ばれる恐ろしい存在があちらこちらに潜んでいた。

 どこそこで鬼を見た、怨霊が現れたというのは、常のこと。その中で、最近話題沸騰中であるのが、一条通りにある屋敷であった。

 ご近所さんにとても有名なその屋敷は、十年前ぐらいから空き家であったのだが、最近新たな住人が引っ越して来た。

 下級貴族の若い独身男性らしいが、ご近所付き合いはほどんどないため、詳しい内情を知るものはほどんどいない。それでも、ちまたのご婦人達の噂にはたびたびのぼっていた。その大半がその家の物の怪に関するもので、屋敷の中で人とは思えぬ不気味な影を見ただの、鬼火を見ただの、噂話のネタは尽きることはなかった。

 普通の者ならば、そんな噂が出る家など恐怖でしかなく、すぐに引っ越すかお祓いをしてもらうだろう。だが、この屋敷の主は一向にその気配はなかった。

 噂話を知らないはずがないのだろうが、気に病む風でもなく、毎朝きっちり時間通りに身支度整え仕事に出かける姿は、夜も眠れず憔悴した様子などは垣間見えず、お陰でただの気のせい、見間違いとされ、根も葉もない噂話として片付けられてはいるのだが、実際どうかと問うならば、今宵中庭を見てみればよかった。 

 主の寝室がある寝殿前の真っ暗な中庭の前で、ふわんふわんと浮かぶ青白い炎。

 それは、噂の一つである鬼火に間違いなかった。そうして、その中央にいるのは、萌黄色の水干を着た小柄な少年だった。

 鬼火が周囲に漂っていながら、一向に構う様子は見せずしゃがみ込み、地面を睨みつけながら、そこにあるものをブチブチと千切っては、放り投げ、ぼやいていた。


「せーめーの馬鹿。せーめーの阿呆。せーめーの意地悪。せーめーなんて大ッ嫌いだ!」


 そう言いながら、ばっと手にもっていたそれを後方へと投げれば、青白い鬼火に炙られ、瞬く間に消し去られる。側から見れば一体何の呪術だと誤解されそうだが、何のとこではない。少年が手に取っているのは、ただの庭に生えた草だった。少年―――『青龍』という名を持つ彼は、実は、単なる草むしりの真っ最中であった。 

 いったいこんな暗い中で、なぜ、草むしりをしているのか。草むしりが大好きで、なおかつ夜のほうが涼しいくてやるのにもってこいだから―――というわけでは当然ない。

 それは、れっきとした罰掃除であった。

 命じたのは、先ほどから青龍の口から出ている人物。せーめーこと、安倍晴明であった。

 彼は青龍にとって絶対服従の主であり、彼に命じられれば拒否などできず、渋々ながら草むしりをしていた。

 時刻はもう遅く、夜も大分更けている。子供ならばとっくに寝ている時間だが、青龍には関係ない。なぜなら青龍は人ではないからだ。

 その姿形は十二、三才の人の子と変わらないが、瞳の色は闇夜の中銀色に輝き、一括りにまとめ上げた腰まである髪は水面のような青銀色だった。

 人ではなくても草むしりは楽しいものではない。けれど、罰掃除としてヤレと言われてしまえば、主の命令には逆らえない。

 ちなみになんの罰かといえば、数刻前、主である晴明が大事にとっていた貰い物の甘い柿を盗み食いした罰である。


「まったく、柿の一つや二つであんなに怒らなくてもいいじゃないか。どケチ!」

 

 唇をとがらせ悪口混じりの文句をいうが、実のところ食べたのは一つや二つではなく五つであり、晴明の友人から頂いていた柿全部だったのだが、そこを突っ込む相手は幸いにしてそばにはいない。

 それはそうとして、盗み食いが見つかった後盛大に叱られ、家人がおらず手入れが滞っている庭の草むしりを罰掃除として与えられたのだった。

 だが、昼間にやるよりはましかもしれない、とも思ってしまう。

 もう季節は秋とはいえ、それでもやはり昼間の草むしりは、まだ暑い。夜の難点である視界の悪さも、こうして鬼火を漂わせていれば、問題なかった。

 もっともこんなものがなくても青龍にはある程度の夜目はきく。ただ暗いと色彩が乏しくなり、誤って植えてある花も引っこ抜いてしまうかもしれないので、こうして明かりを漂わせているのだ。

 ちなみにこの鬼火は、青龍製作である。なぜ作れるのかと言えば、簡単である。青龍は、鬼だからだ。ちゃんと牙も角も小さいながらに生えている。だからといって、ちまたを怖がらせる人を食う鬼とかではない。青龍は鬼だが、鬼でいても人を食ったことはない。

 鬼はいろんな理由で人を食うが、青龍には人を食べる必要はなかった。なぜなら、青龍には主がいるからだ。主が青龍が人を食べることを許可をしてない。契約によってそう決められているから、青龍には人を食べたいという欲求はなかった。

 もっとも美味しそうな熟れた柿の前ではその欲求は押さえきれなくて、食い尽くししまったのだが、その時は勝手に柿を食べてはいけないと禁じられてなかったのだから、仕方がない。柿はとっても美味しくいただいた。

 それはともかくとして、青龍は主である晴明は、もちろんただの人ではなかった。

 鬼を使役出来るのはそれなりの知識と力がいる。それが出来る職業の者はいくつかあるが、晴明はその中のひとつ、都の中にある政を司る大内裏の中の陰陽寮に勤める官僚だった。陰陽師は天文や暦数などを司るものだが、それだけではなく呪術を持ち入り、式神と呼ばれる鬼を使役することもあり、陰陽師である晴明は、十二神将と呼ばれる式鬼を使役していた。

 青龍は、その十二の中のひとりだ。姿かたちは人と変わらぬが、その身に宿る力は異質であり、また人を遥かに凌駕するものであった。が、その力も草むしりには、対して有効性はない。地道にブチブチと草を引っこ抜くしかなかった。


「はぁ。面倒だなぁ」


 そうは言うものの、終わらなければ許してはもらえない。うんざりしながらも鬱蒼と生える草に目を向けた青龍は、その先になぜか、草ではなく人の足が生えているのを見つけた。先ほどまではなかったものだ。


(あれ?)


 怪訝に思いつつ、そこから上に辿っていけば、知り合いの顔があった。


「ひーらぎ?」


 そこにいたのは、穏やかな笑みを浮かべた偉丈夫の青年だった。烏帽子に狩衣姿というラフな格好で徒歩で来たのか、いつの間にか庭に入り込んでいた彼は、『小野柊』というのが本名だ。

 主である晴明と同じ大内裏に勤める役人だが、位は彼の方が上で貴族と呼ばれる身分である。さらに彼は、実は先祖を辿ると漢学者で歌人の『小野篁』や女流歌人で絶世の美女と名高い『小野小町』がいる有名な一族の出である。しかし、そんなことは鼻にもかけずに、人あたりが良いと評判の人物だ。傍若無人で横暴な俺様と名高い主である晴明の友人をやっていることにいつも不思議に思う青龍である。


「今晩は、るー」

「こんばんは!」


 『るー』というのは、柊が呼ぶ『青龍』の愛称だった。青龍が晴明の使鬼神になった頃、上手く人語が話せず、自分につけられた名も『せーるー』としか言えなかったための名残である。


「仕事?」


 友人と言うものの柊が、何の用事もなく晴明の屋敷に尋ねることは、ほとんどない。そして、ここへ来る大変の理由が仕事の話だった。といっても、晴明や柊が仕える内裏からの仕事ではない。柊が先祖代々受け継ぎ、密かに副業として行っている裏の仕事の方だ。


 それは、曾祖父である小野篁も昼間の仕事とは別にやっていたもので、それを晴明に手伝ってもらっているのである。

 なぜ、晴明が手伝っているのか、その理由を青龍は知らない。何か弱みを握られているのかもしれないが、そんなことを主がしゃべってくれるはずがないからだ。


「そう、仕事。晴明はいるかな?」

「いるよ。案内するね」


 草むしりのためしゃがんでいた青龍は、ぴょこり、と跳ねるように立ち上がった。

 草むしりも飽きてきたところである。客人の世話をするという口実で、その場から逃げだそうとしたが、その客人である柊に止められた。


「いいよ。それで、君の仕事を中断させたことに、晴明から嫌味を言われたくないからね」

「えぇ〜」


 不満げな声を出す青龍の頭をぽん、と優しい手がおかれる。青龍の背にあわせるように少し屈んだ柊が青龍の輝く銀の瞳と瞳を合わせる。


「ごめんね。話が終わったら草取り手伝ってあげるから」


 にっこりと笑みを浮かべるそれは、冷ややかな顔で自分に草むしりを命じた冷血漢な主とは違い、心がほっこりと温まる。


「ひ〜らぎ〜〜!」


 優しい! 優しすぎる。

 「大好きっ!」と、土と草の汁だらけの手で抱きつけば、主ならば「汚すな、阿呆」と罵倒とともに、投げ飛ばされそうなところを「待っててね」と笑顔で優しく頭を撫でられ屋敷に向かわれる。その背にひらひらと手を振り見送った。




**********




 

「邪魔するよ、晴明」

「するな、帰れ」


 家人いない晴明の家では、使ってない部屋もいくつかある。その中で、たったひとつだけ明かりが灯された部屋を見つけ声をかけた柊は、中にいた家主に即座に素っ気無い返事を返された。家主はどうやら読書中のようだった。


「酷いなぁ。仮にも友人に対していう言葉かい」

「友人だと思ってないからな」

「それも酷い」


 投げつけられる冷たい言葉に苦笑する柊だったが、そのまま帰る気など全く無く、晴明の近くの板張りの床にどかり、と腰を落とした。

 普通の家ならば、身の回りを世話する女房という名の女中達が主に代わり色々もてなしをしてくれるのだが、晴明の家ではそれがない。

 人を誰も置いていないのだ。

 それならば誰が晴明の衣食住を整えているのかといえば、すべて陰陽師である晴明の式鬼達だった。並の陰陽師ならば複数の式鬼を使役するのに術力も気力も必要となるのだが、晴明はいともたやすく操っていた。

 若いながらも希代の陰陽師として宮中でも噂になるほど晴明の力は、化け物並と言われるほどだから当たり前に思われてるが、柊がみる限り、使役される式鬼達も晴明を慕っているように見えた。たぶん、良好な主従関係を築けているのが、いくつもの式鬼を使える理由なのだろう。

 そして、その晴明の命がなければ動かない式鬼達は、客をもてなそうという気のない主に準じ、柊をもてなす気配はない。だが、それはいつものことなので気にはしなかった。

 もっとも例外もある。

 先ほど庭で出会った可愛い式鬼の青龍ならば、自分が来たら、板張りに直接座らなくてもいいように藁を平らに編んだ円座という敷物や喉を潤す白湯を出したりして、一生懸命もてなしてくれるのだが、あいにく冷淡な友人に夜中にも関わらず草むしりを命じられているので期待はできない。

 ちなみに円座を奥から出して来たり、白湯を器に入れたりということは、他の式鬼がしてあげているのは公然の秘密である。

 青龍自らすると、円座を持って来る前と後にすっころんだり、白湯をこぼしたりしがちなので、他の式鬼達があれこれ世話やいてあげるのだ。

 青龍は晴明の式鬼の中で一番若く、幼く、年齢不詳の姿をとる式鬼達の中で唯一年相応な為についつい皆手を出してしまうようなのである。

 主である晴明は、甘やかすなといつも苦言をもらすが、命じれば止めさせることが可能なところを、青龍や他の式鬼達に好きにさせているところをみれば、晴明も末の式鬼には存外甘い。もっとも指摘すれば、倍になって嫌み攻撃されるので、柊も口には出さなかった。

 

「それで?」


 ぺらり、と手元の紙がめくられる。視線は本に向かっているが、どうやら耳は、こちらに貸してくれるようである。

 相変わらずつれない態度をされるが、決して冷たいだけではない友人に内心笑みをこぼしつつ、柊は口を開いた。


「ああ、今回は二条の屋敷に住む人の魂の回収を手伝ってくれないかな」


 情けなくも自分の仕事の手伝いを頼む友人に、本から顔をあげ、こちらに視線を向けた晴明はこれ見よがしに嘆息をこぼした。


「はぁー、お前も早く一人で魂回収が出来るようになれ」

「それは言わないお約束だろ、晴明」

「何を言ってる、この馬鹿が」


 あっさりと罵倒で返す晴明に言われた方は傷つく様子も見せずやんわりと微笑する。口は悪いが実際友人が自分の仕事を断ったことはないのだ。

 曾祖父の仕事であった閻魔庁の役人という仕事を曾孫の柊が引き継いだのはよかったが、有能な官吏であった曾祖父と違い、柊ひとりだと魂の回収がままならない。

 大体曾祖父の小野篁は、随分と変わり者で、自ら冥府に下り自分を冥府の官僚にしてくれと売り込んだのである。しかも、地上での魂回収という冥府の者にとっては色々と制約の多く面倒な仕事も難なくこなしてくるので、すっかり閻魔大王に気に入られ、なぜかはた迷惑なことに、死後はその血を引く子達が役目を担うことになったのである。

 とはいえ、向き不向きがしっかりあり、祖父は父親の篁の傍でやり方を学び、曾祖父が亡くなるまで手助けもしてもらいなんとか冥府での仕事をこなせたが、自分の父親ときたら、まず冥府の獄卒である牛頭と馬頭を恐がり、亡霊を恐がり、そもそも冥府へと通じる道である、六道珍王寺の井戸の中から下へ降りることさえ、暗くて深くて怖いと拒絶したのである。結局、自分が継ぐことになったのだが、教えてくれるはずの祖父は、基礎的なことを教えてくれただけで、あっけなく亡くなってしまった。しかも、死後冥府に留まり教えてくれてもいいものをあっさりと冥府の裁きを受け、その先へと行ってしまったのだから薄情である。

 おかげで孫の自分は、四苦八苦しながら魂の回収の仕事を続けていたのだが、ついにはどうにもできず、回収するはずの魂が凶悪な怨霊となり、自分には太刀打ちできず、死を覚悟したところでたまたま通りがった晴明に助けられたのだ。

 元々顔見知りではあったものの、それ以後、あの手この手で晴明にすりより、今では、話を持っていけば手を貸してもらえるようになった。


「手伝ってくれるだろ?」

「ああ。お前が約束を守るうちはな」

「大丈夫だよ。僕は閻魔大王様の覚えはいいからね」


 ふんわりと優しげな笑みを浮かべる青年が、実はほぼ毎夜のごとく冥府に赴き他の冥府の官僚達や地獄の獄卒達に混じり、仕事をしているとは思わないだろう。


「これでも魂の回収率は獄卒の中で一番だから」

「誰のおかげだ」

「もちろん、君のおかげだよ。だから、今回も宜しく頼むよ」

「ああ」


 短い返事だが言質はとれた。これでひと安心である。人任せにするな、と言われそうだが適材適所、人には得手不得手があるのだからしょうがない。

 ちなみに柊が得意なのは、冥府に行くのをぐずっている現世に未練たっぷりの魂を口八丁で丸め込んで冥府へ連れて行くことである。

 だが、今回は調査する限りその手は使えそうになかったために友人の力を借りることにしたのだ。


「ありがとう、それじゃあまた。準備ができたら連絡するよ」


 柊はそう言うと腰をあげた。

 この友人相手に無駄話だの世間話だのは無用だ。まるっと無視されるのを覚悟で話すのならばいいが、会話をする気が相手にはないのだからしょうがない。

 帰り際にあの可愛い式鬼と一緒にしばし草むしりでもして癒されようと思いつつ、部屋を出かけたところで友人に呼び止められた。


「お前ーーー」

「んっ?」

「アレの手伝いはするなよ」


 明確な名前を呼ばずにそう言われるが、柊にはすぐに何のことだかわかった。

 アレとは、庭にいた晴明の式鬼のことだろう。


「バレてた?」


 手伝うと言ったものの、そこには自分と青龍しかいなかったはずである。だが、どうやら見張りがいたらしい。それか陰陽師としての勘か。

 どちらにしても主は罰を与えているものに手助け無用と言い放つ。


「甘やかすな」

「そんなつもりはなかったんだけどね」


 別にそんなつもりはなかった。ただ、嬉しそうな顔が見たかったためについつい言ってしまったのだ。別に自分にはどこぞの生臭坊主のように稚児を愛でる趣味はないはずなのだが、可愛らしい容貌と言動に、ついこちらは甘い言葉を言ってしまう。


「大体なんで夜に草むしりなんてさせてるんだい?」


 普通草むしりは明るい日中の仕事だ。別に晴明の式鬼達は、闇夜に蔓延る有象無象の物の怪達とは違い、昼間でも平気で活動している。わざわざ夜にするべき仕事でもないはずだ。

 だが、それに対する友人の返答は素っ気ないものだった。


「罰だ」

「罰?」

「ああ」

「何したの?」

「お前からもらった柿をひとりで全部食った」


 その言葉に柊は目を丸くさせた。


「全部? 五個もあったのによく食べれたね。よっぽど美味しかったのかな?」


 晴明の言葉ぶりがからして、一気に食べてしまったようである。だが、それに対して罰を与えたという晴明の言葉に、柊は首を傾げた。


「でも、全部食べたのがいけなかったのかい? 確か君は熟した甘い柿は苦手だっただろ?」


 晴明はまだ実が堅い柿なら食べるが、熟した甘い柿はあまり好みではないと言っていた。だが、柊が持って来たのは、触れれば指が埋まるほどじゅくじゅくになった柿だった。庭の裏手にある大きな柿木が今年は豊作で、家では食べきらない柿をお裾分けしたのだ。とりあえず、早く食べなければ痛んでしまうのから持ってきたが、せっかく持って来たのに晴明は熟した柿は好きではないと嫌そうな顔をしたのだ。

 それでも、甘いもの好きな式鬼もいることを長い付き合いで柊は知っていたから、食べれる奴が食べてくれ、とそのまま置いて帰ったのだが、どうやらそれを青龍ひとりがぺろりと食べてしまたらしい。

 晴明を見れば、渋柿を食べたような表情を浮かべていた。


「だからといって、ひとりで一気に五個も食べる奴があるか」

「腹、壊したの?」

「式鬼があれしきのことで腹を壊すわけないだろ」

「じゃあ、なんで?」

「あれは我慢がたりない」

「なるほど」


 きっぱりと言い放った友人に柊は合点がいったとばかりに頷いた。

 式鬼であるなら、まず主に自分の行動を伺わなければならないのに青龍はそれをしなかったのだ。目の前にあった美味しそうな柿に目がくらんで食べてしまったのである。それでは式鬼として失格だ。

 それならば、罰も必要である。

 だが、主の命令も聞かずに勝手に主の物を食べたというのも、普通の式鬼には考えられないのだが、そこは青龍だからと納得するしかないのだろう。

 式鬼であるのに式鬼らしさを感じられないのが青龍らしくて、つい顔をほころばせてしまう。


「それじゃあ次は、君好みの柿も、るー好みの柿も山ほど持って来るよ」


 まだ家の柿は鈴なりだ。

 次はちゃんと青龍へ、と言って渡せば晴明も罰することが出来ないだろう。

 だが、柊の言葉に晴明は冷ややかなまなざしをぶつけてきた。


「馬鹿か」

「非道いなぁ。女子供には優しくっていうのは基本だろ。君ももっと優しくしてあげればいいのに」

「あれは、式鬼だ。そんなものに優しくしてどうする」

「そんなこと言ってると、他の奴に取られちゃうよ」

「熨斗つけてやる」

「またそんな心にもないことを」


 あきれた声音でそう告げるものの、相手はフンと鼻を鳴らし、もう用事は済んだとばかりに本へと視線を向けたため、柊は小さく肩をすくめ腰をあげた。

 あんな可愛い式鬼は滅多にいないのに。

 裏の仕事上何名かの陰陽師とも知り合いであり、彼らの使役する鬼達を見たことがある柊としては、あの可愛い形状と素直な言動につい保護欲をそそられてしまうのは否めない。

 とはいえ、相手は人ではなく鬼であり、さらに言えば主の命令には絶対であり、こちらと友好など築けるはずのない存在ではあるのだが、青龍に関してはそれはあてはまらないような気がしてならない。

 どちらにしても青龍が青龍である限り、柊はついつい甘やかしてしまうのは、しょうがないということだ。


(あんな可愛い弟が欲しかったんだよなぁ……)


 残念ながら草むしりは手伝うことは出来ないまでも、懐に忍ばせていた唐菓子をこっそりと青龍に渡すことで、可愛い満面の笑みをもらってから、満足げに柊は帰って行った。




**********





 頭上には満ち足りた顔で煌々と輝く月があった。闇の深い平安の夜にとっては、有難い味方である。だが、風は秋の気配を濃厚に含むひやりとしたものだった。


「鬼?」


 青龍は、眉をひそめながら晴明に訊ねた。

 小路を抜け大路に差し掛かる。隣には晴明が平行して歩いており、一歩後ろでは柊がいた。晴明は、柊を指差した。


「そうだ。今回のこいつの仕事は、鬼へと変貌した女性の魂をあちらに連れて行くことだ」


 青龍も柊の仕事のことは知っている。あちらとは冥府のことで、柊は、そこの閻魔庁に勤める役人なのだ。そこでは毎晩裁判官の補佐のような役目をしているらしいのだが、時にはその身が現世の人のため、冥府へと行くはずなのに諸々の理由でこの世に留まる魂を冥府へ届ける役目も担ったりしているらしい。

 今回も、その仕事のひとつのようだった。

 鬼となってしまえば、人としての生からは逸脱してしまう。

 だが、その身が鬼へと変貌したとしても人の魂は、早々変化できないのだ。もちろん、あっという間に魂すらも変化させるほどに闇に堕ちる者もいるのだが、柊が任された魂は、まだ人の魂を持っているとのことだった。とはいえ、鬼を狩るのは現世でも冥府でも普通の役人である柊には、荷が重い。そのため友人であり鬼退治にはうってつけの陰陽師の晴明に助けを借りに来たのだ。

 たぶん、おそらく―――魂回収を命ずる閻魔大王も晴明の存在を知っているために、こういう厄介な回収を柊に命じているのだろう。

 とはいえ、晴明もタダで手伝っているわけではない。一応見返りも求めているから、こうやって手伝っているのだ。


「でも、もっと早く魂を連れて行けなかったの? その人、数ヶ月も前に鬼になって存在していたんでしょ?」

「そうだね。でも、その時には彼女の寿命はまだあったんだよ」


 柊の言葉に青龍の小さな眉間に皺がよる。納得できないといった表情だ。

 その顔に柊は申し訳なさそうにするしかなかった。

 

「うちはお役所仕事だからね、寿命が尽きる前に魂を連れて行くことは出来ないんだよ」


 今回回収する魂の持ち主は、落ちぶれた上流階級の貴族の娘だった。庇護してくれるべき親族もなく、生活すべき財産もなく本来ならば、そのまま朽ち果てるはずだったのに、なぜか鬼に変貌してしまったのである。

 鬼になった時点では、まだもう少し生きる猶予があったために、冥府のものは手出しできなかったのだ。


「でも、わかっていたなら早く……もう、何人も犠牲が出ているって言ってたじゃないか」


 矛盾していると思わずにはいられない。それとも鬼に殺された人達の寿命は、そこで終わることが決められていたのだろうか。

 柊に尋ねれば、「どうだろう? たぶん、そうじゃないかな」と曖昧な返事が返ってくる。

 実際、そうだとしてももっと早く鬼になってしまった女性の魂を冥府に送っていれば、無残な死を遂げるものもいなかったかと思うから、お役所仕事なんてそんなものだよ、という柊の言葉にすんなり納得できるはずもなく、青龍は哀しげに眉根を下げる。

 どうしようもないとわかっていても、鬼に殺された人が可哀相に思えてならない。

 だが、そんな柊に、「馬鹿な頭で深く考えるな」と主である晴明の手がぽんと頭の上にのる。


「馬鹿が考えたところで馬鹿な答えしか出ないぞ」


 納得できる答えが見つからない問題に、頭を悩ます青龍に、さらに晴明の手によって髪がぐしゃぐしゃにかき混ぜられた。


 きちんと官僚らしく烏帽子を被っている二人とは違い、青龍は、頭の上には何もなく外にさらしている状況だから、直接手が髪にふれる。それは嫌いじゃないが、おかげで髪はしっちゃかめっちゃかだ。

 だが、そちらへ意識が向けば、落ち込みかけていた気持ちも浮上してくる。


「馬鹿って言うなよ、せーめーの馬鹿」

「お前も言ってるじゃないか」

「それは、せーめーが言ってるからだろ、馬鹿っ!」

「馬鹿に馬鹿よばわりされたところで、何にも思わないがな」

「うるさい、馬鹿せーめー!」


 気がつけばいつものような口喧嘩にまで発展している。だが、それ以上言う前に、後ろを歩いていた柊により制止がかかった。


「るー、あまり煩くしちゃだめだよ」


 一応仕事は秘密裏に運ばなければいけないのである。無闇に声を立てて、人目を引くのはまずい。


「あ、ごめんなさい」


 慌てて口を抑えて謝れば、晴明が面白くなさそうな表情を浮かべた。


「ったく、柊には素直だな」

「当たり前じゃないか」


 あちらは、晴明と比べて優しくて親切なのだ。べぇと舌を出すと、晴明の手がまた伸びてくる。だが青龍は、それを避けると、平行している築地の壁の上へと、ぽんと飛び上がった。


「落ちるなよ」

「落ちないよ」


 晴明の言葉に、そう返事を返した青龍は、誰にも見咎められることのないのを確認すると、その上を歩き出した。


「―――なんで、鬼になるのだろう」


 少し気が重い。

 たぶん相手が自分と同じ鬼だからだろう。だが、この柊からの依頼は、主である晴明が受けたものだ。式鬼である自分が、否を唱えられるわけがない。付いてこいと言われたから付いてきているのだ。


「どうして鬼なんかになったんだろう……」


 ポツリと呟いた青龍の声は、晴明と柊の耳にも届いていた。だが、それについて誰も何も答えなかった。彼らもまた、青龍と同じ思いを抱いているのだから。それを彼ら自身、青龍と付き合うことで身をもって知っていた。


 鬼がどれほど悲しき存在であるかを――。




**********




 ふわりと開け放たれた御簾を潜り抜け、少し湿った冷たい風が舞い込む。


「今晩はあの人は来てくれるかしら」


 部屋の中心部である寝殿の奥に座していた女性が、物憂げにそう呟けば、すぐさま隣りにいた世話係の女房が答えた。


「きっと来てくれますよ。姫様はこんなにも美しいのですもの」


 そう言って、まだ年若い女房は愛らしく微笑んだ。言葉どおり、美貌の女主人を崇拝するように見つめるその女房に、姫と呼ばれた女性は、嫣然と微笑み緩やかに頷いた。

 女房が目の前にいる主に仕えだしたのは、まだ数日と日が浅い。

 ここの主は、血筋をたどれば皇族の血を引く高貴な姫君なのだが、先々代から落ちぶれ主な役職から外され、また彼女の肉親が相次いで流行病にかかって亡くなってしまったために、彼女は悲劇の女主人となってしまった。

 今の家は先々代からの家だが、おおむね広い屋敷には、ほとんど手を入れることなく放置されている。何せ、彼女を世話をするのは自分以外いないのである。

 自分の前には、数名の女房がいたらしいのだが、ぽつりぽつりと姿を消していったのだという。

 当然だろう。彼女の元にはほとんどお金はなく、給金を支払えないのだ。今は、かつて権勢を誇っていた頃に使っていた調度を少しずつ売り払いながら暮らしを保っているのである。

 そんな彼女が、夜ごと待つのは、愛しい人だった。

 日が浅い女房は、彼女の口からしか、ここへ通う男性の話を聞くことが出来ないが、出世株の有能な男性らしい。ただ、未だにその姿は見たことはない。

 もしかしたら、他に通う女が出来たかもしれない、とぽそり、と哀しげに呟く女主人を、女房は慌てて否定した。そんなはずはない。女主人は、とても美しいのだ。今まで見て来た女性の中で、彼女以上の美しさを持つものはいなかった。その美しさと血筋を持つ彼女を妻にすれば、きっと自慢に思えるだろう。

 ただ……出世を望む男性にとっては有益にならないことは確かだった。昔はともかく、今は有力な後ろ盾もなく貧しい暮らししかできない彼女に援助は望めない。


「そうね」


 でも、多分今日は、あの人はこないだろうとわかっていた。この時刻になっても先触れがないのであれば訪れるはしないだろう 

 最近、そんな日が続く。文は届くが、あの人は来てくれない。もしかして、私が美しくなくなってきたからだろうか。

 不安が胸中に霧のように広がっていく。

 かつて、自分の母も都に轟かせるほどの美貌を誇っていた。数多の求婚者もいたが、彼女は、宮中でも指折りの貴族の妻となった。だが彼には正妻がすでにおり、彼女はいわゆる妾の存在だった。この時代、そんな立場の女は大勢いる。

 正妻ではないからといっても、十分生活は保たれた。だがそれも彼女が、美しいと言われるまでだった。彼女の容色が衰えるにつれ、それと同じく援助していた男の足も遠のき、ついには灯台の油さえも手に入れるのに苦労するほどの貧困にまで陥った。

 それを傍でずっとみつめてきてわかったのだ。美貌は永遠でなければいけないということを。決して枯れ果ててはならないのである。だが鬼へと変貌したからとはいえ、変わらぬ美貌を手に入れたわけではなかった。この美しさを保つには、さらなる犠牲が必要だった。


「私も少しでいいから、姫様みたいなお美しさがあれば良いのに」


 戯れに扇を弄ぶだけでも絵になる女主人の姿に、少女は感嘆のため息交じりで呟く。その言葉に、女主人は、開いた扇の影で深く笑みを浮かべた。


(もうそろそろ誰かを喰らわねばいけないと思っていたし、ちょうどいいかもしれない)


「そう? それならば、望みどおりに――」


 貴方を喰らい、この身に取り込んで上げましょうか。


「えっ?」


 主人の言葉を聞き取れなかった少女が、不思議そうに、見上げる。女は、嫣然と微笑んで、少女を見つめた。その瞳が怪しげに輝く。


「ひ……姫様……?」


 いつもとは違う雰囲気を感じ、無意識に少女の小さな喉が震える。見れば、女の口元には、先ほどまでなかった長く鋭い牙が覗けた。


「ひっ!」


 恐怖に引き攣る細く白い喉を、女は美味しそうなものを見るように眼を細めた。


「貴女の望みを叶えてあげるわ」


 それがどういう意味を持つのか、恐慌に陥った少女には理解できていない。だが、本能的に危険を察し、その場から逃げようとするが、腰が抜けて立てなかった。それでも恐ろしい何かに変貌した主から、少しでも逃れようと足を必死に動かし後退しようとするが、それを許さぬように着物の裾をぐっと掴まれた。

とたんにプツリと音がして、着物が裂ける。主の手に生えた鋭い爪が、衣を突き抜けたのだ。そのまま強く引っ張られた。


「ぎゃっ」


 たおやかな姿からは想像もつかぬほどの凄まじい力で引きずられ、他愛無く少女の身体は主人の腕に抱かれる。少女は恐怖に目を見張った。見慣れた主の顔。花のような容貌は、変わっていない。なのに、それはもう、恐ろしい鬼の顔だった。


「だ……れか………」


 ぽろぽろと涙が零れる。空しいまでのか細い声が人気のない部屋に響く。


「大人しくしていれば、怖いことはないわ。もうすぐ貴方は私の一部となるのだから」


 やんわりと微笑み、優しくそう告げ、伸ばした爪先を、少女の柔らかな首筋にかけた。




**********




「で、どうするの?」


 足を止めた先には件の主の屋敷である。くるりと瞳を回し青龍は、柊と晴明を見上げた。


「青龍が、確認しにいくというのが無難だな」


 まずは、そこに鬼と化した女がいるかどうか確かめなければいけない。

晴明の言葉に、柊が頷く。青龍も異存はなかった。そうだろうと予想はついていたのだ。


「わかった。じゃあ、先に中を見てくるね」


 青龍は、ぽんと軽く地面を蹴るとあっという間に二メートル以上ある塀を飛び越え、向こう側へと降りた。

 敷地に入ると青龍は奇妙な静けさを感じた。まだ夜とはいえ、寝る時間ではない。にもかかわらず、屋敷周辺はすでに沈黙に包まれていた。庭から聞こえてくるはずの秋虫の声すら聞こえない。

 嫌な気配がする。それは、息苦しくなるような圧迫感をも伴っていた。


「なんか気持ち悪い……」


 これは、早々に中を確認して、主達の元へ帰った方がいい気がする。しかし、青龍は不意に足を止めた。寝殿の奥で何かが聞こえた気がしたのだ。青龍は、屋敷を囲む簀子の上に飛び乗った。そのまま屋敷内に入っていく。その時向っていた部屋から、か細い悲鳴が聞こえた。その瞬間、部屋を隔てていた御簾を、思いきり跳ね上げ、叫んだ。


「やめろ!」


 そこには、二人の女性がいた。一人は年若い少女で、首筋に赤い血が滴っていた。気を失っているのがぐったりとした様子である。その少女の首に手をかけていたのは、妖しいまでの美貌の持ち主だった。息を飲むほどの艶やかな容姿。だが、彼女の口元には、揺れる灯台の明かりを受け、鋭い牙が輝いていた。

 鬼だ。

 鬼女は、麗しい顔を青龍の方へとゆっくりと向けた。


「誰です?」


 その声は、女性独特の柔らかさを含んでいた。眼前の少女を手にかけようとした鬼女とは思えない。だが、そのまとう雰囲気は、ぞくりとするほど冷え冷えとしたものであった。

 彼女の醸し出すその冷気に、青龍は、耐えられぬようにぶるりと身を震わせた。だが、逃げ出すことはしない。


「その子を食べるな。その子を離せ」


 彼女の問いには答えず、青龍は、きっぱりとそう言いはなった。危ういところである。もう少し遅ければ、少女は鬼の餌食になっていたのだ。もっとも今もその危険はある。


「なぜ? なぜ食べては駄目なの?」


 軽く小首を傾げる様は、保護欲をそそる愛らしさ。だが、その中に艶やかな色香も垣間見える。年齢を曖昧にするその雰囲気は、数多の犠牲を元に築き上げられたはずだった。

 本当に、彼女はわかっているのだろうか。己の罪を。わかっていないのだろう。大概そうだ。人から鬼へと変じたものに、人の倫理感はすでに壊れている。


「私はこの美貌を保つために鬼になったのよ。人を喰らわなければ、この美しさは保てないじゃない。それに、鬼は人を食うものでしょ?」


 おっとりしたその口調は、その姿とは裏腹で、それは違和感や恐怖よりも哀しみを生む。


「僕は、人なんて食わないよ」

「ふふっ。変な鬼ね。でも、私は食べるわよ。だって食べたいんですもの」


 きっぱりと言い放つそこに、慈悲はない。

 鬼は、無慈悲だと誰かが言っていた。でも無慈悲とは少し違う。鬼は、自身の欲望に忠実なのだ。だから、彼女の言い分を跳ね除けられない。確かに惨いことだとは思うけれど、鬼の生き方に照らせば、彼女は真っ直ぐに生きているのだ。

 それが鬼の哀しさだ。


(哀しいぐらい、欲望に忠実に生きている)


 不意に瞼を閉じた青龍の瞳に映るのは、暴風雨にさらされた小さな村と今にも溢れんばかりに荒れ狂う川だった。

 それは、青龍が鬼となった時瞳に映った光景だった。人であった頃の記憶はなぜかあやふやになっていたけれど、なんとなく覚えているのは、小さいながらも穏やかな村で両親とたくさんの兄弟達と住んでいたということだった。恵みは少なく貧しい暮らしであったが、それでもささやかな幸せがそこにはあった。けれど、それはあっけなく崩れ去った。

 誰が悪かったわけではない。ただ、そういう流れになってしまっただけなのだ。

 それを知らなかった青龍に罪はないし、幼かった青龍に何かが出来たわけでもない。

 ただ、それは仕方なかったことで、それでも青龍はそれを受け入れられなかった。

 だから、憤慨し、愁傷し、慟哭した。

 幼いからこそ、純粋に怒り、嘆き、哭しーーー鬼と化した。

 ただ、それだけでは鬼になることはなかったのに、青龍には鬼と化す条件がそろってしまっていたのだ。

 けれど、幼いからこそ鬼になったことなどわからぬ青龍は、感情のままに嘆いた。

 それが雨を呼び、風を呼び、親しかった者達に牙を向くことになるなど知らずに、ただ鬼の性で住み慣れた地を荒らした。 

 そこで晴明に出会い、彼の使鬼にならなければ、自分は悪鬼として退治されていただろう。だが使鬼となったことで自分は救われた。少なくても鬼の性からは逃れられたのだ。


「僕は、僕のためにあなたを狩る」


 それは主のため。

 鬼であるのに、自身の力を思う通りには使えず、自身の意思など関係なく主の命令を実行する。それが使鬼。だが、だからこそ、ここに存在できるのだ。


「そう。ならば私も、この子を食べる前に、邪魔な貴方を殺さなければいけないのね」


 女の口からその言葉が漏れた瞬間、ふっと灯台の明かりが消えた。部屋の内が闇に埋め尽くされる。だが青龍は、慌てることはなかった。人ならばともかく鬼である彼には、その目は、暗闇でも昼間同様に見える。

 すっと一歩後ろをさがる。

 ひゅっと空気を切り裂く音が、鼻先ギリギリから聞こえた。彼女が爪を自分に向かって振るったのだ。重たげな袿の着物をまとっているとは思えないほどの身軽な行動。捕らわれていた少女を探せば、床にそのまま放っておかれている。こちらさえ注意しておけば、すぐには危害は加えられないだろう。


「っ!」


 続けざまに鋭い爪が繰り出される。腰をひねりつつそれを交わす。部屋の中では、余り大きな行動はできなかった。何よりも青龍には、彼女を攻撃するすべをもってはいない。

 青龍は、元は破壊神と呼ばれたほどの力を持っていたが、全て主である晴明に封じられていた。主の許可なく力は揮えない。今の青龍が出せるのは、せいぜい鬼火ぐらいだった。


「貴方も鬼ならば少しは反撃すればいいのに」


 逃げてばかりいる青龍に、そんな声がかかる。やんわりとした声音とは裏腹に、彼女が繰り出す爪は、鋭く早い。青龍は、それを避けようとして、後ずさり止まった。


(しまった!)


 顔を顰める。いつのまにか、あの少女の前に回りこんでいた。下がれば少女の身に危険が及ぶかもしれない。わずかな躊躇いが仇となった。その爪が避けられないほど近くまで来ている。わずかでも急所を外そうと、それを睨みつけた青龍は、不意に部屋を切り裂くがごとく白い符が飛んできた。墨で描かれているのは、文字とも絵ともつかない不思議な文様。それが鬼女の顔にとまった。その瞬間。


「急急如律令」


 部屋の外から告げられた言葉に反応するように、鬼の顔に貼り付いていた符が、一気に燃え上がった。


「ぎゃぁあ!」


 鬼女は、凄まじい声をあげて床に倒れた。彼女の顔全体が炎に包まれている。その炎を消そうと、鬼女は、床の上にのた打ち回った。


「せーめー!」

「馬鹿が。ひとりでやり合うな」

「るー、無事かい?」


 晴明と柊が傍に駆けつけてくる。どうやら、なかなか帰らない青龍に不安を覚え、様子を見にやって来たようだった。

 女を燃やした符は、晴明が投げたものだった。あれは、晴明が作った霊符で鬼を滅する文様が書かれているのだ。発動の呪文に反応して、それが浄化の炎を生み出したのである。


「よくも……」


 炎をようやく消し止めた鬼女は、ゆらりと立ち上がった。しかし、それは先ほどの姿と比べると愕然とするほど変わっていた。

 妖艶な美貌は見る影もなかった。炎によって溶けたその顔は、人である年齢よりも、さら醜く老けた老婆の姿のようだった。焼け焦げた髪も、たちまちに生え代わり乾いた白髪へと変わる。焦げた小袿は脱ぎ捨て、単姿になった女は、淀んだ瞳を、爛と青龍達に向けた。


「るー。その娘は僕があずかるよ」


 そう言うと、柊は、床に倒れていた少女を青龍から受け取り、代わりに抱きかかえた。陰陽師でない柊は、鬼を攻撃する術はないが、身を守る術は護身のためにいくつも身につけている。安心して任せられた。


「お願い」


 柊に少女を預けると、青龍は立ち上がった。


「お前たち、このままでは済まさないぞ」


 先ほどまでの鈴を鳴らすような声は、割れ金のようにざらついたものとなっていた。振りかざす爪に固まっていた三人は、ぱっと散った。


「青龍、柊、ここでは動きがとりにくい、外へ出るぞ」  


 確かに狭い部屋では、あまりにも戦い辛かった。何よりも人である柊と晴明には暗い部屋では視界が悪く身動きが鈍くなる。


「わかった」


 青龍は頷くと、迫り来る爪を機敏に交わし外へと出た。

 ひやりとした夜気が肌を撫でる。外は、月の仄かな明かりに満ちていた。部屋の閉ざされた闇から逃れ、視界が開く。


「ここで、一気に片をつける」

「うん」


 晴明は、懐から霊符を取り出した。先ほどと同じく鬼に向かって放つ。


「ガァ!」


 だが、不意打ちだった前とは違い、真正面から飛んできた霊符を鬼は、長い爪の先で切り裂いた。


「この程度の力で、私を殺せると―――ひぃ」


 不意に、ボッボッボッ、と鬼の周囲から炎があがった。青龍が生み出した青白い炎の固まりだ。慌ててたじろぐが、その背後にも炎が生まれ、彼女は立ち往生するはめになった。


「あぁ」


 彼女の顔が、苦しげに醜く歪む。鬼火は、実はそれほど熱はもってはいない。鬼ならば、この程度の炎は平気である。だが、先ほどの顔を焼かれたというトラウマがある彼女にとってそれは、恐ろしいものに変わっていた。


「嫌だ……」


 じりじりと逃げる彼女に鬼火が追う。ついには彼女を囲み、身動きできぬようにした。


「ひぃぃぃっ、助けてっ!」


 女の引き攣った声。そこには、かつての美貌はどこにもなく。ただ憐れを誘う情けない姿だった。


「い、嫌……醜いままで死にたくない……」


 白髪を振り乱し、ひび割れた顔を歪ませる。

 だが、どれほど乞われたとしても、彼女に情けなどかけたとしても救いなどどこにもない。彼女が鬼として生きる限り、人が犠牲になるのだ。

 人に戻れるならば手助けしたいが、鬼になってしまえば、人の身には返らない。けれど、魂だけならばまだ救いはあった。あるけれど、彼女がそれを望んでいるとは思えない。だとしてもーーー。


「なんで………」

「なんでって……あなたが鬼だからーーー」


 答えはそれしかない。

 人の世では鬼は異端なものでしかないのだ。

 後の世で『土も木も我が大君の国なれば、いつくか鬼の宿とさだめん』と記される話がある。つまり、この国に鬼の住むところなどないのだ。

 この地では鬼は鬼として生きられない。人に相反するがために……。


「次の世では鬼にならないでね」


 青龍の願いが彼女に届いたかはわからない。


「天切る、地切る、八方切る、天に八違、地に十の文字、秘音、一も十々、二も十々、三も十々、四も十々、五も十々、六も十々、ふっ切って放つ、さんぴらり」


 晴明の放つ言葉が力となって鬼女に放たれる。その刹那、断末魔の声が響き渡った。


「………終わったね」


 辺りはゆっくりと静寂を取り戻す。再び暗闇が支配する頃、鬼女の姿は、どこにもなかった。ただ、いたはずの場所には、わずかばかりの灰の塊があった。それが鬼のなれの果てだ。


「御苦労さま。ありがとう、二人とも」


 そう告げたのは、柊だった。青龍が振り返れば、柊の手には鬼火と似た青白い光を放つ塊が握られていた。柊は、満足げに微笑んだ。


「無事、彼女の魂を回収できたよ。お礼はまた後日。今日は、これを閻魔王に渡しに行かせてもらうよ。じゃあね。お休み」


 ひらひらと手を振って、柊は去っていく。あっさりとしたものだが、彼にも昼間の仕事がある。夜の仕事をあまり長引かせることは出来ないのだ。言葉通り、こういう仕事の後は、後日ゆっくりと手土産持参でやってくるから、晴明も引き留めない。


「俺達も帰るか」

「うん」


 鬼に喰われそうになった少女は、未だに気絶をしていたため、風邪をひかないよう屋敷にあった衣を被せて屋敷を後にした。

 今晩のことは、目が覚めれば忘れている。そうなるよう晴明が忘却の術をかけてくれた。目覚めた後、なにが起こったかわからず混乱するだろうが、鬼に食われかけたなどという記憶などない方がいい。


 二人はゆっくりと家路を辿る。

 月明かりがあるから、松明なしでも帰り道に困ることはない。夜風がひんやりと頬をくすぐっていった。

 先ほどまで、鬼と対峙していたとは思えないほど静かな夜だった。


「あの人、また人に生まれ変われるかな……」


 晴明より一歩先ゆく青龍は、ぽつりと呟いた。

 柊の手にある魂は綺麗な形をしていた。

 鬼に変化したとはいえ、彼女の魂はまだ人だった。人であれば、冥府で裁きを受けた後、人の生を再び得られる好機が巡ってくる可能性がある。そうであって欲しかった。それは、自分には望めないことなのだから。青龍は、もう魂は、人のものではなくなっていた。鬼でいる時間が長すぎたのだ。それ故に、死んでも冥府にはいけない。他の物の怪に喰われるか、闇に取り込まれるだけだ。

 鬼になりたくてなったわけではないけれど、今はそれほど鬼としていることは嫌ではない。主の元で式鬼として生きることも結構楽しんでいる。でも、自分が死んだ後いったい自分の魂がどうなるのか思うとほんの少し哀しい。

 彼女とは違い、自分は望んで鬼になったわけではなかったのだから……。

 望めるならば人になりたい。 


 銀の瞳を揺らし、小さなため息をそっとつけば、ぽんっ、と頭に何かが置かれた。

 顔を上げれば、主の手が自分の頭の上にあるのがわかる。相変わらず不機嫌そうな顔だ。


「辛気くさい顔をするな。お前が死んでもまた式鬼としてこき使ってやるから心配するな」


 どうやら晴明は、青龍が何を考えているかお見通しのようだった。式鬼は時に亡くなった動物の霊を使ったりもする。それを考えれば青龍の魂も人として冥府に行けなくても再び式鬼として晴明の傍にいられるかもしれないのだが。


「えーっ、やだよぉ。それなら他の陰陽師のところに行く!」


 今は晴明の式鬼として契約しているから無理だが、死んで新たに契約できる身になれば、主を選べる権利だってある。


「お前のような役立たずを使ってくれる奴が誰がいる」

「ひどいっ!」

「まあ、だからせいぜい死なないように頑張れ」

「どっちにしてもせーめーに使われるんじゃないか!」

「ああ、そうだな。良かったな」

「良くないしっ!」


 頭に置かれたままだった手をぺしっと払い落として、青龍は晴明を置いて歩き出す。

 けれど、その瞳は、もう哀しげに揺れていなかった。それどころか、口元に小さな笑みも浮かんでいる。

 晴明は、前を行く小さな背中を見つめた。自分の式鬼は、もう落ち込むのはもうやめたようである。


「それにーーーーーお前が死ねば、人の輪廻に戻れるよう契約してるしな」


 つぶやく言葉は先ゆく式鬼には届かない。

 晴明が柊の仕事を手伝うのは、冥府の王に無理な願いを聞いてもらうためだ。鬼である青龍を人の魂に戻し、再び人の輪廻に入れることーーーそれが容易いことではないが不可能ではないことを知り、魂の回収に協力することに頷いた。

 本人にそれを言うつもりはない。

 死後など死んでから考えればいい、というのが晴明の考えだ。今は、鬼として、式鬼としての生を楽しめばいい。

 それが望んでのことではなかったとしてもだ。

 どう生きるかなど、自分の気持ちしだいでどうでもなる。

 

「せーめー! 早く帰ろっ!」


 片手を振り上げ、ブンブン回す。すっかり気持ちを切り替えた式鬼に、薄闇の中、常に愛想の悪い不機嫌な顔にほんのわずかに笑みを浮かべ、晴明はゆっくりと歩き出した。 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ