主将、準備運動なんか端折って、早く練習しましょうよ!
屋内プールで部活動の練習を始めようとしたときだった。
「きゃーっ!」
どっぽーん!
悲鳴みたいな黄色い歓声がプールサイドに響くと、次に派手な水しぶきが上がった。琳昭館 高校女子水泳部の誰かが、準備運動なしにプールの中へ飛び込んだらしい。
それを見咎めた主将の 前畑 萌咲 が、水の中にいる女子部員を一喝した。
「おいっ! 北島ぁ! フライングだぞ!」
ところが、名前を呼ばれた女子生徒は、主将である萌咲に叱られてもしれっとしたものだった。水面に身体を浮かべると、優雅なフォームで背泳ぎをし始める。
「私が悪いんじゃないですぅ! 誰かに押されたんですぅ!」
もちろん、そんなものはウソだ。ただ単に、プールを目の前にしてジッとしていられず、準備運動など不要だ、飛び込んでしまえ――というのが 北島 瑞希 の本音だ。
その程度、最初からお見通しの萌咲は、いつも奔放な行動を取る瑞希を苦々しく思う。
「……まったく、あんな調子で 森里 高の城戸倉に勝てるのかねえ?」
目下、都内の高校女子水泳で注目を浴びているのは、昨年まで無名に過ぎなかった森里高校の 城戸倉 香里 という選手だ。
香里は瑞希と同じ背泳ぎの選手で、七月に行われた夏の大会では初顔合わせとなった。一年生の頃から逸材と名の知られた瑞希に対し、完全にノーマークだったはずの城戸倉香里にまさかの敗北。次こそは負けない、と固く誓ったはずであった。
にもかかわらず、元来、練習嫌いで有名な瑞希は、そんな悔しさも忘れてしまったのか、一向に水泳に打ち込もうとする姿勢が見られない。引退した先輩たちから部を任された主将の萌咲としては、ため息をつきたくなるのも無理からぬ話だ。
「主将、準備運動なんか端折って、早く練習しましょうよ!」
瑞希はスイスイ泳ぎながら萌咲に言った。どうしても準備運動はパスしたいらしい。無論、そんなことを容易に許しては主将の名が廃るというもの。
「ダメよ、北島! 早く、上がって! 泳ぐのは、ちゃんと準備運動をしてからだって、いつも言ってるはずよ!」
「大丈夫ですよぉ、主将! 私は途中で足つったりなんかしませんから!」
そのとき、瑞希は嫌味ったらしくニヤリとした。
萌咲が一年生のとき、予選で足がつったことがあり、競争中止したことを揶揄しているのだ。そのせいで、瑞希は未だに主将になった萌咲を軽んじている。
「北島ぁ!」
昔の話を持ち出され、萌咲は怒りを爆発させようとした。泳ぎの才能が自分よりもあるのは認めるが、それとこれとは話が別だ。
「キャーッ!」
ところが、突然、後ろの方から驚いたような悲鳴が聞こえ、萌咲は感情の発露を呑み込まざるを得なかった。やや剣呑に、悲鳴を上げた部員を振り返る。
「何なのよ、変な声を出して」
「きゃ、主将……! あそこ……あそこを見てください……!」
悲鳴を上げた女子部員の言葉に、萌咲を始め、他の水泳部員もプールに目を凝らした。
それは水の中で黒々としていた。いつも使用している屋内プールである。ゴミなどであるはずがない。その得体の知れないものは水底をスーッと滑るように移動していた。
誰も言葉を発さず、ただ、それの正体を確かめようとした。澄んだプールの水の中で、それはときたま方向を変えながら、こちらへと近づいて来る。すなわち、まだ何も知らずに平然と泳いでいる北島瑞希の方へ。
「どうしたの、みんな?」
正体不明の存在に気づかない瑞希は、部員たちの青ざめたような顔色を見て、ようやく不審に思い始めた。それでも泳ぎをやめようとしない。その間にも水底の影は忍び寄っていた。
「き、北島、上がって!」
強張った表情で萌咲が叫んだ。だが、そう言われて、すぐに従う瑞希ではない。
「はあ? もういいでしょ、準備運動なんて。かったるいだけよ」
瑞希はうんざりしたように言い放った。萌咲は苛立つ。
「バカ! プールにワニが!」
「ワニ?」
徐々にこちらへ近づいてくるモノの正体が判然とし、次々と水泳部員から悲鳴が上がった。そこまでに至って、ようやく瑞希は仲間たちによる、自分を驚かせるためのひと芝居などではないと気づく。
しかし、すでに遅すぎた。
ざばぁーっ!
「シャアアアアアアッ!」
水面に凶悪なワニが頭を出した。鋭い歯の並んだ大きな口がガバッと開かれる。それは瑞希のすぐ横だった。
「きゃあああああっ!」
予期せぬワニの出現に、瑞希はパニックを起こした。学校のプールにそんなものがいるなんて誰が想像するだろうか。だが、実際にワニはプールにいた。
「北島、早く上がって!」
プールサイドにいる萌咲に出来ることは、そんな指示を与えることくらいしかない。
一旦、水の中に潜った瑞希は、背泳ぎからクロールへと切り替えた。こちらの方がいくらか速いからだ。とはいえ、いつワニに襲われるか分からない恐怖に、瑞希の泳ぎは滅茶苦茶になり、まったくスピードが出ない。
「早く! 食べられちゃう!」
誰かが半泣きしながら叫んだ。そのとき、ほぼ全員の脳裏には凄惨な光景が浮かんだはず。中には、とても見ていられない、と目を覆う者もいた。
ワニは再び水の中に没すると、逃げようとする瑞希に追いすがった。泳ぎなら人間よりも得意だ。音もなく瑞希の真下につける。
「北島ぁ!」
いつも部内の和を乱す、気に食わないヤツだと思ってきたが、いざ、こういう場面に出くわすと、萌咲は同級生である瑞希の無事を祈らずにはいられなかった。プールサイドまで辿り着いたら、すぐに引っ張り上げられるよう懸命に手を伸ばす。
あと五メートル。
「──っ!?」
「あっ――!」
もうちょっと、というところで、瑞希の身体が水中に沈んだ。ワニに捕まったのではない。この肝心なときに、足がつってしまったのだ。
最悪のタイミングで準備運動を怠ったツケが回った。溺れた瑞希の手は助けを求めるように空を掻き、思い切り口からプールの水を飲み込んでしまう。顔面が恐怖と苦しさに歪んだ。
獰猛な人喰いワニが、そのような絶好のチャンスを逃すはずがない。猛然と浮上し、水着姿の瑞希を餌食にしようとする。
「北島ぁぁぁぁぁっ!」
水泳部の全員から悲痛な声が上がった。
その頃──
「《悪魔大使》さま……《悪魔大使》さま……起きてください!」
「う、うーん……むにゃむにゃ……」
「《悪魔大使》さまったら!」
「むおっ……!?」
何やら背中に重くて柔らかいものがのしかかり、ようやく 田隈 太志 は眠りから醒めた。寝ぼけ眼を擦りながら、状況の把握に時間をかける。
うつ伏せになって眠っていた太志を起こしたのは、同じクラスの 早乙女 蜂子 だった。どうやら背中に押し当てられた重くて柔らかいモノとは、彼女の推定Hカップ爆乳だったらしい。
「何だ、《ビューティー・ビー》か。私は昨日の徹夜が堪えているんだ。悪いが、もう少し寝かせてくれ」
そう言って、太志は再び眠りにつこうとした。
結局、昨日は美夜から預かったアリゲーターの “ゴエモン” を改造し始め、終わったのが明け方だ。本当は人間との合成怪人を目論んでいたのだが、パーツにするはずだった美夜が帰ってしまったので、サイボーグ化に計画を変更していた。
頭脳の方はともかく、体力に自信がない太志は、完成と同時にぶっ倒れ、まだまだ寝足りない気分である。
ところが、太志の忠実な下僕であるはずの蜂子は、はい、そうですか、と従うわけにはいかなかった。強引に太志の頭を持ち上げると、胸の谷間に隠し持っていた茶色い小瓶を取り出す。
「失礼します」
小瓶の蓋を開けた蜂子は、太志の口に中の白っぽいどろりとした液体を流し込んだ。
すると──
「んんっ!? ぷはーっ! な、何だ、これは!?」
無意識に液体を嚥下した途端、太志の眠気は一気に吹っ飛んだ。目がギンとして冴え、血流そのものが早くなった気がする。
蜂子は飲ませた小瓶を太志に見せた。
「特製ローヤルゼリー・ドリンクでございます。私がいつも愛飲しているもので。──それよりも《悪魔大使》さま! 大変です!」
「まったく、何事だ? 朝っぱらから騒々しい」
忌々しげな態度を取りながら、太志は自分の腕時計を見た。午後三時を回っている。どうやら、今は朝どころか、すでに放課後になってしまったらしい。
寝起きを無理矢理起こされて、ひどく機嫌が悪そうな太志に、蜂子は改めてかしこまった。
「恐れながら申し上げます。完成した怪人第一号が外へ逃げ出してしまった模様です!」
「何だとぉ!? 《ワニ夫》が!?」
蜂子の報告に、太志は目を剥いた。慌てて、明け方までサイボーグ手術を施していた手術台に駆け寄る。そこからアリゲーターの “ゴエモン” こと《ワニ夫》と命名した怪人第一号の姿が忽然と消えていた。
「そ、そんなバカな……! 確かにサイボーグ手術は完了していたが、起動はあとの楽しみとして取っておいたのに! ああ、世紀の瞬間を見逃すとは!」
太志はオーバーとも思えるくらいのリアクションで嘆いた。何と声をかけていいのやら、蜂子は途方に暮れそうになる。
「とりあえず、さっき私が来たときには、ここと地下室の出口が半開きになっていました。そんなに遠くへは行っていないと思いますが……」
すると、太志はいきなり《悪魔大使》用のアイテムである鞭を持ち、それを床に叩きつけた。ピシッ、という身も竦むような音に、蜂子は直立不動になる。
太志は蜂子を睨みつけた。
「何をしておるか、《ビューティー・ビー》! とっとと《ワニ夫》を捜し出し、ここへ連れ戻せ!」
自分が寝ている間に逃げられたのであって、昼間、授業に出ていた蜂子に責任はないはずだが、太志は理不尽な命令を下した。
命じられた蜂子はといえば、不満を洩らすかと思いきや、なぜか顔を上気させ、「はい」と殊勝に応じる。
蜂子は真性のMなのだ。主人と仰ぐ太志に罵倒されたり、いじめられたりすればするほど、むしろ快感を覚える性癖の持ち主なのである。でなければ、こんな危ない性格の男に服従したりなどしない。
「直ちに捜して参ります!」
蜂子は敬礼すると、爆乳をゆさゆさと揺らしながら、逃亡した “ゴエモン”――いや、《ワニ夫》の捜索に出発した。




