今さら昔に戻れないことなんて、最初から分かっていたんだから
影人と詩織の二人は、父、降旗 清六 に追い返されてしまった渚を新宿歌舞伎町のランジェリー・パブ《パフューム》まで送り届けることにした。
河川敷からの帰り、渚は押し黙ったままだった。無理もない。十三年ぶりに再会した父親に冷たい態度を取られたのだ。
帰りのタクシーの中、渚よりもむしろ詩織の方が憤慨していた。
「ホント、冗談じゃないわ! 十三年ぶりに会った娘に、何が『人違い』よ! 何が『帰れ』よ! 長年、苦労をかけた娘に対して『済まなかった』の一言もないワケ!? まったく、あれでも人の親かしら!?」
「早乙女さん……」
つい語気を荒げた詩織に、影人が控えめに制した。今の詩織の言葉は、ただでさえ打ちひしがれている渚に追い討ちをかけるようなものだ。
それに気づいた詩織は口許を押さえ、渚に謝罪した。
「ご、ごめんなさい……」
「いいのよ。本当のことだもの」
力ない笑みを浮かべながら、渚は弱々しく首を横に振った。
口ではそう言うものの、かなりのショックを受けていることは否めない。詩織は余計なことを言ってしまい、深く反省した。
重苦しい雰囲気のまま、タクシーは歌舞伎町に到着した。タクシーから降りた渚は、別れ際、影人たちに頭を下げる。
「今日はありがとう。あなたたちがいてくれなきゃ、きっと私、父に話しかけることも、会いに行くことも出来なかったわ」
「渚さん……」
父娘のためと思ってしたことであったが、結局、渚の助けになるどころか、彼女を再び傷つけることになってしまった。詩織は悔恨に唇を噛む。
「私、もう父のことは忘れるわ」
「えっ……?」
「父には父の人生が、私には私の人生がある。母が死んだことを伝えられただけでもよかった。今さら昔に戻れないことなんて、最初から分かっていたんだから」
渚は、もう一度、影人と詩織に丁寧な会釈をすると、店へ戻って行った。
そんな渚の後ろ姿を見送りながら、詩織が呟く。
「血の繋がった親子のはずなのに……どうして二人とも、あんな寂しいことを言うのかしら」
詩織は割と裕福な家庭に育った。今も両親と一緒に暮らしており、家では互いに包み隠さず何でも喋るし、たまには外食に出掛けたり、連休には家族旅行を楽しんだりと、幸せファミリーの見本みたいに仲がいい。
だから、なぜ渚たち親子が、自分たち家族と同じように出来ないのか、それが堪らなく悲しく感じられた。
影人はそんな詩織と夜の賑わいを見せる歌舞伎町に背を向けた。
「親と子である前に、まず個々の人間だからでしょう。血が繋がっていても、心まで通い合っているとは限りませんから」
いつも茫洋としている影人のものとは思えない辛辣な言葉に、詩織は胸に鋭い棘が刺さるような感触を覚えて振り返った。
そのとき、すでに影人は一人、JR新宿駅へ向かって歩き始めていた。
「遅いな……」
ホームレス仲間の彦さんがトイレに立ってから、かれこれ十分以上になる。一人残された清六は、一向に戻って来ない彦さんを心配し始めた。
無類の酒好きである彦さんが酔い潰れたところなど、これまで見たことがない。ろれつが回らなくなるまで飲んでも、いつも千鳥足で、大丈夫、大丈夫、と言いいながら、平然と帰って行くのが彦さんだ。
とは言え、そろそろ彦さんもいい歳である。面と向かって、ちゃんと尋ねたことはないが、清六よりも、五、六歳くらい──下手したら、もっと年上なのは間違いないだろう。
ひょっとして外で倒れているかもしれないと思い、清六は念のため様子を見て来ることにした。
外へ出ると、秋めいた涼しい風が火照った顔に当たって心地よかった。そのお蔭で、いくらかアルコールでぼんやりしていた頭が鮮明になったような気がする。新鮮な空気を肺一杯に吸い込んでから、清六は彦さんの姿を捜した。
「おーい、彦さん?」
夜といえども、外は煌々と照らされた外灯が多く、かなり明るかった。
ただし、清六が住んでいる橋のたもとだけは光が届かず、まるで闇の中に沈んでいるかのようだ。
清六は足下に気をつけながら、真っ直ぐ川に近づいた。
とりあえず見渡したところ、この近辺に彦さんの姿どころか、誰もいなかった。清六の呼びかけにも返事はなし。ただ、橋の上を走る車の音と川の流れが聞こえるだけだ。
そのうち、次第に暗がりに目が慣れてきた清六であったが、やはり彦さんはいなかった。
一体、何処へ行ってしまったのか。これまで、彦さんが黙って帰ってしまうなんてことはなかった。仮に急用を思い出したにしても、必ず何かしら一声かけて行くはずである。
ふと清六は、さっき彦さんがしていた話を思い出した。このところ、同じ河川敷で暮らすホームレス仲間がいなくなっているという話だ。
彦さんはそれを立ち退かせたい都や区役所の陰謀だと言っていたが、果たして本当にそうなのか。例えば、何らかの犯罪に巻き込まれた可能性はないだろうか。
実際、巷ではホームレス狩りなんていうのもあって、おちおち寝てもいられないらしい。ただ、今回の場合は、特に争ったような声なども聞いていないので、さすがに違うとは思うが。
彦さんはどうしてしまったのか、清六はあれこれ考えながら川縁まで近づいた。
その刹那──
「うわっ!」
いきなり清六は後ろに倒れた。不覚にも足を滑らせたのである。手を突くことも出来ず、清六はしたたかに腰を打ちつけた。
「あいたたたっ……」
あまりの痛みに、清六は顔をしかめた。つくづく歳を取ったものだと思う。いつまでも若いつもりでいただけに、自分で自分がイヤになった。
清六は立ち上がろうと、よっこらせと河原に手をついた。その途端、ヌルッという感触を覚え、慌てて手を引っ込める。それが足を滑らせた元凶であることに気づいた。
そのヌルヌルしたものは、清六の手にべっとりとついていた。何となく臭いを嗅いでみると、猛烈な魚臭さが鼻を突き、清六は、うっ、とむせる。元漁師である清六でも、それは受け入れがたいほどの悪臭だった。
清六はそのまま川の水で手を洗った。しかし、いくら洗っても、ぬめりは容易に取れない。清六は懸命に手を擦った。
ポチャッ
そのとき、川で何かが跳ねるような音が聞こえた。清六は反射的に手を止め、耳を澄ます。そして、ジッと川面に目を凝らした。
「………」
水音はそれきりしなかった。だが、清六は無性にイヤな予感がして、川辺から離れる。まだ手にぬめりがあるのも構わなかった。
川辺に残されたヌルッとした痕跡。強烈な魚臭さ。それらが清六の頭の中で、正体不明の水音に結びついた。理屈ではない。
清六は彦さんを捜すことを諦め、自分のテントに駆け戻った。川から何か得体の知れぬものが這い上がって来るのを恐れながら。
詩織をJR新宿駅まで送って行ったあと、影人は自宅に帰るため、私鉄の駅へと向かった。途中、新宿アルタ前で信号待ちをする。
そのとき、影人は背後に気配を感じた。知っている気配だ。
影人は振り向くことなく、メガネだけを外した。
「依頼か?」
影人の声は、後ろにいる人物――身なりのいい中肉中背の紳士以外、周囲の誰にも聞こえなかった。この二人を見て、誰も会話しているなどと気づかないだろう。
「左様でございます」
紳士の声もまた、影人にしか聞こえなかった。新宿駅前という衆人環視の中、驚くべき会話法だ。
信号が青になった。影人は人混みに押されるようにして、アルタ前スクランブル交差点を渡り始める。紳士はその後ろをピッタリと付いていた。
「このところ、荒川の河川敷にてホームレスが謎の失踪を遂げているそうでございます」
「荒川の河川敷?」
つい先程まで影人たちがいたのも荒川だ。
「はい。今月に入って、すでに五人。もちろん、警察は事件性が薄いと判断し、捜査もしておりませんが」
「当然だろうな。ホームレスが消えたところで、誰も気にかけやしない。気紛れに住む場所を変えたんだろうとか、里心がついて故郷に戻ったんだろうとか、そんな解釈をされるのがオチだろうな」
「おっしゃる通りで。しかし、失踪を遂げたホームレスたちは、いずれも荷物を残したままでございました」
「なるほど……自発的に移動したなら、荷物も持って行くのは当然。残されているということは、何かの事件に巻き込まれた可能性が高いというわけだな」
「それでも、やはりホームレスが相手では、警察も重い腰を上げなかったようでございます。ところが三日前、とうとう一般人の被害者が出ました」
「ほお」
「河川敷をデートしていたカップルなんですが、男がジュースを買いに行っている間に、女の姿が忽然と消えてしまったとか」
「実は痴話ゲンカだった――なんてオチはなしにしてくれよ」
「もちろん。――現場には女性の物であるハンドバッグと靴、そして、川から何かが這いずり出たような濡れた跡が残されていたそうでございます」
「………」
「警察は誘拐や拉致の類ではないかと考え、捜査しているようでございますが、我が主人によれば、恐らく魔物の仕業であろうと。そこで仙月様に、またこうしてお願いに参ったわけでございまして」
「怪異の原因究明と、魔物であった場合は、その始末か」
「左様で。報酬の方はいつも通り。なるべく早く解決してくださると助かります。いかがでございましょう? お引き受けいただけますか?」
「……分かった。スポンサーからの依頼なら、喜んで引き受けよう。それにオレも少し気になるところがある」
「では、よろしくお願い致します」
影人が駅へ辿り着く前に、背後にあった紳士の気配は消えていた。神出鬼没の男である。
しかし、影人は特に気に留めた様子もなく、そのまま帰途へと就いた。




