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WILD BLOOD  作者: 西禄屋斗
第10話 KILL BLOOD 【 全 11 回 】
78/159

まったく、お役所の連中ってのは

 いつも見る悪夢がある。


 暗い夜の海に投げ出され、海面には首だけを出しながら、必死に船員たちの名を呼ぶ夢だ。


 真冬の大吹雪の晩。海水温度は氷のように冷たく、アッという間に体温が奪い去られてゆく。


 十三年前のあの日――


 降旗ふるはた 清六せいろく には忘れたくても忘れられない光景だった。


 沖合の暗い海で見えるものは、吹きつけて来る雪と遠ざかって行く船のシルエットだけ。


 その船は一切明かりを灯しておらず、船名はもちろんのこと、どんな特長があるのかすらも分からない。ただ、衝突した清六の船が沈んだことには気づいているようで、船上の連中が日本語ではない言葉でやたらと騒いでいた。


 それでも衝突した船はまったく引き返して来る素振りを見せなかった。清六は両腕を振って気づいてもらおうとしたが、この暗さで発見できないのか、或いは最初から救助する気などなかったのか、船影はどんどん小さくなっていった。


 やがて、清六は大海原に取り残されたことに茫然とした。救難信号を発する間もなく海に放り出されたのである。すぐに助けが来るとは思えなかった。


 加えて、この冬の寒さだ。清六は漁師なので泳ぎには自信があるが、冷たい海水は身体の芯まで凍りつかせ、手足の動きを鈍らせる。


 とにかく仲間を捜そうと思った。


 清六の他に乗船していたのは六人の船員たち――


 衝突した時刻、操舵を担当していた清六以外は仮眠を取っていたところで、どれだけの避難行動が取れたのか気がかりだが、彼らも海の男である以上、そう簡単に溺れないでいてくれるだろうという淡い期待があった。


「おおーい!」


 清六は声を限りに叫んだ。しかし、日本海の荒波に身体は揉まれ、聞こえるものといえば風を切る猛吹雪の音と唸るような海鳴りだけ。仲間からの返答はまったくなかった。


 それでも諦めず、清六は仲間の名を一人一人呼びながら、目を皿のようにして、海面に仲間の姿を捜した。顔に雪と波しぶきがかかり、口の中には海水が入ってくる。動かしていた手足も凍え、感覚もなくなっていった。


 誰もいなかった。清六は絶望感に打ちひしがれる。すべては漁に出ようと言い出した自分の責任だ。あのとき、時化しけた海にさえ出なければ、こんなことにはならなかったはずだ。


 仲間を呼ぶ声は、最後には弱々しいものになり、嘆きが含まれるようになった。


 ――仲間が助からないのなら、自分も運命を共にしようか。


 妻や一人娘である渚の顔が浮かんだが、それ以上に船員たちの残された家族に申し訳がない。


 そのときだ。


「うあっ!?」


 海面に浮かんでいた清六の身体が、突然、沈んだ。泳ぎをやめたからではない。何かに足を引っ張られたせいだ。


 清六はもがいた。このまま死んでしまおうかと思っていたにもかかわらず、反射的に生存本能が働く。懸命に両手で水を掻き、足を蹴ろうとした。


 ところが、清六を海の底へ引きずり込もうとする力は凄まじかった。グングン下へと引っ張られる。必死の抵抗など無駄であった。


 いったい何が自分の足を引っ張っているのか、清六は確かめようとした。暗い海の底を覗き込む。


「――ッ!」


 その正体を見たとき、清六は驚きのあまり、肺にあった酸素をすべて吐き出してしまった。


 自分を海底へ沈めようとするもの――それは行方知れずになった清六の仲間たち六人であった。


「船長……船長……」


 海中だというのに、船員たちの清六を呼ぶ声がなぜかハッキリと聞こえた。その怨念がこもったような、おぞましい声。六人が清六の足を命綱のようにつかんでいる。


 清六は震え上がった。


「たっ、た、助けてくれぇっ!」


 大きな声を出して、清六は悪夢から目覚めた。


 横になったはずなのに、勝手に反応した上半身が起き上がっている状態だった。清六は本当に溺れかけたかのように、切迫した呼吸を繰り返す。


 ようやく気を落ち着けると、そこが自分の生活している手作りのテントの中だと気づいた。どうやら、いつの間にか眠ってしまったようだ。廃品の中から拾って来た目覚まし時計を見ると、渚たちが帰ってから二時間も経っていない。


「またか……」


 いつもの悪夢だった。清六はびっしょりと寝汗をかいていることに気づき、のろのろと水を飲みに這い出した。


 十三年前のあの日、実際には仲間を捜しているうちに気を失ってしまったため、夢に出て来たような海の中に引きずり込まれる体験はしていない。


 結局、清六だけが捜索に来た海上保安庁に救助されたのだが、あの事故以来、仲間への罪悪感からか同じ夢を何度も見るようになった。その度に清六は苦しみに苛まれる。


 なぜあのとき、仲間たちと一緒に死ねなかったのか。もし、共に死んでいれば、こんな苦しみを味わわずに済んだだろうに。


 だが――


 一方では命が助かったことにホッとしている自分がいた。人間、簡単には死を享受できない。その後、自殺だって出来たのに、こうして生き恥をさらしているのがいい証拠だ。


 清六はそんな自分が堪らなくイヤだった。


 だから逃げた。故郷から。家族から。すべてから。


 しかし、渚はそんな自分を捜し出し、ここまで会いに来た。十三年ぶりの再会。大きくなっていた。何処となく若い頃の妻に面影が似ている、と源六は思った。


 けれども、今さら父親だと名乗ることははばかられた。妻と娘を置いて家を飛び出し、何もかもを押しつけたのだ。その時点で、夫でもなければ父親でもない。二人にいくら罵られても顔向けなど出来るわけがなかった。


 渚は妻が五年前に死んだと告げた。断腸の思いが滲む。


 清六が蒸発してからというもの、たった一人で娘を育てなくてはならなかった妻の労苦は並大抵のものではなかったに違いない。結局、自分可愛さのあまり、妻までも見殺しにするような結果になろうとは。


 清六は自分という人間が許せなくなる。それでも生き恥をさらし、逃避し続けるだろう。恐らく、これからもずっと死ぬまで。


 ペットボトルの水で喉を潤した清六は、荷物の中から筒状に丸められた一枚の紙を取り出した。もう何度、広げては丸め、仕舞ってきただろう。薄暗いテントの中で、清六は大事そうに紙を広げた。


 紙は古い画用紙だった。そこに水彩絵の具で描かれた絵。船の上で捩じり鉢巻きをし、長靴姿の男が漁をしている場面だった。


 これは渚が小学生だったとき、父の日ということで描いた清六の絵だ。いつも漁ばかりで、渚には父親らしいことをあまりしてやれなかったが、この絵をプレゼントされたときは嬉しかった。


 船には『なぎさ丸』という船名が書かれている。渚が誕生したとき、船も新調して名付けたものだ。


 その船は沈み、家族も失ってしまったが、この絵だけは清六の宝物だった。


「よお、せいさん、いるかい?」


 外から声がした。清六は慌てて似顔絵を仕舞うと入口へ出る。そこには、ひょろりと痩せて、かなり頭の薄くなったオヤジが腰をかがめていた。


「おう、ひこさんか」


 訪ねて来たのは清六と同じホームレス仲間の彦さんだった。本名は知らない。みんな、「彦さん」と呼んでいる。


 お互いの素性については尋ねないことが、ホームレスたちの間では暗黙の了解となっていた。誰しもが脛にきず持つ身だからだ。


 彦さんは手に大きく膨らんだレジ袋を下げていた。


「久しぶりに一緒にやろうと思ってね」


 そう言って、彦さんは手にしていたレジ袋を掲げた。中身はいつもの酒とつまみに違いない。


「入んなよ」


 清六は彦さんを招き入れた。そして、ランプに火を灯す。もう、すっかり夜だ。


 彦さんは遠慮なくあぐらをかくと、袋からワンカップの酒やつまみの缶詰を取り出した。


 清六も漁師時代からアルコールには目がないが、彦さんはその上を行く無類の酒好きだ。本人曰く、生活費のほとんどが酒に化けると言う。


 二人はカップ酒の蓋を開けると、ぐびりと喉へ流し込んだ。


「ぷはーぁ、うまいなあ!」


 元々、酒臭い彦さんは、飲んで一層、アルコールの臭いをプンプンさせた。頭蓋骨に皮だけが貼りついたような顔に朱が差してくる。


 ところが一方の清六は、大好きな酒を口にしても陰気に沈んでいた。


「どうした、清さん? 顔色が優れねえみたいだが」


 いつもの飲みっぷりじゃないことに気づいた彦さんは、清六を気にかけた。


 清六は脂まみれの焼き鶏の缶詰をつまみながら、弱々しい笑みを見せる。


「そうかい?」


 娘が訪ねて来たことを彦さんに話していいものか、清六は迷った。家族の話を好まないホームレスは多い。清六のように故郷や家族を捨てて、今の生活をしている者がほとんどだからだ。


「実は昼間、区役所の連中が来てね」


 清六は別の話題でお茶を濁した。


 すると彦さんは手にしていたカップ酒を降ろして、身を乗り出す。


「ここを出てけって話か?」


 清六はうなずいた。


 彦さんは大仰に仰け反ると、再びカップ酒を手にし、グイッと中身を空けた。


「まったく、お役所の連中ってのは、どうしてこうも弱いモンをいじめたがるのかねぇ!? こっから追い出して、オレたちに何処で暮らせって言うんだ!?」


「ああ。当面は施設に、なんてこと言っていたが、そこだって期間限定、いつまでもいられるわけじゃない。期限を過ぎちまえば、またホームレスへ逆戻りさ」


 うまく別の話題にすり替えることに成功して、次第に清六の舌も滑らかになってきた。


「どうせ、あいつらは、オレたちホームレスの苦労なんか知っちゃいないんだ」


 清六も彦さんも、アルミ缶の回収などで生計を立てている。月に一万五千円ぽっちの稼ぎだ。


 そんな仕事にも縄張りが存在し、ヘタなところへ回収には行けない。そんなことをすれば、すぐに地元ホームレスと大ゲンカだ。


 よって、もし清六たちがホームレス生活から離れれば、すぐ誰かにここの縄張りを取られてしまい、戻って来ることは不可能になる。まさに死活問題だった。


「清さん、騙されちゃなんねえぞ。最近、お役所の連中も口がうまくなったみてえで、オレの知り合いにも次々といなくなっている者が多いんだ」


「本当か?」


 それは清六にとって初耳だった。すると、なぜか彦さんは声をひそめる。


「本当だとも。この一ヶ月の間に、この付近一帯のホームレスの数が少なくなってんのさ。昨日までいたヤツが、ある日、突然いなくなってよ。あれはきっと、お役所の連中が何かを吹き込んで、余所へ移しているに違いねえ」


「中には急に里心がついた者もいるんじゃないか?」


 彦さんの話がにわかには信じられず、清六は自分の考えを口にした。ところが彦さんは鼻で笑う。


「そんなの、ホームレスの中にいるわけないだろ? オレたちは故郷を捨て、家族を捨て、すべてのしがらみを捨てて、こんな生活をしているんだ。路上生活を始めたばかりのヤツならともかく、今さら故郷へ帰ろうなんて誰も思いやしないって」


 彦さんに断じられ、清六は何も言えなくなった。


 老いたからこそ、故郷を懐かしむこともある。最近、清六はそう感じていた。


 それからしばらく二人は酒を飲みながら、たわいもない話をした。


 一時間くらいしたところで彦さんが中座する。


「ちょっくら小便」


 彦さんは少しふらつく足取りで、清六のテントから外へ出て行った。


 河川敷近くに公衆トイレはあるが、小便くらいなら川でしてしまった方が早い。


 彦さんもそのつもりのようで、真っ直ぐ川を目指して歩いて行く。


「ふーっ」


 ズボンのファスナーを降ろし、用を足しながら、彦さんは対岸の夜景を眺めた。秋めいた風に、ぶるりと身を震わせる。


 そのとき、川面でポチャンという水音を聞いたような気がした。


 彦さんは酔った目で、川面に視線を凝らす。


「んー?」


 最初は魚だと思った。川面にゆったりと動く背ビレらしきものが覗く。それは川の流れの沿わず、彦さんの方へ近づいて来るようだった。


 何の魚だろう、と彦さんは身を乗り出すようにして川を覗き込んだ。しかし、魚は深く潜ったらしく、すぐに見えなくなってしまう。


 そろそろ戻ろうか、と思ったときだ。


 ピチャッ!


 ファスナーを上げかけた彦さんは、もっと近くで先程と同じ水音を聞いた。


 ――さっきの魚か?


 ヌルルッ!


 次の刹那、彦さんは急に足を引っ張られ、川へ引きずり込まれた。


「──っ!?」


 悲鳴をあげる間もない。一瞬の出来事だった。


 彦さんが川の中に落ちた水音だけが大きく響いた。だが、それきりだ。


 テントの中にいた清六は外の異変に気づかなかった。


 彦さんが落ちた場所からは細かい気泡が浮き上がって来たが、それもやがて途絶えてしまった。

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