か、薫ぅ……変な声を出さないでよ!
ドックン ドックン ドックン……
まるで抱き合うような格好になったつかさと薫は、互いに自分の心臓の音が相手に聞こえてしまうのではないかと緊張した。どちらも、ここまで異性を意識したことはない。
「ちょっと、何すんのよ!」
暗がりで分からないが、恐らくは羞恥に顔を染めているに違いない薫は、身体を密着させているつかさに抗議した。と言っても、同じベッドで寝ている美夜に配慮して小声だ。それでも薫がかなり憤慨しているのは確かである。
「ご、ごめん。でも美夜ちゃんが……」
薫に責められ、つかさは言い訳した。
トイレから戻った美夜は、そんな二人の状況も知らずに眠りこけている。ホットケーキの夢でも見ているのか、幸せそうな顔をしていた。
「とにかく、その手をどけて!」
薫が鋭く注意した。そこでようやく、つかさは気づく。つかさの手が薫の胸に押し当てられていたことを――
「はっ!」
丸みのある柔らかな弾力――薫に言われて、急に手の平から感触が伝わってきたような気がした。
「わわっ――こ、これは!」
慌てふためいたつかさは、急いで手を離そうと振り払った。
すると、さらなる悲劇──いや、もはや喜劇か――?
ぷちん! ぷちん! ぷちん!
「──っ!?」
あろうことか、薫が着ていたワイシャツの合わせ目につかさの指が引っ掛かり、ほとんどのボタンがちぎれて飛んだ。一瞬にして前がはだけてしまい、薫は慌てて胸元を覆い隠す。
「ば、バカ! このスケベ!」
薫はつかさを非難した。とんでもないハプニングに、つかさもうろたえまくる。
「い、いや、その、そういうつもりがあったわけじゃなくて──」
「当たり前よ! その気があったのなら、ただじゃおかないわ!」
囁く程度の声だったはずが、段々とエスカレートしてきて大きくなっていた。美夜がうるさそうに唸り、身体を捩る。
どんっ、とまたしてもつかさは美夜によって押された。壁際に押し込まれた薫と共に、もう抱き合っているも同然の状況だ。
「何してんのよ!?」
「だ、だから……不可抗力なんだってば」
つかさはほとほと弱った。普段は薫に対し、異性であることをほとんど意識していないのだが、ここまで密着するとそうもいかなくなる。何しろ、薫の身体は柔らかく、いい匂いもする。
薫に気づかれないよう、つかさは腰を引くのが精一杯だった。
「もう、どいてってば!」
とにかく壁側に寝ている薫は動くことが出来ない。つかさがどうにかするしかなかった。
ところが、つかさが動くには何処かしら薫の身体に触れなければならない。
「ちょっと待って! 今すぐに――」
「あっ! ちょ、ちょっと……何処を触ってんのよ!?」
「しょうがないだろ! こうしないと動けないんだってば!」
「だからって……やだぁ……!」
「か、薫ぅ……変な声を出さないでよ!」
「だ、出してないってば!」
「お願いだから、ちょっとの間、我慢して」
「そうは言っても――!」
美夜はすでにベッドの半分を占領していた。残り半分を二人で使うには、あまりにも狭すぎる。
ここは美夜を起こすことになっても、ベッドを取り戻すべきか。いや、ワイシャツのボタンが飛んでしまった薫を見たら、美夜はつかさとの関係を疑うだろう。それはそれでマズイ。
だからと言って、このまま恋人同士でもない若い男女が肌を重ねたまま一夜を過ごすというのもとんでもない話だ。
まるで磁石のようにくっついた薫から離れようと、つかさは悪戦苦闘を繰り返した。
その頃、美夜が仕掛けた数々の罠をくぐり抜け、ようやくアキトは目的地まであと少しというところまで来た。ここから二つ目にあるドアが美夜の部屋だ。アキトはメラメラと闘争心を燃やしながら舌舐めずりをした。
「待ってろよ。もうすぐ行くからな」
誰に言っているのか、アキトは一人呟くと、恐る恐る足を踏み出した。きっとここに最後の罠が仕掛けられているに違いない。それをクリアできればゴールのはずだ。
案の定、アキトの右足が床のスイッチを作動させた。
ガシャン!
何か音がしたと思った刹那、天井からギロチンを思わせる巨大な刃が現れた。
「なっ――!」
それは畳半畳分くらいの大きさで、振り子のように揺れながら、アキトの方へと襲いかかる。アキトは慌てて、廊下の壁にへばりついた。
ビュゥゥゥン!
その目の前を床すれすれに振り子の刃が掠めてゆく。
他の罠もそうだが、いつの間にこんな大仰な仕掛けを仕込んだのやら。一軒家ならまだしも、分譲マンションの一室である。到底、不可能としか思えない。
アキトは我が妹ながら恐ろしくなり、同時にマンションの構造を疑った。
しかし、今はそんなことを考えている場合ではない。振り子の刃はひとつだけではなく、他に二つが用意されていた。しかも動きのタイミングがそれぞれ微妙に異なり、三枚の刃がアキトを幻惑する。
ビュゥゥゥン! ウォォォン!
「うひーっ! おひょーっ!」
アキトは廊下の壁を行ったり来たりしながら、振り子の刃を避け続けた。
振り子の刃は三枚が廊下に沿って動いている。一枚をやり過ごしたかと思えば、もう一枚が襲い、それを回避しても今度は後ろから最初の刃が戻って来るのだ。これではまったく前進できない。
アキトはその場で右往左往した。まるで仕掛けだらけの迷宮を次々と攻略していくアクションゲームのキャラクターにでもなったような気分だ。もっとも、この場合、ゲームオーバーは即、死を意味するが。
とうとう、ここでギブアップか――
否、仙月アキトは諦めを知らない男だ。絶体絶命のピンチでこそ頭が冴える。
「――そうか!」
アキトはひらめいた。起死回生の策を。
「とあっ!」
迫り来る振り子の刃に対し、アキトはジャンプして、その上に飛び乗った。振り子のロープを握りしめながら、振り落とされないようにする。
すぐ横を隣の刃がかすめていったが、動きがバラバラでも刃の高さは三枚とも揃っているので、アキトが取ったポジションは安全だった。
まんまと振り子の刃が立ち塞がる廊下を攻略したアキトは、ブランコのように揺れる刃の動きを利用して、反対側へ華麗に着地した。虚しく揺れ続ける振り子の刃をチラッと振り返る。これで、もう美夜の部屋は目の前だ。
「ふっふっふっ、待たせたな。仙月アキト、ここに見参!」
苦労に苦労を重ねて、ようやく美夜の部屋へ辿り着くことができ、アキトはこれ以上ない達成感に浸っていた。あとは念願のお楽しみタイムだ。
「ウッシッシッシッ!」
アキトは手揉みをしてから、ドアノブに手を伸ばした。
ところが、美夜は想像以上に備えを万全にしていた。最後の罠は、振り子の刃などではなく、まだ残されていたのだ。
ドアノブに触れる直前、アキトの頭上から捕獲用の大きな網が降って来た。罠をクリアしたものと思って油断していたアキトは、頭から爪先までスッポリと包まれてしまう。
「しまった!」
今さら悔やんでも、もう遅い。
網は獲物を捕らえるとそのまま巻き上げられ、アキトの身体を巨大な蓑虫のように天井から吊り下げた。
「ち、チクショウ!」
アキトはドアノブに向かって網目から懸命に腕を伸ばした。もちろん、届くわけがない。宙づりにされたアキトは、ブランブランと情けない姿で揺れるだけだ。
「くそーぉ、こんなもの、すぐに引きちぎって──」
アキトは両手に力を込めて、網を引きちぎろうとした。だが、そこへダメ押しとなる罠が。
天井に設置されたノズルから、ピンク色のガスが噴射された。アキトはとっさに鼻と口を覆う。
ガスは延々と吐き出された。廊下がピンク色に煙っていく。
アキトは出来る限り息をしないようにした。吸血鬼 なので、人間よりも長く呼吸を止めていられるが、それにも限界はある。
美夜もそれを計算してのことだろう。ガスが途絶える気配はまったくなかった。
ガスを吸い込む前に網から脱出しようとアキトは必死にもがいた。だが、網はなかなか引きちぎれない。これも特別製なのだろう。
(ぐっ……せっかくここまで来て、諦められるかぁ! このドアの向こうにつかさたちがいるんだ! 絶対に忍び込んで行って、そんで……)
アキトは必死になって自分を奮い立たせようとしたが、やがてさすがの 吸血鬼 にも限界が訪れた。息を止めているのが苦しくなり、ちょっとだけガスを吸い込んでしまう。その途端、甘い匂いがしたかと思うと、急速に意識が遠退き始めた。
このピンク色のガスの正体は催眠ガスだったのだ。それも 吸血鬼 であるアキトですらもイチコロなくらい強力な。
(ふ、不覚……)
アキトは宙づり状態のまま、とうとう美夜の罠の前に屈した……。
その頃、ドア一枚を隔てた美夜の部屋の中では──
まだ、つかさと薫がベッドで身体を絡ませたまま、どうやってこの状況から抜け出すか、試行錯誤を繰り返していた。ちょっとしたツイスターゲームである。
「ちょっと、何処触ってんのよ!」
「薫こそ、動かないでってば!」
まだ寝ている美夜を気遣いながら、二人は小声で口論していた。
「とにかく、どいて! 早く!」
「う、うん」
つかさは苦労しながら四つん這いになり、仰臥している薫の上になる。
ようやく身体は離れたが、つかさはボタンの取れたワイシャツ一枚を羽織って横たわる薫の肢体を改めて見下ろすことになった。
ごくっ……!
無意識に生唾を呑み込む。それは暗がりの中でもハッキリと見えた。
「ヤだ……ジロジロ見ないで……!」
薫は恥ずかしそうに顔を背け、目をつむった。その仕種が男心をそそる。
「か、薫……」
いきなり、つかさは薫に覆い被さってきた。薫はビックリして、悲鳴を呑み込んでしまう。
「つ、つかさ……!?」
思いもしなかったつかさの大胆な行為に、薫の心臓は破裂しそうだった。
(ウソ……まさか……まさか、つかさが――!?)
薫は身を固くしながらも、つかさの身体を跳ね除けるようなことはしなかった。ギュッと目をつむったまま、隣の美夜が起きないことを祈る。
だが、つかさは薫に欲情したわけではなかった。実は、アキト撃退用の催眠ガスがドアの隙間から部屋の中にまで流れ込み、つかさを昏倒させたのだ。
どうやら美夜の設計ミスだったらしい。
「んっ……んー……」
やがてガスの効果は薫にも及んだ。つかさにのしかかられたまま、意識を失う。
こうして、つかさ、薫、アキト、美夜の四人は昏睡状態に陥った。恐らく、朝になるまで目覚めないことだろう。
夜中まで騒がしかった仙月宅がようやく静かになった。
もっとも、翌朝にはつかさと薫のとんでもない姿が発見され、さらに大変な騒ぎになることは想像に難くないが。
第9話おわり




