キミは強くなることに不安を持っているのかな?
軽い足音と共に、苦しげにネクタイを緩めながら、長身の青年がリビングへやって来た。
玄関にあった靴に気がつかなかったのか、車座になってババ抜きを楽しんでいたつかさたちを見て、いささか驚いたような表情を作る。
「おや、お客さん? こんばんは」
すぐに柔和な笑みを漏らしながら、青年はつかさたちに挨拶した。
つかさも薫も姿勢を正す。
「こんばんは。お邪魔しています」
「えーと、アキトの友達?」
「美夜のお兄ちゃんだよ!」
すかさず美夜が隣にいたつかさの腕にしがみついた。屈託のない美夜の行動に、つかさは赤くなる。
「あっ、いや……武藤つかさです。アキトくんと同じクラスです」
「同じく 忍足 薫 です。初めまして」
二人は立ち上がって挨拶した。すると青年は軽くうなずいた。
「アキトと美夜の兄、仙月 影人 です。よろしく」
名乗った影人は、物腰の柔らかな動作で、スッと右手を差し出した。
握手を求められているのだと気づくのに一瞬かかり、薫は慌てる。手を握られながら微笑みを向けられると、薫は少し照れたような顔をした。
「おや? そちらの指はどうされたんです?」
影人は薫の左手に気がついた。
「あっ、これはさっき、包丁で切ってしまって……」
薫は恥ずかしそうに言った。
「自分の指を料理しようとしたんだよ」
アキトが茶々を入れたが、薫は影人に手を握られたまま陶然としていて、反撃の気配すら見せない。それほどに目の前の影人に気を奪われていた。
「そう。女の子なんだから、気をつけて」
「はい……」
……ダメだ、こりゃ。
影人はアキトに似て、長身で色は白いが、持っている雰囲気は全然違った。
弟のアキトは目つきが悪く、不良じみた感じだが、兄の影人は黒縁のメガネをかけているせいもあるのか、根は真面目そうな印象を受ける。
だからと言って、決して堅物というわけでもない。何となく社会人とは思えないくらい茫洋とした人柄を漂わせつつ、大人の余裕のようなものも感じさせた。
続いて影人は、薫の隣にいるつかさとも握手を交わした。
薫のときと同様、優しそうな表情を崩さない。なのに、つかさの表情はわずかに曇った。
「……キミ、何か武術をやっているね?」
「えっ……?」
影人に言われ、つかさは戸惑った。影人は手に少しだけ力を込める。
「この手が教えてくれているよ。キミは強いと。──でも」
「でも?」
「これから、もっと強くなれる」
「………」
「おや? ひょっとして、キミは強くなることに不安を持っているのかな?」
「………」
答えないつかさに、影人は軽く微笑み、その手を離した。
「ようこそ。まだこっちに引っ越して来たばかりで散らかっているかもしれないけど、ゆっくりして行ってください」
影人はそう言うと、自分の部屋へ引っ込もうとした。その背中へ、アキトが声をかける。
「兄貴、メシは?」
「いや、シャワーを浴びたら、すぐにまた出掛ける。いつものように勝手に済ますつもりだ」
アキトに振り返りもせずに返答した影人は、リビングから立ち去った。その背中をずっと見送っていた薫が、ストンとソファに座る。
「……何か想像してたのと違うわ」
「何が?」
「美夜ちゃんのお兄さんよ。こいつのお兄さんっていうから、もっと違うイメージを持っていたんだけど、意外に普通って感じ」
「お前、オレにどういうイメージを持ってんだよ?」
アキトはすかさず突っ込んだが、その答えはなかった。と言うより、その必要はないだろう、というところか。
「ああいうお兄さんだったら、私も欲しいなあ」
薫は羨望の眼差しで、リビングの入口を振り返った。
「兄弟なら、薫には元気くんがいるでしょ?」
つかさが言った。
元気は薫の弟で、小学五年生だ。一人っ子のつかさは、弟のいる薫のことを、時折、うらやましく思う。それは妹を持ったアキトに対しても同様だ。
ところが、つかさから弟の名を出された薫は不服そうだった。
「元気なんて、まだ子供じゃない。私は優しいお兄さんが欲しいの! 影人さんって、ちょっと頼りなさそうに見えるけど、すごく優しそうでしょ?」
「そうかな?」
つかさは思わず呟いてしまい、慌てて口を噤んだ。
「どういう意味? つかさにはそう見えなかったわけ?」
「いや、それは……」
つかさは言葉を濁した。影人の弟妹であるアキトたちを前にして発言するのはためらわれたのだ。
あのとき――
影人と握手をした瞬間、つかさは感じた。
──怖い人だ、と。
アキトの兄であるということは、影人もまた 吸血鬼 であるということだ。
それは美夜にも同じことが言えるのだが、つかさに対して本当の妹のように甘えて来るせいか、知り合って間もないが、彼女のことをあまり 吸血鬼 だと強く意識したことがない。
同様のことはアキトに対しても言えて、学校ではほとんど一緒にいることが多いものの、彼が人間ではないことなど日常では忘れてしまっている。
しかし、影人の場合は別だ。目の前で握手をしたときの戦慄――これが人外の存在――すなわち 吸血鬼 なのだと、初めて意識した。そして、それを少しでも意識した途端、自分が恐怖に萎縮していくのをつかさは感じたのである。
影人の持つ雰囲気や仕種などは、すべて作り物ではないか、とつかさは考えていた。その本性がさらされたとき、影人は人間の敵にすら回るかも知れない。
そんなを想像すると、つかさは膝が震えた。
それからしばらく、四人がトランプで遊んでいると、再び影人がリビングに現れた。
シャワーを浴びて、小綺麗にし、真っ黒なスーツに着替えている。影人がやって来ると、つかさは居心地が悪そうに緊張した。
「じゃあ、出掛けて来る。――お二人さん、ごゆっくり」
「ありがとうございます」
愛想よく振る舞ったのは薫だ。すっかり影人のことが気に入ったらしい。
「──そうだ、アキト」
「ん?」
またジョーカーを手札に残して眉根を寄せているアキトが、兄に呼ばれて振り向いた。
「お前たち、夕飯、まだだろ?」
さっき、つかさのライスピザを食べ、その前にも美夜の作ったホットケーキを食べたが、あれから一時間くらい経っている。特にアキトは小腹が空いていた。
「今日はお客さんもいるし、これで何か出前を取れ」
影人はそう言うと、内ポケットから黒革の財布を取り出し、アキトに一万円札を渡した。
「やったーぁ!」
アキトはふんだくるようにして、影人から一万円を受け取った。
「ムダ遣いすんなよ」
一言クギを刺してから、影人は出掛けて行った。もちろん、アキトがそんなことを聞いているはずもない。
「よし! 今日は寿司だ! 特上にしようぜ!」
アキトは一人で決めると、電話のところへダッシュした。
「兄貴! 美夜のはサビ抜きね!」
辛いものが苦手な美夜は、寿司屋にかけようとする兄に注文するのを忘れなかった。
つかさと薫が顔を見合わす。
「い、いいのかな、ご馳走になっちゃって?」
「まあ、せっかくだから、お寿司くらいはいただいて、それから帰りましょうよ」
つかさも薫も図々しい方ではないが、寿司を取ると言われては、やっぱり食べたくなるのが人情だ。二人とも寿司は好物のひとつである。
すると、美夜が不満げな顔を見せた。
「えーっ、食べたら帰っちゃうの?」
時計は午後五時を回っていた。出前がどのくらいで到着するか分からないが、寿司を食べ終わったら七時近くにはなるだろう。明日は日曜日で学校はないが、いつまでもお邪魔するのは悪いし、家の者たちだって心配する。
「お兄ちゃんたち、今日、泊まっていけばいいじゃない」
美夜はあっけらかんと提案した。
「いや、さすがに、それは……」
つかさが渋る。薫も苦笑した。
「美夜ちゃん、気持ちは嬉しいけど、私たちが泊まっていくわけにはいかないわ」
「どうして?」
「どうしてって……この家には私たちだけじゃなく、あいつもいるのよ! 一晩同じ屋根の下で寝ていたら、大変なことになるわ!」
薫は真顔で言った。二人が泊まると言ったら、アキトはあらゆる手段を使って、どちらかの──いや、多分、両方の布団に潜り込んで来ようとするだろう。まさに貞操の危機だ。
だが、それでも美夜は諦め切れないらしい。
「ええーっ、大丈夫だよぉ。美夜の部屋に泊まれば。お兄ちゃんも一緒に寝よ?」
「えっ!?」
つかさの思考が硬直した。
美夜の部屋に泊まるということは、そこには薫もいるということだ。うら若き女二人の寝室に男が一人――つい想像してしまい、つかさは赤面した。
「み、美夜ちゃん、無理だよ!」
「どうして?」
「その……つまり……若い男女がひとつの部屋にってのは……昔から『男女七歳にして席を同じうせず』って言うし……」
「何それ? どういう意味?」
真っ赤になって説明しようとするつかさに、美夜はあくまでも素朴な疑問をぶつけた。
赤面しているのは薫も同じだった。美夜ばかりではなく、つかさとまで一緒に寝るはめになったら大変だ。思わず、先週の日曜日の出来事を思い出す(※ 第7話を参照のこと)。
「み、美夜ちゃん、わがまま言っちゃいけません!」
薫は、このときばかりはお姉さん口調で美夜を叱った。途端に美夜はしゅんとなる。
「くすん……」
悲しそうな顔をしている美夜を見ていると、薫もついつい悪いことをした気分になって来る。慰めるつもりで、美夜に優しく声をかけた。
「ごめんね、美夜ちゃん。お泊まりは出来ないけど、その他のことなら聞いてあげるから」
「……ホント?」
このとき、美夜の目がキラリと光ったのを薫は気づいたかどうか。
「ホントよ。約束する。ウソじゃないから」
すると美夜はパッと顔を輝かせた。
「じゃあ、私、お姉ちゃんと一緒にお風呂入りたい!」
「──えっ!?」
美夜の願いに、薫の表情はたちまち強張った。




