これが本当の切り札──なんてな
「どひーっ! うひゃーっ! もう堪忍してーな!」
アキトの腕の中で、寧音は絶叫していた。
「うるせーっ! 黙ってろ、メガネ!」
襲い来るアヤネの魔の手から逃れるため、アクロバットのように飛んだり跳ねたりしながら、アキトもまた怒鳴り返した。
だが、寧音からしてみれば、それはシートベルトなしで絶叫マシンに乗っているようなものだ。命がいくつあっても足りない。
何しろ、寧音はメガネがないせいで、何がどうなっているのかまったく分からない状態だ。アキトの動きを事前に予測することが出来ず、いつ地面に激突するかとハラハラする。
もっとも、目が見えないお蔭で、彼女に襲いかかろうとしている、この世のものとは思えない恐ろしい化け物の姿も知らずに済んでいるのだが。
一方、災難なのはアキトだ。
アヤネからは徐々に追い込まれ、救おうとしている寧音には抵抗されて、まるで「前門の虎、後門の狼」である。いっそ、抱えている寧音をおっ放り出せたら、どんなに楽か。
「死ぬー、死んでまうーっ!」
「おい、メガネ! 口を閉じてろ!」
「そない言われても――でぇっ!」
寧音の喚き声が急に止まった。どうやら着地した衝撃で舌を噛んだらしい。
ほれ、言わんこっちゃない、とアキトはほくそ笑む。
しかし、状況は芳しくない。
アヤネの攻撃を回避しながら、アキトは異界の出口を探そうと、超感覚を研ぎ澄ましていた。
本当は、ここへ最初に辿り着いた場所こそが出入口になっているはずなのだが、公園の風景は消え、灰色一色の空間では、もう何処が何処やら分からなくなってしまっている。おまけにアヤネの執拗なる攻撃だ。
「イヤよ! イヤ、イヤ! 帰っちゃ、イヤァァァァァァァッ!」
黒い不定形の物体と化したアヤネは、灰色の空間を圧するような大きさにまで膨れ上がり、アキトたちを呑み込もうとしていた。
これ以上、逃げ続けるのにも限界がある。さすがのアキトも焦りを禁じ得なかった。
だが、そのとき──
“兄貴!”
聞き覚えのある声がアキトの耳に届いた。アキトはハッとし、声が聞こえた方向に顔を向ける。
「美夜か!?」
それはアキトの妹、美夜の声だった。
吸血鬼 同士では、ある程度の距離であればテレパシーが通じる。異なる次元にいるはずなのに、ここまでハッキリと聞こえるということは、二つの世界を繋げる次元のトンネルが近いという証拠だ。
「何処だ、美夜!?」
アキトは妹にテレパシーを飛ばした。
“こっちだよ、バカ兄貴! まったく、帰り道も分からなくなっちゃったの? 妹に余計な手間をかけさせないでよね!”
普段からアキトのことを兄として尊敬していないのか、美夜のテレパシーは呆れ返っていた。だが、これでようやく出口の位置をつかむ。
「うるせえ! 兄貴をバカ呼ばわりしやがって! ここから戻ったら、ただじゃ済まさねえぞ!」
妹へのおしおきを決めつつ、アキトは出口へと方向を転じた。
そうはさせじ、とアヤネが行く手を塞ぐ。
「行っちゃ、イヤァァァァァァァッ!」
黒い壁が上から降りて来た。アヤネだ。
ここを死守されたら、逃げ道がない。万事休すである。
アキトは寧音の身体を小脇にかかえると、空いた右手でズボンのポケットを探った。一か八かの賭け――
同時にアキトはジャンプし、前を塞ごうとする壁に向かって、ポケットの中の物を叩きつけた。その刹那、蠢いていたアヤネの動きがピタリと止まる。
アキトは作戦の成功を確信した。
「これが本当の切り札──なんてな」
黒い壁に貼られた一枚の紙──それはミサが持っていた呪符だった。
ありすの手から奪い取ったとき、クシャクシャに丸めたのだが、その辺に投げ捨てるとまた使用されかねないので、ポケットの中に突っ込んでおいたのである。まさか、それが役に立とうとは。
呪符の効果は強力で、アヤネの時間だけ止まってしまったかのようだった。
着地したアキトは、行く手を塞ぎかけていた黒い壁を見上げた。
「あばよ、ひとりぼっちの化け物。もう淋しさなんて感じねえだろ。あとは夢の中で遊んでな」
アキトはそう言い残すと、寧音を抱え直して、壁の下をくぐり抜ける。
そこが出口だった。
「出て来たわ」
おもむろにミサが呟いた。
すると、つかさたちの目の前に、突然、アキトと寧音が現れた。
オカルトめいた現象に驚きつつも、ミサと美夜以外の全員が諸手を上げて、二人へ駆け寄って行く。
「アキト!」
「寧音!」
二人の無事な様子に、つかさたちは喜んだ。寧音には、彼女の安否を心配していたクラスメイトの晶とありすが抱きつく。
「もう、このバカ! 心配させやがって!」
「良かったぁ、ねねちゃん、帰って来て!」
二人は涙をこぼしそうになるほど、安堵の表情を浮かべていた。
ところが、寧音一人だけ事情を把握していない。
「はっ? 何がや?」
ミサが拾ってくれたメガネを晶から返してもらいながら、寧音はキョトンとした顔をしていた。
「だから、お前はさあ、神隠しに遭ってて──」
晶が説明してやろうとすると、寧音はいきなり吹き出した。
「神隠し? 晶はん、藪から棒に何を言い出すねん。そんなん、迷信や、迷信。このご時世、科学的にあるはずないやないか」
「だって、お前は今まで──」
「今まで? ――そやそや! それが聞いてえなあ! このメガネ失くしてしもうて、難儀しておったんや! この近所の女の子にも探してもろたんやけどな、これがなかなか見つけられへん。どないしようか思うたわぁ」
「いや、だから――」
「そのうち、何や眠とうなって、ベンチで寝てたら、いつの間にか仙月はんに抱え上げられてて、ビックリしたわあ。まったく、ウチが気絶でもしとると思うたんかいな? ――そう言えば、あの女の子、何処へ行ったんやろ?」
あまりにも都合のいい寧音の解釈に、晶たちは言葉を失った。
とにかく、寧音は自分の目で見たことしか信じないタチだ。メガネがなかったことによって、異界での体験はすべてなかったことになってしまっている。
まあ、それはそれで幸せなことかも知れない。とにかく、こうして無事に戻って来られたのだし。
「アキト、よくぞ無事で」
つかさもホッとしたのか、うっすらと涙が浮かんでいた。そんなつかさの髪の毛をアキトはクシャクシャにする。
「へっ、あれくらい何でもねえよ。心配すんな」
アキトは笑いながら、うそぶいた。
そんなアキトに疑わしそうな視線を向ける人物がいた。妹の美夜だ。
「兄貴。美夜がたまたまここを通りかかったから良かったものの、そうじゃなかったらまだ帰って来られなくて、吠え面かいてたんじゃないの? まったく、いつも大口を叩く割には情けないんだから。この賢くて可愛い妹に感謝してよね」
そう言いながら、美夜はつかさの腕に自分の腕を絡めた。
突然で、しかも美少女である美夜の大胆な行動に、つかさは思わず赤くなる。
当然、アキトとすれば面白いはずがない。
「誰が『賢くて可愛い妹』だよ? いつだって、オレのことを兄貴だと思ってねえだろうが。──それに何でつかさに引っついているんだよ、おめえは?」
すると美夜は、益々、嬉々としてつかさに擦り寄った。
「さすがは兄貴が目をつけただけのことはあるわね。こういうところだけは感心するわ。美夜も一目で気に入っちゃった! ──ねえ、『お兄ちゃん』って呼んでもいい?」
美夜は甘えるようにしな垂れかかり、つかさにねだった。
こんな可愛い女の子にせがまれて、否を言える男はいない。
「えっ? う、うん、別にいいけど……」
「やったぁ! じゃあ、これからは美夜の『お兄ちゃん』ね!」
とうとう美夜はつかさに抱きついた。
黙っていられないのはアキトだ。
「ふざけるな! つかさはオレのモノだ! あとからしゃしゃり出て来やがって、泥棒ネコみたいなマネすんな!」
アキトはつかさから美夜を引き離そうとした。だが、美夜は頑として離れない。
「そんなの誰が決めたのよ!? お兄ちゃんだって、兄貴より可愛い美夜の方がいいに決まってるもん! ──ねえ、お兄ちゃん?」
「えっ、あっ、いや、その……」
「そら見ろ! つかさだってオレの方がいいって言ってんじゃねーか!」
「……それは言ってない」
「絶対に、美・夜!」
「オ・レ・だ!」
吸血鬼の兄妹は、つかさを巡って睨み合い、火花を散らした。
それを傍目から見ていた薫がため息をつく。
困り果てたつかさは、薫に助けを求めるような視線を送って来た。
それに気づいた薫は、またしても顔を赤らめてしまう。どうしてもつかさの顔を見ると、この前の日曜日の出来事を思い出してしまい、意識過剰になってしまうようだ(※ 詳しくは第7話を参照)。当分はこの調子だろう。
グゥ~ッ!
そこで大きな腹の虫が鳴った。寧音だ。
「ああ、何や、腹減ったなあ。目が回って死にそうや。なあ、どっかで何か食べて帰れへん?」
寧音が空腹なのも無理はなかった。神隠しに遭った昨日から今日まで、何も食べていないのだ。
その提案に異議を唱える者はなかった。
「賛成!」
晶たちは連れだって、歩き出そうとした。その前にアキトが回り込む。
「ちょっと待った!」
「何よ?」
「お前ら、一番の功労者であるオレにちゃんと感謝しているだろうな?」
「はあっ?」
「まあ、オレは心の広い人間だ。今日のことは、お前ら全員の奢りで勘弁してやろう! どうだ? それくらいしてもらってもバチは当たらないだろ? なっ?」
勝手にほざくアキトへ、薫がスッと進み出た。そして、いきなりアキトの額をぴしゃりと叩く。
何をしやがる、と当然のように喚き散らすだろうと思われたが、なぜかアキトは大人しかった。一言も発しず、微動だにしない。
「あーっ、それ!」
真っ先にありすが声を上げた。
見れば、叩かれたアキトの額にはミサの呪符が――
薫は、ペロッと舌を出した。
「さっき、黒井さんからもう一枚貰ったの」
「さすが忍足!」
「さあ、うるさいのもいなくなったことだし、みんなで行きましょう。──美夜ちゃんも一緒においで」
「わーい」
こうして、児童公園に硬直したまま立ち尽くすアキト一人を残し、薫たちはファミレスへ向かった。
このあと、アキトがどうなったかは誰も知らない……。
第8話おわり




