まったく……お前も可愛い顔してキツいこと言ってくれるぜ
木暮と分離した怪物は、梓 の言う “ 負念獣 ” として、破壊衝動の塊と化していた。
目の前のものすべてが敵――最初の標的に定めたのは近くにいたアキトたちだった。
「木暮くんは危ないから下がって! ──アキト、これで思う存分、暴れられるでしょ?」
つかさは腕の中のアキトに言った。アキトは苦痛に顔を歪めながらも、つかさに笑みを見せる。
「まったく……お前も可愛い顔してキツいこと言ってくれるぜ」
「アキトの影響かもね」
「抜かせ!」
軽口を叩いている場合ではなかった。すぐに “ 負念獣 ” が襲いかかって来る。
つかさはとっさにアキトの身体を突き飛ばし、自らも “ 負念獣 ” の鋭い爪を回避した。そして、体内で《氣》を練りにかかる。
だが、簡単には、その猶予を与えてくれそうになかった。“ 負念獣 ” は無防備に見えるつかさに狙いを絞る。
「させるか!」
アキトは “ 負念獣 ” の背後から跳び蹴りを喰らわせようとした。しかし、腹部の傷がアキトの動きを鈍らせる。なおかつ、“ 負念獣 ” もその動きを見切っていた。
“ 負念獣 ” には、木暮の理性から切り離されたことによって、これまで見られた攻撃パターンというものが欠如していた。
早い話が無茶苦茶な攻撃の仕方だ。まだ、喧嘩のイロハを知らない木暮の意識を持っていた方が御しやすかっただろう。
腕を振り回すようにして、接近したアキトの身体を弾き飛ばした。
「くっ!」
アキトは巧く勢いを殺して着地したが、傷口のせいで堪らず膝を折った。いくら 吸血鬼 とは言え、表情はかなり辛そうだ。負傷さえしていなければ、アキト一人でも余裕で闘えるのだが。
「兄貴ー、頑張れー!」
そんなアキトに声援を送る者がいた。野次馬の中に紛れている大神だ。
その姿を見たアキトは、こめかみに青筋を立てる。
「イヌ! 少しはお前も手伝ったらどうだ!?」
大神は不死に近い肉体を持つ狼男。戦力として加わってもらえれば助かる。
ところが、大神は否を言った。
「まだ昼ですもん! 無理ですよ!」
狼男は夜にならないと、その真価を発揮できない。アキトは大神に向かって、中指を立てた。
「あとで憶えてやがれ!」
そんなことをしている間も、つかさは “ 負念獣 ” との熾烈な闘いを続けていた――とは言え、つかさが一方的に敵の攻撃を回避しているだけである。こうも攻撃が激しくては、《氣》を溜めているどころではない。
ここはどうしてもアキトが時間稼ぎをする必要があった。
「うおおおおおおっ!」
アキトは再び怪物の背後から攻めた。気力を振り絞って突進する。
“ 負念獣 ” は、その気配に気がついた。間合いに入ったところで、巨大な腕を振るう。
「同じ手を喰うか!」
それがアキトの狙い目だった。鋭い攻撃を跳躍で躱し、“ 負念獣 ” の頭部に組みつく。肩車のような格好だ。アキトに取りつかれた “ 負念獣 ” は狂ったように上体を揺すった。
「なろぉ!」
アキトは左手で頭部の角をしっかりと握り、振り落とされないようにしながら、右手の指で “ 負念獣 ” の右眼を突き破った。さすがの “ 負念獣 ” も堪らず苦鳴の咆哮を発する。
「グオオオオオッ!」
「アキト!」
「早くしろ、つかさ! ありったけの《氣》をぶち込め!」
そう叫ぶアキトの顔もまた歪んでいた。出血が止まらず、次第に力が抜けてきているのだ。長くはこうしていられそうにない。
つかさはうなずいた。心を落ち着け、《氣》の集束を高める。焦って精神統一を乱しては、清廉なる《氣》を溜めることが出来ない。
その間に、アキトは “ 負念獣 ” の残った片眼も潰した。
両眼を潰され、逆上した “ 負念獣 ” が激しく暴れ回る。
アキトは “ 負念獣 ” の頭にしがみつきながら、まるでロデオをしているカウボーイさながらに振り回された。
「振り落とされてたまるもんか!」
両脚で “ 負念獣 ” の首を絞めるようにして、アキトは必死に耐えた。あとはひたすら、つかさの《氣》が早く充填されることを祈る。
しかし、それは上手くいっていなかった。
早くアキトを助けなくては――と思えば思うほど、つかさに焦りが生じ、なかなか《氣》を集めることが出来ない。そのもどかしさが、なおさら集中力を乱す。
懸命に組み付きながら、アキトは “ 負念獣 ” の顔面に何発ものパンチを喰らわせる。
だが、タフな相手はそれでも倒れない。また、アキトのパンチも出血の影響から徐々に威力を失っていた。
“ 負念獣 ” は暴れるだけでなく、両腕でアキトを払い落とそうとした。
アキトは巧みに身体を揺すり、怪物のバランスを崩そうと試みた。それでも掠めた爪が背中や腕に小さな傷をつける。
このままでは二人とも殺られてしまう。アキトがそう思った刹那──
「グオオオオオオッ!」
眼が見えない “ 負念獣 ” は闇雲に暴れていたが、運悪く、その腕が《氣》を溜めている最中のつかさを襲った。
つかさは集中していたために隙だらけ。
アキトも意識が朦朧とし始めており、一瞬、気づくのが遅れた。
「つかさ!」
アキトは叫んだ。だが、“ 負念獣 ” の爪はつかさのすぐ目前――間に合わない!
「武藤くん!」
そのつかさの身体を突き飛ばすように飛び込んで来たのは、何と木暮であった。彼はつかさの忠告を聞かず、安全なところまで退避していなかったのだ。
ザクッ――!
大量の血が飛び散った。小さな身体が宙を舞う。
血しぶきは放物線の軌跡を描き、次の瞬間、地面に叩きつけられた木暮自らの肉体に降りかかった。
その光景をまるでスローモーションのように見ながら、アキトとつかさはまったく動けなかった。
「こ、木暮くん……!」
身を挺して、友達と呼んでくれたつかさを守った木暮は、自らの心が産み落とした “ 負念獣 ” の手によって倒れた。何という皮肉さであろうか。
つかさはまだ眼の見えない “ 負念獣 ” が暴れているのも構わず、倒れている木暮に駆け寄った。ぐったりとした木暮の身体を抱きかかえる。
すると、木暮の目が薄く開いた。
「む、武藤くん……僕にも……出来たよ……友達を……守ること……が……」
「うん」
つかさは泣きながらうなずいた。涙がこぼれ落ちて、木暮の頬を濡らす。
木暮は笑った。これまで見たことのない穏やかな笑みで。
「ごめん……それから……ありがと……」
それだけ言うと、木暮の首がガクンと力を失った。つかさはハッとして、木暮の身体を揺する。
「木暮くん! 木暮くんっ!」
つかさは呼びかけた。だが、木暮はもう目を開けない。つかさは木暮の身体を抱きしめた。
そんなつかさの姿を見て、アキトもまた闘志を呼び覚ます。
アキトの顔には飛び散った木暮の血がついていた。アキトはそれを中指で拭い、ペロリと舐める。すると、アキトの目がカッと見開かれた。
血を糧とする 吸血鬼 が、わずかなりとも木暮の血を得て、その本能に目覚めた瞬間だった。
「化け物、ただじゃおかねえぜぇぇぇっ!」
“ 負念獣 ” の首を絞める両脚に力を込め、アキトは吼えた。振りほどくことが出来ず、“ 負念獣 ” はもがき苦しむ。
さらにアキトは “ 負念獣 ” の上に乗ったまま、連続で顔面を殴打した。さっきまでとは違い、堪らず怪物は悲鳴のような唸り声を上げて、のたうち回る。効いているのだ。
アキトが反撃を加えているうちに、つかさはそっと木暮をグラウンドに横たえ、すっくと立ち上がった。そして、涙の滲む目で “ 負念獣 ” を睨みつけ――つかさがこれほどまでに怒りを露わにしたのは初めてかも知れない。
「許さない……絶対に許さないっ!」
ギリッと、つかさは奥歯を噛んだ。
「つかさ……」
いつの間にか野次馬の中に紛れ込んでいた薫は、そんなつかさを見て息を呑み、右の拳を胸の前でキュッと握った。
つかさは上履きを脱いだ。地面の上で両脚を肩幅より少し大きめに開くと、己の体重を感じながら腰をわずかに落とす。
精神集中――臍の下、すなわち丹田と呼ばれる部分で《氣》を練る。と同時に、両脚にも意識を向けた。
古武道の師であった祖父、武藤 源氏郎 から受け継いだ奥儀のひとつ――それは体内にある《氣》ばかりでなく、大地の気脈からも力を吸い上げる技であった。これによって、発勁の威力を二倍にも三倍にもすることが可能になる。
つかさは両脚から力が流れ込むを感じた。
まだ未熟なつかさにとって、この技の成功率は未知数だ。が、上履きを脱いだことと土のグラウンドだったことが味方したらしい。
それに、木暮への想い――先程とは比較にならないスピードで《氣》が高められてゆく――
つかさの目がカッと見開かれた。
「天智無源流奥儀・紫龍滅烈!」
つかさの右脚が一歩踏み出された瞬間、《氣》のエネルギーは急速に蓄積され、突き出した両腕に流れ込んだ。そのすべてが青白い光となって “ 負念獣 ” の身体に叩き込まれる。
ドオオオオオオオオン!
つかさの小さな身体からとは、とても思えないくらいのエネルギーの放流が放たれた。
それを受けた “ 負念獣 ” の巨体は弾かれたように吹き飛んだ。グラウンドの土を抉るようにして、二十メートル後方に背中から倒れる。
その衝撃によってアキトも放り出されたが、辛うじて離脱し、着地することに成功した。
両腕を突き出した体勢のまま、つかさは肩で大きく息継ぎし、技の成功を見届ける。
「やったぁーっ!」
その瞬間、野次馬たちから歓声が湧いた。もちろん、恐ろしい怪物を倒したつかさへの賛辞だ。
だが、つかさに死闘を終わらせた喜びも、歓声に対するはにかんだ様子もない。あるのは悲しみだけ――つかさは自分の身代わりになった木暮を振り返った。
そこへ真っ先に駆け寄って来る女子生徒がいた。沙也加だ。
「待田先輩……」
沙也加は横たわっている木暮の傍らで膝をつくと、急いで容態を診た。瞳孔を確認し、木暮の胸に耳を当てる。
つかさは突っ立ったまま、それを呆然と見守ることしか出来なかった。
すると沙也加はつかさを見上げた。
「生きているわ! 病院へ連れて行けば助かるかも」
「ほ、ホントですか?」
そうこうしているうちにパトカーと救急車のサイレンも聞こえて来た。多分、誰かが呼んだのだろう。
木暮が助かりそうだと分かり、つかさはやっと表情を緩めた。途端に全身の力が抜け、その場にへたり込む。
そんなつかさの元へ、アキトが這いずるようにして近づいた。
「やったな」
アキトはウインクした。だが、出血は相変わらずだ。心なしか顔色も悪い。
「アキト、ケガの方は?」
つかさが心配そうに尋ねた。アキトは安心させるように笑みを作る。
「心配すんな。オレを誰だと思ってやがる。これくらいの傷、唾つけときゃ、すぐに治らあ」
そう言った途端、アキトは痛みに顔をしかめた。半分はやせ我慢だったようだ。つかさは思わず笑ってしまった。
多くの生徒たちが、まだ安全確認が取れていない現場を遠巻きにしている中、薫と大神も、行っちゃいかん、と怒鳴られつつ、つかさたちのところへ来た。薫はつかさへ、大神はアキトにそれぞれ駆け寄る。
「つかさ、ケガはない?」
例によって心配してくる薫に、つかさは苦笑した。いつもなら疎ましいところだが、今は何だか嬉しい。
アキトを気遣った大神は、よりにもよって足蹴にされた。もっと前に助けに来なかったのを根に持たれたのである。
「この薄情者がぁ!」
「ヒーッ、許してください!」
一同から笑いが起きた。
これですべて一件落着、と誰もが安心しかけた刹那――
突然、それらを見守っていた野次馬たちが驚きの声を上げた。その緊迫した空気に、つかさたちは反射的に倒したはずの怪物の方を振り返る。
「そ、そんな――!?」
つかさの奥儀・紫龍滅烈 をまともに喰らったはずの “ 負念獣 ” は、驚くべきことに立ち上がっていた。一同は身を固くする。
アキトも大神に支えられながら起き上がった。
「まだ、やろうってのか? 上等じゃねえか」
とは言うものの、さしもの 吸血鬼 であるアキトも、今は立っているのがやっとの状態だ。
そうなると頼みの綱はつかさだけだが、もう一度、奥儀である 紫龍滅烈 が成功するかどうかは、やってみなければ分からない。
とはいえ、“ 負念獣 ” もまた深刻なダメージを被っていた。その土手っ腹には、つかさの 紫龍滅烈 を受けて大きな穴が開いている。足下もよろめいており、立つのもやっとという感じだ。
“ 負念獣 ” はしばらく、見えないはずの眼でアキトたちをジッとねめつけていた。
早々にリターン・マッチか、と誰もが肝を冷やす中、“ 負念獣 ” はいきなり身を翻した。そのままグラウンドのフェンスを素早く乗り越え、何処かへ逃亡を図る。どうやら勝負はお預けらしい。
「た、助かったぁ……」
止めていた息を大きく吐き出したのは大神だ。生きた心地がしなかったに違いない。
しかし、それは他の者たちも多少の差はあれ、同様だっただろう。一同の緊張感が解けるのが互いに分かった。アキトなどは、大神の肩から手を離して、その場に座り込む。
「やれやれ、逃がしちまったなあ」
そうは言うが、何処となくホッとしたようなところがあった。恐らくはアキトもとっくに限界だったのだろう。
ようやく化け物がいなくなったグラウンドに、これまで野次馬だった生徒や教師たちが、こちらの方へ駆け寄って来るのが見えた。その中には制服警官や担送車を押した救急隊員もいる。厄介なのはこちらの方かも知れない。
「――アキト、どう説明する? みんなに目撃されちゃったけど」
事情説明のことを考えるとつかさは頭が痛かった。木暮と怪物のこと、アキトの人間離れした活躍のワケ――これがさらにマスコミにでも報道されたら、日本中が騒然とするだろう。
だが、アキトはニヤリと笑った。
「まあ、怪物という非常識な存在が引き起こした事件だ。多少、無理のある説明をしたって通用するだろ。どうしてもダメなときは、きれいさっぱり忘れてもらおうじゃないの」
アキトは面白そうに言って、ウインクをした。
怪物の逃亡により、死闘には終止符が打たれた。
理事長の 玉石 梓 は急に興味を失ったかのように踵を返す。屋上の入口には、梓の従者とも呼べる不知火が影のように従っていた。
校舎の中に戻りかけた梓であったが、不意に茫然自失といった感じのカレンを振り返った。
「毒島 先生。なかなか面白い見せ物でしたわ。彼の真の力を見極めることは出来ませんでしたが、ハプニングがなければ、あなたが呼び覚ました “ 負念獣 ” を倒すことは造作もなかったでしょう」
梓にそう言われ、カレンは唇を震わせた。拳を固く握ったせいで、マニキュアを塗った爪が手の平に食い込む。
「木暮 春紀 の心の闇は、最強の “ 負念獣 ” を出現させるのに、またとない好素材でした……今日、敗北を喫したのは、この研究がまだ完成していなかったからです」
「完成していれば、負けることはなかったと?」
「はい。木暮春紀との分離さえなければ――もし、次の機会を与えていただけるのなら、もっと “ 負念獣 ” の能力を引き出す方法を見つけてみせます」
カレンの言葉に、梓は微笑みを浮かべた。
「分かりました。では、次に期待しましょう。もっとも、あの木暮という生徒以上の素材が見つかれば、の話ですが」
そう言って梓は不知火を伴い、校舎の中へと消えた。
だが、今度はカレンがゾッとするような笑みを浮かべる番だった。
「……その心配には及びませんわ、理事長。次の素材は、もう見つけてあるのですから」
そう呟くカレンの視線の先には、生身の人間ながら “ 負念獣 ” に敗北を与えた、武藤つかさの姿があった。
深手を負った “ 負念獣 ” は、琳昭館 高校から二キロほど離れたところにある公園に身を潜めていた。
公園と言っても、小さな児童公園の類ではなく、都会の一角にポッカリと緑豊かな自然を残したものである。時折、散策路をジョギングしている人やイヌの散歩に訪れる者はいるが、人通りはとても少ない。
また、太陽が西に傾いたお蔭で、夕闇がその異形を覆い隠す。大きな図体をした “ 負念獣 ” が息を潜めるには手頃な場所だと言えた。
呪詛のような低い唸り声を漏らしながら、“ 負念獣 ” は傷ついた肉体を休めていた。
木暮の心の闇より生まれた “ 負念獣 ” は、今や完全に自我を持っている。
その “ 負念獣 ” が抱く感情は怒りと憎しみ――
アキトとつかさによって、ひどく痛めつけられ、両眼を失い、退却を余儀なくされた悔しさ――
それらはすべて “ 負念獣 ” のエネルギーと化した。果たして、ここまでの進化をカレンでさえ予測していたかどうか。“ 負念獣 ” は自ら作り出す負のエネルギーによって、恐るべきスピードで回復しようとしていた。
日が没し、公園内に外灯の明かりが灯り始めた頃、“ 負念獣 ” はこちらに近づいて来る足音に気づいた。
あと少しで傷が完治する。その前に発見されたくない。
ところが足音は躊躇なく、真っ直ぐに向かって来た。まるで “ 負念獣 ” の居場所などお見通しだと言わんばかりに。
「そんなに殺気立ってちゃ、見つけてくださいって言っているようなものだぜ」
現れた男は、“ 負念獣 ” に語りかける。まるで言葉の分かる人間と接するかのようだった。
二十代半ばくらいの若い男は、スラリとした長身に黒いスーツをまとっていた。ネクタイも黒ならば、ワイシャツも黒、おまけに両手は黒革の手袋――という徹底ぶりだ。辺りは暗くなったというのに、サングラスすらも外さない。
“ 負念獣 ” は警戒心を強めた。次第に唸り声が大きくなる。
だが、男の方はあくまでも自然体――むしろ、この状況を楽しんでいるような素振りさえ窺える。
「どうした? オレを殺さないのか? それとも、深手を負って動けないのか?」
男の挑発――
やむを得ず、“ 負念獣 ” は両腕を掲げるようにして立ち上がった。
「グルルルル……グオオオオオオオオッ!」
宵闇の公園に “ 負念獣 ” の咆哮がこだました。それと時を同じくして、秋の夜風が木々を騒めかせる。それは砂浜に打ち寄せる波の音に似ていた。
黒一色で決めた男は “ 負念獣 ” を見据えたまま、右手の手袋を外した。
そこから現れた、男性の手とは思えぬほど華奢な手――血が通っていないのではないかと疑いたくなるほどの青白さ――それは月明かりが反射して輝いているようにも見えた。
不敵な相手に対し、“ 負念獣 ” は猛然と襲いかかった。男も怪物へ向かって疾走を開始する。
両者、まったく同じタイミングで跳躍した。月光をバックにして浮かび上がる二つのシルエット――それは空中で交差し、その位置を見事に入れ替えた。
次の刹那──
ドッ――!
何か重い物が地面に落下したような音が聞こえた。その正体を月明かりが照らし出す。
そこには “ 負念獣 ” の巨体が前のめりの無様な格好で地面に突っ伏し、動かなくなっていた。さらに、その側で転がっている “ 負念獣 ” の頭部――
一瞬の死闘であった。
まさか交錯した瞬間に繰り出した男の手刀が、“ 負念獣 ” の首を跳ね飛ばしたと誰が信じられよう。
男は優雅とも言える身のこなしで振り向くと、再び手袋をはめた。
アキトとつかさが苦戦し、結局、取り逃がしてしまった “ 負念獣 ” を、こともなげに斃してしまったこの男とは、いったい、何者なのか――?
タフさを売りにしていた “ 負念獣 ” も、さすがに頭と胴体を切り離されては生きていられるはずがない。
木暮の観念から具現化された “ 負念獣 ” は、死と共にその存在ごと消滅してゆく。巨大な死体は、まるで炭酸の泡が弾けるように徐々に消えていった。
「お見事でした」
大きな茂みの陰から、背の低い小太りな男が姿を現し、男への賛辞を送った。
それは琳昭館高校の校長、信楽 福文 だった。相変わらずハンカチで汗を拭うようにしている。男に対する態度も、理事長のときと同じ、おどおどしたようなところがあった。
サングラスを外した男は、信楽校長を振り返る。
「世辞はいい。こっちも仕事だ。それより、ちゃんと指定した口座に報酬を振り込んでおいてくれ。いつかみたいに遅れたなんてのは、なしにしてくれよ」
「それはもう」
男に念を押され、余計に信楽校長は汗を吹き出させた。
間もなく完全に消滅しようとしている “ 負念獣 ” の死屍に男は一瞥をくれた。
「──しかし、この程度の相手に、あいつも何を手間取ったんだか。まったく、こちらの手を煩わせてもらいたくないものだな」
辛辣な口ぶりで呟くと、男はくるりと背を向けた。後ろ姿のまま、依頼人である信楽校長に別れの手を振る。
「じゃあな」
人知れず死闘を見守った夜空の月は、去りゆく男の後ろ姿に長い影をもたらしながら、寒々と冴え渡っていた。
第5話おわり




