やめろ、このドラキュラ!
「吸血鬼……ドラキュラ……痴漢……ぶつぶつ……」
翌朝、登校したつかさは、教室にある自分の席に座りながら、うわごとのように呟いていた。
昨夜出会った 仙月 明人 と名乗る男――
まさか、彼が 吸血鬼 だったとは。
家々の屋根を飛び移って行く姿は、決して幻などではなかった。あれは人間の成せる業ではない。信じたくはなかったが、認めざるを得ないようだ。
――この世に 吸血鬼 は実在する!
「ああ、血を吸われないでよかったぁ!」
つかさは首筋を押さえ、安堵の吐息を漏らした。そのまま机に突っ伏す。
「あれ? 吸血鬼 が欲するのは、美女の生き血のみだったっけ?」
つかさは 吸血鬼 にまつわる伝説を思い出そうとしたが、いや、と思い直す。
――あのアキトのハレンチな態度からすれば、男だろうと女だろうとお構いなしかも!
実際、つかさは男にも関わらず、お尻を触られた。性別を明かしても、それをアキトが気にした様子はない。「可愛ければそれでいい」とアキト自身が言っていたのを思い出す。
つかさはアキトに襲われるシーンを思い浮かべて身震いした。もっとも、それは首筋に乱杭歯を突き立てられるのではなく、なぜか赤いバラの花を背景にして、つかさが裸に剥かれる耽美な光景であったが……。
――待てよ?
最近、巷を騒がしている抱きつき魔は、やはりアキトだったのではないか。
被害者の女性は皆、ショックで寝込んでいると聞く。その犯人が人間ではなく、吸血鬼 ならば納得のいく説明にならないか。
そこまでの考えに至り、つかさは事の重大さに気がついた。ハッと身を起こす。
「おはよ、つかさ!」
ゴツッ!
いきなり後頭部を殴打され、つかさは机ごとひっくり返りそうになった。それも中身がギッシリと詰まった学生鞄による一打で。
「てっ!? 薫か!?」
手荒な朝の挨拶をしてきたのは、同じクラスの女子生徒、忍足 薫 だった。無邪気な笑顔を見せて、つかさの隣である自分の席に着席する。
「もお、朝からボーッとしちゃって! シャキッとしなさいよ、シャキッと!」
薫は女子剣道部に所属するホープである。
顔はテレビのアイドルにも負けないくらい瞳がクリクリッとして可愛いのだが、いかんせん性格が男勝りで、口よりも先に手が出るタイプだ。
そのため、彼女を知る同じクラスの男子もちょっかいをかけるようなことはしない。もし、そんなことをすれば、竹刀の一撃が音速を超えて飛んで来ることになるだろう。
元々、姐御肌で面倒見がよく、クラス委員などもやっている薫は、内向的な性格のつかさに構ってくることが多かった。
他の女子は、愛らしい人形のようなつかさをチヤホヤするだけだが、薫は男子にからかわれるつかさを弟のように守っているつもりらしい。度々、そんな男子相手にケンカをふっかけることもある。
つかさにとって、薫は一番のクラスメイトであった。
もっとも、薫はつかさに対しても容赦なく、「しっかりしなさい!」だの「男でしょ!」だのハッパをかけることもしばしばだ。
だからクラスでは、「武藤と忍足を足して二で割れば丁度いいのに」なんて陰口を叩かれることもあった。
つかさは後頭部を擦りながら身体を起こした。
「いいだろ、別にボーッとしてたって。授業中ってわけじゃないんだし」
「だーめ。つかさも武道家の端くれなんだから、ちゃんと姿勢を正さなきゃ」
「薫と一緒にしないでよ」
弱々しい抵抗。
「そう言えば、空手部の朝練はどうしたの?」
やっぱり来たか、とつかさは思った。
「……サボった」
ボソッとしたつかさの答えに、薫は怒るどころか、大袈裟なため息をつく。
「まったく。知らないわよ、また先輩たちにしごかれても」
「いいよ。慣れてるから」
つかさは自嘲気味に呟いた。卑屈な態度のつかさを見ていると、薫は次第にイライラしてくる。
「ああーっ! もお! そんなんだから、いつまでたってもみんなにバカにされるのよ! しっかりしなさいよ! 男でしょ!」
また始まったか、と教室の後ろの方で眺めていた数名の男子がゲラゲラと笑い声を上げた。
だが、それも薫にキッと睨まれると、男子たちは蜘蛛の子を散らすように逃げて行く。このクラス委員の怖さは充分に承知の上だ。
薫は鼻息も荒く、改めてつかさに向き直った。
「せっかく、お爺さんから古武道を習ったんだから、生かさなきゃダメよ」
「いいんだよ。師匠だったお爺ちゃんは死んじゃったんだし、教えてもらった古武道だって、部活でやってる空手とは違うもん。それに強くなったって、誰かを傷つけるなんて、ボクには……」
そんなつかさに反論しようと薫は口を開きかけたが、タイミング悪く、始業を知らせるチャイムが鳴った。
話はこれでおしまい、と前を向くつかさを見ながら、薫は下唇を噛んだ。
放課後、朝練をサボったつかさは、案の定、先輩たちからよく冷えたスポーツ飲料を買って来るよう命じられた。
いつもなら近くのコンビニまで一年生数名で買い出しに行くのだが、今回はつかさ一人だ。それも部員二十名分なので、かなり重い。レジ袋が手に食い込んだ。
ようやく学校まで辿り着いたとき、つかさは息も絶え絶えだった。華奢な体つきそのままに、体力がある方ではないのだ。九月になったとはいえ、まだ残暑は厳しい。学校とコンビニを往復しただけでフラフラだった。
つかさの体力も限界に近かったが、スポーツ飲料を入れたレジ袋も限界だった。コンビニ店員の兄ちゃんが手を抜いたせいで、二十本ものスポーツ飲料が一袋にまとめられていたのだ。
さらに悪いことに、もっと大きな袋ならば耐えられたろうに、二十本がギリギリ入る大きさの袋であった。口のところからペットボトルがこぼれかけている。
よいしょっ、とつかさが袋を持ち直した途端、案の定、一本が転がり落ちた。それを拾おうとすると、今度はレジ袋の底が地面につき、緩んだ袋の口からさらに数本がこぼれてしまう。まったく、やることなすことが散々である。
つかさはため息をつき、一本一本、拾い集めた。
ひい、ふう、みい、よぉ……十八、十九……。
「あれっ? 一本足りない……」
残り一本をつかさは探した。
「はい、これ」
唐突にペットボトルが一本、つかさの目の前に差し出された。反射的に顔を上げる。
「あっ、ど、どうも――」
途端、それしか言えなくなった。
つかさにジュースを差し出したのは、清楚な感じがするセーラー服姿の女子生徒だった。聖母のような微笑みに、思わず見惚れてしまう。
その女子生徒のことをつかさはよく知っていた。
ひとつ上の先輩、二年生の 待田 沙也加――ミス 琳昭館 高校と言われ、多くの男子生徒の憧れだ。もちろん、つかさもその中の一人だった。
「大変ね、買い出し」
沙也加はそう言って、つかさに拾ったペットボトルを手渡してくれた。受け取るときに沙也加の指が微かに触れ、脈拍が一気に跳ね上がる。
「あっ、あ、あああ……ありがとうございます……!」
緊張でロクにろれつが回らない。
そんなつかさを沙也加は可愛い後輩だとでも思っただろうか。
「空手部の一年生?」
「は、はいっ!」
「そう。頑張ってね」
沙也加はそれだけを言うと校舎の方へ立ち去った。去り際、振り返ったときの笑顔が殊更に素敵だ。
つかさはそれを呆然と見送り、バカみたいに幸せそうな表情で立ち尽くす。
「ふーん。つかさは、ああいうのがタイプなのか?」
「うん、そう。待田先輩みたいなタイプが……って、えっ!?」
いつの間にか背後からの声と会話していたことに気づき、つかさは飛び上がって驚いた。
「わぁっ!」
「よおっ!」
アキトだった。真っ赤なシャツに黒いズボン姿である。思い切り部外者だと分かる私服だ。いったい、何処から入り込んだものやら。
「な、なななっ、何でここに!?」
「やっぱり、ここの高校だったんだな。そうだろうと思ったぜ」
答えになっていない。アキトは沙也加が去って行った方向を見やった。
「それにしても今の女、えらいべっぴんだったな」
好色そうな目つきのアキトに、つかさは危険なものを感じた。
「だ、ダメだよ、あのヒトは! 絶対にダメッ!」
アキトの前に立ち塞がるようにして、つかさは精一杯に睨んだ。
「つかさもやっぱり男だなぁ。あのべっぴんにホの字とはね」
アキトはさも愉快そうに笑った。からかわれて、つかさは真っ赤になる。
「いいだろ、ボクのことはどうでも!」
「まあ、安心しろって。今のオレが興味あるのは、こっちの方だからよ」
そう言ってアキトは、人差し指でつかさの鼻をチョンとつつく。つかさは顔から火が吹き出そうになった。
「ぼ、ボクに何の用!?」
朝の想像を思い出し、つかさは身の安全を守るべく、ガードを固めた。だが、アキトはまったく意に介さない。無遠慮に近づく。
「昨日――いや、もう日付は今日になってたかな? ――とにかく、『またな』って言ったろ? だから、会いに来たのさ」
そう言いながら、アキトの腕がするするっと腰へ回される。
「や、やめろ、このドラキュラ!」
つかさは慌てて、アキトの魔の手から逃れた。
ドラキュラ、と罵られ、アキトは大仰に肩をすくめる。
「言っておくが、『ドラキュラ』は個人名だ。どうせなら、『ヴァンパイア』って呼んでくれ」
「だ、第一、ドラキュラは夜に活動するもんじゃないのか!?」
「だから、『ヴァンパイア』だって」
「どっちだっていい! 答えろ!」
つかさは思わず攻撃の構えを取っていた。血を吸われては大変だ。
アキトはそんなつかさを見て、ニヤニヤするばかりである。
「まあ、どれくらい 吸血鬼 に関しての知識があるかは知らないが、そのほとんどはオレには通用しない。そもそも、オレは中国生まれの 吸血鬼 だしな。西洋の伝説は当てはまらねえ」
「中国生まれ?」
そう言えばアキトは西洋人の顔立ちではない。顔の作りは整って、鼻も高いが、どう見ても日本人というか東洋系にしか見えなかった。
「ああ。吸血鬼 ってのは、何もヨーロッパばかりじゃないんだぜ。むしろ中国の方が歴史は古いんだ。秦王朝の頃の文献にも載ってるしな」
そんな話は初耳だ。
だが、油断は出来ない。アキトが普通の人間でないのは、昨夜見せられた超人的な跳躍力からも明らかだ。東洋系だろうと 吸血鬼 に違いはない。
「オレたち中国の 吸血鬼 は、ご覧の通り、陽光の下でも灰になることもなく生きていけるのさ。ヨーロッパの 吸血鬼 たちが苦手なニンニクも十字架も無意味。オレなんか、ニンニクたっぷりのラーメンやギョーザ、大好物だぜ」
「……ニンニク好きのドラキュラ」
「だから、ドラキュラじゃなくて、吸血鬼 だって。――まあ、さすがに心臓に杭を打ちつけられたら、ただじゃ済まないだろうがな」
「けっ、けど……人の生き血を吸うってのは本当なんでしょ!?」
「ああ、そうとも。でも、毎日吸っているわけじゃねえ。吸いたいという欲求は確かにあるが、別に我慢できないわけでもねえし。そうだなあ。百年に一度くらい吸うのが最低限のペースかな?」
「やっぱり、吸うんだ……」
「だからって怪物扱いはしないでくれよ。人間だって生きるため、食うために、他の動物を殺すじゃないか。それと同じだ」
「そんなことを言って! このところ女性を襲っている抱きつき魔ってのは、キミなんじゃないの!?」
つかさは今朝の疑問をぶつけてみた。
「夕べもそんなことを言ってたな。言ったろ? オレは昨日、引っ越して来たばかりだって。そんな事件を起こせるわけがない」
「………」
「信じないのか?」
「ううん……」
つかさは、ふと警戒心を解いた。
なぜだろう。自分でもよく分からなかったが、アキトからは人間を害するような邪気が感じられない。それは勘という根拠のないものであったが、他人を疑うことが苦手なつかさにとっては、それだけで充分だと言えた。
「やっぱり、キミは悪い人には見えない。信じるよ」
「おお! 我が友よ! それでこそ親友だ!」
アキトは大袈裟に抱きついて来た。だが、それが彼の手口だったとは。
アキトの手は、つかさのヒップを撫で回した。つかさは怖気立つ。
「や、やめろーっ!」
つかさは全力でアキトの腕を振りほどいた。買い出しですべての体力を使い果たしたかと思ったが、人間、底力というものはあるものだ。ゼエゼエ、と荒い息をつく。
「まったく、つれないヤツだなぁ」
アキトに反省の色など微塵もなかった。
「そういう問題じゃない!」
油断も隙もない相手につかさは頭痛を覚え、早くも前言を撤回したくなった。