加賀美と鏡だなんて、洒落にもならない
沙也加が怪異に遭遇していた少し前――
「はっ! はっ!」
薫 は武道場にて、一人で延々と素振りを行っていた。
新しく女子剣道部の主将になったばかりの 大沢 加世 には、今日の稽古は中止だと言わたのだが、どうしても身体を動かしておきたかった薫は自主練ということで武道場に残った。
帰れなくなるわよ、と新主将には去り際に釘を刺されたが、止まない雨などありはしない。濡れる心配のない屋内にいる以上、薫にとって、ゲリラ豪雨など恐るるに足りず。
それにしても、何処にこれだけの雨量があったものか。思わず首を捻りたくなるくらい、ひどい土砂降りが続いていた。窓の外を見なくても、武道場の屋根に当たる雨音を聞くだけで、その凄まじさが伝わってくる。
休むことなく素振りをしながら、つかさはちゃんと帰れただろうか、と薫はそっちの心配をした。
「ねえ、どう?」
武道場の入口から女子生徒のものらしい声が聞こえた。顔だけをそちらへ動かすと、一人の女子生徒が入口から顔を覗かせる。続いて二人の女子生徒も現れた。
「いないね」
見渡すまでもなく、武道場にいるのは薫一人だ。女子生徒たちは互いに顔を見合わす。
「どうしたの?」
薫は素振りを中止し、彼女たちに声をかけてみた。クラスメイトではないが、何となく知っている顔ぶれに思えたからだ。多分、一年生だろう。
「あっ、A組の……」
一年A組、忍足 薫 の名は広く校内に知られている。新人ながら、いきなり都大会三位に入賞した美少女剣士。その活躍もあって、女子生徒の間では人気が高い。どうやら彼女たちも薫のことを知っているようだった。
「私たち、一年D組なんだけど……同じクラスのアケミを捜しているの」
「アケミ?」
「うん。加賀美アケミ」
「一緒に帰ろうって約束してたんだけど……」
「何処にも姿が見えないのよね」
「それに今日のアケミ、ちょっと様子がおかしかったから……心配で……」
「何か思い詰めてるような感じだった」
「どうしたのって訊いても、何も答えてくれないし……」
彼女たちは不安げな様子で口々に喋った。
薫は道場の端まで移動すると、置いてあった自分のタオルを取り上げた。
「先生には言った?」
タオルで汗を拭きながら、薫は尋ねた。すると、三人ともうなずく。
「言ったけど、『先に帰ったんじゃないか』って。まともに取り合ってくれなかったわ」
「もちろん私たち、アケミの下駄箱も覗いたけど、下足がそのままになっていたもの。学校の何処かにいるのは間違いないんだけど」
「でも、いくら捜しても見つからないし」
「スマホも電源が入っていなくて……本当にどうしちゃったんだろう……?」
「ふーん」
広いと言っても、学校の中などたかが知れている。さらに隠れられる場所となれば限られるはず――いや、そもそもアケミに隠れなくてはならない理由が何かあるのだろうか。かくれんぼをして遊んでいるわけでもあるまいし。
薫は三人のスカートの裾が濡れているのに気がついた。
この武道場は校舎と渡り廊下で繋がっている。渡り廊下と言っても簀の子が敷かれている上に屋根があるだけで、あとは吹きさらしだ。こんな横殴りの雨の日は屋根など役に立たない。
それでも彼女たちは濡れるのも構わず、いる可能性の薄い武道場へ捜しに来たのだろう。いかに彼女たちがいなくなった友達のことを心配しているかが分かる。
「三人はまとまって動いていたの?」
うなずく三人。今も互いの手を握り合っている。
「ひょっとすると、その加賀美さんって娘も校内を移動していて、すれ違いになっているのかも知れないわ。ここは手分けして捜さない? 私も手伝うから」
「えっ、いいの?」
思わぬ薫の申し出に三人は驚いた様子だった。薫は汗を拭いていたタオルを首にかけ、三人に微笑む。
「先生が頼りにならないんじゃ、私たちが動かなくちゃいけないでしょ。それに具合でも悪くなって、何処かで動けなくなっていたら大変だし」
「ありがとう」
三人は泣きそうになるくらい薫に感謝した。
薫を加えた四人は渡り廊下を渡って校舎に引き返した。わずか十五メートルくらいを走り抜けただけで足下がびしょびしょになってしまう。
「うっひゃーっ、最悪ね」
剣道着の袴が濡れて動きづらくなった薫が閉口した。しかし、他の三人は濡れたことをを気にする素振りもない。
「じゃあ、忍足さん、お願いします」
「あっ、待って!」
早速、捜しに行こうとする三人を薫は慌てて引き留めた。肝心なことを忘れるところだった。
「手分けして捜す前に、加賀美さんの顔が分かるものってない? 私、どんな娘か知らないんだった」
「じゃあ、だったらこれを」
一人がスマホを取り出した。そして撮影した写真を見せる。彼女たち四人で撮ったものだった。
右から二番目に加賀美アケミが写っていた。キスでもするかのように唇を尖らせた、おさげ髪をしている女の子。同じ一年生だから、薫とも廊下ですれ違ったことくらいあるだろう。何となく見覚えがあった。
「分かった。――じゃあ、私はこっちから捜すわね。ひと通り捜したら、職員室の前で落ち合いましょう」
闇雲に捜し回っても効率が悪い。捜すにあたっての決め事を作り、薫たちは二手に分かれた。二人ずつではなく、薫一人と彼女たち三人という組み合わせだ。
武道場からそのまま竹刀を持って来た薫は、まず校舎西の階段に向かった。
この 琳昭館 高校には階段が三か所ある。
メインは昇降口の前にある中央大階段。横幅の広い階段が踊り場まで続き、そこからさらに上のフロアへは左右二方向に折り返している。二階から三階も同じ構造だ。
そして校舎の両端である東と西にも階段があった。こちらは中央大階段と違い、三階のさらに上、屋上に通じており、いずれも校舎の南棟と北棟を結ぶ中間点に設けられている。
南棟には一般の教室が並んでいるが、そこから音楽室や美術室、視聴覚室といった特別教室が多い北棟に移動する場合は、中央大階段ではなく、東か西どちらかの階段を利用することが多い。
薫は西の階段を上がった。一気に屋上を目指す。
校内を捜しても何処にもいないなら、あと考えられるのは校舎の外だ。この悪天候の中、わざわざ外へ出るとは考えにくいが、雨が降る前だったら分からない。
上履きのまま出られるところと言えば、体育館か、さっき薫がいた武道場、そして屋上の三か所だ。屋上へ出たアケミに引き返せない何かが起きて、そのまま取り残されてしまった可能性も考えられる。
西階段の最上部まで来ると、屋上へ出る扉には内側から鍵がかけられていた。
鍵と言ってもサムターンになっているので、誰でも回すだけで開けることは容易だ。ただ、ここが施錠されてしまうと外側から中に入れなくなってしまう。そのため、悪戯半分に締め出されてしまう生徒は日頃から多くいる。
薫はサムターンを解除した。そして、ドアノブを握る。
「ふんっ……くっ……こぉんぬぉぉぉっ……!」
花も恥じらう十六歳の乙女とは口が裂けても言えないような声と顔で、薫は渾身の力を扉に込めた。
最初のうち、扉は外側からの強風に押されて重かった。それが一転、やっと出来た隙間から風が吹き込むや否や、今度は反対に勢いよく開く。
「キャッ!」
ドアノブを掴んでいた薫の身体がそのまま持って行かれそうになった。慌てて手を離す。
ダァァァァァァン!
お蔭で、扉は壊れてしまうのではないかと危惧するくらい、大きな音を立てて全開になった。
その途端――
ゴォォォォォォッ!
開け放たれた出入口から雨が容赦なく吹き込んだ。薫は目をすがめ、土砂降りの屋上を見渡す。
「加賀美さーん!」
一年D組の生徒の名を薫は声を限りに呼んだ。が、風と雨が激しいせいで、それが何処まで届いたかは分からない。ただ、返事はなかった。
「加賀見さーん、居たら返事してー!」
もう一度、薫は叫んだ。しかし結果は同じ。豪雨で視界が煙り、反対側の出入口になっている塔屋さえも忽然と消えてしまったかのようだ。
その間も、猛烈な雨が薫へと襲いかかる。口をちょっと開けるだけで雨が入って来る始末だ。このまま外へ出るのは不可能だろう。強風で身体が飛ばされる危険性もあった。
これ以上は無理だと判断し、薫は屋上の扉を閉めた。それがまた悪戦苦闘させられることになる。風にあおられた扉は薫に抵抗するかのように言うことを聞こうとしなかった。
「うひーっ!」
ようやく扉を閉め、サムターンを回したときには、薫の全身はずぶ濡れになっていた。首にかけていたタオルで拭こうとしたものの、こちらも完全に水を吸っており、ぐっしょりとしていて気持ち悪い。身に着けている下着まで冷たかった。
「ううっ、このままだと風邪引きそ……」
とは言え、まだ剣道着のままであったことは幸いした。更衣室へ行けば制服に着替えられる。下着の代用は体操着で済ますしかないだろう。
雨に濡れた剣道着は薫が動く度に重かった。しかもナメクジみたいに歩いた痕跡を床に引きずるという情けなさ。こんな姿を知り合いには見られたくない。
一刻も早く着替えたいところだったが、その前に反対側――東階段も調べてみなくては、と思い直す。
もう一度、屋上に出れば、また濡れるのは必定だ。すでに濡れてしまっている以上、もう矢でも鉄砲でも持って来い、という捨て鉢な気分だった。
三階北棟の廊下を歩いて、薫は東階段に向かった。もちろん、その途中にある音楽室なども覗いて行く。だが、加賀美アケミの姿はなかった。それどころか、他の生徒の姿も。
「あと校内で捜していないのは……」
そう呟いた薫の足がふと止まった。そこはトイレの前――薫は誰かが教えてくれた、三階北棟の女子トイレにまつわる学校の七不思議を思い出す。
曰く、一番左にある洗面台には、呪いの鏡がかけられている――
ぞぞぞっ、と薫は悪寒を覚えた。
「……まさか、ね……加賀美と鏡だなんて、洒落にもならない」
学校では男勝りで知られる薫だが、実のところ、この手の話はあまり得意ではない。テレビでホラー映画の予告が流れるだけでも、すぐにチャンネルを変えてしまうほどだ。
以前も、そんなところを五つ年下の弟である元気に目撃され、「よくそれで高校生やってられるね」とからかわれたことがある。
D組の三人は、このトイレの中を捜索しただろうか。薫は逡巡する。ひょっとしたら、この中に加賀美アケミがいるかも知れない。
薫はトイレの入口の前に立って、中の様子を窺ってみたが、誰かがいるような気配はまったく感じられなかった。
「加賀美さーん。いる?」
屋上のときと同じように、薫は呼びかけてみた。自分の声が反響して聞こえる。やはり返事はない。
不気味な静けさの中、再び薫の身体が悪寒に震えた。何か得体のしれないものを感じ取ったわけではなく、剣道着が雨でずぶ濡れだからだ、と心の中で自分に言い聞かせる。
こんなところに立っていないで、ちゃんと中を捜してみるべきだ――そんなことくらい、薫だって頭では分かっている。しかし、身体の方は拒絶するかのように動こうとしなかった。唇は固く結ばれ、竹刀を握る右手にばかり力が入る。
と、そこへ――
一人で葛藤する薫の背後より、そっと忍び寄るひとつの影があった。
普段と違い、七不思議の噂が立つトイレに気を取られていた薫は、その接近に気づかない。薫、危うし――!
悪しき意思を持った手が、臆病なウサギのように震える薫の肩に向かって、ぬっと伸びようとした。
ドォォォォォォォン! ゴゴゴゴゴゴォッ……!
「うわぁぁぁっ!」
「きゃぁぁぁっ!」
何かが爆発したかのような一際大きい雷鳴が轟き、図書室にいた生徒たちの間で短い悲鳴が上がった。
次の瞬間、蛍光灯がチカチカッという不安定な明滅を繰り返す。停電か、と誰もが天井を見上げて肝を冷やすが、それはすぐに回復した。どうやら大丈夫らしい。
つかさは鞄を抱えながら、落雷のあとに尾を引く、ビリビリとした空震の音を不安そうに聞いていた。
今の落雷は、きっと学校の近くに落ちたはずだ。何処かの建物に落ちて、火災にでもなっていないか気にかかる。
局地的であるはずのゲリラ豪雨は一向に衰えを見せず、むしろピークに達したのではなかろうか。窓には雨粒がバチバチと絶え間なく叩きつけられ、まるで洗車機がガラスの表面を洗い流しているかのようだ。
そんな窓際には、雷の様子を見ようと駆け寄る、不安と好奇心がない交ぜになった生徒の姿もあった。
その後、雷は次々と落ちたが、やはり一番凄まじかったのは最初の一発目だったようだ。雷の範囲が少しずつ学校の上空から移動しているのかも知れない。
ようやく落ち着きを取り戻したつかさは、徐々に生徒会室へ荷物を取りに行った沙也加のことが心配になってきた。
かれこれ十分が経過する。生徒会室を施錠してから職員室へ鍵の返却をするにしろ、これほど時間がかかるとは思えない。それとも心配のし過ぎだろうか。
途中で誰かと立ち話でもしているのならいいが、さっきの落雷のこともある。何処かで動けなくなっているという可能性も否めない。そんな想像をしてしまうと、つかさは余計に心配を募らせてしまう。
荷物はそのままにし、つかさは図書室から捜しに出ようとした。
「えっ――?」
ところが、廊下が真っ暗になっていたので、つかさは一瞬、怯みそうになった。どうやら電気が点いているのは図書室だけらしい。ただの停電というわけではなさそうだ。
このことを誰かに知らせようかと思ったが、ほとんどの生徒はゲリラ豪雨の方に気を取られている。仕方なく、つかさは黙って図書室を出た。
廊下の照明が切れているのなら、戻ろうとした沙也加も途中で動けずにいるのかも知れない。つかさは真っ暗な中、壁を頼りに廊下を進んだ。
程なくして、東側の階段に差しかかった。三階の廊下だけでなく、階段の踊り場まで電気が消えている。
職員室から図書室へ向かうなら、この階段を使う公算が大きい。ここから一階へ下りて行けば、途中で沙也加と合流できるはずだ。
つかさが階段を使おうとした丁度そのとき、青白い閃光が走った。雷だ。それが一瞬だけ、明かり取りの窓を通じて、下にある踊り場を照らし出す。
ゴゴゴゴゴッ……!
「――っ!?」
そこに何かが落ちているのをつかさは発見した。多分、傘と学生鞄だ。誰のものか、と考え、つかさは青ざめる。
「まさか――!」
つかさは慌てて階段を下りた。そして何も見えない中、床に手をついて落ちていた物を捜す。最初に傘が、そのすぐあとに鞄が手に触れた。
ひょっとして、これは沙也加の物ではないだろうか。だとすれば、沙也加の身に何かが起きたことになる。
傘と鞄が誰のものか確認しようと思ったが、この暗さの中では無理な相談というものだ。もう一度雷が落ちて、明かり代わりになってくれないか、と期待するが、そう都合よくはいかない。
つかさは考えた。自分の持っている物で明かりとなるものがないかを。
「そうだ」
つかさはポケットから携帯電話を取り出した。
中学の頃からずっと使い続けているガラケーなので、スマホほど明るくは照らせないが、バックライトを使おうというアイデアだ。
ガラケーのバックライトは、この暗闇の中で唯一の希望とも言える光源として役に立った。範囲は狭いが光量としては充分だ。つかさは携帯電話を片手に、拾得物から持ち主の名前を読み取ろうとした。
すると、傘の柄に名札がついているのを見つけた。早速、バックライトで照らしてみる。
「――っ!」
恐れていたことが現実になり、つかさは息を呑んだ。
手書きの名札には「待田」の二文字が書き込まれていた。




