オレは人間じゃないんだよ
第1話「真夜中の出遭い」スタート!
冷淡な光を放つ初秋の月に、霞がかった雲が覆うように重なっていた。
そんな晩――
武藤つかさは、祖母のつばきに頼まれた醤油と玉子をコンビニで買うと、足早に自宅へと急いでいた。
現在時刻は深夜零時。
なのに、女子供でも平気で出歩けるほど、日本の治安は格段にいい。
それにしても――
いつから人間は夜の闇を畏れなくなったのだろう。
太古より、太陽が沈めば魔が跳梁跋扈する、と言われていたはずだ。ヤツらは何処かへ姿を消してしまったのだろうか。或いは人間によって駆逐され、完全に滅んでしまったのだろうか。それとも──
そんな話を小さい頃から祖母に聞かされ続けてきたつかさは、十五歳になった今もときどき、ふとしたきっかけで思い出す。
おまけに今日、学校で聞いた噂話――
不吉な予感に襲われ、つかさは誰かが尾けていやしないかと、思わず後ろを振り返ってみた――が、誰もいない。
それは最初からいなかったのか、或いはつかさが振り向いたので、何処かへ姿をくらましたのか――そんな想像を働かせると不気味だった。
学校で聞いた噂話――それはここ数日の間に起きた、若い女性ばかりを狙った事件である。
新聞に掲載されている小さな記事からは、同一犯らしい痴漢としかなかったが、噂によれば、この痴漢は抱きつき魔とのことだ。それも物凄く恐ろしい姿をしているらしい。
と言うのも、被害者に外傷は見られず、皆、一様にショックで寝込んでしまっているという話だ。満足な事情聴取さえ行えていないらしい。
そのため、犯人は人間ではなく、恐ろしい怪物なのだ――という噂がまことしやかに流布している。嘘か誠か、真偽の程は不明ながら、つかさが通う琳昭館 高校の女子生徒も何人かが被害に遭ったとか。
だから、祖母に買い物を頼まれたとき、「物騒だから行きたくない」と一度は断ったのだ。それなのに――
「つかさなら大丈夫だよ」
にべもなく言われ、結局、つかさは渋々ながら出かける破目になった。
だが、この首筋に感じる薄ら寒さは、本当に秋風だけの影響によるものなのか。
自宅から一番近いコンビニは歩いて十分ほどの場所にある。都心という土地柄を考えると、いささか遠い。おまけに自宅は、コンビニがある商店街から離れているため、途中、街灯の設置もおぼつかない淋しい道を通らなくてはならなかった。
行きは陸上の短距離選手よろしくダッシュで駆け抜けて来たが、帰りは重い醤油のビンと柔らかい玉子を一緒に入れたレジ袋を持っているので、全力疾走すると、せっかくの玉子が割れてしまう可能性がある。同じ手は使えそうもなかった。
「はぁ~っ……」
いよいよ問題の箇所に差しかかった。つかさの口からため息が漏れる。
行く手はまるで闇に呑まれたかのようだ。遠くにおぼろげな街灯の明かりが豆電球みたいに小さく見える。
つかさはもう一度、後ろを振り返った。誰もいないことを確認する。それから意を決して歩を進めた。
今まで雲から出たり隠れたりを繰り返していた月が、こんなときに限って見えなくなってしまう。
左手に下げたレジ袋の立てるガサガサという耳障りな音だけが異様に響く。
つかさの足は知らず知らずのうちに早まっていた。
そこへ──
道の反対側から誰かがやって来るのが見えた。つかさはハッと身を固くし、暗がりに目を凝らす。
それは長身の男性だった。まだ若い。つかさとそんなに歳も変わらないだろう。
目鼻立ちのハッキリした男前の容貌だが、ちょっと目つきが悪そうだった。
髪は襟足まで伸ばし、わざとなのかブリーチに失敗したのか分からないが、まるで虎柄のように黒髪と茶髪が混在している。
肌の色は闇に浮かび上がるように白く、細身の体型と相まって危険な雰囲気を漂わせているように見えた。
そんな男の姿を目にし、つかさはゾクッとした。理由は不明だが、半袖から露出していた腕が粟立つ。
お互いの距離が十メートルほどになると、男はチラッと少しだけつかさの方へ視線を投げてきた。一瞬だが、まるで獲物を射るような目。
つかさは目線を合わさないよう、顔を逸らした。
両者の距離が縮まる。
あと五歩、四歩、三歩……
すれ違った。
そのとき――
つかさはいきなり尻を撫でられた。
「ひぃっ――!」
「いい尻だ」
バッ!
悲鳴を上げるよりも先に、つかさの身体は動いていた。予備動作なしの後ろ回し蹴り。
つかさの脚は尻を撫でた男の顔面を捉えるはずだった。
ところが――
「うおっとととっ――!?」
痴漢はたたらを踏んだものの、後ろに素早くステップしており、紙一重のところで後ろ回し蹴りを躱していた。
つかさは次に備え、攻撃の構えを取る。
そのファイティングポーズに恐れを為したか、男は慌てて降参の意を示すように両手を振った。
「タンマ、タンマ! ちょっと待ってくれ!」
長身の男は焦った様子で許しを請う。その割には隙がない。
――出来る。
相手の動きに対し、つかさは警戒を怠らなかった。
「あなたがここ最近、出没しているっていう抱きつき魔ですか!?」
つかさは詰問した。しかしながら、相手を怯ませるまでの迫力がない。ちょっと声が震えてしまっている。
疑いをかけられた男は、ブンブンと首を横に振った。
「違う、違う! オレは今日、こっちへ引っ越して来たばかりなんだ。そんなこと出来るわけねえだろ?」
男は釈明したが、口では何とでも言える。つかさは睨むのをやめなかった。
不意に男は、緊張を解いたように苦笑する。
「悪かったな。あまりにも可愛いお尻だったもんで、つい触ってみたくなっちまった」
可愛いお尻と言われ、つかさは赤くなった。
「あ、あなたねぇ……!」
「フフフッ、随分とウブな反応を見せるじゃないか。お前、まだ経験とかないんだろ?」
男はニヤけた顔で近づいて来ると、クイッとつかさの顎をしゃくった。
そのときになって、ようやく月が雲間から現れた。つかさの顔を照らし出す。
「ぼっ、ぼ、ぼ……」
「ん? 何だ、『ぼ』って?」
「ぼ、ボクは男だ!」
つかさは顔を真っ赤にして訂正した。
今度は男の方が目を見張る番だった。
誰が見ても、つかさはまるで女の子のようだった。身長は150センチちょっと。体つきも華奢で、ルックスも、まるであどけない少女そのものだ。本人が男だと主張しなければ、誰も気づくまい。
「ま、マジかよ!?」
このような反応に、つかさは日頃から慣れていた。学校でも同学年の男子生徒にからかわれている。名前も「つかさ」なんて女の子みたいで、自身はあまり好きではない。
男はまじまじとつかさを眺めていたが、それでも信用できないようだった。
「ホントに男かよ?」
「ホントです!」
「信じられねえな」
「信じようと信じまいと、事実ですから」
「じゃあ、ちょっと調べさせてもらおうか」
「なっ――!? 何をするんですか!?」
いきなり男はつかさの股間に手を伸ばしてきた。
つかさは反射的に男の手を払い除け、顔面へ一発パンチを見舞った。今度はまともにヒットする。男は大きく仰け反り、後ろに吹っ飛ばされた。
「だぁーっ! 痛って~っ!」
倒れた拍子にアスファルトの地面に後頭部を打ちつけ、ゴチンという鈍い音がした。思い切り殴ってしまったことに、つかさは自分で自分に驚いてしまう。
ただ、心配したほどのダメージはなかったのか、男はすぐに上半身を起こした。つかさは引っ張り起こしてやろうと、慌てて手を差し伸べる。
「す、すみませんっ! 大丈夫ですか!?」
「まさしく……」
「えっ?」
男は自分の右手を見つめながら、指をうごめかせた。
「まさしく、あの感触はキンタ──」
ボカッ!
つかさはもう一発、喰らわせた。
「人が心配してるって言うのにッ! いい加減、その指のやらしい動き、やめてください!」
つかさは耳まで真っ赤になっていた。
「そんなに怒鳴るなよー、ちょっと確かめてみただけだろ?」
「どういう確かめ方ですか!?」
「人には人の、オレにはオレなりのやり方ってもんがある」
「すれ違いざまに、他人の尻を触るのもですか?」
「まあ、男女の出会いの形は色々あるってことよ」
「だから、ボクは男ですって!」
「気にすんな。オレは男でも女でも、可愛ければそれでいい」
「そっちが良くても、こっちはそうもいきません!」
「つれないヤツだなぁ」
「そういう問題じゃないでしょ!」
「フッ、気に入ったぜ」
男はそう言って、改めて右手を差し出した。助け起こせ、ということだろう。
つかさは仕方なく右手を貸し、今度こそ男を立たせてやった。
男はズボンの埃を払うと、ニッとつかさに笑顔を見せた。
「自己紹介しておこう。オレは 仙月 明人――アキトって呼んでくれ」
何をいきなり、と思ったつかさだったが、根が素直な性格なので、こちらも会釈を返す。
「ボクは武藤つかさ」
「“つかさ”? 何か、ホントに女みたいだな」
つかさの顔と名前を初めて聞いた者は、皆、アキトと同じような反応を見せる。それはもう慣れっこのはずだったが、何処かで心の傷が疼く感じがした。
「つかさは家、何処なんだ?」
「この先。古い道場がある家」
「ふ~ん。よし、お詫びと言っちゃなんだが、オレが送ってやろう。夜道の一人歩きは危険だからな」
危険なのはアンタでしょ、と言ってやりたかったが、まるで昔からの友人のように接してくるアキトに、つかさは少しだけ警戒心を解いた。根は悪い人間ではないのかも知れない。何より、夜道に不安を感じていたのは確かだ。
結局、つかさは痴漢のアキトと一緒に並んで歩く破目になった。
「ところでよ、つかさ」
頭の後ろに手を組みながら、アキトが初対面であるつかさに話しかけてきた。しかもフランクに。どうも黙っていられる性分ではないらしい。
「さっきのパンチだけど、あれは効いたぜ。最初の蹴りもなかなか鋭かったし。どっかで習ったのか?」
「ああ。あれは昔、お爺ちゃんに習ってたんだ」
「お前の家っていう道場でか?」
「うん。もっとも今はお爺ちゃんも死んじゃって、ボクはお婆ちゃんと二人暮らしだけど」
「ふ~ん」
つかさは思わず、自分の拳を見つめた。それをアキトが見咎める。
「どうした? 拳でも痛めたか?」
「ううん、そうじゃなくて……ボク、誰かを殴ったことなんて、今までに一度もなかったから……」
そう告白するつかさを、まるで不思議な生き物でも見るような目つきでアキトは眺めた。
「冗談だろ? だって、昔から道場で習ってたんじゃねえのか?」
「型とか、そういうのはね。でも、人は殴ったことなかったんだ。だから、生まれて初めてだよ。誰かを傷つけたことなんて」
「ふ~ん。お前、見かけもそうだが、優しい人間なんだな」
アキトはそう言ってくれたが、そのことをつかさは素直に喜べなかった。
「単に臆病なだけなんだよ……ボクには振るうべき拳があるのに……学校でもお婆ちゃんの言いつけで空手部に入ったけど、先輩や同級生からは笑われているよ。お前は外見も女っぽいけど、中身も女みたいだって。だから、ダメなんだろうな」
初めて会った人間にこんな話をしているなんて、つかさ自身、意外だった。今まで自分の胸の内にだけ仕舞ってきたことだ。きっと周囲の人間たちは、そんなつかさの葛藤を知りもしないだろう。
だが、どういうわけかアキトには自然に話せてしまっていた。まるで古くからの親友に吐露するかのように。
「まっ、気にすんなって!」
バシーン、とアキトは落ち込むつかさの背中を思い切りしばいた。その勢いと痛みとで、つかさは前につんのめる。
「お前の力は、使うべきときが来れば、ちゃんと使えるからよ。さっきだってオレを吹っ飛ばしたじゃねえか。つかさに力があるのは間違いねえ。自分のことを弱い人間だと思ってんだろうけど、お前は強い。そんじょそこらのヤツよりもな」
たとえ気休めでも、アキトの言葉は嬉しかった。これまで肉親以外には女の子のようにしか見られていなかった自分が、初めてありのままを認められたような気がしたからだ。
「――あっ、そこがボクの家だよ」
会話を交わしているうちに、いつの間にか暗闇のスポットを抜け、自宅の近くまで来ていた。左側に古びた門構えの日本家屋が見えてくる。つかさの死んだ祖父が開いていた道場だ。今は教える者もなく、門下生もいない。
「ありがとう、アキト。送ってくれて」
元はと言えば、アキトがつかさを痴漢してきたのだが、なぜだか感謝の言葉が口を衝いて出た。しかも、つかさ自身させ気づかないうちに、まだ会って間もない彼のことを「アキト」と名前を呼び捨てにしている。
「おう。それじゃ、つかさ。またな」
アキトは右手を挙げると、くるりと踵を返した。
つかさも右手で応え、家に帰ろうとする。
「なあ、つかさ」
別れ際、ふとアキトが背中に声をかけてきた。門前で振り返るつかさ。
「何?」
月はアキトの頭上で輝き、その穏やかな表情を照らしていた。
「お前、人は殴れないって言ってたよな?」
「うん……でも、キミを殴っちゃったけどね」
つかさは少し後悔していた。やはり、どんな理由があろうとも、人を傷つけることは許されないことだと思う。
だが、アキトは少しも気にかけていないようだった。
「オレを殴れたのにはワケがあるんだ」
「えっ? どういうこと?」
「お前は人は殴れなくても、他のものは殴れるのさ」
「……?」
「つまりオレは──」
アキトはニッと歯を見せた。顔に似合わず、尖った八重歯が覗く。いや、八重歯にしては、やけに大きい――
「オレは人間じゃないんだよ。本当は――吸血鬼 なのさ」
それは怪物の証とも言える乱杭歯ではなかったか!
――アキトが 吸血鬼 だって!?
それを裏付けるかのように、アキトは突然、跳躍した。その高さたるや、家々の塀を楽々と飛び越え、二階の屋根の上へ軽やかに着地する。もちろん、普通の人間に出来る芸当ではない。
「じゃあな!」
アキトはウインクをひとつして見せると、次々と屋根に飛び移りながら去って行ってしまった。
「………」
つかさは呆然とそれを見送り、力の抜けた手からコンビニのレジ袋を落とす。
グシャッ!
せっかくここまで運んで来た玉子が無情にも割れた。