狂愛
今のこの状況に、全くついていけない。いや、むしろついていこうとも思わない。
「き、岸部先輩…?」
そう呼び掛けてみても、彼はさらに抱き締める力を強めるだけだった。
「ずっと、ずっと会いたかった。」
彼の瞳から止めどなく涙が溢れ出す。正直なにがなんだかさっぱりだった。
「ボクの父親は、酒に溺れ、母さんやボクや弟に酷いことを平気でするような奴だった…。そのせいでボクの弟は死んでしまった…!それでもあいつは…っ!その死体すらも母さんに解体させて、海に沈めたようなクズだった…」
「でも、神は現れた!!!!!!!!キミがあいつに、憎いあいつに罰を与えてくれたんだ…!!!!!」
岸部先輩は涙ながらにそう語ると、とても優しい顔つきであたしを見つめた。
「…キミは、ボクの神様だ。」
いやいやいや。ちょっと待ってくれ。なんだこの状況。
いっそのこと、あたしを恨んでくれていた方が楽だったんだが。というか、人殺しに対して神などと崇める奴がいたとは。
「…あの、俺、岸部先輩がなにいってるのか全然分かんないんですけども。」
とりあえず、しらを切る作戦でいくことにする。
「…嘘ばっかり。でも、キミが此処にいるってのとはなにが事情があるんだよね。キミはボクの神様だから、なんでも協力するよ?」
あー、駄目だ。こいつはもう完全にあたしが彼の父親を殺したのだと信じきっている。正直、自分が殺した人間のことなどいちいち覚えてはいないから、本当にそれがあたしかどうかあたしでさえ分からないのだが。
「そう、じゃあ死んでくれる?」
寧ろ、あたしが直接手を下したいのだが、彼の信仰心がどの程度のものなのか、確かめてみたくなった。
自殺体なら此処で見つかっても騒ぎにはなるが、不自然ではないだろうし。
岸部先輩はあたしから離れると、先ほど床に叩き落としたナイフを拾い上げた。
ピッと右手の親指を切りつけると、ナイフをまた床に落とし、あたしの方に近づき始めた。
なんだ、怖じ気づいたのか。随分と脆い信仰心。これならどうせ使えないだろうし、此処で始末してしまおうか。
そんなことを考えていたのもつかの間、彼は血が流れ出ている親指であたしの唇をなぞった。
「っ!?」
驚いて思わず一歩後ろに引くが、既に腰に手を回されていて
「ん。」
しまった、と思ったときにはもう岸部先輩がドアップで視界に映っていた。
「んんっ」
軽い口づけのあと、彼はあたしの唇につけたであろう彼の血液を舌で器用に舐めとった。
「ふふっ、顔赤くしちゃって可愛い。」
「よし、絶対お前を殺してやる。」
怒りに任せて、彼を手にかけようとした瞬間、
『Rrrrrr…Rrrrrr…』
あたしのスマートフォンが鳴り始めた。
ディスプレイを確認すると、それは佐久間からの着信だった。
「ちっ、タイミング悪。」
着信拒否のボタンを押そうとすると、するりと岸部先輩の細長い手が伸びてきて、そのまま彼は耳にあたしのスマートフォンをあてた。
『おい!ペンキ取りに行くだけに何分かかってんだよ!』
スマートフォンを岸部先輩から取り返そうと必死に背伸びしている最中、スピーカーに設定していないのにスマートフォンから佐久間の声が聞こえた。どうやら相当ご立腹だ。
「あぁ、佐久間君。ごめんね、僕が引き留めちゃったんだよ。」
『…岸部先輩?』
「生物部の展示品を並べるのを手伝ってもらっててね、彼は今手が離せないんだ。」
岸部先輩の口から、さらりと嘘が飛び出す。
『あーー…。そうなんすねー。でも、あいつステージ発表の練習もあるんで、出来るだけ早く解放してやって下さいね。』
もし、人手が必要なら俺が変わりますよ!なんて声を微かに聞き取り、それに対して適当に岸部先輩が相槌を打つと、通話は呆気なく終了した。
「ハイ」
「いや、ハイじゃないんですけど。なにちゃっかりスマホ奪って通話しちゃってるんですか。」
「ボクはキミの電話番号知らないのに、一体ボク以外の誰がキミの連絡先を知ってるのか気になってね?」
…あー、これはあれだ。ヤバい奴だ。ヤンデレ?とかそういうやつだ。動揺を隠しつつ、とりあえずスマートフォンを受け取った。
とにかく、佐久間に岸部先輩と一緒にいることが知られてしまった以上、もう流石に彼を今此処でどうにかすることは出来ない。即ち、もうこいつに用はない。
「あれ、もう戻っちゃうの?」
残念そうにそういう岸部先輩を無視しながら、出口に向かう。
「ん、ちょっと待ってよ。」
またもや、岸部先輩に背後から腕を引かれ、いい加減怒りもピークに達していたあたしが怒鳴ろうと振り返った刹那、
「ひっ」
彼は、舌であたしの頬を舐めた。
あたしは彼を反射的に突飛ばし、精一杯睨み付けた。
「もう、なんなんですか!?」
「酷いなぁ。頬にボクの血がついてたからとってあげたのに。」
せめて、手で拭って。寧ろ言葉で伝えて。
此処にこれ以上岸部先輩といると、ストレスで胃がどうにかなりそうなので、頼まれていたペンキを手に掴むと、すぐさま物品庫から出た。
「またね、神様。」