朱く、紅く。3
あたしは、研修員から下級構成員まで、たったの2ヶ月で昇級した。元々武道は習っていたし、礼儀や作法は母に厳しく仕込まれていたため、教えることがあまりなかったのだ。
きっと、父も母も、いずれはあたしも殺し屋になるのだと予期していたのだろう。だから、あんなにも厳しくあたしを育て上げたのだ。
「…田崎さん、紅茶が入りました。」
彼はなにやら書類の作成をしていたので、左側に紅茶の入ったマグカップを置いた。これは、右利きである田崎さんが肘をぶつけて紅茶を溢さないようにするためと、右手でペンを握りながらも、左手で紅茶を飲めるようにするための配慮だ。
「……あぁ、琴音。ありがとう。」
「田崎さん、隈が凄いですよ?少々お休みになっては如何ですか?」
「…ははっ、9歳の少女に気を使われるなんてなぁ…。情けないね、僕。でも、そうだね。折角の紅茶が冷めてしまってもいけないし、少し休憩することにしようか。」
田崎さんは、ペンを置くとぐっと両手を上にあげ、そのまま大きく伸びをした。
「最近はデスクワークが多いみたいですね。もし私に出来ることがあれば手伝いますよ?」
「…ちょっと殺しの方の仕事でミスしちゃってね。暫くは書類整理とか始末書の仕事しか与えられないことになったんだ。この書類は下級構成員には見せられないことになってて…。ごめんね、気持ちだけ貰っておくよ。」
田崎さんは、ばつが悪そうに俯いてから、ぎこちなく笑った。
「…そう、ですか。軽率なことを聞いてしまい、申し訳ありません。」
バッと深く頭を下げると、田崎さんは慌てたように「大丈夫だから!顔を上げて!?」と声をあげた。
「武道も礼儀も完璧だし…。流石は真司様と芽依さんの娘だなぁ…。僕と同じ地位になる日もきっと遠くはないね。」
「そんなことはありませんよ。私なんてまだまだです。」
「謙虚だなぁ…」
そう呟いて、田崎さんは紅茶を啜ってから、何かを考えるように俯いた。
「…でも、僕は君に人殺しになって欲しくないんだ。」
田崎さんは、今までに無いくらいに弱々しい声でそう告げた。
「君には殺しの才能がある。…と思うんだ。……でも、出来ることなら、その才能を開花させないで欲しい。
……分かってるよ。殺し屋組織に所属してて人を殺さないなんて、野菜を売らない八百屋とか何も教えない教師と同じだ。
…それでも、殺し屋じゃ、きっと君は息ができない。このままじゃ、君の心が死んでしまう。」
唇を噛み締めて、泣きそうな声色で彼は何かをあたしに伝えようとしていた。
「……田崎、さん?何かあったんですか?」
こんな弱々しい彼は初めて見た。何度か殺しの現場にいく仕事にも連れて行って貰ったこともあるが、何十人殺しても、彼は表情をまるで変えなかった。普段の優しさを全く感じさせない、冷徹とさえ感じさせるような人殺しの彼が今、涙を流して何かを、伝えようとしている。
「……ごめん、やっぱり僕は少し疲れているみたいだ。この書類を片付けたら自室で仮眠をとることにするよ。」
言いかけた言葉を飲み込んで、彼はあたしに笑いかけた。
「…承知しました。」
彼の言いかけた言葉の続きが気になるのが本心だったが、上司の命令は絶対なのだ。彼が話すの止めたのなら、それ以上追及してはいけない。
毛布を持ってこようと、ドアへ向かうと田崎さんは「ちょっと待って」と声をかけた。
「紅茶、凄く美味しかったよ。ありがとう。
でも君は、絶対に飲んじゃ駄目だよ。
だって、君に紅は似合わないだろう?」
田崎さんは、やはり笑っていた。何故彼は感情の起伏が乏しいあたしにこうも笑いかけるのか理解できなかった。しかし、そんな彼を心から慕っていた。
「…はい」
これが、田崎さんと交わした最後の会話だ。
次の日の朝、デスクの上で突っ伏しながら亡くなった彼の死体が見つかったのだ。
死因は、毒殺。その毒は、紅茶に混入していた。