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カエサルの前半生

作者: 藤三井

 紀元前一〇〇年七月一三日、ローマで一人の男児がこの世に生を受けた。ユリウス一門のカエサル家に生まれた男児は、ガイウスと名付けられた。ガイウス・ユリウス・カエサルである。

 共和政ローマの首都ローマには七つの低い丘陵が連なりあっている。カエサルはその中心部にあるフォロ・ロマーノに面する、庶民たちの住まう賑やかな一帯「スブッラ」の自宅で生まれた。両親と姉、そして家に仕える奴隷たちからの祝福を受けての誕生だった。



 カエサルが六歳になった時、母アウレリアは一人のガリア人教師を雇った。一般的に名門の子弟は、ロードス島やアテネで学問を修めたギリシア人を教師にするのが通例であったが、名門ではあっても経済的に豊かではないカエサル家に高価なギリシア人奴隷を買う力はなかった。

「ガイウス、こちらに来なさい」

 母は幼いカエサルを呼び出し、この人がこれからあなたの先生ですよ、とガリア人教師のグニポを紹介した。

 カエサルはグニポを嬉々とした瞳で見つめ、母に聞いた。

「馬術の先生ですか?」

 アウレリアは息をついて、いいえ、と応えた。

「彼は学問の先生です。ガイウス、あなたはこの家の男子なのですよ。馬ばかりではなく学術にも目を向けなくてはなりません」

 期待に満ちていた少年の表情は、誰の目にでも分かるように落ち込んだ。しかし名門貴族の息子として、ある程度の水準に達した教育は受けて然るべきなのだ。それでも遊び盛りの少年には、イスに座っての学問よりも、友人たちと体を動かす遊びの方が楽しみであった。また、カエサルは幼いころから馬が好きだったので、馬術に秀でたガリア人のグニポを馬術の教師だと思い込んでも不思議ではなかった。

「今から勉強ですか?」

「いいえ、授業は明日からです。話は以上です。さあ、みんなと遊んでらっしゃい」

 ローマ人の慣習として、午前は勉学の時間であり、午後は体育施設で体を鍛える訓練を行った。

 カエサルはスブッラ中に聞こえるほどに元気の良い返事をし、家庭内奴隷の子供たちを引き連れてパラティーノの丘の下に位置する大競技場に向かって駆け出した。いわばこの奴隷の子供たちは、カエサルの子分でもあり学友でもある。彼らも幼主人であるカエサルと同じく、ガリア人教師からの教育を受けた。筆記用具にも差はなく、生徒は全員が木の板に蝋を流したノートを使用していた。

 しかし教育全般をグニポが受け持ったわけではない。彼が担当したのは修辞学やギリシア哲学などの専門分野であり、読み書きなどの初等教育はカエサルの母が教えることとなっていた。




 カエサルにとってスブッラの邸宅での生活は、名門貴族の子弟として至って普通のものだった。午前は家庭内奴隷の子供たちと共に勉学に励み、午後は体育施設で肉体を鍛えるのが彼の日常となっていた。

 その頃のローマでは特に問題は起きていなかったし、たとえ何かがあったとてスブッラは普段通りの活気ある地域だった。彼は家族の愛に満ち、心身ともに健全に成長していた。

 しかし紀元前九一年、カエサルが九歳の年にローマは危機に陥る。イタリア半島の都市国家がローマに反発したことに端を発した“同盟者戦役”の始まりである。

 カエサルの父は元老院に籍を置く身分であり、一隊を率いての従軍義務はもちろんあった。


ある日の正午、カエサルが奴隷たちと大競技場に行くための支度をしていた。すると、父が家の奥にある祭壇の前に跪き、手を組んで祈りを捧げているのが少年の視界に入った。カエサル家の守護神は女神ヴィーナスであり、円柱の神殿を模型化した祭壇にはその女神の姿が描かれていた。

 父の服装は余所行きの長衣でもなければ、普段着の短衣でさえなかった。父が来ていたのはローマ軍の軍装束だったのだ。その父の姿を見て少年カエサルは幼くとも気付いた。父が戦争に行くのだ、と。

 カエサル家が祀る神と、ユリウス一門の先祖への霊に祈りを捧げ終えた父は、祭壇の部屋を出た。カエサルは待ってましたと言わんばかりに、私も戦場へお供させてください、と父に懇願した。父は応えた。

「ガイウス、私は元老院議員として出陣しなくてはならない。出来ることならお前を戦場に連れて行き、戦争がどのようなものか教えてやりたい。だがそれは叶わないのだ。一〇歳にも満たないお前を連れていくことは出来ない。アウレリアと家庭教師から学問を教わることが今のお前に出来ることだ。そしてカエサル家の長子としてユリウス一門を盛り立ててくれ」

 父はそう言い残し家を発ち、軍団集結地であるマルス広場へと向かった。

 カエサルは母や姉妹とともに戦場へと向かう父を見送るしかなかった。




 同盟者戦役は二年間に及ぶ内戦であった。しかし敵軍がローマの城壁に張り付くことはなかった。カエサルの住むスブッラもいつもと変わらず、朝は商人や買い物客による活気に満ちていた。戦役が終えたとき、カエサルは十一歳になっていた。

 このまま平和が続けばカエサルはローマ人の慣習に従い十七歳で成人する。そしてやがては父の後を継ぎ、カエサル家の家長となるはずだった。しかし、時勢はそれを許さなかった。

 執政官スッラと、民衆派の筆頭であるマリウスの対立が激化したからである。カエサルにとってマリウスは父方の伯母の夫でもあった。


紀元前八八年。カエサルは十二歳を迎えた。そしてそれは、東方遠征司令官スッラが起こした軍事クーデターの年でもあった。

そもそもの発端は、マリウスがスッラから東方遠征の総司令官の地位を取り上げようとしたことだった。マリウスは自分の元部下から総司令官の座を奪い取り、今一度戦争で華やかな勝利を飾りたいと考えていた。しかしスッラはおいそれとその座を譲らなかった。

スッラは軍隊を率いたままローマの城壁に迫った。当時マリウスは七十歳、スッラは五十歳である。過去の栄光に生きる老将と、将軍としても成熟した壮年の対立だった。


スブッラは騒然としていた。普段なら街行く市民たちが店先の品を見定め、店主が巧みな話術でそれらを売る光景が目に入る。しかしその日は違ったのだ。誰もが城壁の外に陣を構えているスッラの噂をしていた。

カエサルは奴隷を引き連れて街を闊歩していた。するといくつもの噂話が彼の耳に飛び込んでくるのだ。

「スッラは元老院を潰して王位に就くのが目的らしい」

「ギリシアで集めた海軍を使って、シチリアからローマへの小麦の輸入を阻止する肚だと聞いたぞ」

 どれもこれも、平時なら笑い飛ばせるような内容だったが、今では現にスッラが軍団を率いてローマの城外に陣取っているのだ。どれが実現しようとも不思議ではなかった。

 カエサルは恐怖した。カエサル家の食卓では、スッラの謀反についての話題で持ちきりだったのだ。スッラがマリウスと敵対していることも当然知っていた。そしてマリウスの縁者でもあるカエサル家に、スッラの手が及ぶのではないかと懸念していた。

 カエサルは家に帰り、我が家に危害は及ばないのか、と母に聞いた。

 母は不安の表情を浮かべている息子を、なだめるように優しく言った。

「大丈夫よガイウス。父上や私があなたを守ってあげますからね」

 母の言葉を聞いても、少年は落ち着かなかった。

 まだ不安? と母は問うた。

「なら、姉さんとユリアは私が守ります」

 少年の瞳は、正面と現実を見つめていた。




 数週間後、スッラの手勢が城壁に向かって攻め立てた。

同盟者戦役を戦い抜いた精鋭と、城壁を守る少数の守備兵では戦いにならなかった。瞬く間にローマはスッラ派の手に落ち、マリウスは北アフリカに落ち延びた。カエサルの父は現職の法務官であったが、どちらの軍にも属しておらず、一元老院議員と見られていた。しかしカエサル家はマリウスの縁者である。スッラから睨まれる理由は十分だった。

 アウレリアはカエサルら三人の子供たちに何度も言った。

「あまり外出してはいけませんよ」

 三人は幼くとも貴族の教育を受けているのだ。母親がどうして自分たちを外に出したくないかがすぐに理解できた。

幸いにもスッラの手がカエサルたちに差し向けられることはなかった。ローマの指導者層は生きた心地はしていなかったが、市民にとっては普段と変わらない生活であった。

ローマの実質的な指導者の立場に就いたスッラは、民衆派の有力者を国賊とし、次々と処刑した。幸いにもカエサル家やユリウス一門から犠牲者が出ることはなかった。ユリウス一門の中に、表立ってスッラに反発する人物がいなかったからである。しかしこの時、明確に反スッラ派の立場を取らなかったことで、後にユリウス一門に悲劇が起きる。


再び東方総司令官の座に返り咲いたスッラは、後の事を二人の執政官に任せ、自身は東方へと向かった。執政官の一人は法学者オクタヴィウス、そしてキンナと言う四〇代の男だった。このキンナは周囲から、従順なスッラ派だと思われていた。しかし、実際はそうではなかった。

 ある日の元老院会議で、壇上に上がったキンナは言った。

「マリウスと彼の支持者である者たちの名誉を回復する法を成立させる」

 議員たちはざわめいた。誰もがキンナのことをスッラの忠臣だと思っていたのだ。しかし彼は、スッラの政敵であるマリウスを復権させようとしている。スッラの言いつけを破るつもりなのは明白だった。

 議員たちの動揺の声を破るように、同僚執政官であるオクタヴィウスが声を上げた。

「キンナよ、あなたの目的が何であるかは知らないがその法は可決されるべきではない。なぜならば、もしここでマリウスを北アフリカからローマに呼び戻せば、必ずや内乱となるのだから」

 執政官は最も強力な権利である拒否権を持っている。オクタヴィウスはキンナの提案に拒否権を発動したのだ。

 しかしキンナも譲らなかった。会議は翌日に持ち越され、翌日になるとさらに次の日に持ち越された。

 しかしそれでも決着はつかず、最終決議は市民集会に委ねられた。


 


 マリウスは民衆には人気があるが、その民衆とは下層民に限ってのことである。既得権益の解体を目指すマリウスは、平民の有力者に人気がなかった。よって、有力者の発言力が強い市民集会で、マリウスの味方であるキンナへの風当たりは強かった。

 投票の結果、マリウスの名誉回復を求めた法案は否決された。


 キンナからすれば政治闘争で敗北しただけでは済まされなかった。彼はスッラ派の元老院と、平民の有力者を敵に回したのだ。下層民の中にもキンナを見限った者さえいた。キンナは己の身に危険を感じられずにはいられなかった。

 実際に市民集会の翌晩、キンナの邸宅でボヤ騒ぎが起きたのだ。当時、キンナ自身はローマ市街の友人宅に滞在していたので大事には至らなかった。

 キンナ家の奴隷が下手人を捕えて尋問すると、その下手人はとある裕福な騎士階級の家の奴隷だと判明した。平時ならばキンナはその奴隷の主人を訴えればよかったのだが、彼にはそのような時間がなかった。

 彼は二〇数名ほどの部下を率い、マリウスのいる北アフリカに逃げ込んだ。




 キンナが再びローマにやって来たとき、彼の傍らにいるのは彼に仕える奴隷ではなかった。北アフリカに逃亡していたマリウスと、その子飼いの兵士六千人だったのだ。

 クーデターによりローマから追われたマリウスだったが、今度は彼が武力によってローマを占領する。復讐の怒りに満ちたマリウスは誰にも止められなかった。マリウスの手にかかった犠牲者は千人にも及んだ。執政官オクタヴィウスも殺された。



 カエサル家での話題はマリウスが帰国したことで持ちきりだった。カエサルはマリウスの絶頂期には生まれてさえいなかったので、マリウスがどれだけ優れた人物かは周囲からの口伝で知るしかなかった。

 同じ話題ばかりに飽き飽きしたカエサルは、友人でもある奴隷たちを連れてローマの中心であるフォロ・ロマーノに行こうとした。叔父のマリウスを自分の目で見ようと思ったのだ。

 道中、付添いの奴隷が言った。

「ガイウス様。マリウス将軍とはどういった方なのでしょうか」

 カエサルは応えた。

「私も直に会ったことはないが、まさに“武骨”と言った感じの人らしい」

 カエサルが思っているマリウスのイメージは、正しくもあるが同時に間違いでもあった。カエサルが生まれる以前に起きた“ユグルタ戦役”でのマリウスは、将軍として絶頂期であった。だが今では有能と言えども過去の権威に執着する老人となってしまったマリウスに、往年の姿はなかったのである。そのことを少年カエサルは知らなかったのだ。

 いつもなら人で溢れかえるフォロ・ロマーノだが、その日はいつもと様子が違った。

 演壇に人が集まりざわついていた。普段の演壇は、布告官が元老院で可決した事項を市民に伝えるためのものである。しかしカエサルがどれだけ目を懲らしても布告官の姿は見えなかった。それでも人々は演壇の方を見ている。カエサルは人混みをかき分け、演壇に何があるのか見ようとした。そして彼は見たのだ。演壇の上に何人もの人間がさらし首になっているのを。

 そのさらし首の一つと、目が合った。

 十三歳の少年にとって、その光景はあまりにショックの大きいものだった。彼はその場に嘔吐した。奴隷がカエサルの背中をさすったが、彼の吐き気は治まらなかった。あまりの衝撃に、少年は奴隷の肩を借りなければ歩くことさえままならなかった。



 最悪の気分で自宅に戻ったカエサルは、母アウレリアからさらにショッキングなことを聞かされた。叔父のルキウス・ユリウス・カエサルとその弟がマリウスの一派によって殺されたとの知らせである。叔父ルキウスは同盟者戦役で総司令官を務め、マリウスの同僚でもあった人物である。そしてこれはカエサルにとってみれば、叔父が別の叔父を殺したことになるのだ。

 その日のカエサル家の食卓は陰鬱な空気に包まれた。父は一度も発声しなかった。



 翌年の紀元前八六年一月。マリウスは死んだ。毒殺でも刺殺でもなく自然死だった。

 マリウスの死後はキンナの独裁が続くが、カエサル家に危害は及ばなかった。

東方遠征に向かったスッラはマリウスの死を知ってもローマには戻らなかった。彼は東方遠征を優先事項としていた。



紀元前八四年。カエサルの父は病の床にあった。

 父は息子カエサルのことが気がかりだった。ローマ人は十七歳で成人であるが、カエサルはまだ十六歳だった。もし彼が家督を継いでも、成人男性の正装である長衣を着ることを許されていないのだ。世間からは少年扱いされるであろう息子が、立派に家長を務められるか父は心配だった。

 


 父は湯薬を運んできた奴隷に伝えた。

「息子をここへ呼んでくれ」

 奴隷は、かしこまりました、と言い部屋を出た。そして入れ替わるようにカエサルが扉を開いた。

「お呼びですか父上」

「ここに座りなさい」

 カエサルは父のベッドの隣にある椅子に座った。父はカエサルに視線を向けたままだった。そして老いてなお力強い声で問いかけた。

「ガイウス、今年でいくつになった」

「十六です父上」

「そうだ。息子よ、お前は世間から見てまだ少年だ。しかし来年になれば短衣の上に長衣を纏う年になる。少年ではなくなるのだ」

 カエサルは自信深く「承知しております」と応えた。

 父はその言葉と顔つきだけで安心した。家族からの愛情をうけて育った息子は、今ではカエサル家の家長としてふさわしい人物になっていた。

 その三日後、父は亡くなった。


 

 

 カエサルは父の後を継ぐと同時に、成人後はユピテル神を祭る祭司に任じられると決まった。祭司になると同時に、彼には一つの懸念すべきことが生まれた。

 カエサルには婚約者がおり、その彼女は騎士階級である富豪の家の娘だった。しかし司祭になるには、妻は貴族の出でなければいけないという慣習があった。そのためカエサルは、婚約者コッスティアとの婚約を解消する必要があった。

 幸いにも両人の婚約は内々で決められていたことなので、公になることはなかった。



 カエサルが家に戻ると、見慣れない女性と母、そして姉が客間で談笑していた。三人はそれぞれ寝台に横になり、数台の寝台は、珍味の盛られたテーブルを囲んでいる。そばでは数人の奴隷たちが控えていた。

その女性はオリエント製の首飾りをしており、またその気品さから良家の娘であることは明らかだった。

 母アウレリアは息子を見つけると軽く手招きした。

 カエサルは長衣を脱ごうと思い、近くにいた奴隷に脱衣を手伝うようにと命じた。しかし母はそれを止めさせた。

「ガイウス、大切なお客様の前なのです。長衣は着たまま横になりなさい」

 カエサルは素直に母の言うことを聞き入れ、奴隷にはもとの作業に戻るよう再び命じた。そして、客人の女性に面する寝台に横になった。

 女性はカエサルに向けて優しく目配せをした。この年にして女遊びには慣れているカエサルは、その視線をいとも簡単に流した。

「母上、この方はどなたですか」

「キンナ殿のご息女コルネリアです。そしてあなたの妻になる方ですよ」

 カエサルはドキリとした。自分はついこの前に、コッスティアとの婚約を解消したばかりなのだ。彼にとってコルネリアの件は、母からはおろか姉からも聞かされていないことだった。

「結婚したら女遊びもほどほどにしなくちゃいけないわね。ところでガイウス、あなたちょっとお香の匂いがするわよ?」

 姉が意地悪そうに言った。彼女は弟が毎日のように女友達と遊んでいるのを知っているのだ。自分のことを見透かしている姉に、カエサルは苦笑いで応えるしかなかった。

「よろしくガイウス様」

 コルネリアが言った。そしてカエサルの服装を見てクスリと笑った。

「とても素敵な長衣ですわね。私の父とは大違い」

 カエサルの長衣は裾を赤く縁取った洒落たものである。晩年にも外見に気を使ったカエサルは、若いころから着飾ることを意識していた。

「服にはこだわっているからね。でもキンナ殿は荘厳な方と聞いている。私も彼のような男になりたいものだよ」

 まるでお世辞のようにカエサルは言った。経験も実績もないカエサル家の若き家長は、時の権力者キンナから好かれる必要があったからだ。少しでもここで相手を持ち上げておこうという腹だった。

「アラ、お上手ですこと」

 コルネリアはクスリと笑う。

 二人の会話を、母アウレリアは暖かく見守っていた。成人して一人前の男になった一人息子が、とうとう嫁を貰うのである。母としてこれほど嬉しいことはなかった。そして同時に、息子の挙式を見ることなく世を去った夫のことを悲しんだ。

 キンナはマリウスを筆頭とした民衆派に属する。カエサルは、そのキンナの娘と結婚したことによって、カエサル家の民衆派としての印象は以前よりも強くなった。





 今でこそ元老院や市民集会はキンナの味方をしているようにも見えるが、キンナの権力は亡きマリウスの後ろ盾があってのものである。もし東方に向かったスッラがローマに戻りキンナが失脚すれば、民衆派として捉えられているカエサル家は窮地に立つのだ。カエサル家にとって、キンナとの婚姻を結んだことは賭けであった。

 確かにキンナはスッラから執政官を任せられるほどに有能な男だ。しかしキンナは、目的を達成するための巧妙さと狡猾さではスッラに大きく劣っていた。

 キンナも自分の能力の限界に気付いていたが、彼には民衆と元老院が味方しているという確固たる自信があった。彼は自分の勝利を信じて疑わなかった。

 キンナは同僚執政官に亡きマリウスの息子を推薦する。執政官に当選するには元老院からの票が必要だが、キンナの独裁下であったので難なくことは済んだ。



 ちょうどその頃、東方での戦闘を終えたスッラから、元老院に書状が届いた。その内容によれば、スッラは自分を国賊扱いしたキンナ政権を認めず、返答によってはローマに軍を差し向けることも辞さない、とのことであった。

 どのような対応をするか元老院が招集されたとき、キンナは議員たちに告げた。

「スッラは国法に反し、ローマに軍を差し向けるつもりである。ここは討伐軍を編成し、スッラを討つべきだ。もしそうなれば、私が直々に軍を率いる」

 議員たちの反応は冷ややかなものだった。相手は東方を制し、精鋭部隊を率いたスッラである。もしキンナではなく名将マリウスが軍を率いるなら議員たちも賛同したであろうが、マリウスはすでにこの世にいないのである。

 結局、決議はどっちつかずで終えてしまった。だがキンナは民衆派の有力者に根を回し、市民集会で討伐軍出兵の承諾を得る。

 軍団の集結地はアンコーナと決まった。首都ローマから北東に位置し、アドリア海に面する港町である。スッラはギリシアにいたので、アドリア海を挟んでの対峙となる。“正規軍”を率いるのはその年の執政官二人と決まった。キンナと、マリウスの息子である。




 カエサルがスッラ討伐軍の編成を知ったのは、市民集会のあった同日の夕方であった。キンナの家の奴隷が、キンナの手紙をカエサルに届けにやって来たのだ。

 義父からの手紙の内容は社交辞令から始まり、次にスッラ討伐に向けての事柄が記されていた。そして最後に、娘コルネリアを良くしてやってくれ、との親心が書かれていたのだ。

 カエサルは名門貴族の家長ではあるものの、まだ元老院議員ではなく、軍隊に所属しているわけでもない。つまり、彼は過去に起きた“同盟者戦役”の時と同じく、留守番の身であった。

 まだ長衣を着ることさえも許されていない少年は、幼いころに実父を戦地に見送り、そして今度は義父を見送るのである。カエサルは世間的にはまだまだ少年であったのだ。

 手紙を読みふけっている若い夫に、妻が声をかける。

「父からですか?」

 夫は手紙を畳み、そうだ、と応えて続けた。

「アンコーナで軍を募ってスッラの討伐に向かうらしい」

 政治闘争のことを良く理解しているコルネリアは、別段驚いた様子も見せず、表情を変えもしなかった。

 だがカエサルには、妻が自分の父を心配していることが手に取るように分かった。カエサルは妻に「心配ないさ」とだけ告げ、黙って義父への手紙をしたため始めた。


 


 二ヵ月後、土砂降りの雨が降る日に、一人の男がカエサル家を訪れた。その男はカエサル家の取次役に、自分はキンナ様の友人の奴隷だ、と告げた。コルネリアに渡したいものがあると言うのがその奴隷の話だった。

 取次役はそのことをコルネリアに伝えると、彼女は喜んで、父の友人の使者を部屋に通すように命じた。


 使者の名はガルスと言った。彼は生まれて初めてローマに入都したうえ、カエサル家のような名門貴族の邸宅を訪れるのも初めてだった。

 コルネリアは私室の椅子に座り、詩文を読んでいた。その部屋にガルスは通されたのだ。彼の表情はみるみるぎこちなくなる。

 彼女は、慣れない場で緊張しているガルスの気をほぐすように、ゆっくりと話し掛けた。

「父がお世話になっているご友人からの使いらしいですね」

「は、はい」

 ガルスは応えた。

「此度はどういった用件ですか? 父からの手紙なら父に随伴した者が届けてくれるはずですが」

 コルネリアの言うとおり、キンナからの知らせならキンナの奴隷が伝えるのが筋である。そうでないと言う事は、キンナ自身かキンナの周辺に異常があったと言う事である。

ガルスは恐る恐る尋ねる。

「カエサル様は本日ご不在でしょうか」

「ええ。でももうすぐ帰る頃だと思うわ」

 その日のカエサルは、神官就任の手続きで朝から家を留守にしていた。昼ごろには戻ると言っていたが、まだ帰ってはいない。

「そうですか。承知しました。私の主人からコルネリア様にこの手紙をお渡ししろと・・・・・・」

 ガルスはそう言って申し訳なさそうに、コルネリアに一通の手紙を渡した。彼の手は微かに震えていた。しかしコルネリアには、その震えの原因が何なのかは分からなかった。

 彼女は怪訝に思いながらも手紙の封を切る。そしてゆっくりと、父の友人からの手紙を読み始めた。



 カエサルが帰宅し、最初に聞いたのは奴隷の出迎えの声ではなかった。彼が聞いたのは、家中に響き渡る妻の泣き声だった。

 夫は急いで声のする方へ向かった。カエサルがコルネリアの私室の扉を開けると、彼の目に入ったのはベッドにしがみ付くようにして泣いている妻と、彼女を慰める奴隷二人の姿だった。

 カエサルは奴隷二人に部屋から出るよう命じ、妻が泣き止むまで背中をさすった。

 コルネリアはしばらく泣き続けたが、少し平静になると目を赤く腫らしながら夫にこう言った。

「父が・・・・・・死にました」





 時を少し戻す。

 アンコーナはローマ軍の軍港として利用される機会の多い町である。ローマ正規軍はそのアンコーナに続々と集結した。既存の兵数だけではスッラの率いる軍に勝ち目はないので、キンナは志願兵も募ったのだ。

 キンナは一足先にアンコーナに向かい、貴族階級に属する旧友の邸宅で世話になっていた。彼の友人は、現職の執政官をもてなす名誉を喜び、最大限の歓迎をした。

 友人はキンナを、今日のために整えた最上の客室に案内した。この日のために絨毯を新調し、職人を雇って壁のモザイクまで手直しさせたのだ。

「この部屋を使ってくれ。もし何かあったら好きなだけ申し付けてくれよ」

「ありがとうルクルス。短い間だが世話になるよ」

友人ルクルスは嫌な顔ひとつしなかった。民衆派のキンナをもてなし、反キンナ派から睨まれることなど、ルクルスにとっては些細な問題だった。彼は心から喜んでいた。ローマの社会的頂点に立ったキンナの出世を喜んでいたのだ。

キンナが部屋の板窓を開けると、そこには一面のアドリア海が広がっていた。

「ほお、いい景色だ」

 季節は十一月だったが、海はまったく荒れる様子はなかった。窓から入る潮風を全身に浴び、キンナは敵将スッラがどのように動くか考えていた。


 

 二週間もすると、イタリア各地から志願兵が続々とアンコーナに集結した。だがしかし、キンナや彼の配下には軍団を効率よく編成する技能に長けた者がいなかった。そのせいで志願兵たちは自分がどこにいればいいのか分からず、町は兵たちでごった返した。

通常、軍団を編成するのはローマのはずれにあるマルス広場と決まっていた。場所が広ければ、新規兵たちの編成に混乱することもほとんどなくて済んだのだ。

しかしアンコーナには大した広場もなく、各地からバラバラに集まってくる志願兵たちを受け入れる態勢も十分に整っていなかった。



「キンナ様!」

 キンナの奴隷が、ルクルス邸の客室で軍団名簿を確認しているキンナの元に駆けつけた。奴隷はひどく混乱しており、目がくるくると回っていた。

「一体どうしたんだ。騒々しい」

 荘厳さを重んじるキンナにとって、奴隷の慌しい姿は好ましいものではなかった。

「も、申し訳ありません。ですが大変なのです! 兵たちが、兵たちが暴動寸前です!」

 馬鹿な、と叫んでキンナは立ち上がった。軍団名簿が手から滑り落ちる。書類を戻すことなく、キンナは部屋を出た。しかし長衣が着崩れてはいけないので走りはしなかった。

 ルクルス邸を出ようとするキンナの肩を、家主のルクルスが掴んだ。

「執政官殿、いや、キンナ! 外は危険だ。このまま家の中にいれば大丈夫だ」

 友の手を肩から下ろさせ、キンナは言った。

「その執政官である私が行かねば誰が兵たちを抑えると言うのだ? それにここで彼らを抑えておかねば、後々スッラとの戦いで支障が出る」

 キンナの言うとおり、アンコーナに執政官はキンナしかいないのだ。マリウスの息子は、まだローマで元老院との今後を討議していたのだ。

 そしてこのまま、兵の乱れを放置していることなど絶対に許されなかった。将兵が一丸となっていない軍が、つい最近までギリシアで戦闘を経験していたスッラの精鋭に適うはずがないのだ。ここでキンナが兵たちの前に姿を出し、軍の士気と規律を引き締める必要があったのだ。

 友人の制止も聞かず、キンナは奴隷に扉を開かせた。そして少し足早に、兵たちの下に向かった。キンナの奴隷数名も主人に追随した。



 暴徒寸前と化した兵士たちは港に集まっていた。彼ら、特に初めにアンコーナに集まった兵たちは、キンナたちの編成能力の足りなさに、もしかしたらこのまま給料未払いで軍団が解散されるのではないかと猜疑心を抱いていた。

 彼らにしてみれば故郷に家族を残してはるばるこの港町まで来たのである。給金を与えられないまま、故郷に帰れなどと言われては堪ったものではないのだ。

 不安は焦燥に、やがてその焦燥は苛立ちを超えて狂気に変わっていた。

 港に着いたキンナたちは愕然とした。自分の兵士たちが、自分たちが守るべき町を荒らしているのだ。

 船の積荷は海に投げ捨てられ、造船中の船は斧で切り刻まれていた。身の危険を察した漁師や水夫たちは一人残らず港から姿を消していた。

 普段は新鮮な魚を売る商店も、見るも無残に荒らされていた。かつてのアンコーナの姿はどこにもなかった。

 顔を引きつらせてキンナはぼやく。

「な、何と言うことだ」

 だが、キンナがただ立っているだけでは事態は収拾しない。彼には、暴徒と化した兵たちを鎮める必要があった。そして彼の決断と行動は早かった。

彼は前に出て叫んだ。

「静まらんか貴様ら! 貴様らの部隊長はどこだ! 百人隊長はどこにおる!」

 あらぶる暴徒の怒声に、キンナの声は通らなかった。何人かの兵はキンナの存在に気付いたが、その兵たちもすぐにまた暴れ始めた。

 キンナには、小癪な相手を黙らせる威厳がなかった。先祖代々貴族であるキンナは、今まで自分の壮大さを高める機会に恵まれなかったのだ。平民からの叩き上げであったマリウスならば、姿を見せるだけで暴徒を黙らせられただろう。しかしキンナはマリウスではないのだ。彼には、兵たちを鎮める力はなかった。

 暴走を止めない兵たちに痺れを切らせたキンナは、無謀にも暴徒の群れに飛び込んだ。説得術も何も無かった。彼はただ、一人でも多くの兵に平静を取り戻させたかった。キンナの奴隷も主人に続いた。

 そして暴徒の荒波に飛び込んだキンナと彼の奴隷たちは、二度とその群衆の波から出てくることはなかった。スッラとの決戦を迎えずして、キンナは死を迎えた。




 キンナの死を聞いたカエサルは愕然とした。自分の最大の庇護者である義父が死んだのだ。不安の色は隠せなかった。すすり泣くコルネリアを慰めながらカエサルは今後の展開と自分がすべきことを考えた。

 あっけない事件でとは言え、キンナ派は執政官の一人を失ったのである。意気消沈するのは火を見るより明らかだった。

 だがカエサルに出来ることは何もなかった。まだカエサルは元老院にも所属しておらず、当然だが兵権など欠片も持っていない。今のカエサルは、荒波の為すがままにされる木片に過ぎなかった。




 翌年、紀元前八三年の春。スッラは軍勢を率いてイタリアに上陸した。上陸地点はブリンディシ。イタリアを長靴に見立てると、ちょうど踵に位置する港町である。ブリンディシはスッラに抵抗する素振りすら見せず、城門を開いてスッラを迎え入れた。

 スッラがイタリアに上陸したことが知れ渡ると、彼に味方する者たちが続々と手勢を引き連れてスッラの元に参上した。終結したスッラ派の総勢は七万五千。

対する“ローマ正規軍”は十二万の大軍である。率いる五人の将の一人はマリウスの息子であった。

ローマ軍同士のぶつかり合いは、イタリア半島のローマ以南で、二年間に渡って行われた。

 激戦に続く激戦の末、最後の戦いはローマの陥落で幕を下ろした。紀元前八二年十一月のことである。キンナ派は敗れたのだ。スッラの勝利だった。マリウスの息子は戦死した。




 スッラが手勢を率いて首都ローマの門をくぐる。東方での戦役に大勝利した将軍は、凱旋将軍ではなく武力クーデターの勝者として入場した。

 もっともスッラを恐れたのは、かつてマリウスに味方した、元老院議員や騎士階級に属する人々である。彼らはかつてマリウスに味方し、スッラ派の有力者を殺害したのだ。怨嗟が自分たちに向けられるのが恐怖で堪らなかった。

 スッラが元老院の開かれる神殿に登院するたびに、マリウス派だった議員たちは息が詰まる思いだった。




 かつてマリウスは反対派を粛清するために手下の奴隷を利用したが、スッラもそれを踏襲した。

 ある日、スッラの側近の奴隷がスッラの執務室に呼ばれた。

「お呼びでしょうかご主人様」

 スッラは奴隷に一枚の羊皮紙を手渡した。そこには、誰もが知っている政財界の有力者たちの名前が無数に並んでいた。

「この名簿に載ってる人物を全員、始末しろ」

 主人は顔色一つ変えずに言い放った。

「かしこまりました。すぐに手配します」

名簿の名は元老院議員だけでも八〇人、騎士階級ならば千五百人にも及んだ。これだけの人を殺せば世間に悪評が流れるのは必須である。だが、スッラは巷の評判を気にするような男ではなかった。彼はどのようなことでも、それが必要だと思えば冷徹にやり遂げる性格だった。

奴隷はその名簿の中に、ある青年の名が書かれていたことを一片も気に留めなかった。カエサルもスッラの“処刑者リスト”に名を連ねられていたのだ。



 名簿に記載されている人々の処刑を実行するまで一週間を切ったある日、法務官の一人がスッラの屋敷を訪ねた。法務官は執政官に次ぐ官職である。スッラの家の奴隷は、粗相しないよう丁寧に法務官を客間へ案内した。

 法務官が五分ほど客間で待っていると、今しがた仕事を終えたような姿をしたスッラが現れた。

 簡単なあいさつを終え、スッラは切り出した。

「どうかしたのかな。もしや、マリウス派の処刑を取りやめてくれと言う気ではないだろうね」

 スッラには、自分の計画に反対する者が多くいることが分かっていた。それでも彼は計画を実行する気だったのだ。

 鋭い眼光に睨まれた法務官は少し怖気付き、苦笑いを浮かべて言った。

「いやあ、そうではありません。ただその、ユリウス一門の跡継ぎのことなのですが」

「ユリウス?」

 スッラは少し考え、あの少年か、と思い出し言った。

 カエサルは少年の頃より少年司祭として、ローマの神々を祀る祭事に参加していた。その時から両者は少なからず面識があったのだ。

「あの少年も名簿には載っているが、彼がどうかしたのか?」

 法務官は生唾を飲み込み、意を決して言った。

「実はですね、その少年なのですが。カエサルの助命を願いに来ました」

「ダメだ」

 スッラは申し出を一刀のもとに切り捨てた。

「あの少年はマリウスの甥であり、キンナの娘の夫なのだ。民衆派の芽は、マリウスに通じる者は消さねばならん」

 法務官は、しかし、と小さく言った。それを上書きするようにスッラは続ける。

「もしこれ以上あの少年を庇うつもりなら、君もマリウス派と見なすがいいのかね?」

 こう言われては法務官も退くしかなかった。彼はスッラに、失礼しました、と言い残し、邸宅を後にした。





 次の日も、カエサルの助命を願う人々がスッラの元を訪れた。だがスッラはまたも彼らを追い返した。

 それでも少年の助命を願う人の波は絶えなかった。貴族や平民を問わず、多くの人が嘆願書に署名した。

 カエサルはまだ若く、スッラに反するような行動はおろか、キンナやマリウスを支援するような活動もしていなかったのだ。それに彼はユリウス一門唯一の跡継ぎで、まだ十八歳の少年である。その若さも、人々が助命を願った理由の一つだった。

 度重なる助命嘆願にスッラはついに折れた。多くの有力者の言葉を退けてきたスッラだったが、ローマ市民から尊敬を集めている女司祭長からの願い出までは、断ることが出来なかった。

 女司祭長たちの眼前で、名簿にあるカエサルの名をしぶしぶと消しながらスッラはこう言い放った。

「君たちには分からないのだな。彼の中にたくさんのマリウスがいることが」

 カエサルの命は奪わなかったスッラだったが、その代わりにある一つの条件を出した。その内容は、カエサルにコルネリアと離婚せよ、と言ったものだった。




 名簿に載った人々の逮捕が実行される日となった。実行犯は、スッラの家門名コルネリウスを与えられた奴隷たち、通称“コルネーリ”である。コルネーリたちはローマ市内や近郊を走り回り、対象者を次々に殺害した。犠牲者は五千人近くに上った。

 陰鬱とした雰囲気が街中を包む中、カエサルはスッラ邸へと向かう、奴隷四人が担ぐ籠に乗っていた。

 周囲を薄布で仕切られた輿の上で、カエサルは考えた。

 なぜ自分は、時の権力者であるスッラに召喚されたのか。もしマリウスとキンナの縁者であることが原因ならば、すぐにでも手下を差し向けて殺せばいいのだ。スッラが、自分と直に対面して話す理由など彼には思い付かなかった。

 考えている間に、輿はスッラ邸の前に到着した。

 客人が来ることを知らされていたスッラの奴隷は、カエサルを止めることもなく扉を開けた。

 奴隷に先導され、カエサルは中庭の池を囲む回廊を進んだ。各部屋から奴隷たちが物珍しそうにカエサルを見ている。まるで、これから殺される男の顔を見収めるように、しげしげとカエサルの姿を観察していた。

 この日もカエサルは普段と変わらず、長衣の縁を赤いブローチで留めていた。荘厳を重んじるローマの男にしては、少し珍しい格好である。だが、自分の命を狙っている独裁者の家に赴くにしては、あまりに余裕のある、悪く言えば調子に乗った服装だった。

「こちらです」

 奴隷がスッラの執務室の前で立ち止まる。

 スッラがカエサルを客間に通さなかったのは、カエサルがまだ社会的に大した地位を持っていないからである。

奴隷が扉越しに、カエサル様をお連れしました、と主人に告げる。

「入りたまえ」

 部屋の中からドスの効いた男性の声が聞こえた。並みの人ならその声だけで怖気づくものだが、若きカエサルは何の反応も示さない。

 奴隷がゆっくりと扉を開ける。カエサルは正面を見据えたまま、部屋に足を踏み入れた。

 執務室の奥で椅子に座っていたスッラは、カエサルと目を合わせるとささっと立ち上がる。

「久しぶりだな、カエサル君。何年振りかは覚えてないが大きくなったものだ」

 五〇代半ばの権力者の表情は、目以外は笑顔で満ちていた。

 カエサルは頭を垂れて言う。

「お久しぶりです」

 スッラの顔に変化は見られない。彼はカエサルに、椅子に腰かけるように言う。カエサルは隣にあった背もたれの無い椅子に座った。スッラは続ける。

「そういえば先年、父君の後を継いだらしいな。実に惜しい人だったが、あんな早くに亡くなるとは」

 カエサルは何も応えない。自分がここに呼び出された理由を言われるまで、彼は極力口を開かないようにする腹であった。

「ところで、奥方は息災かな?」

 コルネリアのことを聞かれてカエサルはドキリとした。彼女はスッラの政敵キンナの実子である。カエサルはまさか妻にまで危害が及ぶのかと内心動揺した。

「子を身籠っておりますが元気にしております」

「ほお、それはめでたい。おめでとう」

 ありがとうございます、とカエサルはお辞儀する。

 少しばかり気の緩んだカエサルは、今度はスッラに問いかけた。

「あの、本日私が呼ばれた要件とは何でしょうか」

 スッラはワザとらしく、そうだ忘れていた、と言い放つ。そしてゆっくりと立ち上がり、机上の散らばっていた何枚もの紙から一枚を取り出して、カエサルに手渡した。

 カエサルは怪訝に思いながらその紙の内容を見てみると、そこには自分が知っている名前が紙にぎっしりと記されていた。その紙はスッラの作成した処刑者リストだった。

 名簿の中にはカエサルの名も載っていたが、彼の名は一本の横線で上塗りされていた。

「私の名前に線が引かれていますが、これは私が殺されるという意味でしょうか」

 スッラは一瞬だけ目を見開き、小さく笑った。

「ふっふっふ、面白い冗談だ。だがそれは違う。君の命は、多くの人からの願いで助けられたのだよ」

 自分を救おうとしている人々がいることはカエサルも耳にしていた。しかしまさか、その署名活動が功を奏しているとは思ってもいなかった。

 スッラはカエサルから名簿を取り上げ、椅子に座り直す。そして、目に力を込めて言う。

「まごまごせず単刀直入に言おう。カエサル、妻と別れたまえ。これは命令だ」

 カエサルは、自分に向けられた鋭い視線をものともしなかった。グッと奥歯を噛み締め、彼は言った。

「もし断った場合はどうなりますか?」

 言われたスッラは眉間にしわを寄せて返す。

「その時は、それ相応の処置を取らねばならん」

 両者の間に、少しの空白時間が生まれる。

 先に口を開いたのはカエサルの方だった。十八歳の若者は、五六歳の権力者に向かってはっきりと言い放った。

「お断りします」

 カエサルにはスッラの命令を聞き入れることなど出来ない事情がいくつかあった。

 つい二年前に父を亡くしているカエサルには、身重の妻を見捨てることなど出来ないのである。政敵の烙印を押された者の娘が、夫もなしに生きていけるはずがなかった。古今東西、貴族にとっての結婚とは政略結婚のことだが、カエサルはそれ以上にコルネリアを愛していた。

 次にカエサルの社会的立場が問題になる。マリウスの縁者であり、キンナの娘を娶っているカエサルは、ローマ市民から民衆派の次期リーダーだと見なされていたのだ。その立場にあって、キンナの娘と離縁するなど起こしてはならないアクションであった。

 スッラは微笑を浮かべる。彼には、なぜカエサルが自分に逆らったのか知りたくなった。

「よかったら訳を聞かせてくれないか?」

「私は思うのです。どのような権力者であれ、人の私生活にまで介入する権利はないと」

 今まさに自分がしていることを若造に指摘されたスッラは、堂々としているカエサルを睨みつける。

 カエサルはスッラから何を言われようと、コルネリアと離縁する気はなかった。そして自分たち夫婦に、スッラの手がすぐ及ぶはずはないと思っていた。民衆派のリーダー格であるカエサルに危害を加えてしまうと、市民からの激しい反発が起きるからである。

 スッラは肘を机に突き、低い声で言う。

「それが執政官からの命令でもか?」

「はい。決心の上です」

 権力者は静かに溜息を吐く。

「よろしい。君の好きにしなさい。ただし、今日私の言いつけを聞かなかったことを後悔しないように」

 そのスッラの言葉にカエサルは慎ましく頭を下げ、執務室を後にした。

 部屋を出たカエサルの風貌に、スッラ家の奴隷たちは驚いていた。なぜならば奴隷たちの間では、自分たちの主人がユリウス家の当主を恫喝するつもりだとの噂がまことしやかに囁かれていた。しかしその当主は何食わぬ顔で執務室から出てきたのだ。奴隷たちの動揺は当然だった。

 カエサルはスッラの邸宅を出た。そして、石畳に座り込んで休んでいる自分の奴隷に向けて、すぐに帰宅するぞ、と手早く告げた。奴隷たちは驚いたように立ち上がり、カエサルが乗るための輿を四人がかりで持ち上げる。カエサルは輿の前に跪く奴隷を階段代わりにして輿に乗り込んだ。




 帰宅したカエサルを真っ先に出迎えたのは、ガリア人のグニポであった。主人が少年期だった頃は専属の教師だった彼だが、カエサルが成人した後はカエサル家の秘書になっていた。

 輿から降りる主人に、グニポは冗談っぽく言う。

「よかった、ご無事でしたか。心配のあまり仕事が手に付きませんでしたよ」

 その言葉にカエサルは至って真面目に答えた。

「グニポ、話があるから後で私の部屋に来てくれ」

 主人の言に何かをあることを感付いたグニポは、さっきの冗談気はどこへやら、とでも言えるように引き締まった表情になる。

「かしこまりました」

 返事を聞いたカエサルは少し足早に家に入り、奴隷の手を借りて長衣を脱いだ。

 ローマの日差しは一年を通して強い。カエサル邸のあるスブッラもその例外ではなく、中庭には明るい光が差し込まれていた。紀元前八二年のことである。




 カエサルがスッラと面会した日の夜のことである。その日の夜は雲一つなく、満月がローマを照らしていた。そんな夜に、若き当主の部屋の扉を叩く男がいた。グニポである。

 ノックの音に気付いたように、部屋の中から主人が入室するように言うと、グニポはカエサルの私室に入った。

 カエサルはスッラが自分と会った時と同じように椅子に座っていた。スッラと違うのは、カエサルの顔をロウソクの明かりが煌々と照らしていることである。

「申し訳ありません。少々遅れました」

 グニポが頭を下げる。

 コルネリアや他の奴隷たちはとっくに前に床に就いていたので、二人の密談を盗み聞きする者はいない。

「スッラに目を付けられた」

 カエサルが唐突に切り出した。その顔には焦りが浮かんでいる。

「それはマリウス様のご生前からの話ではございませんか。何を今さら」

 カエサルの幼い頃は家庭教師を、成人してからは秘書を務めているグニポである。主家に関する情報はカエサルと同程度に押さえていた。

「違う、今までの比じゃないんだ」

 焦る若者は、指先で机をコンコンと叩く。

 カエサルは事の些末をグニポに話した。言われたグニポは、ただただ驚愕と恐れの表情を浮かべていた。



 二人の顔がロウソクの明かりに照らされる。

 カエサルはスッラとの対談の内容を包み隠さず自分の秘書に話し、そしてスッラへ対策を話した。

「私は一度小アジアに逃げ、身を隠そうと思う」

 大そうな策があるのかと思っていたグニポは、少し肩を落とした。

「なぜまたそんな遠方まで行かれるのですか? ナポリの別荘にでも身を潜めていればよろしいのに」

 カエサルは焦燥感を隠すように、口の端を上げてこう言った。

「軍隊は常にどこかを移動しているので身も隠しやすい。それに、見聞を広めるにも適しているだろ」

 グニポは、なるほど、と返す。

「奥方様もご同行なさるので?」

「いや、身重な彼女にアジアまで旅をさせるのは酷だ。それにローマに残ったとしても、スッラはコルネリアには手を出さないだろう」

 スッラの目的は民衆派のリーダーとされているカエサルである。元リーダーのキンナの娘は、標的にするほどのものではなかった。それに彼女は妊婦の身である。地中海を横断する船旅は、母子ともに危険なのは明白だった。

「船の手配や出航する港はすでに決めておられますか?」

「ブリンディシで船を手配するつもりだ」

 イタリアの“踵”に位置するブリンディシは、ギリシアに渡るにも最適な都市である。かつてスッラが東方遠征軍を上陸させたことでも知られる港だ。北アフリカやオリエントからの商人たちが行き交うため、身を隠すには最適だった。

 ブリンディシへの道中はさしたる難所もない。ローマの南門から東南に向かって一直線に伸びるアッピア街道を進めば、十日もすれば到着するのだ。

 カエサルはグニポの手を握る。

「先生。いつ帰国が叶うかは分かりませんが、妻と生まれてくる我が子を頼みます」

 グニポにとって教え子から先生などと言われたのは実に三年ぶりだった。少年が成人してから、常に二人は主従の関係だった。しかし今、その主人が最も大切にしている妻子を自分に任せたのだ。自尊心をくすぶられ、グニポは身震いした。誇りから来る震えだった。




 小アジアへと向かうカエサルに着き従うのは、彼が幼いころから苦楽を共にしている3人の家庭内奴隷だった。カエサルにとっては、初めてイタリアを離れる遠出である。共をするのはよく知った関係の奴隷たちである方が、都合がよかった。

 カエサルは旅出前に、妻と一時の別れを惜しんでいた。

食料や路銀は従者に持たせてあるので、カエサルが身に着けているものは腰に帯びた短剣と、灰色のマントだけであった。

 この旅はあくまで逃避行であるので、盛大な見送りはされなかった。コルネリアとグニポ、そして数人の奴隷が、家の玄関から旅立つ主人を見送っただけである。



 小アジアへ向かう船の上で、カエサルは十九歳を迎えた。少なくとも彼は、自分がこのようなことになるとは思ってもいなかっただろう。



 小アジアはローマの属州である。そして小アジア西岸の総督ミヌチウスは、スッラの東方遠征で活躍した男である。当然、彼はスッラ派に属した。

 カエサルはミヌチウスが滞在しているエフェソスの町に訪れ、総督官邸へ足早に向かった。

 スッラに歯向かい、ローマから逃げてきたことを正直に話すカエサルを、ミヌチウスは叱責しなかった。そして二十歳に満たない若者を、自分の陣営の幕僚として迎え入れた。

 ローマでは、元老院議員を務めた人の息子には、軍への入隊直後から将官の席が与えられる。カエサルの父も早くも亡くなったとは言え、立派な元老院議員である。その資格も十分にあった。

 そしてカエサルが何より幸運だったのは、ミヌチウスの人柄である。もしミヌチウスが熱狂的なスッラ信者であったなら、のこのこと現れたカエサルを逃がすはずはない。お縄につけてローマへ護送したであろう。しかし彼はそれをしなかった。多少の経歴など気にしない豪快な性格だったのである。

 この気のいい上官の部下として、カエサルは見聞を広めると並行して軍人としての実績を残すこととなる。

 この時点でのカエサルは、まだまだ無名の一貴族であった。それでも彼はまだ若い。時間なら掃いて捨てるほど有り余っているのだ。




 三年が過ぎた。

 ただ、この三年はカエサルにとって無意味な三年ではない。軍役中に、味方を助けたことで送られる、葉のついた樫の小枝で作られる市民冠を授与される名誉も受けた。そして何よりも、二十二歳になったカエサルを驚かせる知らせがあった。

 官職を退いて隠遁生活を送っていたスッラが死んだのだ。六十歳を迎える寸前だった。葬儀は前代未聞の壮麗さで執り行われ、彼の元で戦った古参兵たちが、武装した姿でイタリア中からローマに集まるほどだった。

 その知らせを聞いたカエサルは、諌める奴隷たちの忠告が耳に入らないくらい慌ただしく、エーゲ海からギリシアへ渡った。そしてギリシアを西へ横断し、アドリア海を渡ってブリディシに上陸した。

 ブリディシからアッピア街道を北上する。野盗にも出くわさず、平和な帰路だった。



 四年の時を経て、スブッラの自宅に戻ったカエサルを迎えたのは、家中の奴隷たちと恩師グニポ、そして妻コルネリアと初めて会う娘ユリアだった。

 カエサルをリーダーとして担いでいる民衆派は、スッラの粛正によって勢力が壊滅状態にあった。自分の立場は民衆派だと明確化している人だけではなく、民衆派に手を貸したというだけの人々も粛正の対象となったのだ。

 スッラ派を打倒するために属州総督レピトゥスが蜂起したこともあったが、スッラの股肱の部下であったポンペイウスによって呆気なく鎮圧される。ポンペイウスはその年二十九歳。執政官はおろか、出世コースの官職と言われる会計監査官さえも経験していない青年だった。

 唯一の希望であったレピトゥスの反乱が収束したことで、民衆派の息はますます潜まるばかりだった。





 ローマに戻ったカエサルは、まず何かしら生計を立てる必要があった。貴族ならば大農地の経営で財産を築くものだが、カエサル家にはそのような農地はなかった。そこでカエサルは弁護士として身を起こすことにした。

 ローマの弁護士は、告発された依頼者を弁護するのみが仕事ではない。場合によっては、告発する側に回ることもあったのだ。

 しかし、貴族の息子、とだけでしか世間に認識されていない無名の新米弁護士であるカエサルに、人生に進退が掛かった裁判の弁護を依頼する者はいなかった。

 仕方ないのでカエサルは告発する側に回る。しかし一度目の裁判は敗訴し、続く二回目でも敗れた。

 二度目の裁判でカエサルが告発した人物は、スッラの手下として名を占めた元老院の有力者だった。その人物を相手取ったカエサルの名は、すぐさま世間に広まった。

 いつの間にか冷めたほとぼりは、この事件で再燃した。

 スッラが生きていた頃ほどではないが、カエサルは身の危険を感じていた。そして彼は再度の国外脱出を決意する。今度は軍人になることはせず、ロードス島への大学へ進むことが目的だった。当時のロードスとアテネは、地中海世界での最高学府である。良家の子息が学問を修めるならば、最も適した道であった。

 夕飯の席でカエサルは妻と母に、少し家を出る、と話した。

「今度はカルタゴですか? それともヒスパニア?」

 母は葡萄酒を飲み干し、空になった杯を奴隷に渡す。

「ロードス島へ行こうと思います」

「あの辺りは海賊が多くて危ないと聞きます。陸路でアテネに向かうのではいけないのですか?」

「アテネよりロードスの方が気候は穏やかで過ごしやすいのですよ、母上」

 夫の言葉を聞いてコルネリアは苦笑せざるをえなかった。夫が温暖な過ごしやすい環境にこだわることなどないと、彼女には分かっていたのだ。そういうカエサルの性格を知っている点では、母であるアウレリアも同じだった。

「冗談はさておき、ロードス島は通商の島でもあります。商人が集えば情報も同じです。遠く離れたローマや、いざこざの起こりやすいオリエントの情勢をいち早く掴むなら、アテネよりロードスの方が都合もいいのです」

 東にキプロス島、西にはクレタ島、そして南にはエジプトと、当時の商業海域を繋いでいたロードス島である。人の流出入は、首都ローマに決して劣るものではなかった。

「資金繰りのことは気にしなくて結構ですよ。あなたの父上が残した遺産もまだまだ余っていますからね」

 母の言葉がカエサルの胸にチクリと刺さった。



 かつてスッラの手から小アジアへ逃げたときは十八歳だったカエサルは、短期間ではあったが軍人や弁護士の経験を積み、二十四歳となっていた。しかしローマでの官職に就く資格は、三十歳以上からである。後にカエサルと争うポンペイウスは、スッラの推薦により二十代前半から官職に就いていたが、彼は例外中の例外である。

 年齢からみてもカエサルがロードスに留学する理由は十分理にかなったものであったし、現に彼のことを臆病者の逃亡者呼ばわりする者もいなかった。

 そして今度も付き従う奴隷は六年前と同じ三人だった。カエサルが家族との別れを惜しむように、奴隷たちも自分の両親や妻子との別れを悲しんだ。



 一行の取った進路は六年前とまったく同じである。ローマからアッピア街道を南進し、ブリディシから旅客船に乗り換えるのだ。

 地中海は温暖な気候で知られるが、ときに大荒れすることもある。しかしながら幸運にも、ロードスへ向かうカエサルたちがその荒波に遭遇することはなかった。

 もっとも、彼らは豪雨や暴風などより厄介なものに遭遇してしまう。商船や旅人から貨物を一切合財奪い取る者たち、海賊である。



 

 海賊船の接近に気付いたのは、ガレー船の甲板で欠伸をしていた水夫だった。

 カエサルたちが乗る旅客船の右方向から、一隻のガレー船が突っ込んでくるのだ。カエサルたちの船は帆に受ける風で進んでいたが、海賊たちは獲物に逃げられまいと、全力で櫂を漕いでいた。瞬く間に海賊船に横付けされ、四十人近い海賊が剣を片手に乗り込んできた。抵抗する暇もなく船は占拠された。



「まさか海賊に襲われるなんて……。カエサル様、どうしましょう」

 奴隷の一人が、不安と絶望を顔にして言う。

「そうだな。よし、彼らに私の身代金はいくらかと聞いてきてくれ」

「えっ!」

 早く、とカエサルは奴隷の背を声で押した。

 海賊たちの目標はもちろん獲物の積荷であるが、船員たちの身代金も重要な収入であった。そのため、海賊たちが人質をすぐに殺すなどほとんどありえないことだったのだ。

 奴隷に話を振られた海賊たちは、カエサルの身なりをまじまじと見つめる。目利きの商人が高額な品を見定めるように、顔立ちからアクセサリーの細部まで海賊たちは観察していた。

 海賊はカエサルが貴族だと分かると笑いが止まらなかった。思わぬ高額商品が手に入ったのだから仕方なかった。

 海賊との話を終えた奴隷がカエサルの元に戻る。

「いくらだった?」

「に、二〇タラントです」

 タラントとはギリシアの通貨である。ローマは属州の貨幣にローマ本国のそれを強制しなかったので、東地中海ではギリシア通貨が多く出回っていた。

 そして二〇タラントはローマのデナリウス銀貨に置き換えると三十万デナリウスであり、四千人近い兵を雇えるほどの大金である。

 その途方もない金額を聞き、カエサルは驚いた。

「たったの二十タラントだと!」

 奴隷の聞き間違いではない。彼の主人は今確かに、たったの、と言ったのだ。

 カエサルは自尊心が強かったが、同時に自己顕示欲も大きかった。もともとの気性がそうなのだから、二十代と言う若さがそれを助長させた。

 自分を安く見られて不満な若者は、ゲラゲラと品の無い笑いを飛ばす海賊たちに、紳士ぽく話しかける。

「海賊諸君、私の身代金は二十タラントだと聞いたのだが」

 言葉を遮るように、海賊の一人が言う。

「おうよ。まさか、払えないなんて言うんじゃねえだろうな。そのときゃ手前には海に沈んでもらうぜ」

「とんでもない」

 野蛮な海賊たちを、カエサルは手を上げてなだめる。

「私は自分の値段が二十タラントと言うのに不満なのだ。五十タラントに引き上げてあげよう」

 この言葉にカエサルの奴隷や他の船員たちは、泡を吹きそうになった。だがもっと驚いたのは海賊たちである。ハトが豆鉄砲をくらったようにポカンとした後、略奪した積荷を確認している仲間を集め、ざわざわと話し始めた。

 奴隷たちは主人が本当にそんな大金を払えるのか不安がっていたが、カエサル本人には策があった。

 ローマ一の富豪に、クラッススと言う名の男がいる。元老院議員に籍を持つが、貴族階級ではなく、騎士階級に属す家柄である。先年のスッラによる武力クーデターの際、ギリシアからイタリアに上陸したスッラの元に参陣した人物でもある。

 このクラッススは資金運用の能力に長けた人物で、大農場を運営する傍らで金融業にも手を出していた。カエサルも彼からは莫大な金額を借用しており、その額の前では五十タラントなど少額であった。

 貸した額が金額ならば、借りた側がどんなもとになろうと取り立てるのが常だ。しかし貸した額が大きすぎると、借金した者に対して、あまり強硬手段に出ることは出来ない。借りた者が破産してしまっては、貸した金が一文も返ってこないからだ。

 海賊たちがカエサルの言葉を嘘かどうか疑っている間に、カエサルは近くにいた商人から羊皮紙と羽筆を借り、一通の書状をしたためた。カエサルはそれを奴隷の一人に手渡し、せわしない奴隷たちに話しかけた。

「この者に私への実家への手紙を持たせた。内容は『急用で五十タラント必要になったので、クラッスス殿に頼んで工面してほしい』だ。手紙を届けるには陸路を進まないといけないから、この者だけはギリシアの適当な港町に降ろしてやってくれ」

 命を握られている人質の言い方にしてはやたら高圧的である。

 海賊たちには、この威風堂々とした人質が五十タラントの財宝にも思えた。そうなれば、人質の奴隷一人を陸に揚げるのも惜しくない。海賊たちは旅客船の先端を、自分たちの船尾に括り付け牽引した。見張りとして数人の海賊が旅客船にも乗り込んだ。

 



 近場の小さな港に、二隻の船は錨を下ろした。旅客船の客たちは自分の身代金を無事に払えたので、危害を加えられることなく船を降りることが出来た。同時にカエサルからの手紙を携えた奴隷は、大金が手に入ると思って気を良くした海賊たちによって、身代金を払うことなく降ろされた。

 解放された人質たちは、船を降りるや否や港町の自警団がいる詰め所に駆け込んだ。海賊が停泊しているとの知らせを聞いた治安部隊は、槍と盾を持って港に駆けつけたが、すでに海賊船は出港しており、残されていたのは中身が空っぽになった旅客船だけだった。

 カエサルと二人の従者奴隷は海賊船に残されたが、特に不自由はしていなかった。カエサルが天性の才能で、海賊たちを上手く操り、悠々自適に振舞っていたからである。

「身代金を払って陸に上った後は、ささやかな礼としてお前らを晒し首にしてやろう」

 カエサルがこんなことを言う度に、彼の従者は震え上がった。海賊が激昂したらどうするのか、と。

 しかし海賊たちにとって見れば、五十タラントの大金が生意気な口を叩いているだけなのである。本気で相手にするものはいなかった。

 海賊船生活が二週間になったある日、カエサルは暇そうにしている海賊たちと自分の従者に、甲板に集まるように、と告げた。

 博打程度しか娯楽のない海上である。海賊たちは顔には出さずとも、興味津々な風に甲板に集った。

「これで全員か」

 カエサルが不満げに言う。集まったのは十数名でしかなかった。

 そうだ、と海賊の一人が答えるとカエサルは一枚の羊皮紙を取り出し、全員に座るよう命じた。そしてカエサルは、手にしている紙に書かれている詩を詠み出した。

「なんだこりゃあ」

 一人の海賊が隣の者に言うと、カエサルは突然に詠むのを止める。

「詩は静かに聴くものだと分からないのか、この野蛮人め。そしてこの詩は、ホメロスの詩だ。心して聴くように」

 そんなことを言われても、教養とは最も遠い生活を送っている海賊である。詩歌に対する敬意など、あるわけがなかった。




 さらに二十日が過ぎた頃、五十タラントを持った奴隷が戻ってきた。カエサルと従者奴隷たちは近くの海岸で解放された。

 奴隷たちは安堵の表情を浮かべていたが、カエサルにはそんな暇などなかった。彼はすぐさま近くの、小アジアの南西端にある港町ミレトスに向かった。

 駆け足で進むカエサルに、奴隷の一人が問う。

「ミレトスには総督官邸もありません。軍に助けを求めるなら北のエフェソスに向かってはいかがですか? あそこなら小アジアの常駐部隊がいるでしょう」

 駄目だ、とカエサルは答える。

「海賊たちとの約束を果たさなくてはいけない」

 主人のその言葉を聞いて、奴隷はスッと納得した。主従の関係と言えども、幼少の頃から共に学んでいる間柄である。主人が何を考えているかは、小さな発言からでも察知できた。

 彼は、自分の主人は己の手で海賊たちを引っ捕らえようと考えているのだ。ミレトスは小さな町だが、船もある。そこで船と船員を募集し、金銀財宝に浮かれている海賊共を強襲してやろうと画策しているのだ。

 右手にエーゲ海を臨む石畳の街道を南下し、ミレトスに着いたのはその日の夕刻だった。明かりも無い時間では船を借りることはおろか、船員を集うことなど不可能だ。一行はおとなしく、宿を取ることとした。



 翌朝、カエサルは朝食を終えると、奴隷の一人に船を一隻借りてくるよう命じた。金に糸目はつけない、とも付け加えてである。そして自分は港に赴き、海賊討伐に必要な人員の募集に向かったのだ。

 小アジア南部の海域は、常に海賊が横行している。シリアやエジプトに向かう船が、被害に遭うことも多かった。このミレトスから出る船とて例外ではなく、多くの被害者がおり、海賊に対する鬱憤ははち切れんばかりに溜まっていた。そのこともあり、海賊討伐に必要な船や人数はすぐに集まった。船が軍船ではなく商船だったことも好都合だった。カエサルはお得意の借金で人数分の武具を揃え、給金は後払いとした。

 カエサルたちを乗せた船は、ミレトスを出港し、北へ進路を取った。そして、入り江から出港しようとしている海賊船を発見すると、素早く帆を降ろし、櫂に切り替える。風を受けて進むよりも、人数任せの櫂の方がスピードは出るのだ。

 海賊船には目立った動きは見られない。海賊からすれば、いつも襲っている商船が自分から近付いて来るのだ。大金を手にして浮かれている海賊は、警戒心など欠片も抱いてなかった。

 商船は速度を落とさず、ぐんぐんと進む。それを見ていた海賊たちの表情は、当初の余裕はどこへ去ったのか、見る見るうちに焦りが浮かんだ。

 だが既に遅かった。商船は海賊船の左側から、横腹に突っ込む。船頭に槌があれば海賊船に大きな損傷を与えられたのだが、あいにくカエサルの船は商船だ。相手に威圧感を与えず近付くことなら適しているが、緒戦の一撃となるとその威力は軍船に大きく劣った。

 船頭から海賊船に、武装した男達が次々と乗り込む。海賊たちは武器を手にしている者はごく少数だったので、ほとんど無抵抗で一網打尽にされた。

 縄で縛られた海賊と、彼らが溜め込んだ莫大な財宝はカエサルらの船に積まれ、意気揚々とミレトスの町に凱旋した。

 海賊が捕らえられたと聞きつけ、エフェソスから早馬で急行した総督は、港に無造作に積まれた財宝の山に目を丸くした。

 皇位の者に対する礼を忘れず、カエサルは言う。

「この海賊共の処遇ですが、私に任せていただけませんか?」

 総督は目の前に立つ気品ある若者が、海賊討伐の功労者であると連絡を受けていたので、カエサルの申し出は二つ返事で了承された。

 縄に縛られ、群集に囲まれた海賊たちにカエサルが歩み寄る。海賊の大将が、よく知った顔の若者を見つけるのに時間は掛からなかった。大将は地面につばを吐き、カエサルを見上げる。

「もしお前さんに寛容さがあるのなら、俺たちを見逃してはくれないかい?」

「残念なことだが、私はお前たちと“お前らを晒し首にする”と約束したのだ。貴様らの故郷ではどうかは知らんが、ローマの男は口約束であれ絶対に尊守するのだ。それが例え海賊との約束でもな」

 カエサルの言葉を、すべて若造の粋がりだとあざ笑っていた海賊たちは、自分たちの運命を悟り顔面が蒼白した。

 ローマ人は法の民である。共和制以前の王政時代から、ローマでは法律が何より重要視された。書面に残されない口約束であれ、社会的に認められた決まり事なのである。この海賊たちからすればカエサルは融通の利かない頑固者だが、カエサルからしてみればこの海賊たちは、約束を反故にする不義の輩なのだ。

「この者達を絞首台に送れ」

 カエサルが誰にとも無く宣言すると、周囲の男達が海賊たちを馬車の檻に詰め込む。人数が多いので檻馬車の数は八両にも及んだ。海賊の収容が終えると、馬車は臨時の絞首台が設置される町の広場に向かった。

 海賊討伐を終えたカエサルとその一行は、当初の目的であったロードス島に渡る。母や妻には学問のための留学だと言っていたカエサルだったが、実情はそうでもなかった。彼は大学での勉学にあまり興味を持たず、もっぱら古代の芸術家たちの作品を見るのに時間を費やした。つまり、観光である。年中温暖で知られるロードス島は、二十代半ばと若いカエサルを活発化させ、机に縛りつく意欲を削いでしまったのである。



 紀元前七四年、カエサルが二六歳となった年、彼に転機が訪れる。小アジアの北に位置する、黒海沿いのビティニアの属州総督に、母方の叔父であるアウレリウス・コッタが派遣されたのだ。カエサルは叔父の伝を利用してまたもや軍人となる。総司令官の叔父は甥を可愛がり、幕僚の中でも常に近くに置いた。.

 政治家としては有能なコッタだったが、残念なことに軍人としては凡才であった。東方の敵国、ポントス王国との戦闘ではあっけなく蹴散らされ敗走したのだ。そして心労がたたったのかコッタはビティニアの邸宅で病没した。

 後ろ盾を失ったカエサルに、さらなる追い討ちが待っていた。叔父の後任である人物は公然のスッラ派であった。後任がどのような人物かとの情報を得ていたカエサルは焦りだした。親族の縁故で幕僚に席を持っていたカエサルの立場は、微妙なものになってしまうのだ。

そこで彼は、ローマで行われる市民集会で、高級将官である大隊長に立候補すると決める。執政官や法務官としての官職に立候補するには、年齢が三十歳に達していなければいけない規定があった。しかし将校としてなら、三十歳手前のカエサルでも被選挙資格を有しているのだ。

ちょうど今の時期は黒海から北風が舞い込む十月終わりである。すぐにビティニアを起てば、二月に行われる市民集会には何とか間に合う。このチャンスを逃す手は無い。カエサルはそう思うと、陣営の幕舎で剣を研いでいる奴隷たちに、すぐ荷を纏めるようにと命じた。



 ビティニアの城壁の南門をくぐろうとするカエサルたちを、総督官邸の方向から走ってきたアラブ系の男が呼び止めた。

 男は息を整えながら、元老院からの通達です、と言って一通の手紙を馬上のカエサルに手渡す。

「ご苦労」

 労いの言葉を与え、通達の封を切る。今度はポンペイウスでも死んだのか? などと冗談にもならないことを考え、カエサルは文書に目を通す。そして中身を全て読み終えると、静かに馬を進めた。

 街を出て街道を少し進んだ時、奴隷が言った。

「先ほどの書状は何だったのですか?」

 その問いに、カエサルは口の端を少し上げて答えた。

「コッタ叔父上の後を継いで神祇官に就任しろとの知らせだ」

 スッラの時代以前ならば、少年祭司しか経験の無いカエサルが、いきなり宗教界の高位である神祇官に任命されるはずがない。しかしスッラの改革で元老院階級の権力を強化したことにより、前神祇官の甥であるカエサルも、叔父の後をすんなり継げたのだ。

 一同は西に向かい、エフェソスから海路に切り替え、地中海を渡った。

 温暖な地中海のそよ風も、初冬になれば身を震わせる寒風になる。甲板で水平線を見つめるカエサルのマントも、鋭い風にざわめかされた。

 航行予定は、イタリア半島西部のティレニア海に面するナポリに上陸し、そしてアッピア街道を北に進み、ローマへ戻る。ブリディシからローマに向かう経路よりも少し船旅が長くなるが、疲れた身体を癒すには最適の選択だった。

 船上から右手にヴェスヴィオ火山が見えてくると、直にナポリ湾も視界に入る。カエサルたちがイタリアに足を着いた季節は一月初旬。市民集会まで大きく余裕のある日程だった。


 

 選挙の季節が近づくに連れ、市内中には立候補者の姿を描いた壁画が飾られる。そしてその候補者らの援助人たちは、自分が担ぐ人物が当選するよう、朝から忙しなく有力者たちに根回しをするのである。カエサルらが戻ったのは、そう言った騒々しい時期なのだ。

 カエサルたちはローマに着くと、まずは家族と久々の再会を喜んだ。

大隊長に立候補するよ、とカエサルが言うとコルネリアは目を丸くした。

「あなたは神祇官にも就いているじゃない。祭祀はどうするのよ」

「もちろん続けるさ。何しろ箔が付くからね」

 ローマは政教分離の国だが、軍人が宗教人を兼務することは禁じられていない。ローマの宗教界は、下の人間も上の人間も無給である。よって、祭司や神祇官を務める人間は経済的に裕福でなくてはいけないのだ。

「グニポはいるか?」

 あたりを見回すと、妻より付き合いの長い壮年のガリア人が、満面の笑みでカエサルを見つめていた。

「カエサル様、私はここにおります」

「ご苦労だったな、グニポ。少し白髪が増えたか?」

 若々しかったグニポの黒髪は、少しばかり白髪が混じっていた。昔に比べて頬の肉が落ちている気もしたが、気にするほどではなかった。家長のカエサルが留守にしている間、他家との対外的な付き合いは母の息子の代わりをしていた。そしてカエサル家の経理は、このグニポが担っていたのだ。外見が少し老いるのも無理はなかった。

 笑顔の絶えないガリア人に礼を述べ、カエサルは誰にともなく言う。

「長衣を用意してくれ。フォロ・ロマーノに行く」



 カエサルとグニポがフォロ・ロマーノに向かったのはその日の内であった。二十八歳の若者は、いつも好んで着ている縁の赤い長衣ではなく、純白の長衣を身に付けていた。薔薇を模したブローチもなく、洒落者として知られるカエサルとしては、どうにも地味な格好ではあった。

太陽が頂点から少し西に落ちた頃、早めに仕事を終えた市民たちは、公共施設の建ち並ぶフォロ・ロマーノに集い、井戸端会議で情報交換を行う。ギリシア人は政治論争を、ユダヤ人は商いの話題など。それぞれの民族性を色濃く感じられ、それでいて自然な共同体を成しているのがローマなのだ。

 そのフォロ・ロマーノに、市民集会開催に向けて一つの演壇が設けられる。立候補する意志のある者は、純白の長衣に身を包み演壇に登る。それで初めて、市民からの投票を得ることが出来るのだ。

 カエサルが演壇に登ると、それぞれ仲間内で談笑していた市民たちが、ざわざわとカエサルに視線を移す。

 有名無実化したとは言え、民衆派の次期リーダーと目されたカエサルである。まったくの無名ではなく、なかなか顔の知られた存在だったのだ。

 人混みから、冗談めいた言葉がカエサルに投げかけられた。

「次は誰を告訴するのかっ」

 ところどころから失笑の声が上がる。しかしカエサルは顔色一つ変えず、右手を頭の位置まで運び、力強く言い放つ。

「弁護士は廃業だ。金にならない」

 広場にドッと笑いが起きる。

「私はこの度、大隊長に立候補する。市民諸君、そしていずれは戦友となる諸君、このユリウス・カエサルは、さらなる栄光をローマにもたらそう」

 六百人の兵の指揮権しか持たない大隊長を目指す人が、国家の興隆を公約にするのも壮大過ぎる話である。市民たちに好印象を与えるため、カエサルは小アジアでの軍人時代に授与された市民冠を両手で高く掲げた。市民冠は友軍を戦場で助けた者に贈られる、ローマ軍で二番目に名誉な称号である。

 群衆から歓声があがり、カエサルはそれに手を挙げて応える。その声を、民衆たちが自分の立候補を認めた証だと判断すると、カエサルはゆっくりと演壇を降りた。

「もう宜しいのですか?」

 グニポが尋ねた。

「充分だ」

 あまりクドクドしても説得力が薄れる、とカエサルは言い加える。

 その後二人は、スブッラ地区の商店通りを経由し、帰宅した。





 市民集会で行われた選挙の結果、二十七歳のカエサルは大隊長にめでたく昇進する。しかし大隊長とは、一個軍団に十人いる大隊指揮者の一人に過ぎない。二個軍団で戦略単位とするローマ軍では、カエサルは二十人いる大隊長の一人である。貴族の子弟が会計監査官から始まる官職を目指す場合、まずは軍の幕僚として実績を残すことを目的とすることが多いのだ。なのでカエサルの大隊長当選も、特に注目されるものではなかった。

 同年、剣闘士スパルタクスをリーダーとする大規模な奴隷の反乱“スパルタクスの乱”が起きる。ローマから派遣された鎮圧軍は総勢八個軍団の大軍、率いる将は法務官クラッススである。このクラッススと言う人物は、カエサルが借金している多くの資産家の中で、最も金を貸している人であった。

 この鎮圧軍にカエサルは従軍していない。小アジアにも派遣されず、彼はローマでの勤務を真面目にこなしていた。




 四年後、三十一歳となったカエサルは、名誉あるキャリアである会計監査官に立候補、そして当選する。莫大な借金による根回しに頼った当選でもあったが、その話が功となり、彼の名を世に知らしめた。

 カエサルの任地はスペインと決定する。イベリア半島南部に位置する遠ヒスパニア属州である。先年に反乱軍が鎮圧され、今では問題の少なくなった地帯だ。よほどな事でもしない限り、一年の任期を平和に終わらせることが出来る。

 カエサルがローマを出立する日、偶然にも再会した彼の旧友がこう尋ねた。

「なあカエサル、巷じゃ君がクラッスス殿たち資産家からとんでもない借金をしているって聞くぜ。いったい幾ら借りているんだい?」

 カエサルは笑って答えた。

「ざっと千タラントと少しかな」

 友人は腰を抜かした。千タラントもあれば十万の兵を一年間は雇えるのだ。カエサルの借金は個人の域ではなく、国家予算の域に達していた。

 高価な書物、洒落た長衣や短衣など、カエサルは身の回りの物へも大金を注いだ。女性への贈り物などは、自分で選ぶくらいのものだった。

 そしてもっとも金を使ったのは交友関係である。カエサルが大隊長や会計監査官に当選した時も、彼の後援者たちの票田があってこその当選だった。ましてやカエサルは貴族である。必然的に上流階級の人物との接触もあり、そのための費用も莫大なものとなった。






 スペインと北アフリカを繋ぐジブラルタル海峡がある。スペイン南部の、そのジブラルタル海峡に近いガデスと言う町がある。人と神の間に生まれた半神ヘラクレスを祭る町である。

所用でそのガデスに訪れたカエサルは、暇な時間を見つけてヘラクレスを祭る神殿にやって来た。お付きの者たちはヘラクレス像の素晴らしさに見とれていたが、カエサルが目を奪われていたのはアレクサンドロスの像だった。若干三十歳でペルシャ帝国を打ち倒し、実質的に世界を制覇したアレクサンドロスである。その英雄の像を前にし、カエサルは一筋の涙を流した。従者が主人の異変に気付き、どうされましたか、と声をかける。

「少し考えてしまってね」

 何をですか、と従者は再び言う。

「アレクサンドロスが今の私と同じ年齢だった時、彼は世界を制覇していた。それに対して、私は何も偉業を成していないのだ」

 この時点での彼はまったくの無名でもなかったが、特筆するほどの有名人でもなかった。近い年代なら、彼より六歳年上のポンペイウスは二回目の凱旋式を挙行している。まだカエサルは、多数の中にいる一人にしか過ぎなかった。

 これより九年後、カエサルは二名から構成される執政官に選出される。そうしてやっと、彼の名はローマ世界に広く知れ渡った。同時に彼の借金もさらに膨れ上がっていたのだが……。


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