あるヘリコプター・パイロットの回想(改稿版)
この作品は、東日本大震災を扱っています。ご不快に思われる方がいらっしゃるかもしれません。ご注意ください。
私は、まさか自分が再びこの空を飛ぶことができるとは思っていなかった。
眼下には、夜には今やどこの夜景よりも人気があると言われる沿岸ビル群がそびえたつ。その向こうに、首都と見まごうほどのスカイスクレイパーが見える。春は近付いているが、ここ気仙沼の上空に流れる風は穏やかと言い難い。操縦桿を握る右手に力を込めた。
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私は、北関東の方田舎に生まれた。祖父母と母は農業、親父は近場の工場で働く何の変哲もない家だった。5つ離れた妹がいて、その愛嬌で家族のアイドルだった。対して私は、親父に似たのか、何の愛嬌も優れたところもなく、目立たない子供だった。
刺激のない田舎の生活も、農家の長男というのも、何もかもが嫌で、高校を卒業するとすぐに家を出て、陸上自衛隊に入った。良く言えば優しく、悪く言えば頼りない親父への反発心がそうさせたのかもしれない。男らしさを身につけたかった。
意気込んで始めた自衛隊の生活は、過酷だった。振り返ればいい思い出になるなどというが、それでも思い出したくない過去は誰にもある。ただ、なぜか無性に気が合い、自分に世話を焼いてくれた先輩がいた。私の人生を変えた一人の先輩だ。野沢先輩と私は呼んでいたが、彼には夢があった。
「俺は、ヘリを操縦したいんだ。そのために陸自に入った」
野沢先輩は、酒を飲むと毎回このようなことを言った。私は毎回その理由を尋ねる。これが私と先輩のパターンだ。
「なんでって、そりゃあ、地に足つけたくないからさ」
毎回、違う理由が返ってきたように思うが、私が記憶している限り、野沢先輩の本音はこれだったのではないかと思う。「地に足をつけたくない」というのは、私の思いでもあった。私は自然と、野沢先輩と同じ道を志向するようになった。
野沢先輩は当時24歳、次三等陸曹になれなければ、パイロットにはなれない。陸曹航空操縦学生過程の試験には資格と年齢制限があった。結果から言えば、野沢先輩はなれなかった。訓練中に大怪我を負ったのだ。
野沢先輩は、見舞いに訪れた私を心配させまいと笑顔で対応した。私にはそれが痛々しかった。結局、野沢先輩は除隊して郷里に帰ることになった。最後に見せた笑顔が意外に晴れ晴れとしていたのを記憶している。「地に足をつけたくない」と言っていたのは、「地に足をつけたい」の裏返しの気持ちだったのかもしれない。
私は、親身になってくれた先輩を失ったが、野沢先輩の夢が私に残った。幸い私は21歳で三等陸曹に昇任し、翌年には、陸曹航空操縦学生過程の試験にも合格した。私のヘリコプター・パイロットとしての人生が始まった。
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巨大ビルの手前を左に曲がり、中心部に向かう。あの日と同じコースを飛ぶ。20年経ってもコースを覚えているのは、何度となく飛んだ空だからだろう。ビル群を越えて市街地に入る。市街地の変化に20年という年月を感じる。左手のコレクティブピッチレバーを調整して高度をゆっくりと下げていく。
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私のヘリコプター・パイロットとしての人生は順調に滑り出したが、私生活は最低だった。恋愛の末に結婚はしたが、すぐにすれ違った。自分勝手さを男らしさと勘違いしていたのだろう。今の自分が、当時の自分に会えば、説教を垂れているところだ。もっとも、当時の自分は聞く耳も持たなかったと思うが。
私の私生活で唯一、希望の光にあふれていたのは、妹のことだ。私がヘリコプターパイロットとして実際に働きだした頃、妹は看護師として働き始めた。苦しんでいる人に光を送る存在。そんなイメージを持つ仕事に就いた妹を密かに誇りに思っていた。
私が陸自でヘリコプター・パイロットとして働いたのは10年間だった。自分でも意外なことだったが、私は途中で除隊した。きっかけは可愛がっていた部下を事故で失ったことだ。誰も悪くはないただの事故だった。しかし、私は自分の無力さを責めざるを得なかった。あの計画に彼を推薦しなければという思いがぬぐい去れなかった。
除隊した私は、田舎に帰って地に足をつけた生活に戻ろうかと考えた。そんなとき、義弟から連絡があった。義弟は、気仙沼に住んでいた実直な会社員で、妹の男を見る目に感心したものだった。義弟は仕事のコネで、「東北がんばっぺテレビ」が取材ヘリのパイロットを探しているとの情報を聞いてきてくれたのだった。
私は、義弟の配慮に感謝した。義弟は恐縮した様子で、妹が「お兄ちゃんは地に足つけられない人だから」と義弟に話していたと語った。妹に心配される頼りない兄貴。あれだけ似ないでおこうと思っていた親父とダブる。情けなさと嬉しさがこみあげてくる。
4歳になったばかりの姪っ子が「おじちゃん、悲しいの?」と言ってヨシヨシしてきた。ふと気づけば、涙が流れていた。私は「ありがとう、愛ちゃん。いや、嬉しいんだよ。人は嬉しい時も泣くんだよ」と言った。姪っ子は「ヘンなの―」と言って笑う。
思えば、義弟と長話をしたのは、この時が最後だった。
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私はまだ、高度を下げる。緊張が走る。普通は都会のど真ん中でここまで高度下げることはない。しかし、今日は特別だった。あの日の私の飛行の再現なのだ。件のビルがあった辺りまで、あと数分に迫っていた。
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あの日―2011年3月11日
私は、取材ヘリの出発前整備をしていた。ヘリコプターのエンジン音とは違う不吉な音。この音に経験があった。地震だ。いつもよりはるかに強い横揺れだった。立っていられないほどの揺れ。私は冷静だった。すぐに取材に向かうことになるだろうと整備を切り上げ、最初の大きな揺れがおさまると、私は屋上から階下に降りた。社内は騒然としていた。電気は止まっている。番組はできるのか、取材はどうするなど忙しなく社員が走り回っていた。
その日、ヘリの燃料ストックがある限り、取材ヘリを飛ばした。もちろん、妹家族のことは頭から離れなかったが、災害時に取材は必要なのだ。報道機関しかできないこともあると私は考え、ひたすら操縦に専念した。
しかし、翌12日の飛行が私の人生を変えた。
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件のビルがあった地点をふと見る。まだ小さな点でしかないが、私にははっきりとその場所が分かった。
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12日朝、私はカメラとアナウンサーを乗せて飛んだ。気仙沼の沿岸を南から市街地に入るコースである。私は瞠目した。後ろで女性アナウンサーが大声で状況を解説している。津波がすべてを押し流している。私は空から眺める気仙沼が好きだった。その好きだった光景は無に帰していた。
市街地に入る。ビルの屋上から看護師がシーツを振っているのが操縦席からも見えた。妹だ。私は確信した。もちろん、根拠はない。ただ、患者を助けるために、妹なら最後まで残るだろうと思っただけだ。生きていた。操縦中には、感情を忘れ去る必要がある。しかし、この時はそれができなかった。
私は、叫んで、ビルに降りて行きたくなる。しかし、このヘリは救助用ではない。取材用なのだ。事実を伝えるためのものだ。頭では分かる。しかし、心ではそうはいかない。陸自時代に助けたいのに助けられなかった記憶が一気によみがえる。全てをかなぐり捨てようかと思った。
ちょうどその時、ディレクターから指示が入る。私は、冷静さを取り戻し、ヘリを左に向ける。妹は、失望するだろう。申し訳ないと思いながら愛機を操縦した。気がつかぬうちに涙が流れていた。
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妹と姪は無事だった。しかし、義弟は行方不明のままである。義弟の情報を求める日々が続いた。私は取材ヘリを操縦することができなくなっていた。操縦桿を握ると、自分へのどうしようもない怒りが湧いてくるのだ。助けることができないという無力感と罪悪感が自分を苛んだ。私は職を辞し、短くない避難所生活を経て、妹と姪を連れて実家に帰ることにした。妹も、精神的に限界に来ていた。
私は、地に足をつけて歩き始めた。PTSDと診断された妹に無理をさせるわけにいかない。妹を治療に専念させてあげなければならない。何よりそれが、姪が健やかに成長する環境に必要なことだった。私は、親父の紹介で工場で働き始め、家で姪の世話をする生活をするようになった。
そうして10年が過ぎた。姪も中学を卒業した。妹は徐々によくなってきつつあった。仕事にも復帰できそうだった。
「おじさん、今まで育ててくれてありがとうございました」
中学の卒業式の夜、姪が畏まって言った。
「何を言ってるんだ。まだまだ大人になるまで時間があるんだから、十分に子ども時代を楽しんでおきなさい」
私は、少し狼狽したが、こんな言葉を返したように思う。姪は、頭を振って言う。
「違うの。私はおじさんのお陰で、自分の人生を生きようと思える歳になった。自分のことももうある程度自分でできる。……おじさん、そろそろ空に戻りたくないの?」
私が何も言えないでいると、妹が部屋に入ってきた。
「兄さん、お誘い来てるんじゃないの? 今まで、私と娘のために人生を使ってくれた兄さんに感謝してる。でも、私も少しがんばれるようになったから、自分のために人生を使って」
妹の言うとおり、誘いがきていた。あの野沢先輩からだった。野沢先輩は故郷の役場に勤めていた。ドクターヘリのパイロットが不足しているという。私は、姪を育てることで、姪に自分の心を癒してもらったのだと思う。人に愛情を注ぐことがなかったら、無力感と罪悪感から自暴自棄になっていたに違いない。そして、空に戻りたいという気持ちもいつしか持つようになっていた。
「なんで気づいた?」
「結婚に失敗してもまだ女というものを甘く見てるようね」
私は、妹に人生についての大切なことを教わるダメ兄貴だ。しかし、私に、それをもう情けなく思う気持ちはなくなっていた。
勘が鈍っていることを心配したが、私はなんとかパイロットに戻った。人を救えなかった後悔ではなく、これからどれだけ救えるかにかけようと思うようになっていた。未来を生きる子どもを育てたからに違いない。
そして、再び10年が過ぎた。ドクターヘリのパイロットとして取材を受ける機会があり、新聞に私の記事が載った。そして、それを「東北がんばっぺテレビ」にいた当時の同僚が見つけ、震災後20年の番組内で、取材ヘリを操縦してほしいと依頼が来たのだ。こうして、私は気仙沼の空を再び飛ぶことになった。
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あのビルがあった辺りだ。私は、あのときあの屋上に妹がいるのを発見した。目を凝らして見る。今は、大きなビルが建っている。その屋上にシーツを振る2人の白衣の天使が見える。幻覚か? いや、幻覚などではない。確かに振っている。
シーツが屋上一杯に広げられる。
そこには
「お兄さん、おじさん、ありがとう」
と書いてあった。
私は、微笑んで、そのビルの上空を旋回した。また知らぬ間に涙が流れていた。
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私は幸せになってはいけないと思っていた。私を慕ってくれていた部下も、義弟も志半ばで亡くなったのだ。私は生き残ってしまった罪悪感からそう思っていた。しかし、その考えは間違いで、幸せというのはそれを求めた結果ではなく、一生懸命に生きた跡にあるものなのだと、今はそう思う。苦しみを抱えながらも様々な人と触れ合い、感謝を送り合い、今日をしなやかに生きていく。そうして振り返った後にそれと気づくものなのだ。妹と姪のサプライズを受けてそう思った。
やはり、私は人生で大切なことを妹と姪っ子に教わるダメ男なのだ。
私は爽やかにそう思った。