〔ハル編〕なんちて
「なんでー?ねー、シショーってばー」
なんでと言われても。
広いエレベーターの中、ハルは「なんで?」と繰り返す。
「なんで帰るんだよーシショー?」
「めめ面会時間、とととっくに過ぎてるんじゃ?」
あからさまなのである。僕は病院には縁の無い人生を送ってきたのであるが、ここまでこれ見よがしにされるとねえ。
……暗いのだ。
廊下は緑色の緊急避難標識が照らされるのみ、各部屋から漏れる明かりも極わずか。
「そんなのいいのになー」
ハルは子供のように頬を膨らましエレベーターの中に設置されている手すりをペシペシと叩く。その横顔からは先ほどの常軌を逸した告白の時のような圧迫感は感じられない。
僕は起きたまま夢でも見たんじゃないだろうか?
「ねーシショー?」
「え?」
「イッコだけお願い!」
パシン、と両の手の平をあわせ僕を拝むように腰を曲げてお辞儀をするハル。
「また来て!このとーり!!」
さらに腰をまげ、もうひざに頭着くんじゃないかってくらい頭を下げるハル。ふんふん、と何度も頭を上下させ拝む拝む。おお。今膝にでこぶつけたんじゃないか?体柔らかいなーおい。
「いい、いつでも言ってくれれば来るから。頭何回もささ、下げると……」
ハルはハンドタオルのように手すりにもたれ掛かる。頭振り過ぎで足元がおぼつか無くなったようだ。
「じゃ、じゃーねー、アドレス聞いてもいい?ダメ?」
ハルにしては実に控えめな口調。
恐る恐る、といったカンジで僕の顔を自分の手の脇から覗き見ている。
「ぜ全然かまわないから」
「いよーっしゃーー!!アドげっとーーーー!!」
ばつん!!
「だ、大丈夫?」
ハルは。
両手を勢い良く挙げた拍子に手すりにしたたかに手の甲を打ち付け、しゃがみこんで小刻みに震えていた。
……。
この子のアンバランスさはなんなんだろう。
垣間見える迫力、エキセントリックな言動、不幸な境遇、むきだしの感情。
それらがぐるぐるとトグロを巻いて人型に練り上げられている。
「Head charaーー!!」
涙目でにぎにぎするその手は明らかにまだ真っ赤、じんじんしてるに違いない。
……。
「むが?」
僕はハルの頬を引っ張ってみた。
「ひひょー?」
びよーん、びよーん。おお、伸びる伸びる。
こんなに頬が伸びる子が人なんか殺せる訳無いじゃないか。見ろよこの顔、滑稽だ。こけこっこーだ。
「ひひょー!ちょっとー!!あーそーぶーなー!!」
なに頬を引っ張られにやにやしてんだ自称殺人鬼よ。この僕はそんなしょうもない虚言に惑わされるほど愚かでも厳かでもおそ松でもないぞ。
僕はハルとじゃれ合いながら病院の出口に到着する。外の街頭の明かりに照らされ、伸びる2つの影はゆらゆらと揺れていた。
僕はハルにアドレスを教えるためポケットからスマホを取り出そうとすると……
「あー!ちょっとまった!!」
「?」
「今度いつ来る?そんときでいいかなー……なんちて」
約束ってなんかいいよねー、そうハルは控えめに呟く。
もう月が出ていた。おかしな一日だった。
また来たいと。
僕は思ってしまっている。