〔リコ編〕誰も信じないっと
もう授業などほとんど耳に入らない。
午前中ずっと僕はうつむいて汗を拭っていた。
「っ……は、」
息苦しい。汗が止まらない。
「……」
落ち着け落ち着け。僕なら大丈夫だ。なんせ免疫ツキマクリなのだから。
音を立てないようゆっくりと息を吸い込み鼓動をねじ伏せる。開いているノートは腕の汗でヨレヨレになってしまっていた。
しかし、あれだ。その、なんだ。平和ボケっていうの?怖いね。
最近ちょっと毎日平和に過ぎてたもんだから油断してた。何事も備えが大切だし、僕は対処法を知っている。だから大丈夫なのだ。ちょっと試してみよう。
「……」
僕はノートに目を向けると昔に思いを飛ばす。こんなことはしょっちゅうだった。痛くない。アイ・アム・ストーン。ストーン。……すとおおおおんっ!!心まで石になりましょう。コツは何も考えない、何も見ない、何も聞かない。
「…………」
自動書記。ほとんど意識せずにいたのだが僕のノートには一言だけ殴り書きがしてあった。うむ、キレはまだある。まだまだ捨てたモンじゃないね。
僕は『氏ねじゃなくて死ね』と書かれたノートをペラリと一枚めくり文字を隠した。
何がきっかけだったのかは知らないが始まったモノはしょうがない。中学校の延長戦だと思えば気分もそこまで落ちない。
「は……っ」
なんだよ。
「痛っ」
おかしいな?なかなか息苦しさが……というか、痛い。
僕は基本的には変わっていない。そんなに簡単に変われたら苦労はしないのだ。なので免疫バリアが効くはずなんだけどなあ?
体の芯ってのがあるのかどうかは知らないが、座って授業を受けているにも関わらずブレる。汗が冷たく感じる。んー、ホースで水かけられている様な違和感?『冷や汗』とはよく言ったもんだ。
「……」
……………………。
いや!!あれは僕の勘違いだ。
理子が他人に攻撃的な嫌われ方をするなんて考えられない。標的が理子のはずはない。僕だろ!!
僕は気持ち悪いぞー!!『フヒヒ……サーセン』とか言っちゃうぞ!!なんか最近抜け毛も多いから多分ハゲルね間違いなく!!脂性のキモオタオヤジ当確!!サラブレッてるね!!将来会社の忘年会で新人の女の子の初体験とか聞いちゃうね!興味無くても嫌がらせの一環として聞くね!!
「……っ」
僕なら大丈夫なんだ。慣れてるから。だから僕だろ。
なんで足が震えてんだ?さんざんやってきたことなんだ。今さら何を恐れるコトがあろう!さあどっからでもかかってきやがれコノヤロウ!!
「シューゾーくーん!!中庭いこー!」
ビキビキと空気の軋む音が聞こえるようだった。
朝よりもより露骨な悪意の提示。教室内の生徒たちは異分子の登場で団結を始める。早い。誰も声を発しなくなるまでほとんど時間はかからない。
「ぁ……すぐいい行くから、ささ先行ってて」
「はーい!」
……………………。
…………………………………………。
僕は理子の姿が見えなくなるまで自分の席から動かなかった。やることがあったから。
前の席、動かない背中に向かって静かに声をかける。多分僕から声を掛けるのは初めてだったと思う。
「ふ藤崎君」
ビク、と微かに揺れた背中はしかし向きを変えようとはしない。藤崎には多分大した罪は無い。それはこのクラス全員にも言えることなのだが。
そういうもんだ。大多数を占めるのは、どっちでもいい流動的な生徒。自分に被害が出なければそれでいい生徒。藤崎はそのうちの一人。それだけ。
ガガっ、と乱暴に前の席が床のタイルを削る音が響いたと同時、藤崎は僕の目を見ずに横をすり抜けて去っていった。
「……」
藤崎の撤退によりふわりと煽られた僕の前髪が、ちょっとだけ揺れる。
「……」
おおう。大事なコツ忘れてた。
何も考えない、何も見ない、何も聞かない。んで、誰も信じないっと。