〔カナ編〕ぼたぼた
「あ、あの」
「っ……え?」
「じ、時間が……」
「ああ……うん、了解」
初めてだった。
『仕事中』に時間を全く気にすること無く、なんなら多少時間オーバーでさえある。
汗ばんだ身体を重そうに捻りベッドの上を這うように移動するアキラサン。前会った時とは違う熱っぽい虚ろな表情でチラリと僕を一瞥するとシャワー室へと消えていった。
「……」
喉が渇きすぎてひりひりする。
僕は枕元に置いてあったホテルの備品のミネラルウォーターを掴み一気に飲み干す。うまく出来ただろうか?相手の反応は?落ち着いていただろうか?
全部、あまり覚えていない。
懸命に智香に教えて貰った事をひたすらなぞった、それしか出来なかった。
そして……気が付けば終わっていた。
僕は頭を掻きながら薄暗い部屋の中で呆ける。手ごたえ、なんて上等なものは全く実感が持てない。
これで駄目ならどうする?一体どうすればいい?
「……」
なにも、なにも思いつかない。自分の頭の回転の鈍さに今更ながら辟易する。
なにかあるはずだ、僕は絶対諦めない。どんなことをしても。
「おーい、ユキトくん」
シャワー室の中からアキラサンが顔を覗かせる。ひどく面倒そうな表情、気だるそうな態度。
良い方面の兆候は欠片も感じない。
「ごーかく」
「うぇえ?」
「フツーに良かったよ」
「あ、あの、ども」
全く実感など無い。だが取り敢えずしのいだ。
到底ムリゲーだと思われたミッション、事実智香の協力ナシではハナシにならなかったろう。
ゆっくり噛み締めるように智香に感謝する。
ありがとう、本当に。
「あっちゃー、延長だね」
「ああ、いいですよべ別に」
この程度の時間のズレは良くあることだったので問題など無い。
だったのだが……財布からお金を出したアキラサンは僕に突き出す。アキラサンはろくに身体を拭いていない状態だったので一万円札はボディーソープが滲んでいた。
「その辺きっちり。常識だよ。はい」
「は、はあ」
筋金入った風俗嬢とはクズテンチョーの弁。アキラサンは自分の中でのルールは守る性質のようで、そこは素直に尊敬出来る。お金の面に関して半端モノの僕なんかより余程しっかりきっちりしていた。
とはいえ受け取ってしまった以上30分は延長なので……普通なら会話で間を持たせるんだろうが、そんな自信など無い。僕は逆に窮地に陥ったんじゃないだろうか?
「ねえ」
「あ、はい」
今日は以前と違い常時素っ裸という訳では無い。シャワーから出たアキラサンはタオル地のガウンを羽織っていたので主義主張で裸を晒していたわけでは無いようだった。
「彼女?」
「は、は?」
「相当練習したんでしょうに。相手よ、それとも商売オンナ?」
「い、いや……そ、そういうわけじゃ」
たばこに火をつけ僕の言葉を待つアキラサン。そんなに興味なんて無い様だが時間潰しの話題くらいにはなると踏んだんだろうか。こっちはこの『テスト』のおかげで今週一杯毎日ホテル通いの羽目になったって言うのになあ。
僕は諦めて本当の事をアキラサンに伝えた。嘘つく必要なんてないし、智香の献身的な協力は隠すべきものじゃ無い。だって僕はそのおかげでこうしてアキラサンと延長トーク出来ているのだから。
早く時間経たないか、それしか考えてない僕のトークなんかいつも通りカミカミで聞き辛いことこの上ないだろうに、やけに神妙な顔つきで僕の話を聞き続けるアキラサン。
僕なんかに現れた誇れる協力者の献身に驚きを……
「……あんたさ」
「は?」
「クソヤロウだね」
自覚が無い訳じゃないがそんな面と向かってローテンションで言うなよう!分かってんだよそんなこたあ!うる
ごす
一瞬、僕の視界は暗転し、遅れて鼻先に鈍い痛み。涙目。
自分の膝にぼたぼた垂れた鼻血を見てやっと殴られたんだと悟った。
「……きもい。あんたなんなのよ気持ち悪い」
心底呆れ、さげすんだ目。この目を僕はきっと知っている。
「その……トモダチも災難だったね。あんたみたいなクズヤロウと関わったばっかりに」
僕は。
鼻血がぼたぼた垂れっぱなしのバカ面を晒し、ただアキラサンの言葉を聴いている。
同情、憐憫。
その影のある言葉は間違いなく智香に向けられたもので。
「少しは相手の気持ちとか……ま、いいわ。関係ないし。あんたみたいなクズに言うこと無いわ」
軽蔑、諦観、嫌悪。
その類の感情は全て僕に向けられている。
僕は。
また。
どこで、なにを
間違ったんだろうか?
僕はただ呆けながらアキラサンのたばこの煙を見詰めることしか出来ずにいる。