〔カナ編〕綻び(虫サイド)
別に昼でも問題ない。
むしろ動くのに都合のいいのは日中だ。しかし俺が動くのはほぼ夜だった。
特に主義の無いこだわり、要は『それっっぽい』からなんだろうな多分。
「……」
おもむろに腕時計を確認した。貰い物の自己主張の過ぎた時計。貰った手前付けないわけにもいかないんだが、こんなに重くデカイ理由などないだろうに。
カラオケボックスの一室、照明は全て全開にしてある。
ヤニ臭い薄汚れた壁を照らし出したいのだ。そうだよ世の中そういうもんだ。
光の当たらない場所は淀み、汚れていなければ。
そこへゆっくりと扉が開く。隣室の漏れ出た喧騒を身にまとい男が独りぬるりとこの部屋の中へ顔を出した。恐らく40代、中肉、眼鏡。
「お疲れ様です。早いすね田中さん」
「ああ。クセだから。気にしないでいい」
俺の仕事は殆どが『報告を受ける』こと。
それまでに打つ手は打ってある。どう転ぶかで出方を変える。そしてまた手を打つ。
その繰り返しなのだ。
「えっとですね」
煤けたソファーにゆっくりケツを押し付けるこの男、詳しい事は聞いていない。聞かないし聞いても話さないだろう。着ているスーツは値の張るモノに見えるが……まあ、どうでもいい。興味が無い。会うのは2回目だが、総じてツマラナイ男だった。
「組合関係の件は……警察入って終了ですね。保障会社は噛ませなくて済みそうです」
「……そう」
『終了』などではない。そこからまだ手は打ってあるのだがこの男には見えない。
この男のステージではここで終了なんだろうが……やはり見えていないのだ。打った手も仕掛けもその他の事象への影響さえも。
向いていない、そう思う。
「でですね。あ、人身事故の件はまだ見えないですね。もう少しかかりそうです」
「ふうん。何か飲む?俺ウーロン茶頼むけど」
けっこうですと、そう言った男は俺の所感を待っている。しかし何も感想なんて無かった。
全部知っていた。組合の件も事故の件も……この男が『けっこうです』と断ることさえ。
「……」
俺は壁紙の剥がれを天井に見つけ、その模様である波線に思いを馳せる。
綻び、ひび、磨耗、欠損。
俺はその手のモノが好きなのだった。
「田中さん?」
「あ、ああ。ごめんごめん」
訝しげな表情、相手に伝えるための分かり易い意思表示はよく出来ていて。
やはりつまらなかった。
男は俺の言葉をしばらく待っていたが何も出ないと悟り次の報告へ移る。
「モデル事務所の件、何か動きが……ありそうです」
「……」
ここへきて初めて虚を付かれた。
変化はまだ無いと思っていた。膠着が短い。短すぎる。
「動き?」
そう言った俺の興味を察してか、男の表情は少しだけ得意げに見えた。
「はい。デリヘル絡んでますよねあそこ。ええと、名前は」
「マリア」
「そうですそうです。さすが良くご存知ですね田中さん」
「……」
「そのマリア絡みでそこの人間が水曜にケツと会合を持ったみたいです。なにがしか合意が取れた感触ですね」
「……」
この男は何も分かっていない。分からないが故、曖昧な表現を織り交ぜてくる。それでいいと思っているのだ。俺からすれば完全に『それでいい』んだが、こいつはやはり向いていない。
調整して金を生むのは無理だな。
それにしても……一体どういう
「あ、あと窃盗団の件。本決まりらしいですよ」
「……」
ん?
その件はまだ当分
「あと動きそうにないのは……アレです。あの特許絡みの件」
「……」
不意に足元がふわりと覚束無く感じる。
「……」
大筋では、問題ない。大まかな図面は間違ってはいない。
進捗の差異などこの仕事では良くあること、そして不測の事態にも対応できる経験も持ち合わせている。
そうでなくては調整屋は勤まらない。
それはそうなのだが。
「以上、ですね」
「ああ、ご苦労様。はいこれ」
どうも、そう男は短く言うと俺が渡した報酬入りの封筒を上着のうちポケットに放り込み、入ってきたときのようにぬるりと出て行った。
「……」
隣室の微かな喧騒を耳にしながら再び天井の綻びを眺める。
違和感がどうしても拭えない。
「……」
問題の無い事象の並びに意図が挟み込んである気がしていた。誰の?分からない。
進まないと思っていた件は少しだけすすみ、進むと見繕っていた件は停滞。
些細な、とても些細な誤差。
「……考えすぎ、か」
声に出してみても無駄。
一度感じた違和感はその夜ずっと俺に纏わりついていた。