〔カナ編〕虫 (梶サイド)
「……」
まあ、そうだな。
俺が南国の虫みてえなネオンの煌めくガラス張りの店舗の斜め前のガードレールにもたれかかって、溜息を知らずに吐いた後……思う。
『はい、そーですか』なんて気軽に事は進まねえ。完全に絡め取られて何年経つのか知らねえが、なかなか解けるもんじゃねえ。
それを証明するようにカナの母親は顔を紅潮させ少女のような声を上げつつ、シャツの襟を立てワックスを頭に塗り付けたスーツの男4人とガラスの虫箱の中へと消えていった。
「……」
この店は確かカナの店と繋がっていたはず。
なるほど、分かってしまえば何ら特別なことじゃあない。
ありふれていて退屈な、只のバカな母親……それだけの事である。一本何万もする酒を景気よくぶちまけその払いは全部ツケ、回収はカナの店で抜かれてるって事だ。
よく出来てる、とはお世辞にも言えねえが現に金になっている。カビの生えた古臭い不幸を懸命になぞりてめえの娘にケツは持たせるってか。よくやるぜまったく。
「……」
多分カナは意志を伝えたはず。
この勝負、聞く耳なんざ持ち合わせてなかった母親の圧勝だよ。
大体あの手の店で『辞めます』って伝えて辞めてくオンナがどこに居るってんだよ、そんなもんバックレ一択だろうが。ってかそれ以外ねえ。
どこの世界にカネになるオンナをむざむざ手放すヤーさんがいるんだよ。ありえねえ。
「……」
こりゃあアレだ。
『母親の借金の為カナが働いている』ワケじゃねえな。どっかの時点で逆転してやがる。
カナありき、だ。
カナを手放さないで済むようにあの母親を店ぐるみで丁寧にボケさせてる、なんせ店のナンバー4人でお出迎えの光景……間違いねえな。
一体どうすれば決着するんだろうか? ・・・
わざわざ夜中の街に出張って来たはいいが……おおまかなアタリを付けたところでこんなもんは進展なんざしねえ。他人の世話焼きなんざやはり俺には向いてねえよ。役立たず以外なんて言えばいいのか全然分からねえ。
「おぉい、えーと、君って梶クン?」
「……」
俺は声を掛けてきた40代位のスキンヘッドのおっさんに返事をする代わりに、もう一度大きなため息は吐き出した。身柄まで特定終わってんならここで逃げたってしょうがねえ。
俺と同じ様にガードレールに寄りかかったおっさんは、俺の方を見ないままで夜の喧騒に話しかけるように言葉を吐き出す。
やけに小柄な……虫みたいなおっさんだった。
「デリケートなんだよね割と。分かる?」
おっさんが俺に向けて差し出した煙草に首を振って意思表示すると、無言で自分のズボンのポケットに煙草をねじ込む。
「あんまりおかしなサグリ入れないで欲しいんだ、一応忠告までに」
ギラついた夜中のネオンを睨み付けながら俺の返事を待つ気など無いおっさんは、独り言のように……あくまで穏やかな口調を崩さず続ける。
「ガクセーらしくしてて欲しいな梶クンにはさ。天秤って分かる?テ・ン・ビ・ン」
ひらひらと自分の目の前で手のひらを泳がせるおっさんからは何の感情も伝わってこない。深夜の雑踏の最中にあって、ここだけ温度が低いような気さえする。
「……」
単純な喧嘩なら負けることは無い。ナイフ程度のハンディであっても体格差で圧し切れる、しかしそんな事には絶対にならない。この単に神経に触るイヤな粘つきは……本職だからだろうな多分。
「バランス偏っちゃうとさ、倒れちゃうじゃない天秤って」
「……」
「だからさ、ガクセーらしく部活でもやってなよ。ロクな事になんないよきっと」
「……」
「愛想無いなあ。んじゃまあ、伝えたから、忠告。よろしく」
す、と気配が軽くなったのを肌で感じた。もうこのおっさん消えるつもりなのだ、と。多分それがいけなかったんだろう。俺はおっさんに訊いてしまった。
「……天秤ってなんだよ?」
「得られなくなる『利』、君の『価値』……場所に依っては結果はどうにだって転んじゃうのさ。君、結構危うい場所に居るって自覚してないみたいだったからさ」
「……」
「んじゃそういうことで」
それだけ俺に告げるとそのおっさんは……夜の喧騒にずるりと溶けて行った。