〔カナ編〕ガイーンガイーン
事務所に近づくにつれ僕の足は重量を増す。
「……」
寒くもなく暑くもなく、天気もいいし風も気持ち程度に吹いている。こんな日は一年を通してもそうある日じゃない。心の重しがなければスキップしだしそうな、そんな午後。
「……」
月曜のサラリーマンってこんな気分なのかなあ。
通り過ぎる何の関わりもない人たちがものすごく疎ましい。『なんで僕だけ?』と、そう思ってしまいそうになるのだ。
「……」
事務所のマンションのエレベーターに乗り待機所のある階のボタンにそっと触れる。割と高級マンションであるのか、エレベーターは僅かな音もなくせり上がっていく。
「……」
ああ。
なんで関係ない智香にまで愚痴っちゃうかな僕は。みっともない、みみっちい。
僕は今、好きでここに居るわけで……誰も僕に強制なんかしてないじゃないか。理子と話した時にふっ切ったはずだろう?まったく何度も何度もつきあいきれねえよこのヘタレっぷりは!?
「……」
あの人間社会に順応出来てないゴリに、ウホウホ助言のマネごとまでさせておいてその上でまだ続けるのは……これはもう完全に僕の意思でしかない。誰のせいにも出来ないしするつもりだって無い。
そうだ、僕はいつも僕なんかの友人でいてくれたユズキカナに恩を返したいんだ。その事実さえ無くさなければこんなものは耐えられる。当たり前だ、楽勝だイーズィーだ。
「……」
ぴん、とエレベーターが目的の階に静かに止まる。
さあ、いくか。僕はゆっくり開いていくドア眺めながら息を吸って、吐く。
よし、いこう。
「やっほー」
「……」
「って、おい!?なんで『閉まる』押してんのよあんた!!」
「ああナミさん、ども」
「ここじゃ美鈴!ってか閉めんのやめろバカ!挟まってんだよ!」
挟んでんだから当たり前だ。それガイーンガイーン。
「痛いってば!!」
しばらく顔見せないと思ったら突然現れてイヤミな笑顔。人が多少『落ちている』瞬間を逃さない天性のヒールっぷり。エレベーターのドアでその性格の悪さを少しでもこそぎ落とせないものだろうか?僕はそんなことを考えながら『閉』を連打する。
「……あ」
「いったぁ……ユキトあんたね」
あろうことかナミさんはドアに挟まれながらもずるりとエレベーターの内部に押し入り、振り向きざまに最上階のボタンを押した。ゆっくり上がって行くエレベーターの内部で、ちょっと予想外の展開に僕は自分の鼻の頭をポリポリと掻く。
「あんた、真央とヤッたの?」
エレベーターの中に設置されている鏡で髪型を整えながら、息を切らせて僕に問うナミさん、ってかミスズさん。
「……誰?」
「真央だよ真央!」
あんまり身に覚えがない僕ではあるが、消去法で一人しかいないことは容易く分かる。僕に6万円で『セックスしよう』と誘ってきた子のことだろう。っていうか、『真央』って言ってたような気もしないでもない。
「しなかった、ってかなんでナミ……じゃなくて美鈴さんがそのこと知ってるの?」
「……その時待機所誰もいなかったろ?」
そういえばそうだったような。
「あの子最近指名増えてきたからなあ。目ぇ付けられてたんだよな」
「?」
「あの部屋は監視カメラ付いてんだよ。きっとあんたらの事違うトコからみんなで覗き見してたんだろ」
「そうなんだ。でも結局なんにもしてないよ?」
「お気楽だねユキトは。『口実』になれば何でもいいんだよあいつらは」
「あいつら?」
「いつも待機所にいる連中だよ。なんであいつらが『いつも』待機所にいるかわかんないの!?」
「?」
「仕事が無いから!!仕事がある人間を引きずり下ろすのが楽しいんだろ!?今回の標的は真央!!んであんた……まさかあいつらの共犯じゃ無いよな」
「?」
「そのバカ面じゃ無理か……まあそうだろうけど。でもあんたさ、真央と仲いいんだったら何とかしてやれよ。今待機所で吊るしあげられてんだよ」
「いや、ちょっとまって」
「?なんだよ」
「かなり前の段階で僕は美鈴さんの話に付いていけてないよ?正直意味が分からない」
「……はぁあ!?ど、どっから!?」
「僕を『ユキト』って呼んだところから。意外に決まり事に従順なんだなって思ってたらいつの間にかハナシ見失ってた」
「最初っから全然聞いてないんじゃないのよ、このバカオタクっ!!」
「否定は出来ない」
ああ、もうっ!!
そう叫んだ美鈴さんは腹を括ったようで、最初から繰り返し説明を始める。
結局僕に説明し終えるのは……エレベーターがマンションを縦に4往復する時間を要した。