〔カナ編〕なら
4軒目のトイレ。
理子と別れ事務所であるマンションに向かう際、目に付くコンビニ全てに入りトイレを占拠する。
ほとんど何も食べていないのに吐いてしまうので、僕の喉は胃液で焼けチクチクと忌々しく痛んだ。
何をするのか知らなかったワケじゃない。どういったサービスを提供しているのかはネットの知識で頭にはあった。
僕だって男である、微かな期待が無かった訳じゃない。メクルメク夜の世界を垣間見て『ハマッたらどうしよう』なんてお気楽な気持ちもあったんだろう。
「!」
不意の吐き気でコンビニの便器にしがみ付き、自然に体を九の字に折る。ただ苦しくて、出るのは酸っぱい胃液とさっきのんだ水のみ。
「……」
ユズキカナはこんなことをずっと。そう考えると彼女がいつも明るく出来ていたのは素直に尊敬した。僕には全然無理っぽい。
世の中にはやっぱり向き不向きってあるんだなあ。マジで此処のところ逃げ出す事しか考えられなくなっていた。何度テンチョーにもう無理だと告げようと思ったか知れない。
自分で勝手に飛び込んでおいて、だ。
誰に頼まれた訳でもないのに、である。
そして僕は実際、理子に会ったあの時。
「……」
逃げていたのだ。
『この仕事』は必ず運転手が現地まで送り、迎えも時間どうりに必ず待っている。そこから、逃げた。持たされていた携帯は途中で捨てた。あの時点では僕は自分の事しか考えられていなかった。なんでこんなことをしているのか、全て自分で決めた事だというのに。
「……」
ばしゃばしゃと乱暴に顔を洗う。
あの時どうしても足が動かなかった。運転手の待つ場所へ引き返そうとしてみたが、どうしても。
そしてアスファルトに頭を何度もぶつけた。仕事中の記憶がちょっとでも消えたり、何かの拍子でまた出来そうになる気持ちが持てないかと。そんなわけ無いのに。
「……」
ぎりぎりと奥歯が勝手に軋む。
トイレに備え付けてあった鏡、そこに映った根性ナシが軽薄そうな青い顔でコッチを見ているのだ。お前なんかが『友達のため?』笑わせるな、ってさ。
「……」
尊厳とかさ。あんまり無かったんだよ今まで僕。
それが、どうだ?逃げる逃げる、思考は縦横無尽に逃げ一択。それがなぜなのか知ってるくせに知らないフリで。
「……」
ユズキカナを助けたかった、嘘じゃない。でも想像よりもそのカベ、分厚くデカイ。努力はした、でも駄目だった。言い訳にもならない泣き言。
「……」
要は。
カネで女性に買われるって事が惨めで情けなくて耐えられなくなっただけなんだ。無いと思っていたみみっちいプライドが僕のしょうもない人生で初めて自己主張するんだ。
逃げろ、辞めろって。
「……ふー」
そこは、捨てろ。
僕は自分に言い聞かせるように口の中で呟いた。
価値の無い金ってあるんだよ、ユズキカナはあの時そう言った。
きっとこのことだったんだろう。
「……」
僕はコンビニのトイレのドアを空け再度夜道に踊り出た。
足はちゃんと動く、どこに向かっているかもちゃんと分かってる。
僕のゴミみたいなプライドなんてどうでもいい、しかしもうユズキカナにこんな真似はさせない。そこにユズキカナの意志が無いのなら僕が必ず辞めさせるんだ。
ポケットに入れたカプセルをぎゅ、と握ってみる。
そこには勇気とか根性なんて都合のいいアイテムは入ってないけど。
「……」
逃げるのは、まだだ。
僕はユズキカナの笑顔が見たい。
なら。
「……」
僕はニヤニヤ嗤っているだろうテンチョーの待つ事務所へと足を向けた。