〔カナ編〕息が苦しいんだ
この場所に留まる事に意味は無いだろう。
ユズキカナは俯いて所在無さげに胸倉を掴まれたまま微動だにしないし、もちろん僕だってこんな不似合いなオサレ空間からとっとと帰りたいのだ。
「か、帰ろうか?」
僕はユズキカナの手を取る。ユズキカナはビク、と反応はするものの未だナミさんが胸倉を掴んだままなので移動しようにも思うようにはいかなさそうだ。
「ちょっと……今取り込み中。誰だか知らないけどひっこんでてくんない?」
おおう。
このナミさんというコも中々どうしてチンピラチックな目をしておる。クビだけを僕に向けて目で威圧するその姿は、沢山塗りたくっている化粧の相乗効果もあり迫力2割り増しである。せっかくユズキカナのように綺麗なのに勿体無いコトだ。
「いやもう僕ら帰るからさ。気分害したみたいだし」
「だからさー、あんたに用無いの。カナに用があんの。分かる?」
「僕が連れてきたから。責任持って連れて帰ることにしたいんだけど、どうかな?」
グチグチウゼーな、そう言いつつ謎の怒りの矛先を僕に変更したナミさんは薄暗いフロアーの中をじりじりと僕に肉薄する。この時点でようやくユズキカナの胸倉は開放されたようで少しホッとした。長いコト掴んでたから手の平に接着剤でも付いてんじゃないかと疑っていたがそうでもなかったらしい。
「なんなん?ウゼーんだけどあんた」
「申し訳ない。今すぐ帰りますカラ。はいごめんなさい」
怖いし。このナミさんてコはなんで他人の目をこんなにガラ悪そうに覗けるんだろうか?僕なんか肉親であるはずの姉の目でも15秒以上直視する自信は無い。つい愛想笑いで誤魔化してしまいそうだ。
「おい!奈美、そいつ新木だぜ!」
その声が静まり返るフロアに響いた瞬間。
バキン、と。
僕の体は異変に覆い被された。
なんだろうなんだろうコレ。
「はぁあ!?新木って……いじめれっこデブ?こいつが?」
「らしいぞ。高校デビュー大成功だな」
「カナがいじめられっこデブ連れて遊んでんの!?マジウケル!トップモデルがなに騙されてんのさかっこ悪りぃ!コイツの本性知ってんのカナ!?」
僕の目の前で起こっている光景が脳まで伝達されていない。
汗が止まらない。腕が上がらない。足が進まない。
何も考えられない。
僕は……ぼくは。
「あぁあーーー!コレ!汗!昔の面影ハッケーーーン!見てマジきもちわりい!新木はこうでなきゃねー!うーけーるー!」
「おうい!テンパるの早いぞ肉団子!まだ水ぶっかけてねーしチョーク食わせてねーだろ!」
記憶に無い。
僕はそんなことされてない。
僕は頑張って勉強して皆から一目置かれイジメのベクトルから上手に逃れることが出来たはず。
「震えてる!お帰り肉団子くん!」
遠くでオンナの声。
「なんだよー、びっくりさせんじゃねーぞデブ野郎!変わっちまったかと思ったじゃねーか!」
嘲笑混じりの男の声。
僕の流れる汗は頭皮から滝のように止まることは無く、背中から噴出す汗は僕の体内から出ている水分なのに氷のように冷たく感じた。
僕ははっきりと、今、恐怖で動けないでいる。
かろうじて機能している聴力で掴み取る情報が、僕を更に深く追い込んでいく。
「……」
僕は。
僕は。
嫌なことを記憶から消していたんだろうか?記憶が抜け落ちるような精神的な負荷を僕の頭が感じ取り、その元凶であるデータを消去してしまったんだろうか?違う、そう否定できない。
流れ出す汗が、震える身体が、真っ白に漂白されたような頭が。
僕が過去だと思っていたモノを否定しようとしている。
「でもよ、今日はお前いいわ。なんか奈美がそこの綺麗なお姉さんと話しがしたいんだってよ。だから消えろ」
「そうねー。今日はいじめれっこに構ってるヒマなくなっちゃったしー。ウセロ!」
かろうじて嗤われているのは分かったが、もう耳もあまり機能しなくなっていた。汗が目に入っても瞬きも出来ない。
今、何か言われ肩を突かれた様だが僕の足はやっぱり動かない。
見えない。
話せない。
動けない。
浅い呼吸が断続的に続き、息苦しい。
「帰れっつってんのに……あ、俺なんかこういうの見たことある!チョコとかずっと噴き出ててパンとか付けて喰うやつ!」
「チョコフォンデュ!タワーのやつ!?マジうける!ほんとだ、汗がチョコみてー!」
ガクガクと膝が震えて眼球まで揺れている気がする。まともに立っていられない。僕はなんでいまこうして突っ立ってるんだっけ。なんなんだっけ。
今教室なんだっけ?今日は運悪く掴まっちゃったんだっけ?
アザとか出来ないといいなあ。言い訳考えないといけないし。
制服は……こっそり押入れに換えのヤツ入れてあるから汚されても大丈夫か。
サイフは持って来てないからどうしょうもない。しばらくお腹抱えて丸くなっていよう。好きなアニソンでも歌ってれば蹴られるのも終ってるさ。
「離せよ!なんだよ!」
「あー、ムダっす。新木の方見たって。お姉さん綺麗だからおとなしくしててよ。奈美の為に時間ちょーだい!お願い!」
「いいから来いってば。オーナー今呼ぶからさ。……しっかしカナも見る目無いよね?よりによって新木って。ぷぷ」
はっ
はっ
はっ
はっ
は。
まだ終わらないのかな。始まってもいないのかな。
どこも痛くないからまだなんだろうな。早く終わらせてくれないかな。苦しいんだすごく。
息が。
苦しいんだ。
「……あんたらいいかげんにしなよ」
「こえー!おねえさんこえー!マジビビルその顔!でもダメでーす!俺柔道部ダカラ!割ととチカラつえーカラ!」
「あんたのツレはあそこ!なんか汗掻いて固まっちゃってマース!ざんねん!」
もも、もういいのかな?帰っていいのかな?
限界だ。息が苦しい。汗止まらない。
帰る。
カレーパン買って帰るんだ。
たくさん。
ネットやるんだ。コーラ飲みながら動画で笑うんだ。
毎日をリセットするんだ。繰り返すんだ。消すんだ。全部。
いちにち一日まめに消していくんだ。
それでやっと。
生きていけるんだから。
「あんたらの知ってるこいつがどんなだか知らないし聞きたくもないけど」
「っと!?お姉さん意外にチカラあんね!」
「わたしが知ってるこいつはいつでも結構かっこいいんだ!いっつも誰かの為に必死で!後先考えないバカだけど!」
「ジューショーだねカナ?何言ってんの?バカなの?」
「うるせーよ万年ナンバー2!」
「はぁあっ!?マジムカつくこのおんな!!」
「おいベクトルマン!!出番だよ!!いつまで固まってんだバカ!!」
…………。
……………………。
…………………………………………。
痛い。
今背中蹴られた。
だって僕今両手床に着いてるし。背中ジンジンするし。
「……」
僕はぐりんとクビを後ろに回すと……ほらな!ほらな!
ユズキカナはあんなに尖ったヒール履いておる!もうあれは武器だろう武器!!
「…………」
薄暗いフロアに人だかり。ユズキカナはゴツ目の男に腕を握られ拘束されているようだ。胸倉掴まれて腕握られて大人気だなユズキカナ!
しかしまあ。ゴツイとはいってもゴリの筋肉の半分にも達していないんじゃないだろうか?あの程度では僕はもう驚かない。野生の恐ろしさを知っているし、実際に何度もブン殴られているのだから。
「……加減してよ。背中刺さったじゃないか」
「おう!わりーわりー!」
腕を取られながらも今のユズキカナは俯いていないようで、綺麗に並んだ白い歯を出して微笑んでいるようだった。
「かえろっか」
と僕は自分の背中を擦りながらユズキカナに声を掛ける。
「うん!いこーぜ!」
すると、元気のいい返事が返ってくる。
そうだ。
消えた過去などに興味は無い。第一今そんなコトは全く完全にこれっぽっちも『関係ない』のだ。
ほら、なんだか知らないけど現在ユズキカナが絶賛ピンチ中であるのであるからして昔のイヤな思い出などと無邪気に戯れているヒマなどないのだ。
「……」
依然汗は止まっていない。
足だってガタガタ震えてる。
けども。
ぎぎ、とぎこちなく。でも動く。見えるし聞こえる。
ならば。
僕はユズキカナとここからさっさと帰ろう。そう決めた僕は足を交互に突き出すのだ。出来るよ出来る、なんとかなるさ。
ハンパな筋肉ヤロウなんてちょろいぜ、なんてことない。
この手のトラブルなんてこちとら既に慣れっこなんだよ!