〔ハル編〕イボイノシシ
家族でテーブルを囲み夕食を採っている。
本当はそうでもないんだろうが、随分久しぶりの様な気がしていた。
「……」
朝刊を夕食時に食い入るように読んでいるバカ親父。
エネルギー補給の為と言わんばかりに、効率的に箸を動かすイノシシ姉。
誰も見ていない、静かなリビングに音だけをこっそりと流し続けるTVショー。
僕は以前と変わらない日常を見ても、前ほど息苦しく感じては居ない。
これはなんなんだろう?
神経が図太くなったのか、それとも僕はまだ……日常に帰って来られてはいないんだろうか?
「……」
僕は最近、心の中に鉛がコロンと転がっている。
それはとても居心地悪く、常に異物感を伴っていた。
「……」
日曜なのに早起きした時のような。
年賀状が出していないヒトから届いた時のような。
選手なのに観客席から見ているような。
正体不明の後ろめたさと背徳感、それでいて塞ぎ込む事の無い爽快感。
んー。
よく、分からない。
「あのさ」
そう言えば僕には姉に聞いておきたいことがあったんだった。
僕は夕食のハンバーグ(姉によると【ミートローフ】と言うらしいが)を一欠けら口に放り込みながら姉に言葉を向ける。
「どうやったの?」
姉は怪訝な表情で味噌汁を啜った。
「……どう、って?」
日向一家の豹変振りはどう考えても納得出来ない。
ああも短期間で家族の再編など可能なのであろうか?
確かにハルにとっては最善、あいつはなんだかんだ言いつつアキの事を気にしていた。だから。
僕は悔しかったのかも。
僕はアキやそのお父さんまで気が回らなかったから。
ハルの事だけ……いや、それさえ違う。
僕は『ハルの事だけ考える自分』の事しか考える余裕が無かったのだった。
「日向さん達のこと?」
「うん」
今そのことに気が付いたとしても僕には関係を改善させるなんてムリだから。その時の僕がハルの家族に想いが至ったとしてもやはり結果は同じだっただろう。
「あー、うぅん。言わなきゃダメ?」
「できれば」
?
随分このイノシシ歯切れが悪い。
普段のコイツからはあまり登場しない表情で、テーブルに肘を付き手の平で自分の顔半分を覆う。
「……最初会った時、ああ、秋さんにだけど。ちょっと違和感があってね」
「違和感?」
姉は観念したのか自分の食器をささ、とシンクに持って行き僕の顔を見ながら苦笑いを晒した。
「ある種の固執、もしくは偏執。簡単に言うと『話が通じなさそう』って思ったの」
「……へぇ」
「結構な資産家の日向さん、ハルさんの不運な病気、独善的になっていく不幸な一家。ま、この辺りは鬼頭さんの記事で知ったんだけど……ひょっとしたらそうじゃないかなあって、ね」
ぱさりぱさりと新聞を捲っていたバカ親父は、急に新聞を自分の膝に置きそのバカ面を姉に向け言った。
「宗教か?」
「そう、新興の。最近よく見かけるのよこの辺り」
バカは偉そうに顎なんか掻きつつ自分と姉の湯飲みにお茶を注ぐ。
「金持ちで身内の不幸とくれば、いいカモだなあ」
「人の心が弱ってるところに狙い撃ち。あー胸糞悪い」
姉と父はここが居酒屋であるかのように、湯飲みのお茶を掴み上げ豪快に煽った。
「だから潰したの、その新興宗教」
むふう、と鼻息荒くそう語る姉。
って、おい。
潰した?
「ちっさい支部だったから」
「え、と。……どうやって?」
聞かずには居られない。なんだそれは。
何してきたんだこのイノシシ。
「結局ああいうのは『外圧』に脆いのよ」
「ガイアツ?」
「所詮後付けの教義を頭に叩き込むだけだから信仰が薄い。で、その対処としてなるべくその宗教関係者以外との接触を無くして囲っちゃうわけ。突っ込みにひどく弱いのよ」
そういうものなのだろうか。
僕には姉が何を言っているのか全部理解する自信は無いが……随分ムチャしたんだろうとは想像出来る。
「毎日その集会に顔を出して教義の矛盾を論破するのよ責任者みたいな男と。向こうは『議論は出来ない』なんて言えないから。他の信者の手前逃げる訳にもいかないでしょ?」
「……」
でしょ?と言われても。
僕は冷えたハンバーグに箸を突き刺しもしゃもしゃと咀嚼する。
そんなに……言うほど簡単なものなんだろうか?
危険は無いのか?
宗教とは無縁の生活を送ってきた僕は想像するのも一苦労なんだが。
……ん?
「柚木カナは?どこで登場するんだ?」
なにかしら噛んでいる筈。しかし柚木カナが『論破』している姿は想像し難い。役割はどこに?
「役割分担よ。私は屁理屈こねてその団体に嫌がらせする役。カナはシンボル、あのコ綺麗だから」
「シンボル?」
「偶像崇拝って聞いたこと無い?一番効果的なのは解り易い事が大事なの。珍しい事じゃないわ。誰だってパッと見綺麗な女の子が居たほうが暑苦しい中年よりいいでしょ」
乗っ取ったと言っているんだろうか。
新興とはいえ信者の数は結構居るんじゃないのか?
「古都」
バカ親父は黙っているのに飽きたのだろうか、めったに呼ばない姉の名前を呼ぶ。
「宗教ってのはそれ自体悪いものでは無い。それは分かってるか?」
「……え?」
姉は父の意外なほどの低いテンションに少々面食らったようだった。
重くなる空気、姉と父の視線が我が家のテーブル上で交錯する。
「信仰が必要な人間はいつの時代も一定数存在するということだよ。これは責められるものでは無い。自然な心の動きだ」
「私はあの団体を潰した。当然だけど責任感じる気なんて一切ないわ。でもこの一件で私を偏狭な宗教弾圧論者だと思って欲しく無いんだけど」
「お前は強い、そして聡明だ。しかしそうは生きられない人間の方が世の中過半数だと知っておくといい。お前のしたことは決して褒められたことじゃないんだよ」
「誰が褒めて欲しいなんて言ったかしら?ねえ周蔵、私そんなコト言った?」
「……」
なんだこの迫力は。
これは夕食のひとコマじゃなかったか?
なぜこの二人は目をらんらんと輝かせ、今にも互いを噛み付きかねない気迫をこのリビングルームに撒き散らしているのか。
「そもそも宗教なんてモノが普及したのはその時代にたまたま印刷技術が発展したからでしょ?内容の是非を問われていたとは思えないんだけど」
「需要があったから普及したんだ。モラルの土台を求める当時の人々の枯渇心と物語への希求、その両方だ」
「やっぱり内容じゃないじゃない。教義うんぬん言う前にまず読み物としての聖書、面白かったのよ海が割れたりするのが」
「私は特に基督教の弁護をするつもりは無いが、お前は偏っている。そしてあまり自覚も無いみたいに見えるな」
「……教えて貰ってもいいかなお父さん。考えの足りない浅はかな娘にそのジカクってのを」
あ。
これは怒ってる。
ちょっと最近ないくらい怒ってるぞイノシシ。
イノシシがイボイノシシにランクアップしかけておる。
姉は瞬きもせず父の目をガン見しながら父の湯のみにお茶を注ぐ。
「……」
冷たくなったお茶を父に注ぐのに躊躇したのか……姉は急須を持ったまま踵を返し、コンロに火を付け新たなお茶っ葉の準備をする。
この間一切無言、背中で父に『逃げんなよコラ』と貼り付けているようだった。
ごりごりと無骨な激突音を重低音で響かせた2人の訳の分からない宗教談義は姉の心に勢い良くガソリンをぶちまけた様だった。
しかしまあ。
あのバカがここまで姉に食って掛かるとは正直意外だった。
なんとなくではあるが父の言うことも一理あるようなつばぜり合い、いやいやこのバカ中々やりおるのう。
「……おい肉団子」
「ん」
「お、お父さんちょっと調子乗っちゃって。古都になんとか言ってやってくれないかマイサン」
中年男性の涙目などそうそう見れるものでは無い。
「無理だと思うぞマイファーザー。あんた今日寝れないし、場合によっては一週間のシカト付き」
「おいおいそこを何とかしろよ弟だろお前」
「あんた父親じゃねえか。あと涙拭けよ」
まあ、姉はヘンに隠すから拗れるのだと思った。
色んな理論武装なんて必要無いのだ。
姉はきっとハルの為……
「さあお茶入ったよおとうさん」
こぽこぽと注がれる淹れたてのお茶、ぎしぎしと聞こえてきそうな姉と父の笑顔。
僕は父の縋るような視線を背中で華麗に断ち切り自室へと向かう。
姉は自分がどういうつもりで無茶な行動を取ったのか絶対言わないだろう。
『ヒマだったから』とか『世直し』とか『社会正義』とかめんどくさい事言い出すのは目に見えている。
だから僕は心で『ありがとう』と言うことにする。