姉の靴は夜明けに帰る
戸を叩いたのは、赤い靴の爪先だった。
閂を外すと、片方が敷居へ乗り上げた。もう片方はまだ、こつこつと戸を蹴っている。
「開けてるでしょう」
言ってから、私は路地を見た。朝の魚売りが角を曲がっていく。桶の水が石畳に流れ、靴の後ろには誰もいない。
姉を埋めたのは、昨日だ。
葬式の夜には、靴を戸の外へ出す。歩き残したところがあれば、自分で歩いてくるから。この港町の子供はそう教わる。たいていの靴は翌朝も置いた形のまま、夜露に濡れている。父の長靴も、そうだった。
姉の靴は、私の足首へ爪先を寄せた。
「どこへ行ってたの」
留め金が一度鳴り、両方とも倒れた。
抱き上げると、底から白い粉が落ちた。昨夜、磨いてから出した靴だった。左の爪先にはもう傷がある。私は名前を呼ぶより先に、靴を裏返していた。
作業台の型紙を端へ寄せ、灯りを引き寄せる。両方の底に、同じところを何度も回ったような跡があった。左には小さな継ぎ革まで縫いつけてある。針目が大きすぎる。これでは縁から裂けてしまう。
「私に頼めばよかったのに」
この靴を作ったときも、姉は注文ばかり多かった。
「もうちょっと細くならない?」
「足が?」
「靴。あんたは怖いことを平気で言う」
姉のアニスは帳場の椅子へ座り、片足を私の膝に載せていた。右より左の足が少し広い。そこを合わせて作ったら、左だけ大きく見えると言いだした。
「誰もそこまで見ないよ」
「今あんたが見た」
「見るのが仕事だから」
「じゃあ、上手にごまかして」
結局、左の幅を少し詰め、右の飾りも張り出させた。姉は立って歩き、窓に映る足を横からも確かめた。いい、と言ったあとで、もう一度椅子へ座る。
「ここ、ちょっと当たる」
「細くするから」
「そこを何とか。町で一番の靴屋さん」
父が死んで六年。姉は私をそう呼ぶと、大抵、値段のつかない仕事を頼んだ。
私は木型を選び直した。姉は横で、さっきのほうが可愛かったなどとまだ言っていた。
その姉が、針を持った。
引き絞りすぎた糸を切ると、革に食い込んでいた結び目が跳ねた。
このところよく底を減らすので、どこを歩けばこうなるのかと聞いたことがある。坂が私を嫌ってるの、と姉は答えた。石段で転んで膝をすりむいた日もあった。
私は棚から厚い革を取り、左右とも底を替えた。石の上で滑らないよう、面を粗くして筋を刻む。浮いた踵を締め、傷へ色を入れた頃には、店先まで日が差していた。
靴は動かなかった。
「夜になったら?」
窓の下へ移し、また日陰へ戻してみた。留め金を撫でても、爪先を指で叩いても、何も起こらない。
私は靴を二階へ運んだ。姉の椅子の下なら、帰ってきたとき座れる。
椅子の背には喪服が掛かっていた。私はそれを自分の寝台へ移し、椅子を少し引き出しておいた。
◇
夕方、パンを二枚切ってから、一枚を戻した。
姉が熱を出したのは、たった五日前だ。薬屋が二度来て、持ってきた薬がなくなる前に姉は死んだ。それから大勢の人が家へ入り、水を沸かし、姉の話をし、私にパンを食べさせて帰った。今日はもう誰も来なかった。
階段が鳴った。
私はパンを持ったまま立った。赤い踵が、最後の段を降りてくる。帳場の椅子の横を通り、店の戸へまっすぐ向かった。
「お姉ちゃん」
靴が止まった。
片膝をつき、履き口の上へ手を出す。何にも触れなかった。もう少し上なら膝があって、腰があって、まくっても片方だけずり落ちる袖があるはずだった。指は戸板に当たった。
「ここにいるよ」
こつ、こつ。
靴は戸を蹴った。
右の踵が浮く。私が出かける支度をしていると、姉はいつもこうしていた。自分は髪を結ぶのにいつまでもかけるくせに、待つ番になると、まだあ、と急かす。
「帰ってきたんじゃないの」
もう一度、戸が鳴った。
私は立って、閂を抜いた。
靴はするりと外へ出た。追いかけて一歩踏み出し、自分が室内履きのままだと気づく。外套を肩へ引っかけ、靴を履き替えている間にも、赤い踵は遠くなる。
「待ってよ」
灯りの下を通るたび、石畳に靴だけの影が落ちた。荷車の男が道を譲り、こちらを見て口を閉じた。私は小走りになった。買い物の帰りも、いつも少し後ろを歩いた。姉がどの角で止まるかは、振り向かれる前にわかった。
その靴が、魚市場の手前で右へ折れた。
好きだった菓子屋は左だ。私が立ち止まっても、靴は戻ってこなかった。
運河沿いの倉庫には、まだ灯りがあった。戸口の絵で、王冠をかぶった鼠が王様を蹴っている。旅回りの人形芝居だ。姉が一緒に見に行こうと誘ったときは、川向こうの仕立屋へ渡す見本を縫っていた。
靴は階段を上り、最後の段でつまずいた。手を伸ばす前に持ち直し、そのまま中へ入っていく。
「遅かったね」
奥で、白い髪を頭の上に巻いた女の人が縫い物をしていた。足元には人形の腕が何本も並んでいる。
姉の靴は白い線をまたぎ、低い舞台へ上がった。板の継ぎ目に短い白墨が落ちていた。
「きのうみたいに、端からやるよ。少し待ちな」
女の人は鼠の頭を脇へ置き、棒を取った。とん、と床を叩く。靴が揃った。片方が前へ出て、踵が二度鳴り、爪先で跳ねる。
左を軸に回ろうとしたところで、ぎ、と底が板へ食い込んだ。赤い靴が互いにぶつかった。
「そこは急がない」
棒が鳴る。靴は同じところへ戻り、また跳ねた。
私は入口で、持ったままのパンを握り潰した。外套のポケットへ押し込み、手についた屑を払った。
姉は踊りなんかしない。祭りでも店先にいた。輪へ引っ張っていかれそうになると、鍋が焦げる、と逃げてきた。
次の一歩で、左の靴が大きく傾いた。磨いた革の縁が、板を擦った。
「やめてください」
舞台へ上がり、靴を抱えた。まだ動こうとする留め金が顎に当たる。
「傷むでしょう」
女の人は私の顔より先に、腕の中の靴を見た。
「ああ。あんたがミナか」
◇
「それ、しばらく持ってて。置くと始めるから」
女の人は椅子を足で寄せてくれた。ロッテという名を聞くまでに、鼠の鼻の片側が縫い留められた。反対側の縫い目を解くところで、ようやくこちらを向いた。
「あたしのことは、聞いてない?」
首を振った。
「そうかい。針、拾ってくれるか。そこ、椅子の脚の横」
靴を片腕へまとめ、針を拾う。ロッテは私の指から受け取った。
「あの子もすぐ落とす。だけど刺さる前に見つけるのは早かったよ」
「いつから、姉は」
「半年ぐらい。最初は見物に来て、片付けを手伝うようになって。……これ、鼻が曲がってるね」
「絵も曲がってました」
「絵が間違ってるんだ。あれを描いた奴が、もう次の町へ行っちまって」
ロッテは鼠の顔を自分の顔の前へ持ち上げた。鼻がまっすぐになったら、あまり悪賢そうには見えないだろうと思った。口には出さなかった。
「夜は、家にいました」
姉は先に風呂へ行くと言っていた。私は店を閉めてからも、奥で仕事をした。二時間ぐらいは顔を上げない。姉が戻ると水をたくさん飲むのは、湯が熱いのだと思っていた。
ロッテは糸を噛み切り、足首をさすった。片方だけ靴を脱いでいる。
「まだ下手だったよ。見られるのが嫌だったんじゃないか」
「私には、靴を見せてました」
「だから、踊りをさ」
膝で爪先が動いた。私は腕を重ねた。
「底、厚くした? 裾を決める前に、ちょっと見たいんだけど」
ロッテが箱から赤い布を持ち上げた。広がった裾の内側に、藍色の糸が一筋混じっている。見覚えがあった。姉が、帳場に掛けるのだと言って買った布だ。赤は客の目を引くから、と。
「これ、まだ縫ってるんですか」
言うと、ロッテの手が止まった。
私も黙った。膝の上にいるものを見た。
「持ってくよ。どのみち残せない。この倉庫、明後日には魚粉が入る」
ロッテは裾を折り、待ち針を打った。私の膝をもう一度見たが、何も言わなかった。
「明後日?」
「朝の船。南の港の小屋が取れたんだ。冬はあっちを回る」
「姉も?」
ロッテは待ち針を口から抜いた。
「あんたに話したって、言ってたよ」
抱えた革が、きしんだ。
「聞いてません」
「冬だけだよ。春には」
「注文が溜まってるんです」
ロッテが私を見た。
「何日までにできるか決めるのも姉で、無理だって言うと、お願い、あんたならって。出ていくなら、そんなに引き受けないでくれれば」
声が大きくなった。空の客席へ響き、誰もいないのに恥ずかしくなった。
ロッテは衣装を膝へ置いた。
「あたしも、あの子が踊るつもりで二曲あけた。足を休められると思ってね。あんたが困るなら、話は別だった」
「困ります」
「今それを言われてもさ」
口を閉じたのは、ロッテのほうが先だった。足首を揉んでいた手を止め、やがて、鼠の頭をもう一度抱えた。
「確かめりゃよかったよ、あたしも」
靴が、舞台へ向かって腕を押した。私は立った。
「今日は連れて帰ります」
「衣装は?」
差し出された赤い布の裾が、私の手の甲に触れた。受け取るには、靴を置かなければならなかった。
「今は、持てません」
私は腕を深く回し、倉庫を出た。
◇
二階の椅子の下へ置くと、靴はすぐ立ち上がった。私の足の横を抜け、戸口へ向かう。抱き上げて戻しても、同じだった。
私は廊下へ出て戸を閉めた。寝室の戸には閂がない。床へ座り、背中で押さえた。
こつ、こつ、こつ。
「明日でいいでしょう」
爪先が板を擦った。
「一晩ぐらい」
膝を抱えた。私がここにいるのに、靴は戸ばかり蹴っている。椅子を空けておいたのに。
「お姉ちゃんまで、急がせないでよ」
客が靴を取りに来る声も、棺をどれにするか聞く声も、家の中に残っていた。どれも私が返事をしないと終わらなかった。まだ洗っていない姉の寝間着がある。薬屋へ返す壺もある。お風呂だって、いつから入っていないだろう。
背中が小さく揺れた。
私は泣きながら、もう一度、戸を押した。
目が覚めると、廊下に細長い光が差していた。
脚が痺れて立てず、戸の取っ手へすがった。その向こうで、留め金が床を擦った。
靴はすぐそばに倒れていた。赤い爪先が剥げ、下の白っぽい革が出ている。
「ごめん」
両手で拾った。昼の靴は軽かった。
階下の作業台へ置くと、底に斜めの皺が見えた。左の靴を板へ押しつけ、踵を回す。底が止まる。力をかけると、回る前に靴が傾いた。昨夜、舞台で見たのと同じだった。
姉が当てた継ぎ革は、削り屑の箱に捨ててあった。拾って指で曲げる。薄い。周りの古い底も、すべすべになるまで減っていた。
あれなら回れたのだ。
私は自分で刻んだ筋へ、爪を入れた。
◇
糊を温めていると、店の鐘が鳴った。
川向こうの仕立屋から、見本を受け取りに来た男だった。明日のはずだと思ったが、その明日はもう今日だった。
「アニスさんに、昼にはできると」
男は帳場の椅子へ目をやり、掛けてある喪の布に気づいた。
「すみません。知りませんでした」
「いいんです」
私は引き出しを開けた。切った革も、縫う糸も揃っている。見本だけなら、今日一日で仕上がる。ただ、その間、赤い靴には触れられない。
「来週まで、待ってもらえませんか」
男は革を見てから、私を見た。
「棚を空けておけるかは、店主に聞かないと」
「はい」
「こちらから、また」
「私が行きます。来週、持って」
同じことを二度言った。男は頷いて帰った。
姉なら相手の上着を誉めたり、先に雨の話をしたりして、知らないうちに日付を変えていた。私は戸を閉めたあとになって、頭を下げるのを忘れたと気づいた。
来週の注文を帳場で確かめた。姉がいなくなるつもりだった週も、紙の束は厚かった。
一枚の端に、ミナに相談、と書きかけて消してある。
少し前、夕食の途中で、姉が言った。
「ミナ、冬の間なんだけど」
「これ見て。仕立屋が、ここをあけてくれるって」
私は型紙を広げた。川の向こうで新しい店が開く。そこに見本を置かせてもらえる。客の足を測ってうちへ知らせるというから、わざわざ橋を渡ってこない人にも靴が作れる。
「端、持って。お皿をどけて」
「食べてるんだけど」
「油がつく」
姉は皿を膝へ移した。私は型紙の反対側を押さえ、見本の形を説明した。
父の作っていた靴だけではなく、私の考えた靴を並べてもらえる。姉が帳場で注文を取り、私が奥で作る。二人なら冬の間にこれくらいできる、と数まで書いた。
「ねえ、聞いてる?」
「聞いてるよ」
姉の指は紙の端にあった。油がつかないよう、匙を持っていた指を浮かせ、薬指だけで押さえていた。
何の話だった、と私が聞いた頃には、姉は鍋をかき混ぜていた。焦げるから、あとで、と言った。片方の踵が、床から浮いていた。
私は注文の紙を重ね直した。
聞いておけばよかった。けれど、言ってくれればよかったとも思った。あの夕食のあとだって、二人で食べた夜はあった。
相談と書いた紙は、ほかの束と一緒に引き出しへ戻した。
赤い靴から、新しい底を剥がした。刃を寝かせて少しずつ進める。私の縫った糸に当たるたび、止めて切らなければならなかった。
代わりに薄い革を選び、爪先で回れるように面を整える。踵には止まるための厚みを残した。作業台で左の靴を回してみたが、舞台の板も同じとは限らない。
爪先の色を塗り直すとき、刷毛を持つ手が止まった。戸にぶつけてできた傷は、色を入れても少しへこんでいる。
乾いた布で余分な色を拭い、鞄へ道具を詰めた。
◇
日が落ちる前に倉庫へ着くと、客席の椅子がなくなっていた。壁の布も外され、窓から入る風に埃が流れていた。舞台だけが残っている。
「下の支えは、まだ抜くんじゃないよ」
ロッテが、槌を持った男へ言った。男は私の包みを見て、槌を腰へ差した。
「最後の荷車までだからな」
ロッテは頷き、私へ手を出した。
「見せて」
靴を渡すと、底を指で撫で、私を見た。
「滑るようにしたんです。でも、どこで止まるのかが、まだ」
「ちょっと立つよ」
編み上げ靴の紐を結び、彼女は舞台へ上がった。口の中で数を取り、三歩進む。左の爪先へ重さが移り、踵が弧を描いた。昨日の靴が傾いたところだ。
私も横でやってみた。足がついてこず、肩だけが回った。
「逆」
「左を出してます」
「重さが逆の足に残ってるんだ。そっちを少し浮かせて」
やってみると、危うく転びそうになった。
ロッテが私の肘をつかんだ。細い指が、痛いほど食い込んだ。
「あの子も、ここで人の腕をもぎそうになった」
私は自分の肘を見た。ロッテは手を離し、椅子へ戻って靴を緩めた。息が少し荒かった。
「すみません。もういいです」
「わかったのかい」
「まだ。でも、これ以上やってもらうのは」
ロッテは片手を振った。私は舞台の真ん中へ靴を置き、膝をついて板を撫でた。中央は何度も踏まれて滑らかだが、端にはささくれがある。そこは使わないほうがよさそうだった。
「船、もう一日あとには」
聞くと、ロッテは首を振った。
「次の小屋を借りてる。向こうで待ってる連中もいるんだよ」
私は鞄を開けた。持ってきた革を厚さの順に並べた。窓の青い色が薄れ、川の向こうの灯りがひとつ増えた。
左の留め金が、かすかに傾いた。
「来た」
靴が立ち、床を踏み替えた。ロッテが棒を取ると、白い線へ爪先が揃う。
ひとつ、ふたつ。踵を鳴らし、跳ねる。
左の爪先が板に着いた。
回った。
回りすぎた。
右の靴が大きく開き、線の外へ出た。私は手を出しかけた。靴は片方ずつ引き戻し、最初の位置へ帰った。
「今度は、自分で止まんなきゃ」
ロッテが笑うと、右の爪先が、こん、と鳴った。
姉はからかわれると、そうした。客の前で私に言い返せないときなど、にこにこしながら私の踵を踏んだ。帰り道に、踏んだよね、と言うと、靴のほうが勝手に、と答えた。
「左、ちょっと貸して」
私は片手を差し出した。靴は棒のほうへ向いたまま、動かなかった。
「今なら、間に合うから」
しばらくして、左だけが目の前へ来た。持ち上げると、右が所在なさそうに床を掻いた。
回り終わりに踏む踵の縁へ、細い革を足した。糊を押さえ、細かな針目で留める。姉の縫い目なら、ここまでに二度は指を刺しただろう。
床へ戻すと、靴はすぐに揃った。
次は、止まれた。
続く右の一歩が遅れた。
「そこから」
ロッテが言っても、靴はまた最初の位置へ戻る。
「あんたはいつも、全部やらなきゃ気が済まない」
棒が鳴った。靴が跳ねる。今度は回る前に踵がぶつかった。
「初めて来たとき、何日で踊れるようになるって聞いたんだよ」
「何日?」
「何年とは聞かないんだ、あの子は」
吹き出してしまった。ロッテも笑った。笑いながら鼻をすすり、袖で拭ってから、また棒を振った。
靴は跳ねた。
私は床へ置いた道具を片づけ始めた。まだ、向こうへ顔を向けられなかった。
荷運びの男が箱を抱えて通り、靴に合わせて数を取った。すぐに、速い、とロッテに叱られた。
「いつもそこから遅れるだろ」
「合わせてやってどうする」
男は笑って出ていった。
あの人も、知っている。
「ずるい」
口に出ていた。
ロッテがこちらを見た。私は鞄の口を閉じた。もう直すところはなかった。それなのに、姉は、いつまでも同じところへ帰ってきた。
「数、代わってくれるか」
ロッテが棒を差し出した。
「この鼻を縫わないと、今度はあたしが怒られる」
私は棒を受け取った。さっきまで聞いていた通りに、床を叩く。四つめで靴が回る。続きの数を迷ったら、爪先がこつこつと鳴った。
「待って。私、まだ覚えてない」
ロッテが鼠を抱えたまま、先の数を教えてくれた。
足で取ると、少しわかった。三歩進み、左を軸にする。自分の靴の底が引っかかり、危うく姉を踏みそうになった。
「そこ、靴を脱いでみな。真ん中なら刺さらないから」
私は履き口を緩めた。靴下で板へ立つと、冷たかった。棒を置き、もう一度やった。回るには回れたが、今度は右をどこへ置くのかわからない。
赤い靴が横へ来て、先に一歩出た。
「これ?」
同じほうの足を出す。
「ミナ、あの子の足は見ないほうがいいよ。そっちも間違ってる」
私は顔を上げた。ロッテが口元を押さえていた。
「お姉ちゃん、間違ってるって」
右の爪先が床を打った。
笑ったら息が足りなくなった。次を踏み損ねて姉の靴へぶつかり、よろけながら、今のは私、と言った。声が変だった。鼻の奥が痛い。袖で拭う間にも、靴は最初の位置へ戻っていく。
「もう一回」
追いかけた。
跳ねるところで私は跳ねられず、姉は勢いをつけすぎた。二人とも止まった。ロッテが、途中から、と言った。私は首を振り、白い線まで下がった。
板に着いた靴下の足は白く、隣には赤い靴があった。息を整える私の横で、踵が上がったり下がったりしている。
「今、やるから」
まだあ、と言われた気がした。
私は袖でもう一度顔を拭き、片足を出した。
◇
荷車の鐘が鳴った。
戸口に男が立っていた。今度は箱を持っていない。
「ここで最後だよ」
ロッテが糸を切り、鼠の頭を箱へ入れた。
私は靴下の裏を手で払い、自分の靴を履いた。脚がだるい。赤い靴はまだ、白い線の前にいる。
「アニス、今日は終わり」
ロッテが言った。
私は舞台へ手をついたまま、もう一度、と言いかけた。数は途中までしか覚えていない。その先で姉がどちらへ行くのか、まだ見ていなかった。
男は階段へ手をかけ、待っていた。
私は立って、鞄を取った。
赤い靴を抱えて舞台を降りる。すぐ後ろで、釘を抜く音がした。
衣装の箱は戸口へ寄せてあった。赤い裾の脇に、靴が入るだけの場所がある。
私はそこへ入れようとして、床へ下ろした。
靴は一度、箱の周りを歩いた。反対側へ行って、戻ってきた。片方が縁へ乗ると、もう片方も続き、中へ降りた。
「その底は、石の道には弱いんです」
私はロッテに言った。
「石の道では、できるだけ運んで。傷んだら、ここの革を替えて」
「向こうで靴屋を探すよ」
「舞台まで来てくれる人を」
ロッテは頷いた。私は余った革を包んで、衣装の脇へ入れた。箱の中へ、まだ手を残していた。
「春には」
声が出て、止まった。
ロッテは何も言わなかった。私の手を見ず、箱の持ち手へ通す縄を結んでいた。
靴の上には、誰もいない。衣装を着る肩も、裾から出る脚もなかった。
私は留め金を指で起こし、寝かせた。
「お客さんの引き取り、わかるようにしておいてよ」
左の爪先が、私の指へ触れた。
もう一度言ったら、今度こそ返事があるかもしれなかった。私は口を開け、やめた。手を抜いて、箱の反対側へ回った。
二人で持つと、箱は思ったより重かった。波止場まで何度も持ち替えた。ロッテが痛む足をかばうたび、私の側が下がった。
川にはまだ夜があった。船の灯りが細長く崩れ、積まれた箱の隙間へ光が届いた。赤い衣装の箱も、その奥へ運ばれていった。
「ミナ」
船へ上がったロッテが呼んだ。
「あんたのほうが、足取りはよかったよ」
「姉には言わないでください」
「ああ。うるさいからね」
私は頷き、岸壁の段を上った。縄が解かれる音がした。振り返ると、もう船と石の間に水が見えた。
縁に人の顔が並んでいた。私は、その下を見た。あんなに箱を積んで、足を動かす場所はあるだろうか。
船が向きを変えるまで、立っていた。
店へ帰り、作業台に伏せた。隅で丸まっていた底革が手の甲へ当たり、少し遠くへ押しやった。
目が覚めたのは、魚売りの声だった。
戸を開けた。
赤い靴はなかった。
路地には桶の水が流れていた。私は敷居に片手をついたまま、魚売りが角を曲がるまで見ていた。
その向こうから、いつもの客が来た。店の札を見て、足を止める。
「開けます」
札を返した。客は預けていた長靴を取りに来たのだった。奥の棚から下ろすと、底に打ち直した鋲を親指で確かめた。
「アニスさんに、紐も替えろって言われててね」
古い紐は、途中で二度結び直してあった。
私は棚の箱を開けた。黒と茶色を持って戻り、客の前へ並べる。客は長く迷い、やっぱり元のままで、と両方返してきた。
「次に切れたら、替えてください」
「次はね」
長靴を履き、客は出ていった。
私は二色の紐を持ったまま帳場を見た。ほらね、また買わなかった、と言おうとしていた。
椅子は空いていた。
黒い紐から箱へ戻した。茶色を丸めていると、うまく端が揃わなかった。ほどいて、巻き直した。まだはみ出している端を、何度も指で撫でた。




