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五年前に別れた元恋人と、同じ家を買おうとしていました

作者: 黒咲かぐら
掲載日:2026/10/04

 家を買おうと思ったとき、元恋人と取り合うことになるとは考えなかった。


 十月最初の土曜日、十時二十八分。

 私は中古住宅の門の前で、スマートフォンの画面を消した。


 写真よりも外壁がくすんでいる。駐車場の端に細いひびがある。けれど、門から玄関まで三歩ほどの短い道は、五年前に見たままだった。


「篠原様ですね。申し訳ありません、前のお客様が少し長引いていまして」


 玄関から出てきた不動産会社の担当者が、胸の名札を押さえて頭を下げた。電話で聞いた、村瀬さんという名前を確かめる。


「大丈夫です。ちょっと早く着いちゃったので」

「どうぞ中へ。そろそろ終わるところですから」


 村瀬さんが脇に寄った。

 奥で男の人が、スリッパを脱いでいる。


「給湯器の見積もりも、できれば一緒にお願いします」


 声を聞いた瞬間、差し出しかけていたスマートフォンを、自分の胸元へ引き戻した。


 男の人が顔を上げる。


「……美月?」


 柏木悠真だった。

 五年間、一度も会っていなかった元恋人が、あの家の玄関に立っていた。


 髪が前より短い。紺色のシャツの袖を折っている。驚いたときに片方の眉だけ上がるところは変わっていなかった。


「久しぶり」


 私が言うと、悠真は靴べらを持ったまま、うなずいた。


「……うん」

「お知り合いでしたか」


 村瀬さんの明るい声に、私たちは同時にそちらを向いた。


「柏木様もこちらをかなり気に入ってくださっているんですよ。十時から見ていただいて、お風呂の交換についてご相談を」


 ――なんで、悠真がこの家を?


 本人の顔を見ても、聞けなかった。

 結婚しているかもしれない。

 誰かと暮らすために、ここへ来たのかもしれない。


「篠原様には、まず一階からご案内しますね」

「お願いします」


 私は靴を脱いだ。踵がぶつかって、右の靴だけ少し斜めになる。

 直す余裕はなかった。


 廊下へ上がると、居間の窓から庭が見えた。

 低い棚の置かれていたらしい場所だけ、壁紙が白い。床には、家具の脚の跡が残っている。写真で見たときには気づかなかった。


「先月まで、売主様ご夫婦がお住まいでした。お子様の近くへ移られたんです」


 村瀬さんは、台所の水栓をひねった。

 蛇口から水が出る。それだけのことに、私は少し落ち着いた。


 ここは、つい最近まで誰かが普通に使っていた家だ。


 台所は思ったより狭かった。冷蔵庫を置く場所と、調理台の間を測る。


「料理はよくされますか」

「仕事でも試作するので。家では、手抜きの日も多いですけど」

「それなら、この辺りの収納を増やしてもいいですね」


 持ってきたメジャーを伸ばすと、村瀬さんが端を押さえてくれた。

 高さ八十五センチ。今の賃貸の台所より少し高い。

 毎晩、ここに立つ自分を想像してみたかったのに、玄関の向こうが気になって仕方なかった。


 二階には六畳ほどの部屋が三つあった。

 一つを寝室にして、一つに本棚と机を置く。残りの部屋は、住んでから考えればいい。


「お一人で住まわれるご予定でしたよね」

「はい」


 二階の窓を開けると、隣の庭との距離が分かった。建物同士は近いけれど、窓の位置はずれている。


 一階へ戻ると、悠真は玄関の脇で、村瀬さんから受け取った資料を鞄にしまっていた。

 まだいたのか、と思ったあとで、資料の受け渡しを待っていたのだと分かる。


 私の靴が、揃っていた。


 つま先が出口を向き、左右の踵がきれいに並んでいる。

 その横に、悠真の靴があった。


「相変わらずだな」


 私の視線に気づいた悠真が言った。


「……勝手に触らないでよ」

「五年前も言われた」


 言ったあとで、悠真は困ったように口を閉じた。

 私も、続く言葉を見つけられなかった。


 村瀬さんが給湯器の型番を確認しに台所へ戻ると、玄関に二人だけ残された。


「帰ってきてたんだ」

「四月に。開発の拠点がこっちにまとまったから」

「そっか」


 悠真は、私の持っているメジャーを見た。


「本気なんだな」

「内見に冷やかしで来ないよ」

「いや、昔は買わない家も見てたから」


「ネットでね。人の家には押しかけてない」

「分かってる」


 悠真の口元が緩んだ。

 私もつられかけて、鞄の持ち手を握り直した。


「悠真も買うつもりなの」

「うん。今の部屋、更新が近くて。探してたら、ここが出てきた」

「一人で?」


 声が先に出た。

 悠真は一瞬だけ目を丸くしたあと、普通に答えた。


「一人で」

「……そう」

「美月も?」

「うん」


 そのあとが、また途切れた。

 一人で住むと分かっただけで、ほかのことは何も聞けていない。


「覚えてたんだ、この家」


 私が聞くと、悠真は開いた玄関から門の方を見た。


「住所までは覚えてなかった。写真見て、もしかしてと思って。来たら、そうだった」

「私も」


 村瀬さんが戻ってきた。

 悠真は資料の確認を済ませると、私に小さく手を上げた。


「じゃあ」

「うん」


 外へ出た背中を見送りながら、私はスリッパの先を揃えていた。


     *


 美月は家の話になると長い。

 昔、悠真によくそう言われた。


 大学三年の冬、彼の部屋で不動産サイトを見ていたときも、最初はただの暇つぶしだった。

 テストが終わり、借りてきた映画を見終えて、夕飯まで少し時間があった。


「これ、台所から洗面所に抜けられるんだって」

「へえ」

「便利じゃない? お湯を沸かしてる間に洗濯機回せる」

「その間にお湯、忘れるだろ」

「一回しかないじゃん」

「一回で十分だよ」


 悠真は私の横から画面をのぞき込んで、六畳の部屋を指した。


「俺、ここがいい」

「住むの?」

「美月がそこまで説明するから」

「そこ、北側だよ。寒いよ」

「じゃあ、こっち」

「それは私の部屋」

「早いな。契約もしてないのに」


 私は笑いながら画面を閉じた。

 学生二人では、家賃さえ払えない家だった。

 けれど、二人で住むなら、という話をしても、どちらも照れて話題を変えたりはしなかった。


 社会人になってから、土曜の夕方にスーパーへ行くようになった。

 私の会社から悠真のアパートまでは車で二十分。休日が合えば、夕飯を一緒に作った。


 買い物かごは悠真が持った。私は野菜を選び、途中で新商品の棚に寄り道した。

 食品メーカーに勤め始めたばかりの私は、自分の会社の商品がどう並んでいるか、いちいち気になった。


「これ、うちの」

「先週も買った」

「今週は横に置いてある方が新しいの」

「家にまだあるだろ」

「それとは味が違う」


 悠真はかごの中を見て、仕方ないな、という顔で一袋入れてくれた。

 代わりに、彼の好きな辛いせんべいが加わった。


 夕飯のあとで商品を温めて、私が感想を聞くと、悠真は遠慮なく言った。


「袋の写真の方がうまそう」

「それ、私に言われても」

「感想聞いたの、美月だろ」


 悔しいから、写真に近くなるよう皿に盛り直した。

 悠真は味は好きだと付け足して、結局全部食べた。


 床に座った彼の肩に、私が顎をのせる。

 洗い物をする順番をじゃんけんで決める。

 負けた方が文句を言いながら立ち上がって、勝った方も最後には食器を拭きに行く。


 そんな週末が続いていた。

 翌朝、私の靴はいつも出口を向いていた。


     *


 内見を終えて外へ出ると、悠真が駐車場にいた。

 車のトランクを閉めたところだった。


「まだ帰ってなかったの」

「車で資料を見てた。直すところ、思ったより多いな」


 彼の手に、家の図面があった。浴室と洗面所の辺りに、鉛筆で印がついている。

 私も同じ場所に線を引いたばかりだった。


「台所も変えたい」

「そこは使えるって言ってたよ」

「使えるのと、使いたいのは違うから」

「出た」


 悠真が笑った。

 今度は私も笑えた。


 昼前の住宅街は静かだった。向かいの家から、掃除機の音が聞こえる。

 庭へ目をやると、低く刈られた木の脇に、昔と同じ一本が残っていた。金木犀の匂いがした。


「本当に申し込む?」


 悠真が聞いた。


「見積もりを見てから。建物の状態も、もう少し確認したいし」

「だよな」

「悠真は?」

「俺も。それ次第」


「じゃあ、譲って」


 私が言うと、悠真はすぐに首を振った。


「嫌だよ」

「そこは、どうぞって言うところじゃない?」

「欲しくて来たんだから。美月こそ譲ってよ」

「嫌だよ」


 同じ返事になって、少し笑った。


「……元気だった?」


 私から聞いた。

 悠真は一度うなずき、それから言い直した。


「忙しい時期もあったけど。今は割と普通。美月は」

「私も、まあまあ」

「まあまあか」

「ずっと元気だったって言うほどでもないし」

「そりゃそうか」


 悠真は図面を二つ折りにした。


「今、開発なんだっけ」

「うん。企画の仕事も残ってるけど、試作する時間が増えた」

「よかったじゃん。前、そっちもやりたいって言ってた」


 覚えていたのか。

 胸の中でその言葉を繰り返してから、私はわざと図面を見た。


「そっちは。設備の仕事?」

「今は生産技術の別の部署。あのプロジェクトは、もう終わった」

「ああ」


 あの、で伝わった。

 その続きは、二人とも言わなかった。


「じゃあ、私、そろそろ行くね」

「うん」


 車に乗って、シートベルトを締めた。

 窓の外で悠真が軽く会釈した。知らない人にするような、妙に丁寧な動きだった。

 私は片手を上げて、駐車場を出た。


 最初の信号で止まったとき、ハンドルを握る指に力が入っていることに気づいた。

 ゆっくり息を吐く。


     *


 翌日の夕方、賃貸の部屋で洗濯物を畳みながら、私は家の資料を広げた。


 東京から持ち帰った収納ケースは、押し入れに半分しか入らない。

 四月に引っ越してきたとき、入りきらない冬物はそのまま部屋の隅に置いた。

 半年経っても、そこにあった。


 二十九歳になった今も、ひとまずここに住めればいいと思っていた。

 もっといい部屋があるかもしれない。いずれ結婚するかもしれない。そのとき家具を買えばいい。

 そんなことを考えて、ぐらつく食卓も買い替えなかった。


 けれど、この机で毎晩ご飯を食べるのは私だ。

 来るかどうか分からない誰かの都合を、まだ何も起きていないうちから優先しても仕方ない。


 家を探し始めたのは、夏だった。

 マンションも見た。小さな平屋も見た。職場までの時間、修繕に回せるお金、一人で手入れできる庭の広さを順に考えた。

 あの家を見つけたのは、そのあとだ。


 駅からは遠い。でも仕事へは車で二十五分ほど。二台分の駐車場は、一台を来客用にすればいい。

 築二十八年の三LDK。約千六百万円という価格は、予算に収まる。リフォームの費用まで足して、無理がないか確かめる必要はあった。


 図面の隅に書いた数字を見直す。

 昨日までは、そこに自分の家具だけを置いていた。

 今は、悠真の机がどこに入るか分かってしまう。


 私は鉛筆を置き、夕飯を温めた。

 食べてから、見積もりについて村瀬さんへメールを送った。

 悠真に会ったからといって、家の検討を放り出したくはなかった。


 月曜からは、新商品の試作があった。

 二度目の試作でソースが緩くなり、後輩の野口さんが鍋の前で眉を寄せていた。


「配合、前の方に戻しますか」

「戻す前に、今日の加熱時間も見よう。食感はこっちの方がいいし」


 私は記録を開きかけて、彼女の手元を見た。

 野口さんは、すでに自分のノートに二つの配合を並べていた。


「ごめん。何から確かめようと思ってた?」

「温度です。前回と同じつもりだったんですけど、鍋を変えたので」

「じゃあ、それからやってみようか」


 私は自分の記録を閉じ、彼女のノートを見た。

 一緒に数字を追うと、私が見落としていたところがあった。

 こういうことは、まだ時々ある。


 退勤したあと、携帯電話に村瀬さんから着信が入った。

 駐車場で車のドアを閉め、折り返す。


「先日はありがとうございました。概算のお見積もりが出ましたので、お送りできます」

「ありがとうございます」

「それから、もう一名の購入をご検討されていたお客様が、辞退されまして」


 膝に置いた鞄から、手が離れた。


「そうなんですか」

「はい。篠原様には引き続きご検討いただければと。ほかの方のお問い合わせもありますので、お決まりになりましたらご連絡ください」


 村瀬さんは、誰が辞退したかまでは言わなかった。

 私は質問をいくつかして、電話を切った。


 嫌だよ、と言った悠真の声を思い出した。

 欲しくて来たんだから、とも。


 修繕費が高かったのかもしれない。

 もっといい物件があったのかもしれない。

 そう考えてから、それならそれで本人の口から聞きたいと思った。


 SNSの検索欄に、彼の名前を入れた。

 昔から使っていたアカウントは、そのまま残っていた。プロフィールの写真は、顔から山の風景に変わっていた。

 投稿をさかのぼるのはやめた。

 メッセージの画面を開く。


『ちょっと話したい。家のことで』


 それだけ打って送った。

 仕事用の鞄を後部座席へ置いている間に、通知が来た。


『分かった。いつがいい?』


 私は水曜の夜を指定した。

 場所は、駅前の喫茶店にした。

 どちらかの家に行く理由は、まだなかった。


     *


 悠真は、約束の十分前に来ていた。

 奥の席から立ち上がりかけたので、私は手で制して向かいに座った。


「仕事終わり?」

「うん。悠真も?」

「今日は早く帰れた」


 注文を聞かれ、コーヒーを頼んだ。

 お腹はすいていたけれど、メニューを選ぶ余裕がなかった。


「家、やめたんだってね」


 店員が離れるのを待って言った。

 悠真は、テーブルに置いていた携帯電話を裏返した。


「うん」

「どうして」

「美月、気に入ってたから」


 私は椅子の背から体を起こした。


「それだけ?」

「もともと、ほかも見てたし」

「あの家、欲しかったんじゃないの」


 悠真は私の顔を見た。


「欲しかったよ」

「そういうところ、変わってないね」

「何が?」

「私が欲しいから譲るって、私、一回でも頼んだ?」


 悠真の顔から、曖昧な笑みが消えた。


「頼んではないけど」

「あのときのは、冗談だったじゃん」

「分かってるよ」

「じゃあ、なんで」

「美月が申し込むなら、俺まで申し込まなくてもいいかと思ったんだよ」


 コーヒーが運ばれてきた。

 私は店員に小さく礼を言った。悠真も椅子を引いて、トレーのために場所を空けた。


「私、まだ申し込むって決めてない」

「うん」

「見積もりを見てからって言ったよね」

「だから、美月が考える時間もあった方が」

「そういうの、いらない」


 少し強くなりすぎた。

 隣の席の人が顔を上げて、私は声を落とした。


「勝手に、欲しいだろうって決めないで」

「じゃあどうすればいいんだよ」

「聞けばいいじゃん」

「何を」

「私がどうしたいか」


 悠真は口を開き、閉じた。

 でも、今度は黙ったままにならなかった。


「それ、美月もだろ」


 私はカップに伸ばしかけた手を止めた。


「五年前、東京辞めようとしてた。俺に一回でも聞いた?」

「……そのあと話したじゃん」

「うん。話した。けど、最初は戻れる時期を会社に聞いて、次は辞めるならいつがいいか考えてた」


 コーヒーの表面へ目を落とした。

 順番まで、間違っていなかった。


「悠真だって、プロジェクトから外れようとした」

「したよ」


 あっさり認められて、言葉が途切れた。


「その話、する?」


 悠真が聞いた。

 私は両手を膝に戻した。


「……する」


     *


 東京への異動が決まったとき、私は二十四歳だった。

 商品企画の仕事に応募したのは自分だ。選ばれたと聞いた日は、悠真へ一番に電話した。


「すごいじゃん」


 彼は、本当にうれしそうに言ってくれた。

 私たちはもう結婚の話をしていたけれど、異動は最初、二年ほどの予定だった。

 週末には会える。お互い仕事を覚えて、私が戻ったら一緒に暮らそう。

 そう話して、引っ越しの日には悠真が車を出してくれた。


 最初の二か月は、どちらかが毎週会いに行った。

 会える日は楽しかった。知らない店を見つけたり、彼が来る日に合わせて布団を干したりした。


 けれど、私の担当商品が発売に近づくと、土曜にも予定が入った。

 悠真の会社では新しい設備の導入が始まり、休日の立ち会いが増えた。

 金曜の夜に約束が変わることもあった。


「ごめん。来週は行けない」

「分かった。じゃあ、その次は?」

「まだ決まってなくて」


 そんなやり取りが、どちらからも増えた。

 会えた日でも、私は帰りの電車を調べた。悠真は翌朝の現場に間に合うよう、早く寝た。

 夕飯を食べ終えたばかりなのに、もう帰る支度をしなければならなかった。


 異動から半年ほど経ったころ、二年で戻れるかは分からないと言われた。

 企画部の仕事が増え、私の担当も増えていた。

 期待されているのはうれしかった。任された商品を途中で手放したくもなかった。

 その夜、悠真に話すと、彼はしばらく考えてから言った。


「結婚を先にして、一緒に住む場所を探すのは?」


 私も、それを考えていた。

 同じ家へ帰れるなら、仕事が遅くなっても、週末がつぶれても、顔だけは見られる。


 最初は賃貸を探した。

 この先も住むなら購入も考えていいかもしれない、と二人で不動産会社へ行った。

 間取りを見る時間は、楽しかった。

 問題は住所だった。


 東京寄りなら、私は通える。

 悠真は車と電車を使っても、始業に間に合う便が限られた。設備が止まったとき、急に呼ばれても行けない。


 地元寄りなら、悠真の負担は減る。

 私の通勤は片道二時間近くになった。試食会や取引先との打ち合わせが長引く日は、家に着くころには日付が変わる。


 中間の駅まで、実際に行ってみた。

 駅前で昼ご飯を食べて、それぞれの職場への経路を調べた。帰りの便も、乗り換えも見た。

 二人とも、今より一時間以上早く起きることになる。

 残業を減らせる保証もなかった。


「毎日なら、きついね」


 私が言った。

 悠真は携帯電話を伏せた。


「うん」


 会社に地元へ戻れる時期を聞いた。

 今は約束できないと言われた。異動したばかりで、担当も持っている。結婚を考えていると話しても、すぐに席ができるわけではなかった。


 私は求人サイトを開いた。

 地元にも食品の会社はある。開発の仕事でなくても、経験は使えるかもしれない。

 悠真に言う前に、いくつか保存した。


 彼も、別の場所へ動こうとしていた。

 設備導入の担当から外れられないか、上司へ相談していた。

 私がそのことを知ったのは、夜の電話だった。


「どうなるの?」

「すぐには無理。でも、次の段階が終わったら、引き継げないかって」

「次って、いつ」

「早くて半年。遅れたら、分からない」

「そのあとなら、東京で働けるの?」

「異動先を探してもらえる。でも、空きがあるかはまだ分からない」


 それでも動こうとしてくれたことはうれしかった。

 でも、その設備の話をする悠真を、私は知っていた。

 図面を広げて、ようやく任せてもらえたんだと言っていた。疲れていても、話し始めると止まらなかった。


「本当に外れたいの?」


 聞くと、電話の向こうで短く息を吐く音がした。


「美月と暮らすなら、どこか変えないと」

「そうじゃなくて、仕事の話」

「……最後までは、やりたい」


 そのあと、私の求人の話もした。

 悠真はすぐに、辞めなくていいと言った。


「企画、やりたくて行ったんだろ」

「でも、こっちに戻れたら」

「俺が戻ってきてほしいって言ったから辞めた、ってなったら嫌だよ」

「そんなこと言わない」

「言わなくても、思うかもしれないじゃん」


 私は否定しようとして、できなかった。

 辞めたあと、悠真が遅く帰ってくる夜に、東京に残っていたらと思わずにいられるだろうか。

 彼も、仕事でうまくいかない日に、あの設備から離れたことを後悔するかもしれない。


 それでも、住める家は見つからなかった。


 最後に会ったのは、異動から十か月ほど経った秋だった。

 私は週末に地元へ戻っていた。

 もう一度だけ、職場への道が少し違う地域を見てみようと、悠真が言った。


 内見した部屋は日当たりがよかった。

 不動産会社の人は、駅まで自転車なら十分だと話した。

 そこから先の通勤時間は、やはり変わらなかった。


 帰りに、住宅街を歩いた。

 車を置いた場所まで、ゆっくり歩くつもりだった。

 小さな二階建ての家の前で、私が足を止めた。


 庭に金木犀があった。

 玄関脇には、土のついた長靴が二足並んでいた。窓の向こうで、白髪の男の人が湯飲みを持って座っている。

 家の奥から、女の人が何か声をかけた。

 男の人が顔を上げ、湯飲みを置いた。


「私、本当はこういうのでよかったんだけどな」


 声にすると、涙が出そうになった。

 広い台所でも、通勤に便利な駅でもない。

 夕飯の支度をしているところに、悠真が帰ってくる。

 逆の日もある。洗濯物を取り込む人がいて、買い忘れた牛乳を頼める。


 そういう毎日に、届かなかった。


「俺も」


 悠真が言った。

 私の手を握ってくれた。

 私は握り返したまま、歩き出した。


 その夜、悠真のアパートで、買ってきた惣菜を食べた。

 私の東京の部屋でも、彼の部屋でも、まだ二人分の食器は揃っていた。


 皿を洗ったあと、悠真が言った。


「俺たち、今じゃないんじゃないかな」


 私はタオルを畳んだ。


「じゃあ、いつ?」


 彼は答えなかった。

 考えていないのではないことは分かった。

 何度も調べて、相談して、それでも日付を出せなかったのだ。


 東京へ持っていく鞄が、壁際にあった。

 明日の朝には、また帰らなければならない。

 次の週末に会えるかは、まだ決まっていなかった。


「じゃあ、やめよう」


 悠真が顔を上げた。


「……結婚?」

「違う」


 そこで一度、息を吸った。


「待つのを」


 悠真の手が、膝の上で止まった。

 私はタオルを台所へ戻した。


「私、今の仕事を続けたい」

「うん」

「悠真にも、あの仕事をしてほしい」


 彼はうなずかなかった。

 しばらくしてから、私を見た。


「俺も、続けたい」


 どちらかが、やっぱり全部やめると言ってしまう前に、終わらせたかった。

 顔を合わせるたびに、実現しない生活のための相談をして、帰りには二人とも疲れていた。


 悠真は、私の隣に座った。

 止めてほしい気持ちがなかったわけではない。

 でも、止められても同じ場所へ戻ってしまうことは、私にも分かっていた。


「……分かった」


 それが、最後の返事になった。

 その夜は二人ともよく眠れなかった。

 翌朝、駅で別れた。


     *


 コーヒーは、ほとんど冷めていた。

 悠真がメニューを私の方へ滑らせた。


「何か食べる? 俺、腹減った」


 サンドイッチを二人分頼むと、彼は背もたれから離れた。


「あのあと、一年半くらいして設備は動き始めた。でも、安定させるまで、結局もう少しかかった」

「そうだったんだ」

「美月は」

「東京にいたのは、五年ちょっと。途中から戻る予定の話、なくなった」


 悠真はゆっくりうなずいた。

 私たちが待っていたら、何年になったのだろう。

 計算しかけて、やめた。


「東京、楽しかった?」

「楽しかったよ。大変だったけど。友達もできたし、仕事も、やりたいことはやれた」

「そっか」

「悠真は?」

「あの設備がちゃんと動いたときは、うれしかった。たぶん、美月に話しても長いって言われるくらい」

「言うと思う」


 彼は笑った。

 私も少し笑って、冷めたコーヒーを飲んだ。


「家、譲られたのが嫌だったんだよ」


 話を戻すと、悠真は顔を上げた。


「五年前の分みたいにされたら、買いづらい」

「そのつもりはなかった」

「じゃあ、どういうつもりだった?」


 悠真は今度、少し長く考えた。

 私は口を挟まなかった。


「……一緒に住めなかったから、美月だけでも、あそこに住めたらって思った」


 やっぱり、と思った。

 けれど、本人が言うと、腹立たしさだけでは済まなかった。

 あの家の前で手を握った人が、今、向かいにいる。


「私、あのときの埋め合わせをしてほしいわけじゃないよ」

「うん」

「一人で住むつもりで、ちゃんと考えてたんだから」


「ごめん」


 私は頷いてから、聞いた。


「本当は、まだ欲しい?」


 彼はすぐには答えなかった。


「家は好きだよ。でも、会う前と同じようには考えられなくなった」

「……私も」


 そう言うのには、勇気がいった。

 資料を見るたびに、彼の机を置こうとしてしまうことまでは言わなかった。


 サンドイッチが届いた。

 私たちは皿を手前へ引いた。

 悠真がトマトを落として、紙ナプキンで拾った。


「相変わらずじゃん」

「今のはパンが柔らかすぎる」

「パンのせいにするんだ」


 笑ったら、少し息がしやすくなった。

 昔と同じ声で笑う自分に、さっきほど戸惑わなかった。


 私は半分を食べ終えてから、聞いた。


「今、付き合ってる人、いないんだよね」

「いない」


 悠真は私にも聞いた。

 いない、と答える。


「ずっと?」


 彼の問いに、私はコップへ手を伸ばした。


「紹介してもらったり、何回か食事した人はいたよ。付き合うところまでは、いかなかったけど」

「そっか」

「悠真は」

「俺も似たような感じ。一緒に山に行った人とか、いたけど」


 プロフィールの写真を思い出した。


「山、登るようになったんだ」

「三十になる前に体力つけようって、先輩に誘われて。美月、嫌だって言いそう」

「早起きして、わざわざ坂を?」

「ほら」


 悠真が笑った。

 五年前には、山に登るなんて言っていなかった。


「私、陶芸やった」

「急に?」

「友達に誘われて。お皿作ったんだけど、重くて。洗うとき毎回後悔する」

「使ってるんだ」

「自分で作ったし」


「それ、見たいな」


 悠真が言った。

 私はうなずきかけて、自分の部屋に彼がいるところを想像した。

 サンドイッチの残りへ手を伸ばし、返事を少し遅らせた。


「会えて、うれしかった」


 悠真が言った。

 私は皿から顔を上げた。


「びっくりしたけど。あの日」

「……うん」

「美月が家を探してるって聞いて、仕事も続けてて。元気そうだったのもうれしかった」


 悠真はコップの水を一口飲んだ。


「また会いたいと思った。でも、家のことで連絡したら、変かなとか考えて」

「それで家を譲る方に行ったの?」

「今、自分でも変だと思ってる」


 彼は眉を寄せた。

 私は少し笑い、すぐに口を閉じた。


「美月」


「もう一度、付き合ってほしい」


 私はコップを置いた。

 店の奥で、食器を片づける音がした。


「あの家に一緒に住もうって話じゃなくて。まず、また会いたい」


 悠真の指がテーブルの縁を触って、離れた。


「知らないこと、いっぱいあるし。俺のことも、話したい」


 うれしかった。

 それを否定しようとは思わなかった。

 なのに、そのまま頷くのが怖かった。

 再会してから、五年前の悠真ばかり思い出していた。サンドイッチを落として笑う、今の彼を、まだほとんど知らない。


「今すぐ返事はしない」


 悠真の肩が、少しだけ下がった。

 私は目をそらさなかった。


「うれしいよ。でも、考えたい」

「分かった」


 その返事に、私は頷きかけて、止まった。


「今度は勝手に待たないでね」

「じゃあどうすればいい?」

「聞いて」


 悠真は少し考えて、言った。


「来週、俺から連絡してもいい?」


 それなら、返事ができた。


「うん。まだ決まってなかったら、そう言う」

「分かった」


     *


 木曜、村瀬さんから見積もりが届いた。

 台所を希望通りに変えれば、考えていた金額より少し高くなる。

 削るところはある。貯金を使えば出せない額でもない。


 私は、修繕の項目を一つずつ読んだ。

 建物を詳しく見てもらう前なので、これで全部ではないとも書かれていた。


 けれど、次の内見を予約するメールを、私はすぐには送れなかった。

 机に広げた図面が、三日間そのままだった。


 日曜に、別の物件を見に行った。

 一人でだ。

 そちらは平屋で、職場まで十分近くなる。ただ、台所の窓から向かいの家がよく見えた。

 収納は足りなかった。小さい庭は、思ったより手入れが楽そうだった。


 気づけば、あの家と比べていた。

 そのたびに、私が今欲しいものは何なのか、図面へ書いた。


 悠真と見た家だから、という理由を、書く必要はなかった。

 残したい気持ちはあった。

 でも、そこを買わなければあの日の私がかわいそうだ、と思うのは違った。


 帰宅して、村瀬さんに電話をした。


「今回は、見送ります」


 言ったあとで、鼻の奥が少しつんとした。


「何か、条件が合いませんでしたか」

「家は好きなんですけど。もう少し、ほかも見たいと思って」


 村瀬さんは分かりましたと答え、希望の条件を聞き直してくれた。

 私は今度、職場からの距離を先に伝えた。


 電話を切って、図面を封筒へ戻した。

 捨てずに、棚の下の段へしまった。


 そのあと、食卓を買い替えるために、家具店のサイトを開いた。

 今の部屋にも置けて、引っ越すことになっても使えるものを探す。


 色の違う二つを並べた。悠真ならどっちがいいと言うだろう。

 今の彼に、聞いてみたかった。


 私は自分の皿を棚から出した。

 重たくて、ふちの片側が少し厚い。東京の友達は、私らしいと言った。

 悠真も、たぶん笑う。

 山の話をされたら、私も途中で文句を言うかもしれない。

 そのあとを、聞きたいと思った。


 携帯電話を手に取った。


『今度の休み、空いてる?』


 送ってから、味噌汁を温めた。

 鍋の火を止めたところで、返事が来た。


『土曜なら空いてる』


 私は椅子に座って、続きを打った。


『家じゃなくて、普通にご飯行こう』


 送信すると、すぐに既読がついた。

 返事は少ししてからだった。


『行きたい。店はどうする?』


 私は最近見つけた洋食屋の名前を送った。

 悠真からは、そこ気になってた、と返ってきた。

 五年前にはなかった店だった。


     *


 土曜は、私が予約をした。

 駅から少し歩いた先にある店で、夜は混むらしかった。


 待ち合わせ場所へ着くと、悠真はもう来ていた。私を見て、腕時計に目を落とす。


「早いね」

「三分前だよ」

「美月にしては」

「五年間で成長したので」


 彼が笑う。


 店へ向かいながら、悠真は私の少し左側を歩いた。

 腕が近い。

 手を伸ばせば触れるけれど、まだ二人ともそうしなかった。


 洋食屋で、私はハンバーグを頼んだ。

 悠真はメニューを長く見て、魚のフライにした。


 私のハンバーグが先に運ばれてきた。


「前なら、悠真もこっちだったのに」


 皿を指すと、彼は困ったように笑った。


「昼、ハンバーグ食べた」

「そんな理由?」

「そんな理由」


 私は、彼の料理が来るのを待ってから、いただきますを言った。


 食事をしながら、今の職場の話をした。

 同じ部署にいた人が異動したこと。後輩が増えたこと。東京にいた友達の結婚式で、受付を頼まれたこと。

 悠真は山で靴底が剥がれた話をした。途中から歩きづらくなって、先輩に置いていかれそうになったらしい。


「そこまでして登りたい?」

「普段は楽しいんだよ」

「普段の話してよ」


 食後のコーヒーが来たころ、私は家を見送ったことを話した。

 悠真はカップを持たずに、聞いていた。


「俺のことで?」

「それもある。でも、もっと近い場所とか、平屋も見たくなった」

「そっか」

「申し訳なさそうにしないで。私が決めたんだから」


 悠真は、うん、と答えた。


「そっちは、家探し続ける?」

「いったん更新する。見たの、まだ三軒だったし」

「三軒で私に会ったんだ」

「効率悪いよな」


 私は笑ってから、コーヒーに口をつけた。

 飲み込んで、カップを置く。


「この前の返事、していい?」


 悠真は、すぐにうなずいた。


「うん」


 もう少し綺麗に言おうと思っていた。

 でも、口を開くと、用意した言葉は出てこなかった。


「また会いたい」


 悠真が私を見たまま、待っている。


「今日も、楽しかったし。前みたいに、帰る時間ばっかり気にしなくていいの、うれしい」


「もう一度、付き合いたい。私も」


 彼の口元が、さっきまでとは違う形に緩んだ。

 肩の力が抜けるのが見えた。


「よかった」


 それだけ言って、悠真はコーヒーを飲んだ。

 すぐに眉を寄せた。


「熱い?」

「うん」

「落ち着いて」

「そっちが急に言うから」


 私は声を出して笑った。


「デザート、頼んでもいい?」

「いいよ。俺も何か食べる」


 メニューを二人の間に広げた。

 悠真がプリンを指して、私が最後までチーズケーキと迷った。


 店を出たあと、駅へ向かって歩いた。

 途中で、彼の手が私の手の甲に触れた。


「手、いい?」


 私はうなずいて、自分から握った。

 知っている手だった。

 そのことがうれしくて、少し強く握りすぎた。


「爪」

「ごめん」


 力を緩めると、悠真が握り直した。


「来週は?」

「土曜、友達と予定がある」

「日曜は」

「空いてる。悠真は?」

「俺も。昼からでもいい?」

「うん」


 次に会う日は、駅に着く前に決まった。


     *


 それからは、日曜の昼に会ったり、平日の夜に短く食事をしたりした。

 悠真の仕事も私の仕事も、毎日同じ時間に終わるわけではなかった。

 約束を変える日はあった。でも、どちらからも、代わりにいつなら会えるかを言った。


 三度目の休日、悠真が私の部屋へ来た。

 新しい食卓は、その前日に届いていた。


「これ、買ったんだ」

「うん。もうぐらぐらしない」


 私は台所から、例の重い皿を持ってきた。


「見たかったんでしょ」

「持っていい?」


 頷くと、悠真は両手で受け取り、重、と言った。

 分かっていたのに、少し腹が立った。


「料理のせるともっと重いよ」

「それはそうだろ」


 笑いながら棚へ戻そうとする彼を止めた。


「今日はそれ使うから」

「何に?」

「買ってきた唐揚げ」


 悠真は笑って、皿を食卓に置いた。

 私たちはサラダだけ作った。


 食事のあと、悠真が食器を流しへ運んだ。

 私は洗い、彼が拭いた。

 皿を渡すとき、彼が昔と同じように受け取ったので、私は一度手を止めた。


「どうした?」

「ううん」


 言いかけてから、訂正した。


「こういうの、またできると思ってなかった」


 悠真は拭いていた皿を置いた。


「俺も」


 そのあと、濡れた私の手を取ろうとしたので、タオルを先に渡した。

 彼は笑って、私の指の間まで丁寧に拭いた。


 冬には、短い旅行へ行った。

 春には、小さな喧嘩もした。

 私が仕事の試食用のものを大量に作り、悠真へ持たせようとしたときだった。


「今週、家で食べる日少ないんだよ」

「冷凍できるよ」

「冷凍庫もいっぱい」


 私は少しむっとして、自分の冷凍庫を開けた。

 こちらもいっぱいだった。


「先に聞けばよかった」


 容器を抱えて言うと、悠真は二つだけ選んだ。


「これなら入る。残り、今日食べる?」


 私たちは夕飯を変えた。


 夏の終わりに、彼が私の部屋で、いつまで別々に暮らすかという話をした。

 私はその前の週に、会社から来年度の担当について聞いたばかりだった。

 地元の拠点で続ける予定だ。悠真も、当面は今の部署にいる。


「一緒に住むこと、考えたい」


 彼が言った。

 私は食卓の上のコップを、少し脇へ寄せた。


「私も」

「家、買うかどうかは別にして」

「うん。まず、どの辺なら二人とも通えるか」


 今度は、候補があった。

 携帯電話の地図に、私の職場と悠真の職場を出した。

 その間の道を、二人とも知っていた。


 家計の数字も出した。

 買うなら誰がいくら負担するか。修繕のために残すお金。どちらかの収入が減ったらどうするか。

 一晩では終わらなかった。


 次の休みに、私はノートの続きを持って彼の部屋へ行った。

 悠真も、調べたものを用意していた。


「あと、結婚の話もしたい」


 彼が言った。

 私はノートから顔を上げた。


「家の条件みたいに続けないでよ」

「違う。そうじゃない」


 悠真は慌てて資料を置いた。

 私もノートを閉じた。


「結婚してほしい」


 彼が言い直した。

 私はうなずいた。


「うん。したい」


 抱きしめられて、しばらくそのままでいた。

 彼のシャツの肩へ顔を寄せると、笑いがこぼれた。


「ちょっと、苦しい」

「ごめん」


 彼の腕が緩んだところで、私からも腕を回した。


     *


 再会から一年ほど経った秋、私たちは別の中古住宅を見に来ていた。

 村瀬さんが玄関を開ける。


 結婚の日取りは決まっていた。

 今はそれぞれの部屋で暮らしている。荷物をどう減らすかは、まだ決まっていない。

 悠真の机は必要だ。私の本棚も、手放すつもりはない。


 今日の家は、庭が小さく、駅には前の家より近かった。

 それぞれ今の部屋から通うのに比べて、私は少し遠くなり、悠真は近くなる。

 どちらかに都合がいいだけではないことを、車で実際に走って確かめてきた。


「こちら、台所と居間の間に壁がありますが、図面ではこの位置ですね」


 村瀬さんの説明を聞きながら、私は壁の両側を見た。


「ここ、壁抜けるかな」

「また始まった」


 悠真が後ろで言った。


「気になるじゃん。台所からテレビ見えないし」

「料理してるとき見る?」

「お湯を沸かしてる間とか」

「それ、忘れるやつだろ」


 私は笑って、村瀬さんに尋ねた。

 構造を確認してからになります、と返ってくる。

 私は図面の余白に、確認、と書いた。


 悠真は二階の部屋をもう一度見たいと言った。

 私は台所の収納を測りたかったので、先に行ってもらった。


 五分ほどして、彼が階段を下りてきた。


「どうだった?」

「机、入る。でも、コンセントが欲しい位置にない」

「そこも聞こう」


 私はノートに一行足した。

 村瀬さんが、工事の相談のときにまとめて確認できますと答えた。


 玄関へ戻ると、私の靴はちゃんと揃っていた。

 悠真が見下ろして、少し大げさに眉を上げる。


「珍しい」

「成長したので」

「先週、斜めだったよ」

「今日は揃ってる」


 靴を履きながら言い返すと、悠真が笑った。

 私は彼の腕に軽く肘を当てて、外へ出た。


 庭は、小さな物置と、椅子が二つ置けるくらいの広さだった。

 私は台所の窓から見える辺りに立ってみた。

 悠真が少し離れた場所から聞いた。


「庭、これくらいでいい?」

「うん。広すぎても、手入れできないし」

「俺も。草むしりで休みが終わるのは嫌だ」


 私は玄関へ目を戻した。


「ここ、いいね」

「うん」

「でも、返事は見積もり出てからにしよう」

「分かった。次の休み、二人で見られる?」

「日曜なら」

「俺も大丈夫」


 私はノートを閉じた。


「台所は、もう少し考えたい。悠真の机も」

「うん。一緒に決めよう」


 駐車場へ歩きながら、私は夕飯の話をした。


「帰り、スーパー寄っていい?」

「いいよ。何にする」

「まだ決めてない。売り場見てから」

「それ、長くなるやつだな」


 悠真が車の鍵を出した。

 私は助手席へ回りながら、笑った。


「今日は先に夕飯決めるから」

「じゃあ、俺も考える」


 ノートを鞄にしまって、車に乗った。

 悠真が運転席でシートベルトを締める。


「何が食べたい?」


 私は彼の方を向いて、聞いた。


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