五年前に別れた元恋人と、同じ家を買おうとしていました
家を買おうと思ったとき、元恋人と取り合うことになるとは考えなかった。
十月最初の土曜日、十時二十八分。
私は中古住宅の門の前で、スマートフォンの画面を消した。
写真よりも外壁がくすんでいる。駐車場の端に細いひびがある。けれど、門から玄関まで三歩ほどの短い道は、五年前に見たままだった。
「篠原様ですね。申し訳ありません、前のお客様が少し長引いていまして」
玄関から出てきた不動産会社の担当者が、胸の名札を押さえて頭を下げた。電話で聞いた、村瀬さんという名前を確かめる。
「大丈夫です。ちょっと早く着いちゃったので」
「どうぞ中へ。そろそろ終わるところですから」
村瀬さんが脇に寄った。
奥で男の人が、スリッパを脱いでいる。
「給湯器の見積もりも、できれば一緒にお願いします」
声を聞いた瞬間、差し出しかけていたスマートフォンを、自分の胸元へ引き戻した。
男の人が顔を上げる。
「……美月?」
柏木悠真だった。
五年間、一度も会っていなかった元恋人が、あの家の玄関に立っていた。
髪が前より短い。紺色のシャツの袖を折っている。驚いたときに片方の眉だけ上がるところは変わっていなかった。
「久しぶり」
私が言うと、悠真は靴べらを持ったまま、うなずいた。
「……うん」
「お知り合いでしたか」
村瀬さんの明るい声に、私たちは同時にそちらを向いた。
「柏木様もこちらをかなり気に入ってくださっているんですよ。十時から見ていただいて、お風呂の交換についてご相談を」
――なんで、悠真がこの家を?
本人の顔を見ても、聞けなかった。
結婚しているかもしれない。
誰かと暮らすために、ここへ来たのかもしれない。
「篠原様には、まず一階からご案内しますね」
「お願いします」
私は靴を脱いだ。踵がぶつかって、右の靴だけ少し斜めになる。
直す余裕はなかった。
廊下へ上がると、居間の窓から庭が見えた。
低い棚の置かれていたらしい場所だけ、壁紙が白い。床には、家具の脚の跡が残っている。写真で見たときには気づかなかった。
「先月まで、売主様ご夫婦がお住まいでした。お子様の近くへ移られたんです」
村瀬さんは、台所の水栓をひねった。
蛇口から水が出る。それだけのことに、私は少し落ち着いた。
ここは、つい最近まで誰かが普通に使っていた家だ。
台所は思ったより狭かった。冷蔵庫を置く場所と、調理台の間を測る。
「料理はよくされますか」
「仕事でも試作するので。家では、手抜きの日も多いですけど」
「それなら、この辺りの収納を増やしてもいいですね」
持ってきたメジャーを伸ばすと、村瀬さんが端を押さえてくれた。
高さ八十五センチ。今の賃貸の台所より少し高い。
毎晩、ここに立つ自分を想像してみたかったのに、玄関の向こうが気になって仕方なかった。
二階には六畳ほどの部屋が三つあった。
一つを寝室にして、一つに本棚と机を置く。残りの部屋は、住んでから考えればいい。
「お一人で住まわれるご予定でしたよね」
「はい」
二階の窓を開けると、隣の庭との距離が分かった。建物同士は近いけれど、窓の位置はずれている。
一階へ戻ると、悠真は玄関の脇で、村瀬さんから受け取った資料を鞄にしまっていた。
まだいたのか、と思ったあとで、資料の受け渡しを待っていたのだと分かる。
私の靴が、揃っていた。
つま先が出口を向き、左右の踵がきれいに並んでいる。
その横に、悠真の靴があった。
「相変わらずだな」
私の視線に気づいた悠真が言った。
「……勝手に触らないでよ」
「五年前も言われた」
言ったあとで、悠真は困ったように口を閉じた。
私も、続く言葉を見つけられなかった。
村瀬さんが給湯器の型番を確認しに台所へ戻ると、玄関に二人だけ残された。
「帰ってきてたんだ」
「四月に。開発の拠点がこっちにまとまったから」
「そっか」
悠真は、私の持っているメジャーを見た。
「本気なんだな」
「内見に冷やかしで来ないよ」
「いや、昔は買わない家も見てたから」
「ネットでね。人の家には押しかけてない」
「分かってる」
悠真の口元が緩んだ。
私もつられかけて、鞄の持ち手を握り直した。
「悠真も買うつもりなの」
「うん。今の部屋、更新が近くて。探してたら、ここが出てきた」
「一人で?」
声が先に出た。
悠真は一瞬だけ目を丸くしたあと、普通に答えた。
「一人で」
「……そう」
「美月も?」
「うん」
そのあとが、また途切れた。
一人で住むと分かっただけで、ほかのことは何も聞けていない。
「覚えてたんだ、この家」
私が聞くと、悠真は開いた玄関から門の方を見た。
「住所までは覚えてなかった。写真見て、もしかしてと思って。来たら、そうだった」
「私も」
村瀬さんが戻ってきた。
悠真は資料の確認を済ませると、私に小さく手を上げた。
「じゃあ」
「うん」
外へ出た背中を見送りながら、私はスリッパの先を揃えていた。
*
美月は家の話になると長い。
昔、悠真によくそう言われた。
大学三年の冬、彼の部屋で不動産サイトを見ていたときも、最初はただの暇つぶしだった。
テストが終わり、借りてきた映画を見終えて、夕飯まで少し時間があった。
「これ、台所から洗面所に抜けられるんだって」
「へえ」
「便利じゃない? お湯を沸かしてる間に洗濯機回せる」
「その間にお湯、忘れるだろ」
「一回しかないじゃん」
「一回で十分だよ」
悠真は私の横から画面をのぞき込んで、六畳の部屋を指した。
「俺、ここがいい」
「住むの?」
「美月がそこまで説明するから」
「そこ、北側だよ。寒いよ」
「じゃあ、こっち」
「それは私の部屋」
「早いな。契約もしてないのに」
私は笑いながら画面を閉じた。
学生二人では、家賃さえ払えない家だった。
けれど、二人で住むなら、という話をしても、どちらも照れて話題を変えたりはしなかった。
社会人になってから、土曜の夕方にスーパーへ行くようになった。
私の会社から悠真のアパートまでは車で二十分。休日が合えば、夕飯を一緒に作った。
買い物かごは悠真が持った。私は野菜を選び、途中で新商品の棚に寄り道した。
食品メーカーに勤め始めたばかりの私は、自分の会社の商品がどう並んでいるか、いちいち気になった。
「これ、うちの」
「先週も買った」
「今週は横に置いてある方が新しいの」
「家にまだあるだろ」
「それとは味が違う」
悠真はかごの中を見て、仕方ないな、という顔で一袋入れてくれた。
代わりに、彼の好きな辛いせんべいが加わった。
夕飯のあとで商品を温めて、私が感想を聞くと、悠真は遠慮なく言った。
「袋の写真の方がうまそう」
「それ、私に言われても」
「感想聞いたの、美月だろ」
悔しいから、写真に近くなるよう皿に盛り直した。
悠真は味は好きだと付け足して、結局全部食べた。
床に座った彼の肩に、私が顎をのせる。
洗い物をする順番をじゃんけんで決める。
負けた方が文句を言いながら立ち上がって、勝った方も最後には食器を拭きに行く。
そんな週末が続いていた。
翌朝、私の靴はいつも出口を向いていた。
*
内見を終えて外へ出ると、悠真が駐車場にいた。
車のトランクを閉めたところだった。
「まだ帰ってなかったの」
「車で資料を見てた。直すところ、思ったより多いな」
彼の手に、家の図面があった。浴室と洗面所の辺りに、鉛筆で印がついている。
私も同じ場所に線を引いたばかりだった。
「台所も変えたい」
「そこは使えるって言ってたよ」
「使えるのと、使いたいのは違うから」
「出た」
悠真が笑った。
今度は私も笑えた。
昼前の住宅街は静かだった。向かいの家から、掃除機の音が聞こえる。
庭へ目をやると、低く刈られた木の脇に、昔と同じ一本が残っていた。金木犀の匂いがした。
「本当に申し込む?」
悠真が聞いた。
「見積もりを見てから。建物の状態も、もう少し確認したいし」
「だよな」
「悠真は?」
「俺も。それ次第」
「じゃあ、譲って」
私が言うと、悠真はすぐに首を振った。
「嫌だよ」
「そこは、どうぞって言うところじゃない?」
「欲しくて来たんだから。美月こそ譲ってよ」
「嫌だよ」
同じ返事になって、少し笑った。
「……元気だった?」
私から聞いた。
悠真は一度うなずき、それから言い直した。
「忙しい時期もあったけど。今は割と普通。美月は」
「私も、まあまあ」
「まあまあか」
「ずっと元気だったって言うほどでもないし」
「そりゃそうか」
悠真は図面を二つ折りにした。
「今、開発なんだっけ」
「うん。企画の仕事も残ってるけど、試作する時間が増えた」
「よかったじゃん。前、そっちもやりたいって言ってた」
覚えていたのか。
胸の中でその言葉を繰り返してから、私はわざと図面を見た。
「そっちは。設備の仕事?」
「今は生産技術の別の部署。あのプロジェクトは、もう終わった」
「ああ」
あの、で伝わった。
その続きは、二人とも言わなかった。
「じゃあ、私、そろそろ行くね」
「うん」
車に乗って、シートベルトを締めた。
窓の外で悠真が軽く会釈した。知らない人にするような、妙に丁寧な動きだった。
私は片手を上げて、駐車場を出た。
最初の信号で止まったとき、ハンドルを握る指に力が入っていることに気づいた。
ゆっくり息を吐く。
*
翌日の夕方、賃貸の部屋で洗濯物を畳みながら、私は家の資料を広げた。
東京から持ち帰った収納ケースは、押し入れに半分しか入らない。
四月に引っ越してきたとき、入りきらない冬物はそのまま部屋の隅に置いた。
半年経っても、そこにあった。
二十九歳になった今も、ひとまずここに住めればいいと思っていた。
もっといい部屋があるかもしれない。いずれ結婚するかもしれない。そのとき家具を買えばいい。
そんなことを考えて、ぐらつく食卓も買い替えなかった。
けれど、この机で毎晩ご飯を食べるのは私だ。
来るかどうか分からない誰かの都合を、まだ何も起きていないうちから優先しても仕方ない。
家を探し始めたのは、夏だった。
マンションも見た。小さな平屋も見た。職場までの時間、修繕に回せるお金、一人で手入れできる庭の広さを順に考えた。
あの家を見つけたのは、そのあとだ。
駅からは遠い。でも仕事へは車で二十五分ほど。二台分の駐車場は、一台を来客用にすればいい。
築二十八年の三LDK。約千六百万円という価格は、予算に収まる。リフォームの費用まで足して、無理がないか確かめる必要はあった。
図面の隅に書いた数字を見直す。
昨日までは、そこに自分の家具だけを置いていた。
今は、悠真の机がどこに入るか分かってしまう。
私は鉛筆を置き、夕飯を温めた。
食べてから、見積もりについて村瀬さんへメールを送った。
悠真に会ったからといって、家の検討を放り出したくはなかった。
月曜からは、新商品の試作があった。
二度目の試作でソースが緩くなり、後輩の野口さんが鍋の前で眉を寄せていた。
「配合、前の方に戻しますか」
「戻す前に、今日の加熱時間も見よう。食感はこっちの方がいいし」
私は記録を開きかけて、彼女の手元を見た。
野口さんは、すでに自分のノートに二つの配合を並べていた。
「ごめん。何から確かめようと思ってた?」
「温度です。前回と同じつもりだったんですけど、鍋を変えたので」
「じゃあ、それからやってみようか」
私は自分の記録を閉じ、彼女のノートを見た。
一緒に数字を追うと、私が見落としていたところがあった。
こういうことは、まだ時々ある。
退勤したあと、携帯電話に村瀬さんから着信が入った。
駐車場で車のドアを閉め、折り返す。
「先日はありがとうございました。概算のお見積もりが出ましたので、お送りできます」
「ありがとうございます」
「それから、もう一名の購入をご検討されていたお客様が、辞退されまして」
膝に置いた鞄から、手が離れた。
「そうなんですか」
「はい。篠原様には引き続きご検討いただければと。ほかの方のお問い合わせもありますので、お決まりになりましたらご連絡ください」
村瀬さんは、誰が辞退したかまでは言わなかった。
私は質問をいくつかして、電話を切った。
嫌だよ、と言った悠真の声を思い出した。
欲しくて来たんだから、とも。
修繕費が高かったのかもしれない。
もっといい物件があったのかもしれない。
そう考えてから、それならそれで本人の口から聞きたいと思った。
SNSの検索欄に、彼の名前を入れた。
昔から使っていたアカウントは、そのまま残っていた。プロフィールの写真は、顔から山の風景に変わっていた。
投稿をさかのぼるのはやめた。
メッセージの画面を開く。
『ちょっと話したい。家のことで』
それだけ打って送った。
仕事用の鞄を後部座席へ置いている間に、通知が来た。
『分かった。いつがいい?』
私は水曜の夜を指定した。
場所は、駅前の喫茶店にした。
どちらかの家に行く理由は、まだなかった。
*
悠真は、約束の十分前に来ていた。
奥の席から立ち上がりかけたので、私は手で制して向かいに座った。
「仕事終わり?」
「うん。悠真も?」
「今日は早く帰れた」
注文を聞かれ、コーヒーを頼んだ。
お腹はすいていたけれど、メニューを選ぶ余裕がなかった。
「家、やめたんだってね」
店員が離れるのを待って言った。
悠真は、テーブルに置いていた携帯電話を裏返した。
「うん」
「どうして」
「美月、気に入ってたから」
私は椅子の背から体を起こした。
「それだけ?」
「もともと、ほかも見てたし」
「あの家、欲しかったんじゃないの」
悠真は私の顔を見た。
「欲しかったよ」
「そういうところ、変わってないね」
「何が?」
「私が欲しいから譲るって、私、一回でも頼んだ?」
悠真の顔から、曖昧な笑みが消えた。
「頼んではないけど」
「あのときのは、冗談だったじゃん」
「分かってるよ」
「じゃあ、なんで」
「美月が申し込むなら、俺まで申し込まなくてもいいかと思ったんだよ」
コーヒーが運ばれてきた。
私は店員に小さく礼を言った。悠真も椅子を引いて、トレーのために場所を空けた。
「私、まだ申し込むって決めてない」
「うん」
「見積もりを見てからって言ったよね」
「だから、美月が考える時間もあった方が」
「そういうの、いらない」
少し強くなりすぎた。
隣の席の人が顔を上げて、私は声を落とした。
「勝手に、欲しいだろうって決めないで」
「じゃあどうすればいいんだよ」
「聞けばいいじゃん」
「何を」
「私がどうしたいか」
悠真は口を開き、閉じた。
でも、今度は黙ったままにならなかった。
「それ、美月もだろ」
私はカップに伸ばしかけた手を止めた。
「五年前、東京辞めようとしてた。俺に一回でも聞いた?」
「……そのあと話したじゃん」
「うん。話した。けど、最初は戻れる時期を会社に聞いて、次は辞めるならいつがいいか考えてた」
コーヒーの表面へ目を落とした。
順番まで、間違っていなかった。
「悠真だって、プロジェクトから外れようとした」
「したよ」
あっさり認められて、言葉が途切れた。
「その話、する?」
悠真が聞いた。
私は両手を膝に戻した。
「……する」
*
東京への異動が決まったとき、私は二十四歳だった。
商品企画の仕事に応募したのは自分だ。選ばれたと聞いた日は、悠真へ一番に電話した。
「すごいじゃん」
彼は、本当にうれしそうに言ってくれた。
私たちはもう結婚の話をしていたけれど、異動は最初、二年ほどの予定だった。
週末には会える。お互い仕事を覚えて、私が戻ったら一緒に暮らそう。
そう話して、引っ越しの日には悠真が車を出してくれた。
最初の二か月は、どちらかが毎週会いに行った。
会える日は楽しかった。知らない店を見つけたり、彼が来る日に合わせて布団を干したりした。
けれど、私の担当商品が発売に近づくと、土曜にも予定が入った。
悠真の会社では新しい設備の導入が始まり、休日の立ち会いが増えた。
金曜の夜に約束が変わることもあった。
「ごめん。来週は行けない」
「分かった。じゃあ、その次は?」
「まだ決まってなくて」
そんなやり取りが、どちらからも増えた。
会えた日でも、私は帰りの電車を調べた。悠真は翌朝の現場に間に合うよう、早く寝た。
夕飯を食べ終えたばかりなのに、もう帰る支度をしなければならなかった。
異動から半年ほど経ったころ、二年で戻れるかは分からないと言われた。
企画部の仕事が増え、私の担当も増えていた。
期待されているのはうれしかった。任された商品を途中で手放したくもなかった。
その夜、悠真に話すと、彼はしばらく考えてから言った。
「結婚を先にして、一緒に住む場所を探すのは?」
私も、それを考えていた。
同じ家へ帰れるなら、仕事が遅くなっても、週末がつぶれても、顔だけは見られる。
最初は賃貸を探した。
この先も住むなら購入も考えていいかもしれない、と二人で不動産会社へ行った。
間取りを見る時間は、楽しかった。
問題は住所だった。
東京寄りなら、私は通える。
悠真は車と電車を使っても、始業に間に合う便が限られた。設備が止まったとき、急に呼ばれても行けない。
地元寄りなら、悠真の負担は減る。
私の通勤は片道二時間近くになった。試食会や取引先との打ち合わせが長引く日は、家に着くころには日付が変わる。
中間の駅まで、実際に行ってみた。
駅前で昼ご飯を食べて、それぞれの職場への経路を調べた。帰りの便も、乗り換えも見た。
二人とも、今より一時間以上早く起きることになる。
残業を減らせる保証もなかった。
「毎日なら、きついね」
私が言った。
悠真は携帯電話を伏せた。
「うん」
会社に地元へ戻れる時期を聞いた。
今は約束できないと言われた。異動したばかりで、担当も持っている。結婚を考えていると話しても、すぐに席ができるわけではなかった。
私は求人サイトを開いた。
地元にも食品の会社はある。開発の仕事でなくても、経験は使えるかもしれない。
悠真に言う前に、いくつか保存した。
彼も、別の場所へ動こうとしていた。
設備導入の担当から外れられないか、上司へ相談していた。
私がそのことを知ったのは、夜の電話だった。
「どうなるの?」
「すぐには無理。でも、次の段階が終わったら、引き継げないかって」
「次って、いつ」
「早くて半年。遅れたら、分からない」
「そのあとなら、東京で働けるの?」
「異動先を探してもらえる。でも、空きがあるかはまだ分からない」
それでも動こうとしてくれたことはうれしかった。
でも、その設備の話をする悠真を、私は知っていた。
図面を広げて、ようやく任せてもらえたんだと言っていた。疲れていても、話し始めると止まらなかった。
「本当に外れたいの?」
聞くと、電話の向こうで短く息を吐く音がした。
「美月と暮らすなら、どこか変えないと」
「そうじゃなくて、仕事の話」
「……最後までは、やりたい」
そのあと、私の求人の話もした。
悠真はすぐに、辞めなくていいと言った。
「企画、やりたくて行ったんだろ」
「でも、こっちに戻れたら」
「俺が戻ってきてほしいって言ったから辞めた、ってなったら嫌だよ」
「そんなこと言わない」
「言わなくても、思うかもしれないじゃん」
私は否定しようとして、できなかった。
辞めたあと、悠真が遅く帰ってくる夜に、東京に残っていたらと思わずにいられるだろうか。
彼も、仕事でうまくいかない日に、あの設備から離れたことを後悔するかもしれない。
それでも、住める家は見つからなかった。
最後に会ったのは、異動から十か月ほど経った秋だった。
私は週末に地元へ戻っていた。
もう一度だけ、職場への道が少し違う地域を見てみようと、悠真が言った。
内見した部屋は日当たりがよかった。
不動産会社の人は、駅まで自転車なら十分だと話した。
そこから先の通勤時間は、やはり変わらなかった。
帰りに、住宅街を歩いた。
車を置いた場所まで、ゆっくり歩くつもりだった。
小さな二階建ての家の前で、私が足を止めた。
庭に金木犀があった。
玄関脇には、土のついた長靴が二足並んでいた。窓の向こうで、白髪の男の人が湯飲みを持って座っている。
家の奥から、女の人が何か声をかけた。
男の人が顔を上げ、湯飲みを置いた。
「私、本当はこういうのでよかったんだけどな」
声にすると、涙が出そうになった。
広い台所でも、通勤に便利な駅でもない。
夕飯の支度をしているところに、悠真が帰ってくる。
逆の日もある。洗濯物を取り込む人がいて、買い忘れた牛乳を頼める。
そういう毎日に、届かなかった。
「俺も」
悠真が言った。
私の手を握ってくれた。
私は握り返したまま、歩き出した。
その夜、悠真のアパートで、買ってきた惣菜を食べた。
私の東京の部屋でも、彼の部屋でも、まだ二人分の食器は揃っていた。
皿を洗ったあと、悠真が言った。
「俺たち、今じゃないんじゃないかな」
私はタオルを畳んだ。
「じゃあ、いつ?」
彼は答えなかった。
考えていないのではないことは分かった。
何度も調べて、相談して、それでも日付を出せなかったのだ。
東京へ持っていく鞄が、壁際にあった。
明日の朝には、また帰らなければならない。
次の週末に会えるかは、まだ決まっていなかった。
「じゃあ、やめよう」
悠真が顔を上げた。
「……結婚?」
「違う」
そこで一度、息を吸った。
「待つのを」
悠真の手が、膝の上で止まった。
私はタオルを台所へ戻した。
「私、今の仕事を続けたい」
「うん」
「悠真にも、あの仕事をしてほしい」
彼はうなずかなかった。
しばらくしてから、私を見た。
「俺も、続けたい」
どちらかが、やっぱり全部やめると言ってしまう前に、終わらせたかった。
顔を合わせるたびに、実現しない生活のための相談をして、帰りには二人とも疲れていた。
悠真は、私の隣に座った。
止めてほしい気持ちがなかったわけではない。
でも、止められても同じ場所へ戻ってしまうことは、私にも分かっていた。
「……分かった」
それが、最後の返事になった。
その夜は二人ともよく眠れなかった。
翌朝、駅で別れた。
*
コーヒーは、ほとんど冷めていた。
悠真がメニューを私の方へ滑らせた。
「何か食べる? 俺、腹減った」
サンドイッチを二人分頼むと、彼は背もたれから離れた。
「あのあと、一年半くらいして設備は動き始めた。でも、安定させるまで、結局もう少しかかった」
「そうだったんだ」
「美月は」
「東京にいたのは、五年ちょっと。途中から戻る予定の話、なくなった」
悠真はゆっくりうなずいた。
私たちが待っていたら、何年になったのだろう。
計算しかけて、やめた。
「東京、楽しかった?」
「楽しかったよ。大変だったけど。友達もできたし、仕事も、やりたいことはやれた」
「そっか」
「悠真は?」
「あの設備がちゃんと動いたときは、うれしかった。たぶん、美月に話しても長いって言われるくらい」
「言うと思う」
彼は笑った。
私も少し笑って、冷めたコーヒーを飲んだ。
「家、譲られたのが嫌だったんだよ」
話を戻すと、悠真は顔を上げた。
「五年前の分みたいにされたら、買いづらい」
「そのつもりはなかった」
「じゃあ、どういうつもりだった?」
悠真は今度、少し長く考えた。
私は口を挟まなかった。
「……一緒に住めなかったから、美月だけでも、あそこに住めたらって思った」
やっぱり、と思った。
けれど、本人が言うと、腹立たしさだけでは済まなかった。
あの家の前で手を握った人が、今、向かいにいる。
「私、あのときの埋め合わせをしてほしいわけじゃないよ」
「うん」
「一人で住むつもりで、ちゃんと考えてたんだから」
「ごめん」
私は頷いてから、聞いた。
「本当は、まだ欲しい?」
彼はすぐには答えなかった。
「家は好きだよ。でも、会う前と同じようには考えられなくなった」
「……私も」
そう言うのには、勇気がいった。
資料を見るたびに、彼の机を置こうとしてしまうことまでは言わなかった。
サンドイッチが届いた。
私たちは皿を手前へ引いた。
悠真がトマトを落として、紙ナプキンで拾った。
「相変わらずじゃん」
「今のはパンが柔らかすぎる」
「パンのせいにするんだ」
笑ったら、少し息がしやすくなった。
昔と同じ声で笑う自分に、さっきほど戸惑わなかった。
私は半分を食べ終えてから、聞いた。
「今、付き合ってる人、いないんだよね」
「いない」
悠真は私にも聞いた。
いない、と答える。
「ずっと?」
彼の問いに、私はコップへ手を伸ばした。
「紹介してもらったり、何回か食事した人はいたよ。付き合うところまでは、いかなかったけど」
「そっか」
「悠真は」
「俺も似たような感じ。一緒に山に行った人とか、いたけど」
プロフィールの写真を思い出した。
「山、登るようになったんだ」
「三十になる前に体力つけようって、先輩に誘われて。美月、嫌だって言いそう」
「早起きして、わざわざ坂を?」
「ほら」
悠真が笑った。
五年前には、山に登るなんて言っていなかった。
「私、陶芸やった」
「急に?」
「友達に誘われて。お皿作ったんだけど、重くて。洗うとき毎回後悔する」
「使ってるんだ」
「自分で作ったし」
「それ、見たいな」
悠真が言った。
私はうなずきかけて、自分の部屋に彼がいるところを想像した。
サンドイッチの残りへ手を伸ばし、返事を少し遅らせた。
「会えて、うれしかった」
悠真が言った。
私は皿から顔を上げた。
「びっくりしたけど。あの日」
「……うん」
「美月が家を探してるって聞いて、仕事も続けてて。元気そうだったのもうれしかった」
悠真はコップの水を一口飲んだ。
「また会いたいと思った。でも、家のことで連絡したら、変かなとか考えて」
「それで家を譲る方に行ったの?」
「今、自分でも変だと思ってる」
彼は眉を寄せた。
私は少し笑い、すぐに口を閉じた。
「美月」
「もう一度、付き合ってほしい」
私はコップを置いた。
店の奥で、食器を片づける音がした。
「あの家に一緒に住もうって話じゃなくて。まず、また会いたい」
悠真の指がテーブルの縁を触って、離れた。
「知らないこと、いっぱいあるし。俺のことも、話したい」
うれしかった。
それを否定しようとは思わなかった。
なのに、そのまま頷くのが怖かった。
再会してから、五年前の悠真ばかり思い出していた。サンドイッチを落として笑う、今の彼を、まだほとんど知らない。
「今すぐ返事はしない」
悠真の肩が、少しだけ下がった。
私は目をそらさなかった。
「うれしいよ。でも、考えたい」
「分かった」
その返事に、私は頷きかけて、止まった。
「今度は勝手に待たないでね」
「じゃあどうすればいい?」
「聞いて」
悠真は少し考えて、言った。
「来週、俺から連絡してもいい?」
それなら、返事ができた。
「うん。まだ決まってなかったら、そう言う」
「分かった」
*
木曜、村瀬さんから見積もりが届いた。
台所を希望通りに変えれば、考えていた金額より少し高くなる。
削るところはある。貯金を使えば出せない額でもない。
私は、修繕の項目を一つずつ読んだ。
建物を詳しく見てもらう前なので、これで全部ではないとも書かれていた。
けれど、次の内見を予約するメールを、私はすぐには送れなかった。
机に広げた図面が、三日間そのままだった。
日曜に、別の物件を見に行った。
一人でだ。
そちらは平屋で、職場まで十分近くなる。ただ、台所の窓から向かいの家がよく見えた。
収納は足りなかった。小さい庭は、思ったより手入れが楽そうだった。
気づけば、あの家と比べていた。
そのたびに、私が今欲しいものは何なのか、図面へ書いた。
悠真と見た家だから、という理由を、書く必要はなかった。
残したい気持ちはあった。
でも、そこを買わなければあの日の私がかわいそうだ、と思うのは違った。
帰宅して、村瀬さんに電話をした。
「今回は、見送ります」
言ったあとで、鼻の奥が少しつんとした。
「何か、条件が合いませんでしたか」
「家は好きなんですけど。もう少し、ほかも見たいと思って」
村瀬さんは分かりましたと答え、希望の条件を聞き直してくれた。
私は今度、職場からの距離を先に伝えた。
電話を切って、図面を封筒へ戻した。
捨てずに、棚の下の段へしまった。
そのあと、食卓を買い替えるために、家具店のサイトを開いた。
今の部屋にも置けて、引っ越すことになっても使えるものを探す。
色の違う二つを並べた。悠真ならどっちがいいと言うだろう。
今の彼に、聞いてみたかった。
私は自分の皿を棚から出した。
重たくて、ふちの片側が少し厚い。東京の友達は、私らしいと言った。
悠真も、たぶん笑う。
山の話をされたら、私も途中で文句を言うかもしれない。
そのあとを、聞きたいと思った。
携帯電話を手に取った。
『今度の休み、空いてる?』
送ってから、味噌汁を温めた。
鍋の火を止めたところで、返事が来た。
『土曜なら空いてる』
私は椅子に座って、続きを打った。
『家じゃなくて、普通にご飯行こう』
送信すると、すぐに既読がついた。
返事は少ししてからだった。
『行きたい。店はどうする?』
私は最近見つけた洋食屋の名前を送った。
悠真からは、そこ気になってた、と返ってきた。
五年前にはなかった店だった。
*
土曜は、私が予約をした。
駅から少し歩いた先にある店で、夜は混むらしかった。
待ち合わせ場所へ着くと、悠真はもう来ていた。私を見て、腕時計に目を落とす。
「早いね」
「三分前だよ」
「美月にしては」
「五年間で成長したので」
彼が笑う。
店へ向かいながら、悠真は私の少し左側を歩いた。
腕が近い。
手を伸ばせば触れるけれど、まだ二人ともそうしなかった。
洋食屋で、私はハンバーグを頼んだ。
悠真はメニューを長く見て、魚のフライにした。
私のハンバーグが先に運ばれてきた。
「前なら、悠真もこっちだったのに」
皿を指すと、彼は困ったように笑った。
「昼、ハンバーグ食べた」
「そんな理由?」
「そんな理由」
私は、彼の料理が来るのを待ってから、いただきますを言った。
食事をしながら、今の職場の話をした。
同じ部署にいた人が異動したこと。後輩が増えたこと。東京にいた友達の結婚式で、受付を頼まれたこと。
悠真は山で靴底が剥がれた話をした。途中から歩きづらくなって、先輩に置いていかれそうになったらしい。
「そこまでして登りたい?」
「普段は楽しいんだよ」
「普段の話してよ」
食後のコーヒーが来たころ、私は家を見送ったことを話した。
悠真はカップを持たずに、聞いていた。
「俺のことで?」
「それもある。でも、もっと近い場所とか、平屋も見たくなった」
「そっか」
「申し訳なさそうにしないで。私が決めたんだから」
悠真は、うん、と答えた。
「そっちは、家探し続ける?」
「いったん更新する。見たの、まだ三軒だったし」
「三軒で私に会ったんだ」
「効率悪いよな」
私は笑ってから、コーヒーに口をつけた。
飲み込んで、カップを置く。
「この前の返事、していい?」
悠真は、すぐにうなずいた。
「うん」
もう少し綺麗に言おうと思っていた。
でも、口を開くと、用意した言葉は出てこなかった。
「また会いたい」
悠真が私を見たまま、待っている。
「今日も、楽しかったし。前みたいに、帰る時間ばっかり気にしなくていいの、うれしい」
「もう一度、付き合いたい。私も」
彼の口元が、さっきまでとは違う形に緩んだ。
肩の力が抜けるのが見えた。
「よかった」
それだけ言って、悠真はコーヒーを飲んだ。
すぐに眉を寄せた。
「熱い?」
「うん」
「落ち着いて」
「そっちが急に言うから」
私は声を出して笑った。
「デザート、頼んでもいい?」
「いいよ。俺も何か食べる」
メニューを二人の間に広げた。
悠真がプリンを指して、私が最後までチーズケーキと迷った。
店を出たあと、駅へ向かって歩いた。
途中で、彼の手が私の手の甲に触れた。
「手、いい?」
私はうなずいて、自分から握った。
知っている手だった。
そのことがうれしくて、少し強く握りすぎた。
「爪」
「ごめん」
力を緩めると、悠真が握り直した。
「来週は?」
「土曜、友達と予定がある」
「日曜は」
「空いてる。悠真は?」
「俺も。昼からでもいい?」
「うん」
次に会う日は、駅に着く前に決まった。
*
それからは、日曜の昼に会ったり、平日の夜に短く食事をしたりした。
悠真の仕事も私の仕事も、毎日同じ時間に終わるわけではなかった。
約束を変える日はあった。でも、どちらからも、代わりにいつなら会えるかを言った。
三度目の休日、悠真が私の部屋へ来た。
新しい食卓は、その前日に届いていた。
「これ、買ったんだ」
「うん。もうぐらぐらしない」
私は台所から、例の重い皿を持ってきた。
「見たかったんでしょ」
「持っていい?」
頷くと、悠真は両手で受け取り、重、と言った。
分かっていたのに、少し腹が立った。
「料理のせるともっと重いよ」
「それはそうだろ」
笑いながら棚へ戻そうとする彼を止めた。
「今日はそれ使うから」
「何に?」
「買ってきた唐揚げ」
悠真は笑って、皿を食卓に置いた。
私たちはサラダだけ作った。
食事のあと、悠真が食器を流しへ運んだ。
私は洗い、彼が拭いた。
皿を渡すとき、彼が昔と同じように受け取ったので、私は一度手を止めた。
「どうした?」
「ううん」
言いかけてから、訂正した。
「こういうの、またできると思ってなかった」
悠真は拭いていた皿を置いた。
「俺も」
そのあと、濡れた私の手を取ろうとしたので、タオルを先に渡した。
彼は笑って、私の指の間まで丁寧に拭いた。
冬には、短い旅行へ行った。
春には、小さな喧嘩もした。
私が仕事の試食用のものを大量に作り、悠真へ持たせようとしたときだった。
「今週、家で食べる日少ないんだよ」
「冷凍できるよ」
「冷凍庫もいっぱい」
私は少しむっとして、自分の冷凍庫を開けた。
こちらもいっぱいだった。
「先に聞けばよかった」
容器を抱えて言うと、悠真は二つだけ選んだ。
「これなら入る。残り、今日食べる?」
私たちは夕飯を変えた。
夏の終わりに、彼が私の部屋で、いつまで別々に暮らすかという話をした。
私はその前の週に、会社から来年度の担当について聞いたばかりだった。
地元の拠点で続ける予定だ。悠真も、当面は今の部署にいる。
「一緒に住むこと、考えたい」
彼が言った。
私は食卓の上のコップを、少し脇へ寄せた。
「私も」
「家、買うかどうかは別にして」
「うん。まず、どの辺なら二人とも通えるか」
今度は、候補があった。
携帯電話の地図に、私の職場と悠真の職場を出した。
その間の道を、二人とも知っていた。
家計の数字も出した。
買うなら誰がいくら負担するか。修繕のために残すお金。どちらかの収入が減ったらどうするか。
一晩では終わらなかった。
次の休みに、私はノートの続きを持って彼の部屋へ行った。
悠真も、調べたものを用意していた。
「あと、結婚の話もしたい」
彼が言った。
私はノートから顔を上げた。
「家の条件みたいに続けないでよ」
「違う。そうじゃない」
悠真は慌てて資料を置いた。
私もノートを閉じた。
「結婚してほしい」
彼が言い直した。
私はうなずいた。
「うん。したい」
抱きしめられて、しばらくそのままでいた。
彼のシャツの肩へ顔を寄せると、笑いがこぼれた。
「ちょっと、苦しい」
「ごめん」
彼の腕が緩んだところで、私からも腕を回した。
*
再会から一年ほど経った秋、私たちは別の中古住宅を見に来ていた。
村瀬さんが玄関を開ける。
結婚の日取りは決まっていた。
今はそれぞれの部屋で暮らしている。荷物をどう減らすかは、まだ決まっていない。
悠真の机は必要だ。私の本棚も、手放すつもりはない。
今日の家は、庭が小さく、駅には前の家より近かった。
それぞれ今の部屋から通うのに比べて、私は少し遠くなり、悠真は近くなる。
どちらかに都合がいいだけではないことを、車で実際に走って確かめてきた。
「こちら、台所と居間の間に壁がありますが、図面ではこの位置ですね」
村瀬さんの説明を聞きながら、私は壁の両側を見た。
「ここ、壁抜けるかな」
「また始まった」
悠真が後ろで言った。
「気になるじゃん。台所からテレビ見えないし」
「料理してるとき見る?」
「お湯を沸かしてる間とか」
「それ、忘れるやつだろ」
私は笑って、村瀬さんに尋ねた。
構造を確認してからになります、と返ってくる。
私は図面の余白に、確認、と書いた。
悠真は二階の部屋をもう一度見たいと言った。
私は台所の収納を測りたかったので、先に行ってもらった。
五分ほどして、彼が階段を下りてきた。
「どうだった?」
「机、入る。でも、コンセントが欲しい位置にない」
「そこも聞こう」
私はノートに一行足した。
村瀬さんが、工事の相談のときにまとめて確認できますと答えた。
玄関へ戻ると、私の靴はちゃんと揃っていた。
悠真が見下ろして、少し大げさに眉を上げる。
「珍しい」
「成長したので」
「先週、斜めだったよ」
「今日は揃ってる」
靴を履きながら言い返すと、悠真が笑った。
私は彼の腕に軽く肘を当てて、外へ出た。
庭は、小さな物置と、椅子が二つ置けるくらいの広さだった。
私は台所の窓から見える辺りに立ってみた。
悠真が少し離れた場所から聞いた。
「庭、これくらいでいい?」
「うん。広すぎても、手入れできないし」
「俺も。草むしりで休みが終わるのは嫌だ」
私は玄関へ目を戻した。
「ここ、いいね」
「うん」
「でも、返事は見積もり出てからにしよう」
「分かった。次の休み、二人で見られる?」
「日曜なら」
「俺も大丈夫」
私はノートを閉じた。
「台所は、もう少し考えたい。悠真の机も」
「うん。一緒に決めよう」
駐車場へ歩きながら、私は夕飯の話をした。
「帰り、スーパー寄っていい?」
「いいよ。何にする」
「まだ決めてない。売り場見てから」
「それ、長くなるやつだな」
悠真が車の鍵を出した。
私は助手席へ回りながら、笑った。
「今日は先に夕飯決めるから」
「じゃあ、俺も考える」
ノートを鞄にしまって、車に乗った。
悠真が運転席でシートベルトを締める。
「何が食べたい?」
私は彼の方を向いて、聞いた。




