転移…
西暦20XX年、秋。
都内にある国立大学のキャンパスは、学祭の準備と、研究室のピリついた空気が混ざり合う独特の喧騒に包まれていた。
工学部四年生のカイトは、その日、予定よりも大幅に遅れて研究室を後にした。
「……またエラーかよ」
独りごちながら、彼は重いリュックを背負い直す。
彼の専攻は「高精度ナノマシンの自律制御」。
空は不気味なほど赤く染まり、遠くでゴロゴロと雷鳴が轟いている。
「今夜は荒れるな……」
カイトは駐輪場へ向かう足を早めた。
その時だった。
突如、背後にある高度エネルギー物理学研究所から、鼓膜を突き刺すような高周波の警報が鳴り響いた。
「何だ……!?」
振り返ったカイトの目に飛び込んできたのは、研究所の屋上に設置された「次世代粒子加速器」の実験塔が、異常なまでの青白い光を放っている光景だった。
カイトは知っていた。今夜は、理論物理学界が社運ならぬ「国運」を賭けた、空間転移の基礎実験が行われる予定だったことを。
しかし、その光は明らかに制御を失っていた。
空を覆っていた雷雲が、磁場に引き寄せられるように実験塔の真上へ収束していく。次の瞬間、巨大な落雷が塔を直撃した。
――臨界突破。
凄まじい衝撃波がキャンパスを襲い、カイトは地面に叩きつけられた。
視界が真っ白に染まる中、カイトは見た。研究所から溢れ出した「銀色の霧」が、まるで生き物のように周囲の物質を侵食し、空間そのものを歪めていくのを。
「……これ、は……」
その銀色の霧こそ、極秘裏に開発されていた、自己増殖型の環境修復ナノマシン――『ジェネシス・プロトタイプ』だった。
事故によって開放された莫大なエネルギーは、局所的な時空の歪みを発生させる。
カイトの足元のアスファルトが、砂のように崩れ始めた。
重力が消失し、体が宙に浮く。
「うわあああ!」
叫び声は、空間を埋め尽くした銀色の粒子に飲み込まれ、誰の耳にも届かなかった。
視界の端で、愛用のスマートフォンが砕け、大学の時計塔が飴のように曲がっていくのが見えた。
意識が遠のく中、カイトの脳裏に、研究所の掲示板に貼られていたスローガンが浮かんだ。
『科学こそが、人類を約束された未来へ導く。』
次に彼が目を開けたとき、そこにはアスファルトも、電子音も、赤い夕焼けもなかった。
目に飛び込んできたのは、見たこともないほど透き通った瑠璃色の空と、降り注ぐ銀色の雪。
カイトが意識を取り戻したとき、視界を埋め尽くしていたのは、現代の日本では決して見ることのできない「瑠璃色の森」だった。
樹木は水晶のように透き通った樹皮を持ち、葉の隙間からは銀色の粉塵が、まるで雪のように絶え間なく降り注いでいる。空は常に重く、鈍色の雲が層をなしているが、その雲の隙間から漏れる陽光は不思議と温かかった。
「……あ、目覚めた? よかった」
鈴を転がすような声に顔を上げると、そこには一人の少女が立っていた。名をフェナといった。
彼女の装いは、鹿革をなめしたような衣服に、手編みのマント。腰には古びた鉄の円筒を携えている。彼女の言葉は、カイトの知る日本語とは発音が異なっていたが、脳に直接意味が流れ込んでくるような奇妙な感覚があった。
カイトは自分が、研究室の事故か何かで、異世界へ――あるいは、魔法の存在するファンタジーの世界へ迷い込んだのだと、そう確信した。
フェナの村「アイリス」での生活は、カイトにとって驚きと癒やしの連続だった。
人々は「精霊」と共に生きていた。火を起こすには石を打つのではなく、大気中に舞う銀の粉――彼らが「マナ」と呼ぶものに、特定の節回しの歌を捧げる。すると、何もなかった空間からパチパチと火花が散り、暖かい火が灯る。
「カイトの故郷には、精霊さんはいないの?」
ある晩、収穫祭の焚き火を囲みながら、フェナが首を傾げた。
「ああ……僕のところでは、精霊の代わりに機械という鉄の塊が、火を熾したり光を作ったりしていたんだ」
「機械……。なんだか、無機質で寂しそうね。この世界では、すべてに命が宿っているのよ。この風も、光も。全部、神様が私たちを守るために残してくれた贈り物なの」
フェナの微笑みは、聖母のように慈愛に満ちていた。カイトは次第に、コンクリートと騒音に満ちた元の世界よりも、不便だが命の気配に満ちたこの「異世界」に強く惹かれていった。彼は工学の知識を活かし、農具の改良や水路の設計を手伝い、村人たちから「知恵の賢者」として尊敬を集めるようになる。
彼は本気で思っていた。この優しい世界で、フェナと共に一生を終えるのも悪くない、と。
その平穏は、突如として破られた。
隣国「ゼノス」が、禁足地の利権を巡って村を襲撃したのだ。彼らは巨大な二足歩行の騎獣を操り、村を焼き払い始める。
「フェナ、逃げろ!」
「ダメよ。村の奥にある『神の揺り籠』を……あそこだけは、汚させてはいけないの!」
カイトはフェナに手を引かれ、村の裏山にある洞窟へと駆け込んだ。そこは「聖域」として代々フェナの家系が守ってきた場所だった。
奥に安置されていたのは、奇怪な形をした鉄の巨像だった。全高三メートルほど、全身が蔦に覆われ、錆びついている。
フェナがその巨像の胸元に手を触れ、古の歌を口ずさむ。
「――『認証:継承者フェナ。緊急防衛プロトコルを承認せよ』」
その瞬間だった。
カイトの耳に、聞き覚えのある音が響いた。
ウィィィィィン……。
それは、精霊の囁きなどではない。高精度のサーボモーターが、数万年の眠りを経て再起動する際の、あの無機質な駆動音だ。
巨像の頭部に相当する部分が赤く発光し、肩の装甲がスライドする。
「フェナ、今のは何だ? 今、なんて言った?」
「え? 『神様、私たちを助けて』って祈ったのよ。カイト、見て! 神様が目を覚ましたわ!」
巨像は機械的な動きで立ち上がると、洞窟の外へと踏み出していった。村を襲っていた騎獣たちに向け、その右腕が突き出される。次の瞬間、空気が焦げるような異臭と共に、青白い閃光が放たれた。
それは魔法ではない。「高出力荷電粒子砲」。
カイトの背筋に、冷たい汗が伝った。
(魔法にしては、あまりにも……効率が良すぎる)
戦争を退けたカイトたちは、元凶を絶つために「世界の果て」にあるとされる「神の塔」へ向かうことになった。フェナは「神の啓示があった」と語り、カイトを導いた。
道中、カイトの違和感は確信へと変わっていく。
彼らが「精霊の森」と呼んでいた場所の地下から、時折、腐食したコンクリートの支柱が顔を出していた。フェナが「古のエルフの文字」と崇めていた石板をよく見ると、それは単なる「避難経路図」のなれの果てだった。
そして、ついに辿り着いた「神の塔」。
それは雲を突き抜けるほど巨大な、金属と強化ガラスの構造体だった。
「さあ、カイト。この中にある『生命の源』を再起動すれば、世界は永遠に救われるわ」
フェナは疑いもせず、塔の入り口にあるパネルに手をかざす。
「――『個人識別完了。プロジェクト・ジェネシス、最終フェーズへの移行を確認。管理者権限を譲渡します』」
自動ドアが開く。その内壁は、剥き出しの配線と、点滅するLEDに埋め尽くされていた。
「カイト、この壁の光……とっても綺麗。精霊たちが歌っているみたい」
「フェナ……もういい。もう歌わなくていいんだ」
カイトの足は震えていた。最上階、管制室らしき場所に置かれていた大型モニターが、カイトの接近に反応してノイズ混じりの映像を映し出した。
そこに映っていたのは、かつての地球の姿だった。
20XX年、人類は自らが招いた核戦争により、地球を居住不可能な死の星に変えた。富裕層は宇宙へ逃れ、残されたAIとナノマシンに「地球環境の正常化」を命じた。
モニターの隅に、日本語のログが表示される。
『西暦28,402年:環境修復率 98%。残留放射能、ナノマシンによる無害化完了。』
『特記事項:発生した変異原生人類(現住民)を「環境汚染源」と定義。正常化完了後、速やかに排除プログラムを執行すること。』
カイトは崩れ落ちた。
彼らが「マナ」と呼んでいた銀の粉は、放射能を食らい、環境を強引に書き換えるために作られた群体型自律清掃ナノマシンだった。
そして、この数万年、ナノマシンが人間を襲わなかったのは、まだ「掃除」が途中だったからに過ぎない。
「カイト? どうしたの? 早く、その『レバー』を引いて。神様がそう言っているわ」
フェナが指差したのは、最終処理の実行ボタンだった。
「ダメだ……フェナ、それを引いちゃいけない。これは救いじゃない、僕たちの死刑宣告だ!」
しかし、カイトの制止よりも早く、システムは「管理者」の到着をもって、全プロトコルを自動完了させた。
『――環境正常化、完了。不純物の焼却を開始します。』
「……あ、がっ……!?」
フェナが突然、喉をかきむしって倒れ込んだ。
「フェナ! どうした!」
カイトが抱き起こそうとしたとき、彼は見てしまった。フェナの透き通るような肌から、無数の銀色の針が突き出しているのを。
「あつ、い……カイト……からだが……燃えてるみたい……」
彼女の体内にあるナノマシン――彼女が「精霊」と呼び、魔法の糧にしていたものたちが、一斉に牙を剥いたのだ。彼女の肉体は細胞レベルで分解され、再構成されていく。
アイリスの村の人々も、この世界に生きるすべての「不純物」も、同じ運命を辿っているだろう。
フェナの体は、見る間に白銀の結晶へと変わっていった。カイトに助けを求めるように伸ばされた手は、彼に触れる直前でカチリと固まり、宝石のような冷たさになった。
「あ…………ああ……」
カイトの声にならない叫びを、塔のスピーカーから流れる無機質な合成音声がかき消した。
『おめでとうございます。地球は再び、生命のいない清浄な惑星へと戻りました。旧人類の帰還を心よりお待ちしております。』
窓の外では、銀色の霞が晴れ、数万年ぶりの澄み切った、しかし残酷なほど冷たい青空が広がっていた。
眼下に見える「瑠璃色の森」は、ナノマシンの再配置によって、ただの灰色の荒野へと姿を変えていく。
カイトだけが、20XX年の人間としての遺伝子コードを持っていたがゆえに、「保護対象」として、その絶望を永遠に目撃し続ける権利を与えられた。
異世界など、どこにもなかった。
ここはただ、彼自身の祖先が捨てた、無慈悲に美しく掃除された「ゴミ捨て場」の跡地だった。




