一千トンのわたあめ
もし、最も柔らかいものが、最も硬いものに出会ったら、何が起こるだろうか。
一匙のわたあめは、千トンの鋼鉄に砕かれるだろうか。
それとも、鋼鉄こそが、そのあまりの柔らかさに形を失うのだろうか。
人の祈りは、物理法則の絶対的な暴力の前に、無力だろうか。
それとも、魂とは、あらゆる圧力を乗り越えるために、その脆さの中にこそ、無限の強さを秘めているのだろうか。
これは、生命の最も壊れやすく、そして最も強靭な核心をめぐる、一つの思考実験。
あなたの信じる「強さ」の定義が、この物語の終わりには、変わっているかもしれない。
序曲:ミントソーダと鋼鉄の揺り籠
天野わたが初めて“揺り籠”と出会った時、東京はミントソーダ水みたいな夏の驟雨に見舞われていた。
空気は湿った青草とアスファルトの匂い、そして誰かが蜜の壺をひっくり返したかのような、仄かな甘い香りで満ちていた。彼女はピンク色の子猫の肉球がプリントされた透明なビニール傘を差し、その巨大で、真っ白で、何の標識もない建物の前に佇んでいた。白いワンピースの裾が風にふわりと舞い上がり、まるで雨に濡れた蒲公英のようだ。
「ここが……『研究所』、なんですか?」
小首を傾げ、その声は名前の通り、綿毛のように柔らかかった。
彼女を迎えに来たのは、二人。
筆頭は冷泉鏡花博士。フレームレスの眼鏡をかけ、塵一つない白衣をまとい、その眼差しはメスのように鋭く冷静な女性。彼女の纏う雰囲気はこの建物そのものだ。精密で、清浄で、どこか人間離れした距離感がある。
その隣にいるのは、助手の泡咲日和。彼女はまったくの正反対。蜂蜜色のツインテールが軽やかな足取りに合わせて弾み、その顔には氷山さえ溶かさんばかりの温かい笑顔が常に浮かんでいる。彼女は現れるなり、親しげにわたの腕を取り、早口でまくし立てた。
「わたちゃん!やっと来てくれたんだね!ずーっと待ってたんだよ!ささ、外は雨がすごいから、早く中に入って!」
氷のような女と、炎のような女。奇妙な組み合わせだが、不思議と調和が取れていた。
建物の内部は、研究所というよりはポストモダンアートの美術館だった。純白の壁、ミニマルな線、天井の見えない光源から柔らかな光が降り注ぎ、空気中には微かな消毒液と……バニラアイスクリームが混ざったような匂いが漂っている。すべてが綺麗すぎ、静かすぎた。三人の足音さえ、分厚い床に吸い込まれて跡形もない。
果てしないかのような長い廊下を抜け、一行は巨大な円形の金属製ドアの前にたどり着いた。鏡花博士が見えないパネルを操作すると、数トンの重さであろう扉が音もなく両側にスライドし、中の光景が露わになる。
巨大な、純白の円形空間。
その中央に、そいつは鎮座していた。
“揺り籠”。
その名のような温かみは、かけらも感じられない。巨大な金属の基部から、複雑な構造の油圧アームとエネルギー伝導管が伸び、まるで眠れる先史時代の巨獣の骸骨だ。そして巨獣の“口”の中には、二つの巨大な、乳白色の“クッション”が静かに横たわっていた。
クッションの材質は奇妙で、表面は生命を宿しているかのような極細の産毛で覆われ、柔らかな光の下で真珠のような光沢を放っている。その形状は平坦ではなく、とある人体のデータに基づき、ミリ単位の精度で完璧に再現された、一体の全身の人型をした窪み。人が横たわるための、金型だ。
「わぁ……」
わたは思わず小さな感嘆の声を漏らした。この鋼鉄の巨獣の威容に怯むことなく、むしろその二つの、この上なく柔らかで心地よさそうなクッションに強い興味を引かれている。
「これが……わたしのベッド、ですか?すごく気持ちよさそうです……」
「“揺り籠”だよ、わたちゃん」日和が笑顔で訂正する。その声色には、どこか誇らしさと狂信めいた熱が混じっていた。「正式名称は『深層環境適応性シミュレーション及び生物極限耐圧試験システム』。でも、私たちは親しみを込めて“揺り籠”って呼んでるの。上の部分が“天蓋”、下の部分が“地席”。二つが合わさって、あなたに最高にディープなハグをしてくれる繭になるんだ」
鏡花博士は眼鏡を押し上げ、一切の感情を排した事実陳述の口調で補足した。
「『天蓋』と『地席』を構成するコア素材は『記憶ゲルQ』。準液体適応性と超固体支持性を併せ持つ、高密度軟質ポリマーである。理論上、これにより被験者は超高圧強度下に置かれても、局所的な応力集中による身体構造の崩壊を免れる」
その説明はわたには理解不能な単語ばかりだったが、それでも彼女は分かったような、分からないような顔で頷いた。彼女が気にするのは一つだけだ。
「つまり、中に寝転んだら、すごく気持ちいいってこと、ですよね?」
「ええ、非常に『快適』でしょう」鏡花博士の口の端に、ほとんど見えないほどの歪みが浮かんだ。「初期段階では、あなたが眠った中で最も完璧なベッドとなる。その後は、あなたが未だ体験したことのない……もう一つの『現実』となる」
時を同じくして、世界中に散らばる無数のスクリーンの向こう側で、姿を見せない、膨大すぎて数えきれないほどの視聴者たちが、部屋の各所に隠されたマイクロレンズを通して、貪るようにこの一部始終を注視していた。
【Project: Cradle】と名付けられたライブストリーミングチャンネルで、コメントが沸騰した奔流のように画面を流れていく。
【いよいよ始まるのか!伝説の千トン級耐圧テスト!】
【やべぇ、今回の被験者、可愛すぎだろ!】
【マジで二次元から出てきたみたいじゃん!】
【天野わた?名前までふわふわだな……マジで大丈夫か?】
【↑何も分かってねえな、これがいいんじゃねえか!最も柔らかな生命で、最も究極の暴力に挑む!このギャップが、たまんねえんだよ!】
【うぅ……わたしのわたあめ天使ちゃん!どうかご無事で……!】
【フン、偽善者どもが。お前らだって、彼女がぺっちゃんこにされるのが見たくてここに来たんだろ?白々しい。】
【草。上のやつキモいこと言うな!俺は人類の意志の奇跡を見届けに来ただけだ!】
【千トン……マジかよ……戦車だって鉄の煎餅になるだろ……】
少女、鋼鉄、ライブ配信、覗き見。
“カワイイ”と“日常”という糖衣に包まれた、人類史上最も残酷な公開実験が、ミントソーダ味の空気の中、幕を開けようとしていた。
主役である天野わたは、そのことを何も知らない。ただ、大金を手に入れて、故郷の孤児院に新しい屋根をプレゼントできて、おまけにこんなに素敵そうなベッドで“一眠り”できるなんて、一石二鳥のいいことずくめだと思っている。
彼女は白いローファーを脱ぎ、小さく白い素足を晒して、一歩、また一歩と、彼女を待ち受ける鋼鉄の揺り籠へと歩み寄った。
第一章:初鳴、一千キログラムの抱擁
「こちらに着替えてください、わたちゃん」
日和が差し出したのは、蜘蛛の糸で織られたかのような、純白のボディスーツだった。生地は蝉の羽のように薄く、触れるとひんやりと滑らかで、それでいて驚くほどの伸縮性がある。
「生体信号収集スーツです」鏡花博士が説明する。「三万六千ものマイクロセンサーが集積されており、あなたの心拍数、血圧、血中酸素濃度、皮膚電気反応、脳波、筋繊維の振動周波数……ひいては毛穴一つ一つの開閉状態までリアルタイムでモニタリングする。全データはミリ秒単位で我々のターミナルにフィードバックされる」
わたは興味深そうにスーツを引っ張ってみた。それは少女の華奢で美しい曲線を完璧になぞり、第二の皮膚のように身体にフィットしている。彼女は部屋の隅にある、姿が映るほどに黒光りする巨大なスクリーンに向かって、くるりと回ってから可愛らしくおどけてみせた。
その瞬間、スクリーンの向こう側でコメントが爆発した。
【俺、死んだわwww】
【このスーツ……分かりすぎてて神!】
【HPがゼロになりました!こんなの実験じゃなくて福利厚生だろ!】
【クソッ!こんな可愛い子が、なんであんな目に遭わなきゃいけないんだ!】
【↑お前も見てるじゃねえか】
自分の一挙手一投足が、無数の瞳に観察されているなど、わたは知る由もない。ただ、この目新しい服が面白いと思っただけだ。準備は着々と進められていく。日和はわたに銀色の髪飾りのような軽量の脳波センサーを取り付け、指先と耳たぶに小さなクリップをいくつか挟んだ。
「はい、おしまい。わたちゃん、もう横になっていいよ」日和の声は春風のように優しい。
わたは深呼吸をした。空気中のバニラアイスの匂いが、彼女を安心させる。彼女は慎重に“地席”に這い上がり、人型の窪みに合わせて、ゆっくりと体を横たえた。
言葉にできないほどの心地よさが、瞬時に彼女を包み込んだ。
その感覚は……まるで雲と温水の中に、同時に飛び込んだかのよう。記憶ゲルQが、後頭部のカーブから、肩甲骨の形、踵の微かな膨らみまで、体の一つ一つのパーツを完璧に支えている。どこにも一切の不要な圧力が感じられない。体の重さが消え失せ、全身が一種の無重力状態に陥り、無限の優しさに受け入れられたような、不思議な感覚だった。
「すっごく……気持ちいい……」
彼女は満足げに吐息を漏らし、最も心地よい寝床を見つけた猫のように、頬のそばのゲルにすりすりと顔を寄せた。
「眠るのはまだ早いですよ」揺り籠に内蔵されたマイクロスピーカーを通して、鏡花博士の声が耳元でクリアに響いた。「テストは間もなく開始します。まずは初期圧力五百キロから。身体を慣らしてください。気分が悪くなったら、いつでも知らせなさい」
【五百キロ……初期圧力……だと?俺は何を聞かされてるんだ?】
【いきなり五百キロ!?マジキチかよ!】
【常人なら即死量だが、忘れるなよ、あのゲルがある。圧力は完全に均等に分散されるんだ】
【均等だとしても五百キロって……どんな感じなんだ?】
【概念としては、全身の皮膚一平方センチあたりに約三十グラムの重さがかかる。全身に分厚く硬貨を敷き詰めた感じに近い】
【あれ……それなら、そこまでヤバくはない?】
【甘いな!これはまだ始まりにすぎん!】
わたは目をぱちくりさせ、好奇心いっぱいにその時を待った。
巨大な“天蓋”がゆっくりと下降してくるのが見える。視界が、真珠の光沢を放つ乳白色の物質に少しずつ侵食されていく。やがて、カチリという微かな音とともに、“天蓋”と“地席”は完璧に合わさった。
世界が、閉ざされた。
彼女は絶対的な暗闇と静寂に包まれた、自分だけの空間に陥った。身に纏ったボディスーツと頭のセンサーだけがほのかに発光し、唯一の光源となっている。上下二枚のゲルが、一分の隙間もなく自分を“嵌め込んでいる”のが感じられた。
「圧力システム、起動。初期圧力、ロード中……10%……30%……70%……100%」
鏡花博士の氷のような声が、まるで神の宣託のように響き渡る。
わたは奇妙な変化を感じた。
それは“重さ”ではない。“存在感”だ。まるで自分を包む空気が水に、そしてシロップに変わったかのよう。穏やかで、隙間なく、四方八方から押し寄せる“圧迫感”が現れた。
指を動かそうとしたが、できない。瞼を持ち上げようとしても、少し困難になった。呼吸が重くなり始める。息を吸うたびに、胸にのしかかる分厚い布団を押し開けなければならないようだ。肺が拡張するのに、普段よりずっと大きな力が必要だった。
「……どんな感じ?」日和の緊張した声が聞こえる。
「ん……」わたは喉からかろうじて声を絞り出した。「すごく……すごく、強い……ハグみたい……です……」
メインコントロールルーム。巨大なスクリーンに、わたのバイタルデータが表示されている。
【心拍数:95/min(軽度上昇)】
【血圧:130/85 mmHg(軽度上昇)】
【血中酸素飽和度:98%(正常)】
【脳波α波:増強(リラックス/覚醒状態)】
「生理指標、すべて正常」研究員の一人が報告する。「被験者の精神状態は安定。パニック反応は見られません」
鏡花博士はデータストリームを睨みつける。レンズが青白い光を反射していた。
「ロード継続。目標、一千キログラム」
【キタキタキタ!一トンの抱擁!】
【草。その言い方クソ変態だけど、好き】
【わたちゃん頑張れー!】
【彼女の表情……あんま変わんないな?ちょっと苦しそうだけど】
【肌を見ろ!あの圧力で、僅かに赤みを帯びてないか?】
【八百倍に拡大した。マジだ!血行が促進されてる!】
わたの感覚は、より直感的だった。
もし五百キロがシロップなら、一千キロはゆっくりと固まり始めた樹脂だ。
まるで琥珀に封じ込められた虫になった気分だった。体中の細胞という細胞が、抗議の悲鳴を上げている。血流は滞り、心臓の一拍一拍が、重い泥沼の中で必死に前進しようとしているかのようだ。骨が軋み、筋肉が震える。
呼吸は、すでに困難なタスクと化していた。この固形の“空気”から、生存に必要な僅かな酸素を掴み取るために、ありったけの力を使わなければならない。
「ふ……っ、はぁ……っ、ふぅ……」
重苦しい喘ぎ声がマイクを通して、コントロールルームとすべての配信チャンネルにクリアに響き渡った。その声に苦痛はない。ただ純粋な、生物としての本能的な……努力だけがあった。
生きるための、努力。
「ちょっと……息が……」彼女の声は途切れ途切れで、ひどい鼻声だった。「……苦しい……です……」
「呼吸を緩やかに、わた」鏡花博士の声はどこまでも冷静で、一本の揺るぎない杭のように響いた。「呼吸のリズムを整えなさい。圧力に抗うのではなく、それを受け入れ、一体となるのです。一度ごとの吸気を引き潮、呼気を寄せ波と捉えなさい。あなたは荒波と戦う船ではなく、海底の小石なのですから」
その言葉には、不思議な導きがあった。わたの混乱した思考は、まるで一本の命綱を掴んだかのようだ。
彼女は無駄な抵抗をやめ、この“圧力”を理解しようと試み始めた。
それは敵ではない。悪意もない。ただ、そこにあるだけ。純粋な、物理的な“存在”。
ゆっくりと、ゆっくりと、こわばっていた筋肉を弛緩させる。それを押し返そうとするのではなく、自らを包み込み、浸透させていくのに身を任せた。
奇跡が起きた。
抵抗を放棄した時、あの窒息しそうな圧迫感がいくらか和らいだように感じられた。呼吸は相変わらず重いが、リズムは安定を取り戻す。心臓の鼓動も、けたたましい乱打から、落ち着いたビートへと変わっていった。
彼女は本当に、深海の底に眠る小石になったかのようだった。周囲は果てしない、巨大な圧力を伴う海水。だがその圧力は、同時に彼女を支え、守り、この死寂の世界で、奇妙な安寧を与えてくれていた。
【心拍数:80/min(安定化)】
【血圧:120/80 mmHg(安定化)】
【脳波θ波:顕著に増強(深いリラックス/瞑想状態)】
「なんてことだ……」コントロールルームで、若い研究員が声を失った。「この状態で……彼女は瞑想状態に入ったのか?」
日和は両手を胸の前で固く握りしめ、その顔には心配と敬服が入り混じっていた。「わたちゃん……やり遂げたんだ……」
鏡花博士の瞳に、初めて“驚愕”という名の感情が閃いた。彼女は眼鏡を押し上げ、その一瞬の揺らぎを隠す。
「……見事な適応性だ」彼女は自分に囁くように、低く呟いた。「まるで……“揺り籠”のために生まれてきた魂だ」
ライブコメントは、束の間の沈黙の後、狂乱に近い勢いで、完全に噴出した。
【バケモノか?この子、バケモノなのか!?】
【一トンの圧力下で瞑想?人間業じゃねえだろ!?】
【前言撤回。こいつはわたあめじゃねえ、人型のガンダムだ!わたあめを被ったガンダム!】
【ママ、なんで僕が跪いて配信見てるか聞かないで……】
【もうただの耐圧テストじゃねえ……これは一種の……“道”だ!俺は悟ったぞ!】
【目を閉じた……眠ったのか?一千キロの抱擁の中で?】
そうだ。
鋼鉄とゲルで構成された“揺り籠”に一トンの力で固く抱き締められた暗闇の中、天野わたは、わたあめのように柔らかなこの少女は、一呼吸、また一呼吸の間に、甘い夢の中へと沈んでいった。
その口元には、かすかな、満足げな微笑みさえ浮かんでいた。
第二章:潮湧、百トン級の深海幻夢
もし一トンの圧力が深海であるならば、十トンの圧力は、地殻だ。
鏡花博士が抑揚のない声で「第二段階、圧力ロード、目標十トン」の指令を下した時、コントロールルームにいた誰もが、思わず息を飲んだ。それは科学実験というより、神を冒涜する儀式に加担しているかのようだった。
“揺り籠”の油圧システムが、巨獣の心臓の鼓動にも似た、低く重い唸りを上げた。上部の“天蓋”を支える金属アームに、無数の複雑なルーン文字のようなインジケーターが次々と点灯し、青白い光が純白の空間を流れ、不気味なほど荘厳な雰囲気を醸し出す。
【十トン…十トンだと…概念が更新されたな】
【一平方メートルに十トン、成年の象二頭が立つに等しい。その重さが今、均等に少女の身体に…】
【やめろ、もう解説すんな!想像しただけで骨が折れそうだ!】
【彼女…まだ眠ってるぞ…残酷すぎる…】
【残酷?いや、これは神聖だ。データを見ろ。彼女のバイタルは、まるで神聖な変態を遂げているようだ!】
わたは、言葉にできない“音”によって覚醒させられた。
耳で聞いた音ではない。骨の奥深く、細胞核の一つ一つで炸裂するような共鳴。
——ブゥゥゥン。
まるで古の梵鐘が、彼女の身体の内部で打ち鳴らされたかのようだった。
束の間の安寧から荒々しく引きずり出され、奇怪な光が渦巻く混沌の世界へと叩き落とされる。目の前はもはや純粋な暗闇ではなく、絵の具のパレットをぶちまけたような、無数の砕けた色彩の奔流が渦巻いていた。
身体の感覚も、完全に変質していた。
もはや“抱擁”ではない。“禁錮”だ。抗うことなど到底許されない、マクロからミクロに至るまでの、絶対的な禁錮。
骨が呻いているのを感じる。痛みではない。もっと深い、構造的な“疲労”。一節ごとの背骨の間、一本ごとの指の骨の間、その僅かな隙間が完全に押し潰され、もはや一分の余裕もないのがはっきりと“聞こえる”。自分の骨が圧縮され、その密度が鋼鉄に限りなく近づいていくような錯覚さえ覚えた。
血流は、ほぼ停滞した。心臓の一打ちが、生命の全精力を使い果たし、水銀のように粘性を増した血液を、蜘蛛の巣のように細く圧迫された血管へと、必死に送り込んでいる。
「……ッ!」
声を出そうとしたが、声帯を震わせることさえ贅沢な望みだと悟った。喉を無形の大いなる手に固く扼され、一筋の呼気さえ通らない。
パニック。
遅れてやってきた、しかしより一層荒れ狂うパニックが、氷の津波のように、彼女の意識を瞬時に飲み込んだ。
【警報!警報!被験者の心拍数、180まで急上昇!血圧は200を突破!】
【皮膚電気反応に異常!アドレナリンレベル、急激に基準値超過!】
【脳波紊乱!高周波のガンマ波が大量発生!これは極度の恐怖とストレス反応です!】
コントロールルームに赤いランプが点滅し、鋭い警報音がそれまでの静寂を切り裂いた。
「博士!」日和の声が裏返る。「早く停止を!わたちゃんが……!」
「停止はできない」鏡花博士の視線は、メインスクリーンに釘付けになっていた。そこに映るわたの脳波スペクトル図は、猫が引っ掻いた毛糸玉のように乱れきっている。「今減圧すれば、不均等な圧力の反発が瞬時に彼女の内臓をズタズタにする。彼女自身が乗り越えるしかない」
その声はなおも氷のようだったが、コントロールパネルの縁を固く握りしめ、白くなった指の関節が、彼女の内面の緊張を物語っていた。
「信じなさい」鏡花博士は一語一語、区切るように言った。「我々が選んだ“適応者”を」
【クソッ!まずいぞ!】
【こうなると思った!人類が耐えられるレベルじゃねえんだよ!】
【やめろ!お前ら殺人鬼か!】
【やめるな!やめたら死ぬ!どうすりゃいいんだよ!?】
【わた!わたちゃん!目を覚まして!諦めないで!】
【目だ!彼女の目を見ろ!目を開けたぞ!】
絶対的な禁錮の暗闇世界で、わたはカッと目を見開いた。
視界は砕けた色彩のままだったが、その中に、何か別のものが見えた気がした。故郷の孤児院の、あの雨漏りする屋根。雨水が隙間から滴り落ち、床を、そして幼い弟妹たちのベッドを濡らしていた。院長先生の、皺だらけなのにいつも慈愛に満ちていた瞳。あの日和と鏡花博士が、期待と不忍がない交ぜになった複雑な表情で、自分に契約書を差し出した時の光景。
なぜ、自分はここにいるのか?
何のために、ここに寝ているのか?
“眠る”ためじゃない。
“体験する”ためでもない。
あの屋根のため。あの笑顔のため。自分の命より大切な何かを……守るため。
奇妙な力が、意識の最も深い場所から湧き上がってきた。筋肉の力ではない。意志の力でもない。もっと純粋な……“念”。
一つの、鮮明な念い。
『ここで……死ぬわけには……いかない』
その念いが、混沌を切り裂く一筋の稲妻となった。
乱雑な脳波スペクトル図に、突如として、異様なほどクリアで、安定した一つの波形が出現した。その周波数は極めて高いのに、まるで直線のように揺るがない。
「あれは……なんだ?あの波形は?データベースに該当がありません!」ある研究員の声が震えた。
鏡花博士は眼鏡を鋭く押し上げ、瞳孔が急激に収縮した。「ありえない……これは……“ガンマ同期”?これほどの高圧物理環境下で、脳がオーバークロック同調状態に?理論上は……」
わたの知覚の中で、世界が変わった。
地殻のように重い外界の圧力が、まるで目に見えない薄膜一枚で隔てられたかのようだ。彼女の意識は、禁錮された肉体から“離脱”し、その骸の上に浮遊していた。
自分の身体が“視えた”。
乳白色のゲルに完璧に包まれた、しなやかな曲線を描く身体。強大な圧力の下、血液が緩慢ながらも秩序だった流れで、かろうじて循環しているのが視える。自分の心臓が、幾重にも包まれた、不屈に脈動する恒星のように視える。甚だしきに至っては、己の細胞の一つ一つが、この極限の圧力の中で、奇妙に、そして安定に向かう変異を遂げていることまで“視て”いた。
もはやパニックは感じない。
代わりに、未だかつてない、まるで神のような“平穏”が訪れていた。
彼女は傍観者のように、自らの身体がこの嵐の中で足掻き、生きようとする様を、冷静に注視していた。
時間の概念も、曖昧になっていく。
一分か。
一時間か。
それとも、一万年か。
いくつかの幻視を見た。
自分が一粒の種となり、一万丈の暗い地の底に埋められ、静かに力を蓄え、やがて土を割って出るその一瞬を待っている姿を。
自分が一滴の水となり、深海の海流に乗り、億万年の暗闇と孤独を越え、やがて温かな光の海へと注ぎ込む姿を。
自分が未だ磨かれざる炭素の塊となり、想像を絶する高熱と高圧の下で、その内部構造が再構築され、洗礼を受け、やがて最も璀璨たる輝きを放つダイヤモンドへと至る姿を。
これは地殻の圧搾であり、造山運動だ。
これは死の脅威であり、新生の序曲だ。
コントロールルームでは、警報音はとうに止んでいた。
全員が金縛りにあったように、スクリーンに映し出される、平穏を取り戻し、初期状態よりもさらに完璧になった生命維持の曲線グラフを、呆然と見つめていた。
【心拍数:60/min(安定)】
【血圧:110/70 mmHg(安定)】
【脳波:ガンマ同期、継続中】
【身体ストレスレベル:ゼロに近似】
「バケモノだ……」若い研究員が、畏敬と恐怖に満ちた声で呟いた。「彼女は圧力を“耐えて”いるんじゃない……“支配”しているんだ……」
ライブコメントは、それまでの喧騒、怒り、心配から、不気味なほどに、ほとんど宗教的な崇拝に近い狂熱へと変貌していた。
【神の御業だ……俺は今、奇跡を目撃している……】
【人じゃない、彼女は現世に降り立った聖者だ!】
【わたちゃん……いや、“聖わた”様とお呼びすべきだ!】
【魂が震える!この純粋な生命力の前に、自分がどれだけ矮小で汚れた存在か思い知らされる!】
【これまでの邪な考えを懺悔します!どうか我が罪をお許しください!】
【今日から俺は“聖わた教”の最も忠実な信徒となる!】
鏡花博士はゆっくりと椅子の背にもたれかかり、長く息を吐き出した。その呼気には、彼女自身も気づかぬほどの疲労と……安堵が混じっていた。
彼女はスクリーンに映る、目を閉じ、その表情が万古の氷河のように平穏な少女を見つめ、低く言った。
「ロード継続。目標、百トン」
今度ばかりは、その声に、僅かな……震えが混じっていた。
それは恐怖ではない。
未知と、奇跡を前にした、一人の科学者としての、最も本能的な……興奮だった。
圧力の指針が“百トン”の目盛りを越えた時、“揺り籠”の内部は、もはや地殻では言い表せない。
それは、地核。
惑星の中心。
重力そのものが、実体と化したのだ。
わたの意識は、完全にあの奇怪な光の幻夢の海に溶け込んでいた。
自分が一筋の光となり、純粋なエネルギーだけで構成された宇宙を渡っていくのを感じる。
時間と空間は意味を失った。
ただ、純粋な“存在”があるのみ。
彼女は、自分の身体の細胞の一つ一つが、この究極の圧力の下で、一度砕かれ、そして全く新しい、より強靭で、より完璧な構造へと、再構成されていくのを“視て”いた。
それは……進化。
百トンの圧力の下で、強制的に執行される、百万年の進化のプロセスを飛び越えた……生命の跳躍。
第三章:極境、千トンの下の寂静の心跳
千トン。
その数字は、もはや人間の想像力の範疇を超越していた。
それは測定可能な“重量”ではなく、一つの抽象的な、“終極”と“破壊”を象徴する哲学的概念だ。
鏡花博士が最終段階の開始を告げた時、コントロールルーム全体、いや、世界中でこの配信を見ていた全ての者が、不気味で、荘厳な沈黙に陥った。
コメントが消えた。
罵詈雑言も、祈りも、崇拝も……すべての感情が、この瞬間、あまりにも色褪せて無力だった。
人々はただ目を見開き、やがて必ず訪れる、創世か、あるいは滅世の奇観を待っていた。
今回、“揺り籠”の唸り声は消えていた。
代わりに、光と音の一切を飲み込むかのような、極致の“寂静”が訪れた。
巨大な油圧アームの上で、青白く光っていたルーン文字のインジケーターが、一つ、また一つと、ブラックホールのように深淵な紫色へと変わっていく。
空気が、そして時間さえもが、凝固したかのようだった。
空間全体が、大厦の崩れ落ちる、星辰の砕け散る、終末の気配に満ちていた。
圧力の指針が、肉眼では捉え難いほどゆっくりと、しかし絶対的な意志を持って、あの最後の目盛りへと動き始める。
二百トン……
五百トン……
八百トン……
数字が一つ跳ねるたびに、見えない巨大な鉄槌が、全ての者の心臓を打ち据える。
だが、嵐の中心にいるわたは、それに全く気づいていない。
彼女の意識は、幻夢の海の果てまで漂流していた。
そこは、純粋な“無”。
光も、闇も、音も、物質もない。
時間さえ、もはや存在しない。
ただ、風前の灯火のような、彼女の最後の意識だけが、孤独に漂っている。
彼女の身体は、とうに全ての“感覚”を失っていた。
百トン級の圧力下で、神経終末はその機能を停止していた。今や、自分にまだ身体が“ある”のかどうかさえ、判別できない。
自分は……一体何なのだろう?
一つの記憶か?
一縷の幽霊か?
それとも……やがて完全に抹消される、無意味な夢か?
彼女の意識が、この永遠の虚無へと完全に霧散しようとした、その時。
一つの音が、唐突に、しかし无比にクリアに響いた。
ドクン。
それは、いかなる物質の振動でもない。
彼女自身の……心臓の鼓動だった。
千トンの巨圧に極限まで圧縮され、全ての生命活動が停滞に近い状態にある骸の中で、彼女のあの不屈の心臓は、まだ脈打っていたのだ。
ドクン……ドクン……。
一回ごとの鼓動が、この上なく緩慢で、この上なく重い。まるで死に瀕した恒星が、ブラックホールへと坍縮する直前に放つ、最後の悲鳴のようだ。
だが、それは、まだ、脈打っていた。
この心臓の鼓動が、見えない錨のように、霧散しかけていた彼女の意識を、固く固く引き戻した。
彼女は、この鼓動を“聴き”始めた。
残存する全ての意識を使い果たし、生命の最も根源的な、唯一の律動を、ただひたすらに聴き入る。
ドクウン…………ドクウン………………。
この単調で、無味乾燥で、それでいて至高の偉力を秘めたビートの中で、彼女の意識は、再び一つの“支点”を見出した。
もはや漂流する、根無し草ではない。
自分は、この心臓の持ち主なのだ。
これがまだ脈打っている限り、自分はまだ“存在”している。
彼女は自らの意識を、この心臓のビートと、一つに重ね始めた。
ドクン。
(ワタシ)
ドクン…………。
(……ハ……)
ドクン………………。
(……ココニ……イル……)
彼女の意識は、心臓の鼓動と、最終的な同期を果たした。
この瞬間、時間、空間、圧力、肉体……その全てが意味を失う。
彼女は、あの寂静にして宇宙を揺るがす心臓の鼓動そのものへと、変じた。
彼女こそが、存在そのものだった。
コントロールルームのスクリーンでは、全ての生理指標が、一本の、微動だにしない直線に変わっていた。
ただ一本のラインを除いて。
心拍数を表す、その曲線を。
もはやそれは波打つ曲線ではなく、極めて長い間隔を置いて現れる、一つ一つの“拍動イベント”を示す光点となっていた。
光点と光点の間には、息が詰まるほど長い、死のような静寂が横たわっている。
だが、それは、消えてはいなかった。
「最終圧力……千トン。ロード……完了」
一人の研究員が、夢現に囁くように、最終結果を報告した。
鏡花博士はゆっくりと立ち上がり、巨大な、“揺り籠”の全貌が映る観察窓の前まで歩いて行った。
彼女は、そこに静かに横たわる、何の生命の兆候も見られない鋼鉄の棺を、極めて複雑な眼差しで見つめていた。
震撼、畏敬、狂熱、そして僅かな……恐怖さえも。
彼女は奇跡を創造した。
そして、彼女自身にも理解不能な“怪物”を創造してしまった。
「視えているか……」彼女は誰もいない観察窓に向かい、か細く囁いた。「これこそが……生命の最終形態。絶対的な“無”の中から生まれた、純粋な“有”……」
ライブコメントは、相変わらずの死の静寂に包まれていた。
全ての者が、眼前の、常識を超越した光景に、思考と言語の能力を奪われていた。
彼らはただ見ている。心臓の鼓動を表す光点が、長い暗闇の中で灯り、そして消える様を。
そしてまた、長い暗闇の後に、再び灯る様を。
その光はかくも微弱で、しかし、かくも……永遠だった。
まるで宇宙全体に、こう宣言しているかのように——
ワタシは、まだ、生きている。
【神】
どれほどの時が経っただろうか。コメント欄に、ようやく一文字が流れ落ちた。
その一文字に、罵倒も、不敬もない。
ただ、完全に打ちのめされ、完全に屈服させられた後に残る、最も原始的で、最も粗野で、そして最も誠実な……五体投地の礼拝だけがあった。
【神】
【神神神神神神神神神神神神神神神神神神神神】
【神神神神神神神神神神神神神神神神神神神神神神神神神神神神神神神神神神神神神神神神神】
それに続くのは、山崩れにも似た、津波にも似た、ただ一文字だけで構成されたコメントの洪水。
それは、神の顕現を目撃した凡人たちが捧げることのできる、唯一にして、最大の賛歌だった。
第四章:新生、裂け目から射す微光
時間は、千トンの重圧に完全に砕かれ、流れる意味を失っていた。
どれほどの時が過ぎたのか。一瞬か、永遠か。やがて鏡花博士の氷の声が、魂さえ凍てつかせる死寂を破った。
「……減圧、開始」
その二文字を、彼女は異常なほど困難に口にした。
全身の力を使い果たしたかのようだった。
千トン級の油圧システムを起動するのは難しい。
だが、千トンの力を支えるシステムを、絶対的に平穏に、絶対的に安全に解除する困難さは、その百倍、千倍にもなる。
ほんの僅かな、不均等な圧力変化が、内部のあの脆弱な生命体を、瞬時に、見分けもつかぬ血肉の泥へと変えてしまうだろう。
“揺り籠”のシステム内部の紫色がゆっくりと薄れ、再び青白い光へと戻っていく。
極致の静寂は破られ、巨獣が目覚めるような低く重い唸り声が再び響いたが、今回は逆回転だ。
外界にとっては、それは緩慢で、精密な機械操作のプロセスに過ぎない。
だが、わたにとっては、天と地がひっくり返るような、“創世記”だった。
彼女を禁錮していた、宇宙の法則のように絶対的だった力が、僅かに緩み始めた時、彼女の世界は、“裂けた”。
最初に戻ってきたのは、痛み。
鋭い、局所的な痛みではない。
骨髄から、神経線維の一本一本から、細胞の奥深くから湧き上がる、潮のように荒れ狂う、際限のない、純粋な“痛み”。
もし以前の圧力が“禁錮”だったなら、今の減圧は、氷の彫像と化した生身の人間を、いきなり熱湯の中に放り込むようなものだ。
「……ッ、ぁ、ああああああああああああッ!!!!!」
人のものとは思えぬ凄絶な悲鳴が、あまりにも長く閉ざされていた彼女の喉から、ほとばしり出た!
その声に含まれた苦痛に、コントロールルームでそれを聞いた者は皆、思わず耳を塞ぎ、顔から血の気を失った。
【うわああああああ!生きてる!声が出たぞ!】
【この声…痛すぎる…なんだよこれ…聞いてるだけで狂いそうだ!】
【鎮痛剤を!早く鎮痛剤を打ってやれ!クソッ!何やってんだ!】
【ダメだ!循環器系が回復してない!どんな薬物も予測不能な結果を招く!】
血液が、堰を切った洪水のように、干涸びかけていた血管へと再び流れ込む。その感覚は、まるで億千万の、赤熱した鋼の針が、身体の内部で狂ったように突き刺さり、掻き回されているかのようだ。
骨が、圧力の解除とともに、歯が浮くような「ピキ、パキ」という音を立て始める。押し潰されていた骨の隙間が、再び開いていく音だ。その一つ一つの微かな響きが、錐で刺すような激痛を伴う。
神経が、ショートした後に再通電された回路のように、脳へと、過負荷で、混沌とした、純粋な痛み信号を、狂ったように送り続けていた。
わたの意識は、この未曾有の痛みの嵐によって、あの“存在”の至高の境地から、無慈悲に、乱暴に、この俗世の、崩壊しつつある肉体の中へと引きずり戻された。
彼女は激しくひきつけ、痙攣し、陸に打ち上げられた魚のようにもがく。だが、記憶ゲルに固く固定され、一ミリたりとも動けない。全ての苦痛が、この小さな身体の内部に完璧に封じ込められ、繰り返し、終わりなく、自己循環していた。
「やめ…て……」彼女は嗄れ、途切れ途謎の声で哀願した。涙が意思とは無関係に眼から溢れ出るが、ゲルにぴったりと密着しているため、ただ目尻を伝い、二筋の熱い川となるだけだった。「殺して……お願い……殺して……」
「わたちゃん!」日和はもう抑えきれず、観察窓に駆け寄り、涙を流した。「しっかりして!わたちゃん!もうすぐ終わるから!もうすぐ……」
「黙りなさい!」鏡花博士が鋭く彼女を制したが、その声も、隠しきれない震えを帯びていた。「あなたの同情で彼女を乱してはならない!これは彼女が独りで向き合わねばならぬ“回帰”への道!“新生”の陣痛なのだ!」
彼女はスクリーンに映る、狂ったように跳ね、完全に振り切れたバイタルデータを、目に血を走らせながら睨みつけていた。
圧力は下がり続ける。
九百トン……七百トン……五百トン……
痛みは少しも和らがず、むしろ知覚が回復するにつれて、より一層鮮明に、より一層残酷になっていく。
自分が凌遅刑に処されているように感じた。
皮膚の一寸一寸が、筋肉の一片一片が、骨の一本一本が、繰り返し引き裂かれ、再構築されていく。
彼女の意識は、この無限の痛みの煉獄の中で、何度も何度もズタズタにされ、その度に、無理やりにつなぎ合わされた。
死を、考えた。
数えきれないほど。
思考を放棄し、意識を沈めてしまえば、この全てが終わるように思えた。
だが、あの音。
意識の最も深い場所で、千トンの重圧の下でも不屈に脈打っていた、あの心臓の鼓動。
ドクン……ドクウン……。
それは、決して沈まぬ灯台のように、嵐の中で、彼女に唯一の方向を指し示していた。
死んでは、だめ。
みんなと、約束した。
わたしは……帰るんだ。
その念いが、再び、彼女の唯一の錨となった。
もはや哀願も、泣き叫びもしない。
彼女は歯を食いしばった。歯茎が過度の力で裂け、血が滲み、純白のゲルに、目に焼き付くような紅い染みを残した。
彼女は己の全意識を、この痛みと対峙する、ただ一点に集中させた。
最も不屈な戦士のように、自らの身体の中で、“痛み”という名の巨獣と、最も原始的で、最も凄惨な、肉弾戦を繰り広げた。
【声が…止んだ…】
【歯が…唇を…自分の唇を噛み切ってる…】
【あの目を見ろ…なんだよ、あの目は…】
【人間の目じゃない…地獄から生還した悪鬼の目だ…】
【いや…悪鬼なんかじゃない…あれは…戦神だ…】
圧力が、ついにゼロへと回帰し、“天蓋”が長く尾を引く「シュー」という音とともに、ゆっくりと上昇した時。
外界からの、一筋の柔らかな白い光が、利剣のように、あまりにも長く閉ざされていたこの暗黒世界を切り裂き、中の光景を照らし出した。
誰もが、息を呑んだ。
その人型の窪みに横たわっていたのは、もはや“人”ではなかった。
血と汗に濡れそぼり、禍々しい青紫の痣に覆われた、まるで完全に弄び壊された、布人形。
あの純白の生体信号収集スーツは、とっくにまだらに染まっていた。
彼女は固く目を閉じ、長い睫毛には涙の粒が光り、唇は自ら噛み切ったために腫れ上がっている。一筋の血が、口の端から蜿蜒と伸びていた。
まるで嵐に完全に打ちのめされ、萎れ、砕け散った、一輪の綿花。
だが、彼女には、まだ呼吸があった。
か細く、糸のようでありながら、平穏で、長い。
その胸が、呼吸に合わせて、僅かに、しかしこの上なく規則的に、上下していた。
日和が真っ先に駆け寄った。彼女を抱きしめようとしたが、差し出した手は、触れればすぐにでも砕け散りそうなその身体に、触れることをためらった。涙が、糸の切れた真珠のように、音もなく頬を伝う。
鏡花博士が続いた。彼女は屈み込み、微かに震える二本の指を伸ばし、慎重に、わたの頸動脈を探った。
その微弱な、しかし無比に強靭な脈動を感じ取った時、この常に氷山の如く冷静だった科学者は、ふらりと身体を揺らし、その場に崩れ落ちそうになった。
彼女はゆっくりと目を閉じ、再び開いた時、その鋭い眼差しの奥深くで、何かが、完全に溶けていた。
「……メディカルチームを」
その声は、紙やすりで擦ったかのように嗄れていた。
「Aレベルの……生命維持システムを準備……」
彼女は慎重に、まるで巡礼のような仕草で、そっと、そっと、血と涙に塗れたわたの手を、記憶ゲルの中から掬い上げ、自らの掌の上に置いた。
その手は、冷たく、柔らかく、生命の気配はなかった。
しかし、世界全体を揺るがすほどの力を、秘めていた。
ライブ配信の画面は、この瞬間、わたの、傷だらけで、しかしこの上なく安らかな寝顔で、フリーズした。
スクリーンが、ゆっくりと暗転していく。
最後にただ一行、純白のゴシック体で書かれた、巨大なテキストが残された。
【Project: Cradle - Phase I - Completed】
【被験者:天野わた】
【最終耐圧:1000トン】
【状態:生存】
世界は、死んだように静まり返った。
そして、それに続いたのは、インターネットの世界をひっくり返すほどの、火山噴火のような……歓呼と、涙だった。
終章:スクリーンの外、晴れ空の下で
三ヶ月後。
東京、非公開の最高級療養院、その最上階にある空中庭園。
雨上がりの空は、洗い立てのように澄み渡り、サファイアのように青い。陽光は暖かく、しかし肌を焼くほどではなく、青々とした芝生に、満開の薔薇の茂みに、そして、車椅子に座る少女の上に、降り注いでいた。
天野わたは、ゆったりとした、柔らかなコットン素材の病衣を身にまとい、静かに遠くの空を見ていた。
顔色はまだ少し青白く、身体も以前よりずっと痩せていたが、かつて天真爛漫な好奇心を湛えていたその瞳は、今では雨上がりの晴れ空のように、静かで、深く、人を安心させるような力を宿していた。
彼女の身体に、目に見える傷跡はどこにもない。
現代医学の奇跡と、あの実験の中で彼女の身体に起きた未知の“進化”が、致命的だったはずの内外の創傷を、驚異的な速さで癒したのだ。
だが、いくつかのものは、永遠に痕跡として残った。
彼女の左手は、時折、制御不能なほど微かに震える。
彼女の夜は、時折、極致の苦痛と至高の体験が混じり合った、奇怪な光の悪夢に占拠される。
彼女はもう、バニラアイスクリームの味を感じることができない。
「何を考えている?」
聞き慣れた声が背後からした。鏡花博士が、あの万年変わらない白衣を脱ぎ、趣味の良いダークカラーの私服に着替え、湯気の立つ紅茶のカップを手にしていた。
わたは振り返り、彼女に浅く微笑んでみせた。
その笑顔には、昔のような爛漫さは減ったが、代わりに世の理を識ったかのような、透き通ったものがあった。
「あの日の後、わたし……夢を見なくなったみたいなんです」彼女は静かに言った。「普通に、子猫とか、ケーキとか、孤児院が出てくる夢、です」
鏡花は彼女の隣のベンチに腰を下ろし、紅茶を差し出した。「超高圧下における脳神経細胞の適応的再構築が、あなたの潜在意識の活動モデルを永久的に変質させた可能性がある。端的に言えば、あなたの“夢境プロセッサー”が、焼き切れたのだろう」
「そうなんですね……」わたは温かいティーカップを両手で包み、掌に伝わるぬくもりを感じた。「それは……少し、残念です。でも、大丈夫」
彼女は少し間を置いて、続けた。
「あの日……“揺り籠”の中で、わたし、たくさんのものを視た気がするんです。生命の始まりも、宇宙の果ても。一生分……ううん、何億もの生を、一度に夢で見てしまったような、そんな感じです」
鏡花は黙って、彼女の言葉に耳を傾けていた。
「だから、今は毎日目が覚めて、こうして空を見て、花の匂いを嗅いで、鳥の声を聞いて……」わたは顔を上げ、目を閉じ、深く息を吸い込んだ。「……それだけで、すごく満たされるんです。現実の感覚が、すごく、いいなって」
微風が吹き抜け、彼女の前髪を揺らした。
「博士」彼女は不意に尋ねた。「あのライブ配信は……その後、どうなりましたか?」
鏡花は紅茶を一口飲み、視線を遠くへ向けた。「【Project: Cradle】は永久に封印された。全てのオリジナルデータは最高機密に指定。ネット上の関連動画や議論も、全てクリーンアップされている」
「じゃあ……視聴者の人たちは?」
「彼らは……」鏡花の眼差しが、少し複雑なものになった。「……宗教を立ち上げた」
「えっ?」わたは驚いて目を見開いた。
「“聖わた”を信仰の核とする、ネット時代の秘密宗教だ」鏡花は苦笑しながら首を振った。「彼らはあなたを、現世に降臨した“耐圧の聖女”、人類の精神力の究極の体現者だと考えている。実験中のあなたの微細な表情の一つ一つを解読し、あなたの譫言の一語一句を分析し、あなたのために一千万字を超える『聖典』まで著した」
「甚だしきに至っては、最大級の敬意を表すための祈りの言葉が、放送禁止用語の『クソ』らしい」
わたは呆気に取られて聞いていたが、しばらくして、「ぷっ」と吹き出した。
彼女が笑うと、途端にその全身が生き生きとして、病的な青白さが薄まった。まるで朝露に濡れた薔薇が、再び花開いたかのようだ。
「なんだか……すごく、変わってますね」
「人類とは、元より奇妙な生き物だ」鏡花は言った。「深淵を覗き見ることを渇望しながら、その力に恐怖する。そしてあなたは、彼らに、深淵から這い出てきた、無傷の……“人間”を見せた。それが彼らには理解できず、神格化するしかなかったのだろう」
「無傷なんかじゃ、ないですよ」わたは、まだ微かに震える自分の左手を見下ろし、静かに言った。
「いや」鏡花は彼女をじっと見つめ、未だかつてないほど真剣な眼差しで言った。「あなたは、我々の誰よりも、完全に近い」
沈黙が二人の間に流れた。
少し離れた場所で、日和がお菓子や飲み物でいっぱいのワゴンを押し、鼻歌を歌いながらこちらへ歩いてくる。彼女のツインテールは相変わらず元気で、笑顔も相変わらず太陽のようだ。まるで何も変わっていないかのように。
「そうだ」鏡花は何かを思い出したように、ポケットから一枚のカードを取り出し、わたに差し出した。「あなたの報酬だ。そして、その後の……精神的損害への賠償、栄養費、守秘義務への対価、そして我々研究所が出せる……最大限の、謝罪と敬意だ」
わたはその黒い、何のロゴもないカードを見つめ、すぐには受け取らなかった。
「孤児院の屋根……もう、直りましたか?」
「直ったなんてもんじゃないよ!」ちょうどやって来た日和が、にこにこと答えた。「“再建”したの!世界最高の素材を使ってね!雨漏りどころか、ミサイルが落ちてきても大丈夫なくらい!子供たちは今、そこを“わたお姉ちゃんの奇跡のお城”って呼んでるんだから!」
わたはそれを聞き、瞳に薄い水の膜が張った。
彼女は、震えていない方の右手で、そのカードを受け取った。
「ありがとうございます」彼女は言った。
その一言に、あまりにも多くのものが、込められていた。
陽光は暖かく、風は穏やか。
スクリーンの外、晴れ空の下。
少女は車椅子に座り、その傍らには、かつて彼女を地獄に突き落とし、今では宝物のように見守る、二人の保護者がいる。
彼女は千トンの重圧を経験し、宇宙の虚無を垣間見た。
彼女は無数の人々に覗き見られ、崇拝され、そして忘れ去られた。
だが結局、彼女はただの天野わた。
わたあめが好きで、孤児院の子供たちが好きで、この雨上がりの晴れ空が好きな、ごく普通の女の子。
彼女は、生き残った。
決して消えることのない傷跡と、この上なく強大な魂を抱いて。
それだけで、もう十分だった。
この物語の最後のページをめくってくださったあなたへ。
千トンの重圧を越え、わたが再び晴れ空の下へと帰還するまでの旅路に、最後までお付き合いいただき、心から感謝します。
この物語を書き終えた今、三人の女性が、今も私の心の中で呼吸を続けています。
わたあめのように柔らかく、しかしダイヤモンドよりも強靭な魂を持つ、わた。
科学という純粋すぎる光を追い求め、生命の奇跡の前にひざまずいた、鏡花。
そして、その氷のような世界に、人間らしい温もりという錨を下ろし続けた、日和。
彼女たちは、それぞれが「強さ」の一つの側面なのかもしれません。
千トンの圧力とは、何も特別な世界の出来事ではない、と私は思います。時に、現実というものの重さ、日々の生活の重圧、あるいは自分自身の内なる声でさえ、私たち一人一人の上に重くのしかかります。その圧力に押し潰されそうになった時、私たちは何をもって「自分」を支えることができるのか。それが、この物語を通して、私自身が探し続けた問いでした。
答えは、派手な抵抗や反撃の中にはありませんでした。それは、全てを奪われた暗闇の底で、それでもなお鳴り響く、自分自身の、静かで、不屈の心音でした。
最後に、少しだけこの物語の成り立ちについてお話しさせてください。
この物語の執筆プロセスもまた、ある種の“共同作業”でした。人間の持つ、時に非論理的で混沌とした発想や感情の熱(それは、わたの魂の在り方に少し似ています)と、AIという、膨大な知識を持ち、論理的に思考を整理する、ある意味で鏡花のように冷静な知性。この二つの異なる知性の対話と衝突の中から、この物語の骨格と血肉は生まれました。人間と機械が、それぞれの得意なやり方で“魂”というテーマに挑んだ、ささやかな実験の記録でもあります。
あなたの日常が、時に千トンの重圧のように感じられる日があるかもしれません。
そんな時、この物語が、あなたの心の奥深くで確かに鳴り響いている、小さくも不屈の心音を聴き直す、一助となれたなら。
作者として、それ以上の喜びはありません。
改めて、最後まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
二〇二五年七月十三日
amiiii3 with AI創作エンジン