4話 目覚めと混乱 後編
4話 目覚めと混乱 後編
魔術師の視線が床に座り込んだ私へと向けられている。それは先ほどまでの冷たく刺すような視線とは明らかに違っていた。
それはどこか戸惑いを含んだような探るような目で、なんだか居心地が悪い。
魔術師の手のひらに灯っていた術式。
それもいまはもう消えてなくなっていて。
私の手首を縛っていた魔術による拘束も、すでに解かれていた。
だけど毛玉はまだ魔術師を警戒するように、私の足元で小さく震えていた。
「……皇帝陛下から命が下った。聖女、お前を城に連行するようにと」
その言葉が魔術師から告げられた瞬間、神官の顔色が変わった。
「なっ……ま、待ってください! 城に!? この方を、ですか?」
魔術師に問いかける神官の声は震えていた。
「皇帝陛下はいったい……なにをお考えなのですか! そもそもこの方が聖女イリス・ノクティア様、ご本人であると誰が証明できるのですか! それにそこにいる獣の気配は、封じられていた災厄ではないのですか!」
魔術師は神官の追及のような問いを無視するように、こちらへと一歩近づく。
「聖女、立てるか?」
その声に、私は少しだけ躊躇した。
けれど、ゆっくりと頷いた。
「……立てる」
毛玉が心配そうに「きゅう」と鳴く。
私は「大丈夫だよ」と毛玉を優しく撫でてやりながら、立ち上る。
その時、神官が魔術師の肩を掴んだ。
「シャルル! お前、おかしくなってしまったのか……!? それは聖女様に姿形こそ似てさえいるが……災厄そのもの! 災厄は今すぐにでも再封印すべきだというのに……なぜ!」
シャルル。
そう呼ばれた魔術師は、ため息混じりに神官の手を振り払った。
「これは皇帝陛下から命令だ。それに……」
「お前、命令だからといって……!」
一瞬。
シャルルと呼ばれた魔術師と視線が重なる。
その視線は、憐れみ。
「……今のところ、この聖女が災厄だという確証はない。むしろ聖女がいなければ、あの瘴気の暴走は、止められなかったかもしれない」
「お、お前はソレを本物の聖女様だと本当に思っているのか!? 災厄と共に目覚めた存在だぞ……!」
……違う。
この魔術師は私が聖女本人だと信じているわけじゃない。
だけど、私をこのまま見捨てることもできないというだけ。
神官の問いに、魔術師は応えない。
だけどその沈黙がすべてを語っていた。
私を見る魔術師のその目には、先程まではたしかに迷いがあった。
けれど今は、なにか決意したように見えた。
「聖女、一人で歩けるか?」
「え? あー……うん」
私はコクリと頷く。
たとえこれから連れて行かれる先がどこだとしても、このままこの場所にいるわけにはいかない。
魔術師は無言のまま、神殿の扉へ向かってゆっくりと歩き出した。
私はその背中に置いて行かれないように、慌ててついて行く。
後ろから、神官の叫びが響いた。
「後悔するぞ、シャルル! ソレは…… 聖女は神の怒りを封じるために捧げられた贄! それを外に解き放つことが、どれほど大きな罪か! お前はわかっているのか!」
その言葉は私の胸に突き刺さる。
けれど私の足は止まらない。
……外の世界。
あの日以来、初めて踏み出すこの場所。
夜空に輝く満月が、私を見下ろしていた。