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2話 祈りと別れ


 2話 祈りと別れ

 

 イリス・ノクティア。

 神託により選ばれた聖女、それが私の全て。


 親の顔も、名前も知らない。

 自分の本当の名前すらわからない。

 

 ――神託が下されたあの日、私は全て失った。

 

 代わりに与えられたのは。

 新しい名前と、女神イルベリアの怒りを鎮めるために命を捧げるという逃れることのできない使命だった。


 ◇◇◇ 


 大神殿では時折、結婚式が執り行われる。

 祝福の鐘が鳴り響き、咲きこぼれるように花が飾られるその光景は夢のようで。

 私はその儀式に心を奪われた。

 それに新婦が纏う純白のドレスは、どんな花より美しく見えた。

 

 ある日、側仕えの巫女に無邪気に夢を話したのを今も覚えている。

 

「ガブリエル、私ね……夢があるの!」

「夢……で、ございますか?」

「私ね、大きくなったらあんなきれいなドレスを着て、ここで結婚式をするの!」


 それは普通の女の子なら誰しもが抱くような、ありふれた夢。

 けれどそれは、人柱に選ばれた私にとって決して許されぬ願いだった。

 

「イリス様! それは……なりません」


 側仕えの巫女の声が少し、震えていた。

 

「え、どうして?」

「イリス様は聖女様でございます。その心も、身体もすべて女神イルベリア様のもの。人としての欲をイリス様が持つことは……許されておりません」

「えー! でも、ドレス……着たいよ? ガブリエルも綺麗なドレス着たいよね!?」


 この時の私はまだなにも知らなくて。

 その小さな願いが、どれほど許されぬものなのかわからなかった。

 

「それに……イリス様は十五歳の誕生日を迎えられましたら、女神様の御許へと……旅立たれるのです」


 側仕えの巫女は言葉に詰まりながらも、なんとか絞り出すように答えてくれる。

 

「旅立つ……? ガブリエルは女神様がどこにいるか知ってるの?」

「そ、れは……」

「十五歳の誕生日まで……あと三年だね! 女神様に会えるの、楽しみだなぁ!」

「イリス様……」

 

 その旅立ちがすなわち己の死を意味するものだと知ったのは、ずっとずっと後のことだった。

 この時の私は自分の運命というものを、そもそも理解していなくて。

 ただぼんやりと巫女の話を聞いていた。


 それでも、私は恋をした。

 

 神殿に祈りを捧げに訪れる同い年の男の子。

 彼は太陽のように明るくて、優しい人だった。


 彼の名前はセリオス・エルヴィア。

 この国の皇子様。

 私とは生まれも育ちも、運命もまるで違う。

 

 恋をしてはいけない。

 頭では駄目だと理解していたけれど、心は止められなかった。

 セリオスが神殿に来るたび胸は高鳴り、名前を呼ばれる度に息が苦しくなった。

 

 聖女が恋をするなんて、許されるはずがない。

 この心も、身体も、命も。

 なにひとつとして、私のものではない。

 私のすべては女神イルベリア様のもの。


 人としての欲を持つことは許されない。

 

 だから誰にも内緒、秘密の片恋。

 ……それも、期限付きの。


 

 明日の朝、私は瘴気をこの身体に封じて死ぬ。

 その儀式がどれほどの苦痛を伴うのか、神殿長から聞かされた。

 だからそこで聖女の名に恥じぬ立派な最後を迎えられるようにと、一つの薬を貰った。

 

 渡されたのは銀色の小瓶に入った薬。

 これを飲めばすぐに意識は朦朧として、儀式の間なにも感じずに済むらしい。

 

「怖いのなら今すぐ飲みなさい」


 と、神殿長に言われたけれど。

 私は首を横に振った。

 

「神殿長のお気持ちは大変ありがたいのですが。大神殿で過ごす最後の夜なので、今夜は一人静かに祈りを捧げて過ごすつもりなんです」


 そう伝えたら、神殿長は渋々了承してくれた。

 でもきっと神殿長は、明日の儀式から私が逃亡しないように、この薬で私の意識を潰しておきたかったのだろう。

 

 でも大丈夫。

 今さら逃げたりなんかしない。

 私はもう既に覚悟を決めているのだから。

 

 ……それなのに。

 封印の儀式、前夜。 

 そこは大神殿の中にある外界から隔絶された特別区域、静寂の聖域と呼ばれる私の部屋。


 最後の夜、私は側仕えの巫女を下がらせて一人静かに過ごしていた。

 それは女神イルベリアに祈りを捧げる、という名目だったけど……祈る気にはなれなかった。

 

 ――そこへセリオスは警備の者達の目を掻い潜って、忍び込んできた。

 

「イリス……! 一緒に、逃げよう?」

「セリオス!? どうして……」


 扉の影から現れたセリオスは息を切らし、焦っていた。

 その姿は、いつもの彼じゃなかった。

 そこにいたのは土埃にまみれ、汗を流す一人の少こか年だった。


「私は……イリスを犠牲にしたくない。この国がどうなろうと」


 だから一緒に逃げようと、私に言う。

 

「それは……言っちゃ駄目だよ。セリオスはこの国の皇子様なんだから」

「……私はイリスを選ぶ。君が望めば私はいつだって! だからイリス、私とどこか遠くに逃げよう……?」


 だけど、私はセリオスの手をそっと振りほどいた。

 その温もりが嬉しくて、でも苦しかった。


「……駄目だよ。私が逃げたら、国が滅びてしまう」

「国よりも、イリスの方が大事なんだ!」

「ありがとう、セリオス。でも私は聖女だから。だからもう……帰って?」

「イリス! どうして……! 私は君じゃなきゃ、駄目なんだ。君のことが……好きなんだ!」


 だけど私は、セリオスの想いに応えられない。


「セリオス、ごめん……」


 でもその想いを、胸の奥にしっかりと刻んだ。

 そして私は儀式の場へ向かう準備を始めた。

 

 銀色の小瓶に入った薬はそのまま捨てた。

 怖くないわけじゃない。

 でも自分の最後くらいは、ちゃんと覚えていたいと思ったから。

 

 空は青く晴れ渡っていた。

 風が吹く。

 ここは神殿の最奥、女神の泉のほとり。

 身に纏うのは銀糸で織られた白銀の衣、それはまるであの日憧れたウェディングドレスみたいだった。

 ただ今日この衣が意味するのは、祝福ではない。

 

 静かな水面はまるで鏡のように、死地へ向かう私の姿を映していた。

 

 儀式には皇帝と皇后の姿があった。

 この国の命運がかかっているのだから、いるのは当たり前といえば当たり前のことなんだけど。

 私が想像していたよりずっと盛大な儀式に、少しだけ緊張する。

 

 その中にセリオスの姿もあった。

 目が合った瞬間、セリオスの顔が苦しげに歪む。

 そしてなにか言いたげに、必死に私の姿を目で追いかけていた。

 苦しませて申し訳ないなと思うけれど、私の死を悲しんでくれているのが少しだけ嬉しかった。

 

 私は微笑んで返す。

 「助けて」と、今にも泣き叫びそうになる自分を押し殺して。

 

 祈りが始まる。

 神官や巫女たちの声が、厳かに響く。

 空気が震え、淡く光りだす泉。

 私の胸元には瘴気を封じるための紋が、ゆっくりと浮かび上がる。


 まだ痛みはない。だけど、冷たくて寒い。

 まるで少しづつ命が削られていくみたい。


 そして紡がれる最後の祈り。

 

 ――瞬間。

 それは、始まった。

 泉の底から黒い瘴気が噴き上がる、まるでこの世界が悲鳴をあげるような轟音、耳の奥に響く。

 

 怖い、でも私は目をそらさない。

 恐怖に逃げ出してしまいそうな身体をその場に繋ぎとめる。

 光と闇の奔流が私の身体に巻きつき、飲み込んでいく。

 髪が宙に舞い、白銀の衣が揺れる。


「大丈夫、私は……もう」


 涙がこぼれて落ちそうになるのを必死に押しとどめて、私は笑う。

 最後は笑顔で終わると決めていたから。

 一歩、また一歩、泉の中へ足を踏み入れる。


 冷たい水が足元から腰へ、胸へと満ちていく。

 黒い瘴気が私という器の中に吸い込まれて収まっていく。

 痛い、寒い、痛い。


 ……息が、できない。

 ……視界が、滲んでいく。


 この世界は私に死を強いた、それでも。

 私はこの世界が好きだった。

 青い空が好きだった。

 風や花が、あの人の声が全部、全部大好きだった。


 だから、もういい。後悔なんて、しない。


「……ごめんね。あり、がとう」


 最後にこぼれ落ちたその言葉は、誰にも届かなかったかもしれない。

 でも、それでも。私は確かに笑っていた。


 そして私の身体は、封印の完成とともにゆっくりと泉の底へと沈んでいく。


 瘴気と共に、静寂の中へ。

 世界の平穏を祈りながら、私は終わりを迎えた。


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