1話 プロローグ、封印からの帰還
1話 プロローグ、封印からの帰還
吹き抜ける風は澄み渡り、色とりどりの花が舞う。ここは女神イルベリアに祝福された地、エルヴィア皇国。
この国に生きる者にとって女神イルベリアは特別な存在であり、その祝福は命そのものだった。
国の中心にそびえ建つ、大神殿。
そこには女神イルベリアが降臨したと伝わる『女神の泉』があり、普段は神官たちによって厳重に守られている。
だが年に一度、豊穣の祭りが執り行われる時にだけ一般に広く開放されていた。
豊穣の祭りは女神イルベリアに感謝を捧げる祭り。
だから人々は年に一度女神の泉を訪れ、その奇跡に感謝を捧げていた。
けれど人々は知らなかった。
その祝福には代償が伴うということを――。
神殿の奥深く。
女神の泉に現れたのは小さな黒い霧。
それが現れた時、全てが狂い始めた。
祝福と呪いは表裏一体。
それは静かに、人が気付かぬほど小さく。
見落とされたほんの小さな歪み、それは国全体を呑み込む厄災へと変わる。
――祝福の大地に黒い霧が出現した。
黒い霧は家畜を狂わせ、病を呼び人の身体を蝕んだ。エルヴィアの各地で次々に確認された黒い霧は、そこに生きる者たちの心に恐怖という名の種をまいた。
恐怖した人々は口々に言った。
『これは女神様の怒りなのだ』と。
赦しを乞うように女神に祈る人々は、やがてひとつの答えにたどり着く。
『女神イルベリア様の怒りを鎮める為に、尊き人柱を泉に捧げよう』と。
……まもなくして、神託が下された。
そして選ばれたのは、女神と同じ黒髪に夜空を閉じ込めたような藍色の瞳をもつ美しい少女。
神託によって選ばれた少女は『聖女』と呼ばれ、国に降り注いだ厄災をその小さな身体に封じて永遠の眠りについた。
こうして、国は救われた。
黒い霧は消え、空は再び青く澄み渡り、エルヴィア皇国には再び光が差した。
そしてエルヴィアはかつてのように、女神の祝福に満たされた豊かな地として平和を取り戻した。
けれど。
聖女の犠牲の上に取り戻した平穏は、束の間の平和に過ぎなかったのである。
聖女が命を捧げて封じた災厄は、決して滅びたわけではなかった。
それはただ、聖女というゆりかごの中で眠っていただけに過ぎなかったのである。
時は流れ、季節は巡る。
――それは静かな崩壊。
そこは聖女が永遠の眠りにつく、大神殿の最奥。
聖女が人柱となったあの日から、誰も立ち入れぬ神聖な場所となった『女神の泉』。
その聖域にひびがはいったのは、夜の帳が降りた真夜中すぎ。
月が雲に隠れ、緩やかにそよぐ風すら止まったとき――なにかが、世界の奥底で目を覚ました。
淡く光る魔法陣の中で、まるで眠るように横たわる黒髪の少女。
長い睫毛がふるりと揺れて、小さな唇からかすかに吐息が漏れた。
それは長い夢の終わりを告げる目覚めの兆し。
世界を救った聖女は、かつて己の命を捧げたこの場所に、再び帰ってきた。
けれど、そこにかつてのような人々の祝福や歓声はなく。
夜空に浮かぶ満月と、冷たい風だけが聖女の帰還を静かに迎えていた。
◇◇◇
「……え、あれ?」
まぶたの裏に柔らかな光が差し込んだ。
おそるおそる目を開ければ、そこは見覚えのある場所だった。
だけど私が知るこの場所とはどこか違っていた。
『女神の泉』ここはかつて、神官達の祈りと光に満ち溢れた温かな場所だった。
なのにいま目の前に見えるここは、恐ろしいほど静かで人の気配が全く感じられなくて。
まるで廃墟のようだった。
だからまだ夢を見ているのだと思った。
だけど肌を刺すような冷たい空気がこれは現実だと私に告げる、夢はもう終わりだと。
「寒い……」
静けさの中に、私の声にならない声が響く。
喉が渇いて痛い。それに身体も鉛のように重くて、うまく動かせない。
「氷の中に……閉じ込められていたみたい……」
震えて強ばる身体。無理に動かせば、身体中の骨が軋むような痛みが走った。
「い、痛ったい……」
それでもどうにか腕をついて身体を起こせば、足元にひび割れた魔法陣が見えた。
淡く光を放つそれは瘴気を身体に封印した私ごと、この女神の湖に封じる為のもの。
今にも消え入りそうな光、それがなぜか気になって指で撫でた。
その瞬間。
ひび割れた魔法陣が音もなく崩れて消えた。
「え……あ、えーっと?」
まさか消えるとは夢にも思っていなかった。
とんでもないことをしてしまったような気がするけれど、元々消えそうだったし私のせいじゃないと頭の中で言い訳していると。
――次の瞬間。
黒い霧が石造りの床から溢れだした。
「なっ、瘴気⁉」
勢いよく溢れ出した黒い霧は、溶けるように夜の空に広がっていく。
見覚えのある景色だった。
それはあの日、私が命をかけて封じた瘴気の霧。
けれど、どこかが違った。
あの日とは。
頭上に広がった黒い霧の中から丸い影がふわりと跳ねて、落ちた。
……ぽふん。
「あっ、落ちた……」
なにやら柔らかい音をたてて落ちた丸いそれは、私の足元にころころと転がってきた。
そしていそいそと私によじ登って肩に乗った。
「えっ、えっ!?」
手のひらの大きさほどのそれは黒くて丸くてフワフワの身体に、くるんと大きな尻尾に小さな耳。
きらきら光る赤い宝石のようなつぶらな瞳。
それはまるでぬいぐるみのようで可愛らしく、私の顔をじっと見て「きゅ」っと鳴いた。
「か、可愛い……」
ためしに肩に乗る毛玉を指でつついてみる。
ふに……、と柔らかく沈む感触に優しい温もり。
ああ、これは駄目だ。嫌いになれない。
だけどこの嫌な感覚は、まぎれもなく私が命と引き換えに封じた忌まわしきもの。
それにこの黒い毛玉から感じる瘴気は恐ろしいほど濃密で、とても危険なものだと頭ではちゃんと理解できている。
……でも、払いのけることができない。
まるで私を慕うように頬にすりすりと体を寄せてくるその仕草は、どうにも可愛らしくて。
愛おしく感じ始めてしまっている私は、もう色々と駄目なのかもしれない。
「えーっと……あなたは、瘴気?」
「きゅ?」
「……いったい、どこからきたの?」
「きゅー」
「お名前は……?」
「きゅ、きゅー!」
いくら問いかけても返ってくるのは「きゅ」という愛らしい鳴き声だけ。
その可愛らしさに心が和む、けれどこの気配は間違いなく私が封じた瘴気。
だからどんなに可愛いくても、ここにいていい存在ではない。
……ふと脳裏に、ひとつの不安がよぎった。
この毛玉は私が目覚めてからここに現れた、まるで私が呼んだように。
「これはちょっと不味い、かも……?」
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