それぞれの葛藤2
さんざん仕事へ全精力を注いでからの帰宅途中は、ずっと考えないようにしていたあらゆる感情が、反動のようにどろどろに混ざり合って襲ってくる。それを、何とか処理して、歩美や佐和への文句を考える。
そして、六一〇号室の自宅へ帰宅。
「おかえりー」
いつも通りの明るい出迎えが、神経を逆なでする。自然と顔が強ばった。歩美がすかさず「うわぁ。怒ってる」と、顔を顰めて、さっと背を向けてリビングへ引っ込んでいってしまう。
「当然でしょ? 本当に何考えてんの? 信じられないんだけど!」
靴を脱いで、歩美を追いかけた。
「こういうことは、親があまり首をつっこんじゃいけないと思ってたからずーっと黙ってきたけれど。いい加減、逃げずに膝を付き合わせてほしいと思ったから、そうしたの」
「だったら! 口で言ってくれればよかったじゃない! そしたら、私だって……」
勢いよく言った言葉の先が続かなかった。情けないほど尻つぼみになっていく。
言ってくれれば、私は何かした? 自問すれば、答えはすぐに出てしまう。ノーだ。自分が投げ入れた石に、自分でぶつかったみたいになってしまっている。
黙り込む彩芽に、歩美がキリっと睨んだ。
「お母さん、前に言ったわよ?」
覚えてない? という歩美に、彩芽は一瞬眉を潜めていたが、すぐにハッとした顔をして、苦々しい表情になっていた。目どころか体全体を逸らし、背を向けていく。
歩美は、それをじっと見つめていた。
それは、二年前。
彩芽の就職が決まった。その報告を聞いた歩美は「さすが、わが娘!」と、肩くらいの髪の髪の毛をわしゃわしゃと犬のように撫でまわして、提案した。
「じゃあ、お祝いにたまには二人でいいところへ食べに行きましょうよ」
歩美は、我ながらいい考えだと思ったのだが、彩芽の反応はいまいちだった。
「いいけど……」
彩芽の歯切れの悪い返事。その頭に誰を思い浮かべているかなんて、すぐにわかる。歩美は口を尖らせていた。
「いつもハル君と一緒なんだから、たまにはお母さんに付き合いなさいよ」
「別に、陽斗のこと気にしてたわけじゃないし!」
すぐに彩芽から否定が返ってきたが、顔が真っ赤になっている。そんな顔を見れば、陽斗と一緒にいたかったのにと言っているようなものだ。
まったく。そんなモダモダしてるなら、さっさと付き合えばいいのに。
わが子ながら、本当に素直じゃないんだから。呆れそうになってしまうが、それも仕方ないかとも思う。
私自身も、割とそういうところがあるから、血は争えない。溜息をついて、一応確認する。
「じゃあ、和食屋さん予約していいのね?」
「うん、いいよ」
彩芽の投げやりな返事だったが、まぁ仕方ないかと思う。彩芽の最優先事項は、いつも陽斗。
まぁ、久しぶりに娘と二人だけで、和食を食べに出かけられる。それだけで、良しとしなければ。
それに、正直ちょっと嬉しいなんて、気恥ずかしくて歩美には言えなかった。
そして、いざ高級和食料理店で、二人カウンター席に座った。懐石料理は、どれもおいしくて、彩芽も珍しくはしゃいでいた。
「和食なんて、ほとんど外で食べないから、新鮮」
「若者らしい感想ね。何か飲む?」
「やっぱり和食といえば、日本酒でしょ」
「さすが、彩芽。大人になったものねぇ」
本当に大きく、逞しく成長してくれたものだなと、親として誇らしかった。私なんかよりも、よっぽどしっかりしているし、自慢の娘と言い切れるほどだ。
そんな娘ではあるが、やはりどうしても見て見ぬふりできない大きな問題を指摘しない訳にはいかなかった。
「それで? 彩芽はハル君と、どうするの?」
何気ない直球を投げ込むと、彩芽の動作はピタリと止まっていた。
「どうするって?」
一番つつかれたくないところを、容赦なく刺激されたことに、非常に不愉快。そんな顔をしていたが、ここで怯むわけにもいかない。
「このまま、放っておいていいの?」
「別に放ってなんかないじゃない。平日以外は、だいたい一緒にご飯食べてるし、喋ってるし」
「そういうことじゃないでしょ」
本当に聞きたいことをわかっているくせに、ぐらかす彩芽に頭が痛くなる。米神をぐりぐりと押しながら、歩美は確認していた。
「あんたたち何歳になったんだっけ?」
「二十二歳」
「ずっとこのままで、いくつもり? いつまで逃げるの?」
「別に逃げてなんかいないし」
「じゃあ、素直な気持ちを話してみたら? ハル君のこと、好きなんでしょ?」
「……そんなんじゃ、ないし。もうその話は、やめてよ。食事が不味くなる」
白々しくそういう彩芽。結局、その話題については、もう一切話したくないと固く口を引き結んでしまい、母としてそれ以上なにもいえなくなってしまった。
歩美は、知っていた。
彩芽の十六歳の誕生日の一週間前。
滅多に泣かない彩芽が、大泣きしていたことを。泣いていた瞬間は、見ていないが、かなり泣いたんだろう。これまで見たことないくらい晴れ上がった瞼。真っ赤な鼻。掠れた声。
彩芽は、人前で泣くことを極端に嫌う。
「お母さんね、離婚することにしたの」
彩芽へ残酷な言葉を放った時だって、彩芽は泣かなかったのに。いや、 厳密にいえば、母の私に知られないように陽斗の前では泣いていたのだろう。後々、佐和から話を聞いている。ただ、私の前に顔を出した時には、本当に泣いていなかったんじゃないかと思えるほど、きれいに涙の痕跡は消されていた。いつも通りの笑顔。いつも通りのちょっと抜けた明るさ。
母である私に気遣って、そうやっていつも通りを装っていた。それも、陽斗がいてくれたからこそだと、私は、彼の存在を心から感謝していた。
陽斗が彩芽の隣にいてくれたこと。そして、素直じゃないながらも陽斗が少なからず彩芽のことを大事に思ってくれていることを。彩芽の嬉しそうな顔も、わかりやすくありがとうと、かいてあって、微笑ましかった。
その頃の二人は、まだ幼すぎて、家族愛なのか、恋の愛なのか。母親として、判断はつきかねていたが、時間が経てば自ずと答えはでていた。
少しずつ、変わっていくお互いを見る眼差し。親から見れば、一目瞭然でわかりやすすぎるのに、当の本人達は全くそれに気付いていなかった。それも、更に時間が経てば、中身も成長して、二人で答えを出すだろうと思っていたのに。
あの事件で、二人の態度は、頑なになってしまった。あの時。彩芽がもっと素直で、陽斗が隠そうとしなければ、今のような面倒な状態にはなっていなかったはずなのに。
歩美は、心底溜め息をつく。そこから、僅かな怒りも含まれている。
「そうやって、まだ逃げるか」
歩美は、隠したって無駄というように、彩芽の胸の中心を指さして睨む。彩芽の心臓の奥に隠しているものなんて、簡単に見つけ出しているとでもいうように。彩芽は眉を潜めて思わず、顔を背けた。
「私は、別に……陽斗とは、そういうのじゃないし」
しびれを切らした二年前と全く同じ返答に、心からガッカリしたという歩美は、その後固く口を引き結んでいた。
彩芽は、その沈黙に耐え切れず、自室へ逃げ込んでいた。
逃げるんじゃない。ただ私は。
高校の時味わったどん底なんて、もうみたくもないし、耐えられないだけだ。
だから、もう放っておいくれればよかっただけなのに。