表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/39

それぞれの葛藤

 翌日。

 昨晩は、自分の誕生日だったはずにも関わらず、寝覚めは最悪だった。

 眠りが浅かったせいなのか、頭がぼんやりとして、霧の中を彷徨っているような感覚。それに加えて、頭の奥に鈍い痛みが一定リズムでやってくる。よっぽど二日酔いの時の方が、ましだと思えた。

 どうせ、こんな状態になるのなら、昨晩やけ酒でもしておけばよかった。

 深々と溜息をつき、ベッドから這い出て、リビングへと向かう。トーストでも食べようと、キッチンへ行く。そこには、昨日の親からの書置きがそのまま残されていて、その隣に投票用紙の封筒が置かれていた。あて名は、やはり『西澤 彩芽様』

 怒りがまた再燃しそうになって、母の能天気な手紙と一緒に、ぐしゃぐしゃにして、ゴミ箱へ突っ込んだ途端、毎日のように言っていたことを思い出す。

『子供達が二十四歳になっても、結婚相手いなさそうだったら、結婚させようよ』

 でも、だからってまさか有言実行するなんて。二十四歳の誕生日。これまで通り陽斗と変わらぬ日常を過ごし、終わっていくと思っていたのに。青天の霹靂とは、正にこのこと。重い溜息は、止まらない。いったいどうすればいいのか。ともかく、今はどうすることもできない。悪魔たちの帰還を待つしかないのだ。

 手早く出勤の準備をして、彩芽は家を出た。気持ちを切り替えよう。家を出て満員電車に揺られる。だが、いくらそう思っても、うまくいかず、出勤しても失敗続きだった。

 店頭に立てば、お客さんへ返すお釣りを間違えるし、事務所に戻って、電話すれば電話番号を間違えて、相手を怒らせた。

 溜息は一日中止まらない。


 事務所のデスクで項垂れている彩芽に、藤原が眉を潜めながら、声をかけていた。

「どうしたの? 今日は、高島さんらしくないねぇ。そういえば、昨日ウキウキしながら持ち帰った洋菓子。ワインと一緒に試してみた?」

「あぁ……まだ、試してません」

「あれだけ意気揚々と帰っていったのに、何かあったの?」

「結婚、か……」

 一瞬こぼれてしまう。事務所にいる面々の意識が一斉にこちらへ向く気配がした。

「え? 結婚するの? 高島君、恋人いないって嘆いていたよね? まさか、昨日の誕生日に運命の出会いとか、しちゃったの?」

 ぎくっと、心臓が跳び跳ねた。

 結婚するじゃなく、自分の知らない間に結婚してましたなんて、言えるはずもない。こんなバカげた話、堂々とできるほど、心臓に毛は生えていない。貫く彩芽の沈黙。事務所内はざわざわしていたが、忙しい業務をこなさなければならず、霧散していく。忙しい職場というのは、こういう時大変助かる。

 だが、藤原は、悩まし気な表情を浮かべて、真剣なまなざしを向け続けていた。

 

「結婚は、慎重にしないと。相手の性格や価値観、そういうのをしっかり見極めて、決めるものだよ。いざよく知らずに生活してみたら、浮気癖が酷かったとか、酒乱だったとか、結構聞く話だよ。統計的に見ても、短期間の付き合いで結婚した場合、その離婚率は増加するって、根拠づけられているしね。だから、一時期の盛り上がった勘定で、決断を早まっちゃダメだよ」

 藤原の真剣なアドバイスに、彩芽は、そんなこと、わかっていると小さく何度も頷く。

 付き合ってはいないけれど、相手の性格、価値観。それは全部わかっている。陽斗は、基本的には、優しい。暴言はあっても、手を挙げることもないし、所謂キレるということもない。

 結婚したら、きっと幸せな家庭を築けるのだろうなと思う。そして、その横に、自分がいられたら。そんなうっすらとした想像をしたことは、昔は幾度もあった。

「今のままじゃ、ダメなんですかね……」 

 つい、ポツリと本音がこぼれてしまう。

 それを藤原は、静かに拾い上げていた。

「何度か高島さんの話題に出てくる、隣人の彼?」

 藤原にズバリと言われて、ドキッと心臓が跳ねて、焦る。自分で言い出したことなのに、滑稽だ。焦りを何とか自嘲に変えて、頷く。

「ずっと、一緒にいるから今更って感じで……前にも勧めないし、後にも引き返せない。居心地もいいし、それなら、このままでもいいなんて、思ったりして」

 そういいながら、自分でもわかっている。それは、ただの建前だ。本当は……本当なら。そのあとの更に溢れてきそうだった本音は、無理やり飲み込んだ。

 自分の素直な気持ちを打ち明けて、いい加減曖昧な関係に終止符を打って、陽斗と先へ進んでみたい。でも、もしも、拒絶されてしまったら。この先、どうやって過ごしていけばいいのかわからない。こんな情けないこと、いえるはずもない。

 あの日の苦く、ざらりとした記憶が脳裏を掠める。

 若かりし頃受けた傷なんか大したことない。すぐに塞がるから、大いに挫折を味わえと、昔の担任の先生は、よくいっていた。だけど、そんなの嘘だった。

 高校の時受けた傷は未だにかさぶたにもならず、ズキズキ痛み続けている。あれから、随分と大人になって回復力も衰えているだろう。それなのに、またあの頃と同じような、それ以上の傷を負ったら、致命傷になるだろう。そうなってしまったら、私はどうなってしまうんだろう。


 昨日の道端とのやり取りは、その傷が更に悪化したような気がした。痛くて、仕方がなかった。

 陽斗は、サッカーがプロを目指せるほどの腕前だったということに加えて、端正な顔立ち。それ故に、よくモテた。

 いつもキャーキャー陽斗の周りに女の子が、集まっていた。そういうのを見たくなくて、陽斗に「たまには練習見に来いよ」と誘われても「興味ない」といって、断り続けていたのに、一度だけ、見に行ったことがある。母の歩美から「陽斗へ差し入れを持って行って」と頼まれた時だ。その頃私は、高校一年生。私の十六歳の誕生日の一週間前だった。


 陽斗は、きっと知らない。

 その日、私がサッカーの練習場に顔を出していたこと。陽斗がクラブのマネージャーをしていた長い黒髪の女の子と、みんなの前で堂々とキスをしていたのを、目撃していたこと。涙が溢れて止まらなかったことを。

 その時の私は、自分の感情がよくわかっていなかった。

 ずっと一緒にいるのなら、誰がいい? そう聞かれたら、陽斗かなと答えられるくらいの自覚はあったけれど、こんなに泣けるほどまで陽斗への感情が膨れ上がっていたことなんて、知らなかった。気付くのが遅すぎたんだ。バカだな、私。そう思ったら、止めどなく涙が零れ落ちた。もう、こんな思いするのは、御免だ。目が腫れて、頭が痛くなるほどそう思った。泣いて、泣いて、泣き続けた。

 

 その一週間後が、私の誕生日だった。陽斗はそんな彼女がいながら、私との時間をわざわざ作ってくれた。高校生になったんだからたまには、違う場所へ行こうと、年齢の割にずいぶんと背伸びをしたレストランへ誘ってくれた。だけど、あの衝撃的な光景が頭から離れず、素直な嬉しさは複雑な色に染められてしまっていた。

 私は全部わかっていた。陽斗がそうしてくれたのは、誕生日イベントというこれまでの慣習で、義務みたいもの。誕生日は、特別な日なのだと、散々母親たちが刷り込んだ悪い結果だ、と。

 そうやって陽斗を縛り付けてしまっているのは、不憫だと思った。

 いっそのこと「わざわざ誕生日だからって、隣人のよしみと義務感で、一緒にいてくれなくていいから。彼女のところへ行ってあげて」といってあげた方が、よっぽど親切だったはずだ。

 わかっていたのに、私はどうしても言えなかった。ずっと続いていた二人の時間が全くなってしまうというのは、とても耐えられそうになかったのだ。だから、私は逃げたんだ。

 「誕生日も通常運転で行こう」という中途半端な立ち位置へと。

 それを、律儀に守り通している陽斗。いつかは、解放してあげなければと思いつつ、それさえもできなかった自分。ちょっとした罪悪感だったのが、どんどん降り積もって、今は高い山となって目の前に立ちはだかっている。


 

「高島君に、そんな悩みがあったとはねぇ。意外に繊細なんだ」

 失礼ですよといつも通り、軽口で返そうとしかけたら、思いがけず、藤原の真っすぐに見据えてきていた。いつもニコニコどころか、へらへらしているのに、真面目な表情。思わず、たじろいでしまう。

 

「だから、仕事に真っすぐ熱心に、なってたのか。仕事は、案外現実から目を逸らせるからね」

 藤原の言葉が、心臓のど真ん中に突き刺さる。

 うっと、うめき声まで出そうだった。返す言葉が見つからない。

 その通りだ。私は、仕事に熱心なふりをし続けて、逃げ道に使っている。仕事はワイン相手だから、好都合だった。ワインは大好きだ。その相手は、決して裏切らない。感情もないから、振り回されることもない。すごく、楽だ。

 そんな私を見透かすように、藤原はいった。

 

「変化を起こす瞬間っていうのは、誰だって怖いさ。僕だって、妻にプロポーズした時、心臓が止まりそうだったし。だから、高島さんの恐怖に感じる気持ちは、よくわかる。でも、こういうのは、やっぱり自分を信じて突き進むしかないんだと思うよ。逃げてばかりいたら時間ばっかり過ぎて、それこそ一生その場で立ち止まってしまうってこともあるしね。目の前の壁を壊してみたら、とんでもなく色鮮やかな景色が広がっているかもしれない。僕は、実際そうだったわけで」

 藤原はそういいながら、顔が崩れている。きっと愛する奥さんと、子供たちの顔でも浮かんだのだろう。

 単純に、羨ましいなと思う。きっと藤原は、自分を強く信じられる人なのだろう。だから、明るく幸せな未来が拓けた。でも、私は自分で自分を強く信じて、突き進めるほど、強くない。

 

「高島さんも、僕らのようになれるといいね」

 唇を噛む私へ、藤原はそっと言葉を添えてくれる。決して嫌味ではなく、そういう未来を信じてみればいいという意味なのだろう。藤原は茶化すような表情ではなく、引き締まっていた。でも、私はやっぱり深いため息しか出なかった。


「そういえば、洋菓子とのコラボの話。こっちもどうなるかは、わからないけれど、候補のワインの取引先には、事前に話は通しておかないといけない」

「あ、そうですね。早々に取引先と会って話してきます」

 やっぱり、今はなにも考えず仕事だけに集中しよう。頬をパンパンと叩いて気合いを入れると、すかさず藤原はいった。

「この企画は、逃げ道のために使うんじゃないよ」

 藤原は、ポンポンと私の肩を叩いて、ニヤっとした笑顔を残して、立ち去っていく。

 仕事を逃げ道に使うなと言われてしまったら、悩みと問題しか残っていないじゃないか。

 肺の中の空気を全部吐き出すと、自然と身体が折れて、机に額をぶつけていた。


 額の衝撃と共にポケットのスマホが震えた。無言を貫き通していた相手。母の歩美からだった。

『明日の夜に帰ります。冷静で、真面目な話し合いを希望いたします。よろしくお願いいたします』

 やけに堅い文面。前回のふざけた文面の対比となって、まるで真面目さが感じられなかった。きっと、これを送りながら、どんな顔をしているのだろう。想像して、また怒りでどうにかなりそうだ。

 陽斗との悩みを仕事に使うなというのなら、この怒りを仕事へぶつけてしまえ。

 私は、それから仕事にどっぷりと入り浸った。

 おかげで、陽斗と顔を合わせることもなく、母たちの帰還の日を迎えていた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ