そして、二十四歳2
渋谷にあるスポーツ用品メーカーであるアシスタの終業時間を終えて、陽斗が帰り支度を始めていると、正面デスクに座っている二年先輩の営業である根岸奈緒が、グイっと顔を伸ばして興味津々の顔で頬杖をついていた。
「あれ? この後、取引先の飲み会、西澤君行かないの?」
「今日は、ちょっと用事があって」
「西澤君が参加すると、女の子たちそれだけで盛り上がって、話すネタに困らないのに」
根岸の声は抑揚がなく、さして気にしてなさそうに聞こえるが、切れ長の瞳はわかりやすく詮索してくる。
直属の先輩である根岸奈緒は、元プロバレーボール選手。陽斗自身、身長は百八十を超えていて、平均よりは高い部類に入るのだが、彼女はそれを遥かに超えている。最初会ったときはつい「さすが、デカいですね」とつい口を滑らせて怒られた。その事件があったから、一気に打ち解けられたということもあったのだが、あの怒りをもう買いたくない。
「俺の話なんかより、先輩の武勇伝の方が盛り上がりますよ」
「まあね。私こう見えて、凄腕セッターだったからねぇ」
調子に乗り始めた根岸が雄弁に語りだす。ほかの社員も集まり始めて、気が逸れた合間を縫って、陽斗はその横をさっと逃げ出した。
自宅最寄り駅に到着して、駅前のファミレスへ直行する。彩芽のことだ。どうせ遅れてくるだろう。先に店へ入って、水だけでやり過ごす。今日は空席が目立つ。通された先は、四人用のソファー席だった。ソファに手をつくと、ザラリとした感触。見やれば、経年劣化で痛んで剥げてきていた。ここも随分と古くなったものだと思う。
開店したのは、確か小学生の頃。
初めて来たときも、やはり歩美、彩芽、佐和と陽斗の今も変わらない顔ぶれだった。その頃、まだ多少真面目だった母親らは、酒がなしでも大いに隣で盛り上がっていた。あれから、ずいぶん時間がたったものだと思う。
みんな、変わっていなさそうで、本当は少しずつ変わっていっているんだろう。
母親たちだって、何も変わっていなさそうで、このソファが傷んだ数年間の間、たくさんの出来事があった。
彩芽の母歩美は、彩芽が高校の頃、離婚をした。彩芽は、その頃、酷く落ち込んでいた。
陽斗の方といえば、父親が海外へ単身赴任するようになり、年に数回しか帰ってこなくなった。その間、佐和は体調を崩し入院したこともある。そして、陽斗は、サッカーの試合中に大怪我をしてプロの道を断たれた。
みんながそれぞれ、立ち直れないと思えるほど、大きな苦労と挫折を経験した。
そうやって、ささやかな日常は少しずつ壊れて、再建され、変化していった。そして、その大きな変化は、どれもあまりいい記憶とはいえない。そんなことを痛感した年月であるように思う。
陽斗は、水を一口飲んで、軽く息をつく。
だからこそ、恐れている。自分たちに変化が訪れることを。だが、それはただの逃げだ。いい加減、決着はつけなければならない。頭では理解していて、その時のことを何度も、想像した。実際に高校の時は、彩芽へ思いを告げようと試みたこともあった。
高校一年の彩芽の十六歳の誕生日に合わせて、プレゼントも買って、少し背伸びをしていつもとは違う場所へ行こうと誘った。家の前で待ち合わせをして、お台場まで、足を延ばして、大人びたレストランでの食事へ連れ出した。そこで言われた一言が未だ忘れられずにいる。
「誕生日も通常運転で行こうね。お互いプレゼントとか、恋人に間違えられそうだし。私たち、そんなんじゃないもんね。私達らしく、ずっといこうね」
彩芽は明るい笑顔で、いつもを装うようにいったつもりだったのだろう。しかし、彩芽はそのあとすぐに、長い睫を伏せて、固く拳を握って話題を変えていた。しかも、しばらく俺と視線を合わせようとしなかった。普通の友達くらいなら、そのくらいのこと、どうとも思わないところだろうが、俺にとっては十分すぎるほど不自然に見えた。
そして、そのぎこちない彩芽の態度から、俺はすべてを悟った。
彩芽は自分が思いを告げようとしていることに気付いて、先回りしたのだと。告白すら許されず、振られた気分が勝ってしまい、それ以上何も言えなかった。受け入れる以外、選択肢はなかった。煌びやかなレストランの光が一気に消えて、いつもよりもずっと高級で、おいしいはずのメインディッシュの肉もしなくなっていった。まるでゴムを食べているような感覚で、酷く不味かったことだけは、よく覚えている。
あの時、些細な態度の変化に気づいていなければ。それでもと勇気を振り絞って、ポケットに忍ばせていたプレゼントを渡せていたら。柔らかい肉の感触も取り戻して、人生で一番おいしかったと感動できる味になったかもしれなかったのに。そして、二人の関係はずいぶんと変わっていて、今のような泥沼状態になっていなかったのかもしれない。だが、あの頃は、そんな勇気なんて、持ち合わせていなかった。当時は、本当に情けないガキだった。
あれから、ずいぶんと時間も経って、あの時の傷が塞がり始めた。もう、いい加減に彩芽へ思いを告げよう。
大学時代も何度か試みようとしたこともあったが、彩芽はいつもタイミングを掴ませてくれないし、振り回されて、結局今に至ってしまっている。無理やりでもこの感情を押し付ければいいものを、それができない自分が一番悪いのだろうが、彩芽も彩芽だと思う。あいつの天性の鈍感さと、自由度。それが、すべて悪いんだ。
そんなことを考えていたら、彩芽が両手に紙袋抱えながらやってきた。女々しい自分に蓋をして、いつも通りの自分に切り替える。
「ごめん、ごめん。遅くなっちゃった」
「お疲れ。ずいぶん、大荷物だな」
「仕事用のワインとお菓子。コラボ企画でさ。色々試してみたいんだよね」
「それ、全部貰いもの?」
「まさか。最近は、気前よく『どうぞ』なんて、なかなかないんだから。自腹よ」
自信満々に言ってくるが、どこまで仕事に情熱を傾けるのか。いささか心配になってくる。
その一方で、ならば、今は思いを告げるタイミングではないのだろうなと、都合のいい逃げ道を作っていく。それを自覚しているからこそ、情けない。高校の時の自分よりも、捻くれて悪化している気がする。情けなさに溜め息か出そうになる。それを誤魔化すために、注文用タブレットへと手を伸ばした。
「彩芽は? ビールと、何?」
ファミレスではビール一杯のみ。あとは、家で飲むというのが定番となっている。陽斗が、タブレット端末のメニューを開いて、ビール二人分。とんかつを入れると、間を置かず、ハンバーグと返答があり、そのまま注文を入れる。
「考えてみたら、外食なんて久々。ずっと、家か職場ご飯だったもんね。ちょっと新鮮」
「寂しい人生だな」
「うるさい」
あからさまに嫌味を添えると、みるみるうちに目が吊り上がっていったが、ちょうどよくビールが運ばれてきた。乾杯して、飲み始める瞳の尖りが消えて、いつもの丸いい瞳に戻っていた。
「そういえば、陽斗の誕生日に二人で、ここ来たことあったね」
「あぁ……最悪の思い出な」
顔を
「本当、最悪だったよね。お母さんたち、大雪で電車止まって帰れなくなっちゃって。食べるもの何もなくて、大雪の中、二人で食べに来たんだよね。で、次の日陽斗が風邪ひいて寝込んで、俺は今ここで死ぬとか、叫んでたもんね」
陽斗の中で一番といってもいいというくらい格好悪く、消したい記憶だ。
簡単に掘り返しやがって。今でこそ彩芽は、ゲラゲラ笑っているが、当時は、心配してすぎて大泣きしていたのはどこのどいつだ。ぶすっと不貞腐れていると、軽蔑するような視線を向けてくる。
「なに不機嫌になってんのよ? 私の誕生日に、やめてよね」
自分で話題を振っておきながら、この言い草だ。
「自由人め」
俺はいつも通りこうやって、振り回されて、結局彩芽のペースになっていく。
今日も今日とて、やっぱり彩芽だ。