壁の崩壊3
彩芽がワインの取引先との面談を終えて店を出る。いつもならば、解放感溢れるのだが、今は疲れがどっと出て、とても晴れやかな気分とは言えない。
陽斗からカプセルホテルに泊まると言ってくれて、今日この後の悩みは一時解消されているとはいえ、結局はその場しのぎだ。根本的な解決に何も至っていないわけで。ずっと顔を合わせないわけにもいかないだろう。それに、この先どうしたらいいのか、よくわからない。はぁっと憂鬱なため息が出てしまう。
「今日はハードスケジュールだったね」
関口が彩芽のため息に反応して、気遣う言葉をかけてきてくれる。彩芽は、慌てて、笑顔で取り繕った。
「今日はあっちこっち忙しくて、ずいぶん遅くなっちゃったね。関口君も担当外の取引先まで付き合わせて、ごめんね。コラボ企画採用されるかどうかわからないけど、電話で先に説明入れようとしても、私じゃ全然うまく洋菓子については説明ができなくて、ずっと感触悪かったの。だから、今日は関口君が来てくれて、本当に助かったよ。ありがとう」
「いや、そんな全然だよ。ワインの取引先の店って、結構癖強いんだね。洋菓子も職人みたいな、気難しい人結構いるけど、ワイン業者は、またその上をいってるよ。ずっと、変な汗が出てた。すごく勉強になったよ。コラボ企画、よく吟味しないとね。まだ、高島さんは、本格的な試飲食してないんでしょ?」
「うん……。ちょっと最近、色々ありすぎてさ」
また、ため息が出そうなのを押し留めようとしても、どうしても、はぁっと息が漏れてしまいそうで、話題を変えることにした。
「関口くんは、試してみた?」
「うん。高島さんからワイン貰って、すぐに。普通に甘いものとワインって相性いいんだなとは思えたよ。でも、実のところ僕、ワインって普段飲まないんだ。日本酒とかそっち派で。だから、ワインの良さって、正直わからないんだよね」
「そうだったんだね。ごめん、ごめん。私の周りはワイン好きの人たちだから、あんまりそういうの考えてなかった」
配慮が足りなかったと反省の弁を述べ始める彩芽に、関口が「違うんだ」と、急に声が大きく被せられて、彩芽の丸い瞳がビクッと揺れた。
「そういうことじゃなくて……むしろ、知りたいなって思ったんだ。ワインが好きな高島さんのことを、もっと」
関口は、彩芽へじっと真剣な眼差しを向ける。彩芽は、瞳を何度も瞬かせていた。その瞳をまっすぐ見つめ返しながら、入社してから今日までのことを思い出す。
高島彩芽。
入社式で初めて会った彼女に、僕は一瞬で恋に落ちた。
それは、人生初めての経験で、自分自身戸惑うばかりだった。見れば見るほど、彼女の屈託のない笑顔に目が離せなくなる。周囲への気遣いと持ち前の天真爛漫さは、僕の視線を惹きつけてやまない存在だった。
そんな中、高島彩芽さんが同じ部署を希望していることを知り、実際に決まった時は、よっしゃ! と声を上げて、周囲に驚かれた。これで、高島さんと距離を縮められる。期待が大きく膨らんだのだが。
彼女との雑談には、必ずと言っていいほど話題に出てくる奴がいる。それは、自宅マンションの隣人。サッカーをやっていたという人間だ。最近は、女性だってサッカーをしている。ならば、きっと飲み友達は女性だ。絶対そうだと、自分自身言い聞かせ続けていたのだが。その隣人の話をするときの彼女の瞳の奥をみれば、どうしても、ちらついてみえてしまう。
運動音痴である僕が一番大嫌いだった人種の影。運動神経抜群で、無駄に格好よく、女の子達からキャーキャー言われているチャラ男だ。
彼女もまさか、そんな男の虜になっているのだろか。沸々とその見知らぬ隣人に嫉妬の炎を燃やして、しばらく地団駄を踏んでいたのだが。ある日、ふと気づいた。
隣人の話題になるとき、彼女はいつも楽しそうに話をするけれど、時折視線が下を向くことがある。もしかして、恋人というわけではない?
ならば、確かめなくては。そう思い、彼女の上司である藤原に力を貸してほしいと懇願した。
「高島さんと、二人になれる時間をください」
そして、もぎ取った二人だけの貴重なランチ時間。
思い切って付き合っているのかと、尋ねれば「ただの隣人」というじゃないか。しかも、その日は、奇しくも彼女の誕生日だという。
僕は舞い上がって、勢いでご飯に誘っていた。すると。
「気を遣わないで。誕生日は、いつも通りって決めてるから。それに、今日は早く、赤ワイン試してみたいんだ。一応、その友達もワインのおいしさの判断は一応できるみたいだから」なんて、いわれてしまっていた。
隣人と誕生日を一緒に過ごすという残酷な現実を突きつけられて、声もでなかった。打たれ強い僕ではあるが、この時ばかりは、さすがの大ダメージ。立つ気力も失いそうだった。
しかし、ダメージを受けても回復の早いのが僕だ。
今は、その時受けた傷なんて、跡形もなく綺麗に治っている。だったら、入社してから募った思いを、今ここでぶつけるべきだ。
僕は思い切り息を吸う。
「高島さん」
名前を呼ぶと、彩芽は目を丸々とさせていた。名前を呼んだだけなのに、どうして驚いているのかという疑問など、考えている余裕などない。向けられている視線の焦点も心なしか、合っていないような気もしたが、そんなことも関係ない。
「僕と、付き合ってください!」
渾身の告白。僕はじっと、彼女の顔を見つめて、答えを待つ。
彩芽の顔は、拍子抜けしそうなほど微動だにしていなかった。僕は、眉を顰めて様子を見ていると、彩芽と目が合っているようで、実は合っていないことに気づいた。僕の顔じゃなくて、そのさらに後ろへ、くぎ付けになっている? と思ったら。
その綺麗な瞳に、どんどん水の膜が張られていた。しかも、その眼から今にも水が溢れそうだ。
え? と思った瞬間。
「ごめん、急用思い出した。また今度ね!」
彩芽はくるりと、背を向けてそのまま走り去ってしまっていた。
呆然とする関口。
一体、どうしたんだ?
混乱する頭のまま、彩芽が何がに気を取られていたことを思い出し、振り返る。
その先に、僕よりも背が高く、肩幅もあって、端正な顔立ち。僕が大嫌いな匂いをぷんぷん漂わせている男が目にはいった。その男の首に自分の腕を巻き付けている背の高い女性。
「もう一軒行くぞ!」
女性が叫んでいて、男は見るからに嫌そうな顔をしている。あれは、逆らえない上司と部下で、完全なパワハラ。だが、男への同情など一切感じない。むしろ、ざまあみろ。糞野郎め。いい気味だとさえ、思う。
ふんっと鼻を鳴らしてやってから、再び彩芽を思う。一体、何をそんなに驚いていたのだろう。
そこで、はっと気付いた。
もしかして。
僕の渾身の告白が彼女の心に響きすぎて、泣かせてしまったのか?
だとしたら、これは、明るい未来が待っている可能性があるのではないだろうか?
僕の胸は高鳴り、希望で膨らみに膨らんで破裂しそうになっていた。
身体に収まりきれない高揚感。両手を暗くなった空へ付き出して、うおーっと、叫んでいた。




